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2010-12-26

http://anond.hatelabo.jp/20101226201122

まぁ、その辺りは価値観の問題だから

しかし、農家の出の俺がアドヴァイスしてやろう。よーく聞いとけ。

基本的に、そーいう家の女ってのはだな、長男の嫁以外に人権が与えられない。いや、長男のヨメでも相当怪しい

インドにおけるカースト制度廃止とどっこいなくらい怪しい

これ重要赤線引いとけ。農家ってのは世界人権宣言に批准してない。マジ土民。

その上、「マトモに稼げない実家パラサイトダンナにくっついてきた嫁」なんて、最早人類として遇されない。

から見ると、「三男に農家実家」ってのは超ヤヴァイレベル粗大ゴミだが

そこにあなたが出向けば、あなたは「生きてるだけで害悪レベル有害ゴミとして遇されることは確定的に明らか。

そりゃ、もちろん例外はある。どっかに例外はあるかもわからん。俺の世界ももちろん狭い。

しかし、俺が飛び出して来た農村コミュニティというのは概してそーいうモノだった。周囲から聞いた話も概してそうだった。

からあなたよりは事実を知っている可能性は高い。

そんな俺の経験に即して。

農家の三男(稼ぎナシ、主夫)」の実家に嫁入りなんて、人生賭けた罰ゲームはマジやめとけ。

ほんとやめとけ。死ぬぞ、冗談抜きで。人権ボットトイレに投げ込む決心がついたらいけ。

個人的には新興宗教出家するほうがナンボかマシだと思うがな!

2010-11-09

中国と仲良くする理由って何?

近いから?

でかいから?

キャン玉握られてるから?

 

とりあえず日本で、妾と赤線制度を堂々と復活させたらいいんじゃね?

2010-04-18

スキャン代行サービスの是非

スキャン代行サービスが一冊100円でできるということで少し話題になりましたが

それについて違法ではないかという議論もされているようですが

個人的には、自分で金出して買ったものを、自分の為にどんな形で保存しようと勝手だと思うわけです。

 

例えば野菜。今は値段が高騰しているみたいですが

あれ、スーパー等で売っているけれども日にちがたてば鮮度も落ちて腐ってごみになります。

ですが、買って家で切って保存容器に入れて、冷蔵なり冷凍なりすれば店で売っているより鮮度もキープできて長持ちします。

お店で売るときは鮮度もリスクとして値段設定をしているわけですが、それを買った人は勝手に調理して価値を高めて保管します。

 

また当然保管だけではなく、調理して美味しい別の食べ物として食べますよね。

それどころか、レストランなどではそれを付加価値として値段をつけて提供しています。

以前インスタントラーメンをただ調理して出すだけのお店がテレビでやっていました。

作り方通り作って出すだけでお金をもらうわけです。

食べ物と本は違うとは思いますが、まずこういったことがあるわけです。

 

次に本ですが、本についても同様で、昔から記事の切り抜きを別のノートに貼りつけて保存していた人もいるでしょう。

必要なものを必要な形で持っておくことは買った人の自由であるべきです。

付箋を貼って探しやすくするのも、赤線でラインを引くことも、パラパラ漫画を書いて遊ぶことも自由です。

であれば、それをスキャンして保管しておくことも自由であっても良いのではないでしょうか。

ページ数の多い本から必要な部分を見つけ出すのが大変であれば、OCRをかけたPDFの方として保管した方が便利ですし

部屋が本で一杯で狭いのであればデジタル化して部屋を有効利用するのもいいのではないか。

そしてその作業が面倒だから誰かに頼んでやってもらう。

それだけのことです。

インスタントラーメンを作ってもらって食べるのと一緒ですね。

バラした本に物質価値はないので複製のようで複製ではない。

形を変えただけのこと。

オリジナルを売り払うことができるわけでもない。

コピーをして誰かにあげることが可能だということであれば、それはオリジナルを貸すのも同じ話。

個人のモラルというか、ただ犯罪行為をするかしないか、その判断の問題。

した人間逮捕されるし、しない人に罪はない。

 

