妻は発達障害だし、結婚した当時は割と重めにうつ病だったし、そこにパニック障害もあった。
そもそも、結婚したのはもちろん「この人となら~」とか「愛しているから~」とか、そういったことはあるけど、それ以上に、それ以上に医療・福祉面で家族でないと介入できないことが多すぎたから...という事情が大きい。
まず、彼女は分離不安が強い特性があった。だから、私が1人で仕事に行っている間、不安からパニックになることもあった。
それを薬と、それから認知療法的に...居なくなっても必ず帰ってくるという実績を積み上げて自信につなげていく...1年くらいかかったかもしれない。
次に、些細な失敗でもパニックや過度な不安、落ち込み、希死念慮につながる。
家に帰る前に「洗濯物をしておいて欲しい」と電話した。妻は洗濯した。けれど、洗剤を入れ忘れたことに気がついた。
家に帰ると泣きながら寝込んでいた。次の日にも泣いていた。
それを自分でやり直しながら「そんな落ち込むことじゃない」と教える。。。これも1年くらいかかっただろう。
とてもとても不快な発作から彼女は逃れようと、手元にある薬を何錠も何錠も飲む。
それを防ぐために、朝・昼の薬は分けて渡す。他は自分が持って会社へ行く。。彼女の心の支えを奪うのはいささか気が引けた。
けれども、パニックは改善しないし別の問題を引き起こす以上耐えるしか無い。パニックはいつも耐えるしか無いのだ。
パニックの頻度は減り、パニックとの多少マシな付き合いを覚えた妻はODしなくなり薬を任せられるようになった。
分離不安は、不安なときは自ら「ちょっと話せないか?」とこちらの都合も考えながらも、必要最低限の支援でやり過ごせるようになった。
失敗も...失敗はいっぱいだけど笑って「ごめんなさい」と言うまでになった。
そんな成長は次の段階になる。
「家にいるのはもう嫌だ」
「独りぼっちで家にいるのはもう嫌だ寂しい」
僕はひどく混乱し落胆した。
家にはきちんと帰っているから寂しい思いはさせていないつもりだったし、なにより「家にいるのはもう嫌だ」と、それが何よりも傷ついた。
妻はどうして家を拒絶するようになったのだろうか。
居場所がなかった妻に居場所を精一杯作ろうと努力したし、独りぼっちも極力回避してきたつもりだった。それなのに...と。
僕と妻は何度も何度も話し合った。
「親離れの時期だ」と。
幼児はいつかまだ見ぬ世界を求めて、親の腕から離れて歩き始める。
最初は1歩だけ。怖くなって帰ってくる。けれども次の日には2歩。。。と。それが結果的に保育園でも良いし幼稚園でも良い。
いつしか、親の居ない時間を自分だけで過ごして新しい世界を謳歌していく。
妻にもそんな時期が来たのだ、と。
とはいえ理解は必要だし...。と、物は試しに就労継続支援を利用することにした。
これが効果覿面だった。
不安でパニックも再発した。それでも理解のある職員さんに支えられながら着実に通える日を増やした。
いつしか、朝の送り迎えは不要になった。妻は自分でバスに乗って通うようになった。
そこまで来ると妻にも私にも分離不安なんていうことは過ぎらなかった。
落ち込む日には落ち込む理由を探せるようになった。天気、昨日の出来事、体調...etc
着実に妻は成功と成長を重ねた。
それが結婚2年目の話。
そして3年目。
今までのこと以外にもなんやかんや色々とあった。
妻の家庭(実家)に、余計なことと思いつつ介入しある程度正常化したり、
時には眠れない妻に付き合い一晩起きたり。
何より妻以上に不安だったのは私だった。
「良くなるのか」
そんな葛藤の日々だった。
頼れる人も少なかった。
それでも、ここまでの私の苦労は人並み以上だったようだったらしい。
時には、、、あるいは1年目なんてほぼ毎日、、、お酒で寝てしまっていた。
「なんでこんなことになってしまったんだ」
気がつくと、私は妻にたくさんたくさん泣きついていた。
そんな日々で今までの自分と妻を振り返った。
「本当に大変な子育てだったね。ごめんなさい。お疲れ様でした。
今この瞬間、僕は娘と別れた。
そして改めて妻と2人で歩もうと決めた。
ひとまず一緒に自分の体をしっかり癒やそう。
いっぱい端折りました。推敲もしていなくてごめんなさい。
自分に酔い過ぎ 創作だろうが メンヘラ同士お似合いだな