はてなキーワード: 隣人愛とは
異教徒=悪 って伝統がなかった宗教はまともな宗教とは呼べないカルト
カルト新興宗教に母親が入信したせいで家庭が崩壊した人々のほとんどは伝統宗教に異教徒弾圧は絶対に賛成だと思う
多神教が良いだの多宗教国家が良いだの偽善を言っているクズ共は恵まれた上流階級の人間だ
日本もキリスト教国の植民地になりキリスト教国家になれば良かった
そうすれば今のようなカルト新興宗教大国にはならなかったと思う
しかもキリスト教には大乗仏教や神道と違って隣人愛の精神がある
地域にキリスト教の教会があれば住民の交流の場になり絶対に自殺や鬱も減る
大乗仏教や神道は根本的に地域に何の貢献もしていなくて権力だけある邪教だと思う
インターネットもある。まあネット上のあいつらは良くも悪くも素直で、汚い言葉ばっかりしゃべってるけどね。
学校で身につかないのは、英会話のトレーニングなんかしても短期的な利益がないからだ。
単語詰め込んで文法覚えて読解をやった方が、手っ取り早く点になる。それは将来の利益にもなる。
だから、会話能力を身につける場所があっても、あまり利用されない。
まして隣人愛なんて、一体どういう評価の仕方をすればいいのだろう?
個人的には、英語やそのコミュニケーション法を学ぶことには、教育上の選別という実利以外にも意義があったと思う。
情報のソースが増えたし、彼らの考え方みたいなものも少しばかり知ることができた。
ただ、そんなんどうでもいいよ、という人が多いのも承知している。
国際性、国際性とやかましく言われているが、その基本は、流れるような外国語の能力やきらびやかな学芸の才気や事業のスケールの大きさなのではない。それは、相手の立場を思いやる優しさ、お互いが人類の仲間であるという自覚なのである。(略)求めるところのない隣人愛としての人類愛、これこそが国際性の基調である。そうであるとすれば、一人一人の平凡な日常の中で、それは試されているのだ。
文章とは関係ないんだけど、よく日本の英語教育について、批判がある。外国人との、実践的なコミュニケーション能力は身につかないとかね。
そうなんだけど、そういうトレーニングみたいなのは学校じゃなくて、校外で、取り組めるような場所をつくったほうが手っ取り早い気がするの。
過去を振り返っているのだが、どれだけ嫁が浮気していたか思い知る作業は、
血反吐が出るぼど辛い。
それでも浮気相手はフェースブックでいいね、したり、嫁はクソみたいに自分だけ次どうしようか考えているのが腹立たしい。
どうしてこうなるんだろうか?
この世の中は、自分だけ、よければいい世界で成り立っているんだなぁと痛切に思う。
隣人愛をすぐそばにいる男とやることと、してしまうクリスチャンがここにいるなんて。
お前たちは何故そんなにも都合よくすべてを解釈して、生きていけるのか?
それが本当の人間の姿なのかもしれない。
都合のいいときに、自分らしくとか、自分の声に耳を傾けてなんて言葉をチョイスする。
そんなものなんだろう。
お願いだから。