むしろ個人的には古本漫画喫茶の方が罪が重い。

貸本著作権料が発生するようになったようですが、古本やら漫画喫茶は何も払っていません。

勝手に他人に見せているのにです。

判例があるのでどうしようもないですが、こちらを先にどうにかするべきです。

そしてその対策として有効なのがむしろ電子書籍なのです。

電子書籍化の流れが止められないのであれば、むしろ有効活用すべきです。

日本にはまんがという巨大なコンテンツがあるのですから大きなチャンスとなるでしょう。

2010-04-01

それでも色町は回ってる

ttp://d.hatena.ne.jp/ntakamura/20090616/1245128512

なんせ、もうソープランド経営するうまみなんてのはほとんどの店にはないはずで、今この街にある店、そしてこの街にいる女子は、自分も含めて「ここから引くに引けない」者達ばっかりなのだ。だから赤線解体したって吉原吉原のまんまであった。そこいらへん、お上も理解してないわきゃなかろう。

2009-07-26

http://anond.hatelabo.jp/20090725224355

電話番&運転手ですが、なるほど増田嬢の気持ちはよく分かりました。

ただ、増田嬢のストーリーではその客との金銭を含めたやり取りが

部屋に入って

「すまん、その気にならない」と言って、お金だけくれて、帰って行った。

チェンジキャンセルはしなかった。

私への優しさだった。

つまり相手にとって、私の体は、0円の価値もないということなのだ。

客から増田嬢へ向けられた身体に対する「価値判断」と「優しさ」という嬢的解釈で貫かれているが

そのやり取りは、そのお客さん流の自分自身に向けた「憐れみ」だという男性解釈を提示しておこう。

赤線的感受性が豊かな増田嬢には佐野眞一東電OL殺人事件』と吉行淳之介小説おすすめしておく。

2009-04-12

日本人変態パワーなめんな! ~江戸戦後、現代までのHENTAI分析~

エロゲーから広がる、すばらしい日本技術を紹介する記事で、

日本人変態性を真っ向から否定するようなコメントがあったので、

場所を移してとことん反論してみる。

 

■「これは全世界ゲーム史上、初めての試みになるだろう」

…TEATIME、ゲーム世界現実リンクする新技術フェイストラッキングシステム発表

http://guideline.livedoor.biz/archives/51192905.html

 

※274. Posted by   2009年04月12日 01:18

一部のオナニー野郎を根拠に、日本人変態だの性に対して旺盛だの言わないで欲しいな^^

まともな人間にとって変態呼ばわりされることはちっともうれしくない上にみっともないことだし、そもそも日本人は大して変態民族ではない。

西洋人の方がずっと変態なのは常識だし、性に対して旺盛だったらセックス回数最下位なんてことにもならない。

西欧(野外露出レズhttp://www.alchemicalwedding.com/arserotica/galleryone/vanmaele/vanmaele2.html

日本(ただセックスしてるだけ):http://www.alchemicalwedding.com/arserotica/galleryone/shunga.htm

↑と比べれば日本人春画なんて特別なもんじゃねーことはすぐ分かる。どちらも19世紀の絵だが。

お前らが密かに自分達の下品な性癖民族特質的なものだと信じたがる根拠に、蛸に犯されてる触手ものの春画を持ち出すことがあるが、あれだって日本特有のものでもなんでもなく、西洋人普通に描いていた。

http://www.alchemicalwedding.com/arserotica/galleryone/rops/rops10.html

http://www.alchemicalwedding.com/arserotica/galleryone/vanmaele/vanmaele5.html

江戸時代日本人フリーセックス的な「性に大らかな民族」なのであって、それがむしろ抑圧や罪の意識への反動から生まれる「変態性」とは無縁の文化だということは言うまでもない。ノーパンと言うのは、「女はパンツを履くべき」という抑圧を設けることによって初めて意味を持つが、当時の日本人はあっさりした着飾りしかせず、下着なんてつけてなかったんだから、抑圧が少ない分変態性も少ないんだよ。

 

まず、ひとこと言わせてくれ。

日本人変態パワーなめんな!!

