別々に育った双子、というこの記事を読んで、亡父のこと、そしてKさんのことを思い出した。
https://courrier.jp/news/archives/314969/
目黒で生まれて目黒で育った父が、実は双子だった、という話を教えてもらったのは、私が高校生の頃だ。
親戚の法事の写真を見ていた、まだ小学生だった妹が、「あ、パパだ」と言うと、「よく似てるだろ、でも、パパじゃないんだ、パパの従兄弟なんだよ」と笑いながら父が言っていたのを覚えている。
父が住んでいた一帯の土地は、父の伯父(私からすると祖父の兄=伯祖父)が所有していた。
長兄である伯祖父は麻布に住んでおり、月に一度、地代を集めてその麻布の豪邸に持って行くのは父の姉の仕事だった。
伯祖父の家には子がおらず、末弟である私の祖父(既に4人の子持ち)に「次に生まれた子を養子にくれないか」という話をしていたらしい。
同じ顔をした赤ん坊のどちらか片方を、どういう基準で選んだのかはわからないが、Kさんは長兄の家の養子となり、父は末弟の家に残った。
正確には、養子ではない。
そのまま実子として役所に届けたらしい。
Kさんは、慶應幼稚舎から大学まで進んだ後は東京芸大に進み、その後は六本木で音楽教室を開いていた。
一方、末弟である祖父は米問屋をやっていたが、戦争で米は配給制になってしまい、商売は傾き、私が生まれた頃には既に故人だった。
父は、他の兄弟が全員大学進学したにも関わらず、高校を中退した。
家庭の事情もあったかもしれないが、そもそも学校の勉強は好きではなかったようだ。
実はこの高校中退、母との見合いの際には隠していたらしく、それなりに良心の呵責があったようで、70代になってから、酒の力を借りて(と言っても、ほぼ下戸ゆえコップ1杯のビールだが)孫たちの前でカミングアウトした。
孫たちには笑われ、唐突にそんな話を聞かされた母は呆れたという。
そんな父が、自分が双子だったと知ったきっかけは、社会人になってから少ししたある日、同僚から
と言われたことに始まる。
「君そっくりな人を知ってる」
と同僚。
そんな話を家に帰ってから母親(私の祖母)に話すと、「ああ、実はね」と、いともあっさりと、養子に出したKさんの話を教えてくれたという。
そういえば、地代を集めていた私の伯母は、「赤ちゃんが二人いたのに、一人になっちゃった、って不思議に思ってたの」と言っていた。
それ以後も、この二人はたまに法事などで会うことはあったらしい。
Kさんが真実を知ることになるのは、ずっと後、50歳になった頃だ。
それまでも寝たきりで入院していた高齢の祖母が、そろそろ危ない、という段階になった。
大学で授業を受けていた私のところにも連絡がきて、そのまま祖母の入院していた病院に向かった。
さすがに、真実を知らないとはいえ、ここはやはり教えてあげるべきなのではないか、と父も他の兄弟も考えたらしい。
だが、身長が父よりも5cm以上高い。
そんな、父のアップグレード版みたいな人が、私に敬語で話しかけてくる。
これは母も同じことを言っていたのだが、人が発する気配のようなものが、父と同じだった。
誰かが自分の後ろに立っていて、だけど姿が見えないので誰なのかはわからない、でも気配でそれが家族の誰だかわかる、ということがあるけれど、その気配が全く同じだった。
あまり科学的ではない気もするのだが、実際に多くの親族が出入りする状況で、それを何度も感じていた。
父もKさんも故人となってしまい、私自身も歳をとってきて、どこかにこの話を書いておこう、と件の記事を読んでふと思い立って、昼休みにこうして書いてる。
書いてみると、他にもいろんなことが思い出されてくる。
その後、年賀状のやりとりくらいをする間柄になったKさんが、実はある新興宗教の幹部になっていたとか、そういう話まで思い出しちゃったけど、それは書かないでおく。
【2023/02/03 追記】
「文中の「叔父」だけ「伯祖父(父の伯父)」に校正したくなる」
80代後半の母に確認したところ、「新興宗教の幹部」というのは私の勘違いで、正確には「多額のお布施をしているVIP信者」でした。
昭和になってから立宗された仏教系の教団で、Wikipediaを読む限りでは特に社会的な問題は起こしていないようです。
その後、父の姉(私の伯母)がKさんに誘われて断り切れず入信するも、もともと人嫌いの傾向があった人だったこともあり、集いに出るのが負担になって抜けてしまいました。
父は絵が上手だったり、特に習ったこともないのに自己流でピアノやギターが弾けたり歌がとても上手かったりと、なかなか器用な人でした。
社会人になりたての頃、落ちはしたもののレコード歌手のオーディションを受けたこともあったようで、それはもしかしたら、Kさんの事を意識していたのかもしれません。
そういえば、勉強に関しては殆ど何も言わなかった父でしたが、私が高校受験の頃、「どうやらお父さんは慶應に行ってほしいみたい」と母から聞いた記憶があります。
付属高校の一次試験は通っていましたが、二次試験の日程が第一志望校と重なっていたので、残念ながら結果としては父の願いをスルーした事になります。
戦後、祖父の長兄が亡くなってしまうと、目黒の土地を売ってほしいと申し出があり、世間知らずだった未亡人は言い値で売ってしまったそうです。
その申し出をした人が、私が住んでいた頃の地主です。
平成になった頃、借地権の更新料として数千万円を提示され、既にリタイヤしていた父は契約を更新することなく、週末に暮らしていた東北の別宅に移り住んで、晩年はそこで趣味の家庭菜園をしながら穏やかに過ごしました。
父の弟が私と彼を見て「似てないね」と言い、いや、それを言うなら叔父さん、あなたの息子と私だって全然似てませんよ、とその時には思いましたが、今の私はだいぶ父に似てきたので、もしかしたら今の私たちは当時よりは似てきているかもしれません。
ほんの少し運命が違っていたら、私も悠々自適な立場になっていたのだろうか、ふとそんなことを思ったりもしました。
父は何というか、少し浮世離れしたところのある無邪気な妖精というか森の小人というか、そんな不思議な雰囲気の人でした。
サラリーマンとしてはあまり優秀ではない、というか微妙なところのある人だった、というのは、私自身が社会人になってから知りました。
ただ、その人柄ゆえか、働いていた小さな会社の代表にはとても良くしてもらっていたようで、目黒の家を引き払う時に出てきた昔の源泉徴収票を見てその金額に驚いたことがあります。
こうして書いてみると、それをきっかけに忘れかけていた様々を思い出すもので、また機会があれば書いてみよう、という気になりました。
面白い私小説(ノンフィクション)だと思う。 バイオロジカル的にアイデンティカルだったとしても、個別の人格だからね つまり双子だからどうということもなくそれぞれの人権が尊重...