 

 

江戸時代までの日本には、庶民に変態が少なく、キリスト教モラルの制約が強い西洋の方に

変態が多かったのは、まさしくその通りだと思う。

 

祭り(ハレの日)の夜の乱交、夜這い文化を代表するようにフリーセックス社会であり、

嫁入り年齢が若かったことからもわかるように、10代前半の女性も身体が性的成熟さえ

していればセックス対象になっていた。

だが、それは西洋幼児性愛ロリータコンプレックスのように処女性を不必要に尊ぶことなく、

むしろ身体の個体差に合わせた、生物学的に見ても健全なものだった。

このように性に奔放だった農民や町民に比べ、上級武士世界では性に対してストイック

あったためか、男色SM的行為などへの倒錯が多く見られた。

 

 

しかし、このように奔放だったのは江戸時代までの町民、農民にかぎった話。

明治維新後の日本には、一気に西欧化の波とキリスト教モラルが流入した。

西欧文化に追い付くために、一気にマジメになることを余儀なくされたのだ。

この文化的な抑圧の時代に、エログロナンセンスサブカルチャーが花開いたのは、

偶然ではない。

 

その後、世界大戦の時代に突入し、徴兵制が広がり、軍部の力が強化したこともあって、

日本は一気に一億総サムライとでも呼ぶべき、ストイック国民性になっていった。

この猛烈な抑圧が、戦地での残虐行為、陵辱行為につながった例も多くあるだろう。

だが、それはいつの時代、どこの国の軍隊でも良くあること。

日本ドイツばかりが未だに叩かれるのは、最も直近の世界大戦における敗戦国だからである。

 

 

そして、太平洋戦争での敗戦により、日本米国進駐軍による文化とセックスでの蹂躙を受ける。

日本中にあった売春宿などの赤線地帯は縮小・管理され、米軍兵に好んで身体を売るパンパン

呼ばれるビッチ女性が現われた。

 

その悔しさをバネに、追い付け追い越せの高度成長の流れで、世界一勤勉な国民になっていった。

週休1日、深夜残業当たり前のサラリーマンの激務を支えたのは、目覚しく発達していった

風俗産業裏本アダルトビデオの文化だった。

ここでも、ストイックさの陰に変態の萌芽あるのがわかるだろう。

 

敗戦から40年足らずで世界一経済大国へと復活を果たした日本は、バブル景気に沸いた。

大学生は車を持ち、社会人会社の経費で豪遊し、トレンディドラマのような恋愛流行した。

ディスコ・お立ち台ブームなどで、江戸時代のように陽気にハメを外しかけたが、

バブルはすぐに崩壊してどん底へ。

むしろハメを外すとバチがあたるという、トラウマになってしまった。

 

バブル景気前後でもセックス面での格差の激化は続き、世間の恋愛路線から外れて

ロリコン趣味を密かに楽しんでいたオタク層は宮崎勤事件で徹底的に糾弾された。

一方で、不倫ブームが表面化したのも、この頃からである。

勤勉な夫が稼ぎに出ている間、家を守る貞淑な専業主婦という幻想が崩れ始める。

 

さらにバブルの残党が女子高生を買いあさった「ブルセラ援助交際ブーム」が過ぎると、

後にはビッチセックス観を持つギャル達と、児童ポルノ規制の強化だけが残った。

 

 

これらの流れは、今でも女の自己満足に過ぎないアゲハ嬢ブーム、児童ポルノ単純所持の禁止や

ダウンロード規制出会い系サイトの排除などで、おおらかなセックス文化から一般男子

遠ざける方向へと邁進し続けている。

その結果が、年間セックス回数の世界ランキングでの最下位である。

 

しかし、その陰でエロゲーを始めとする、二次元の性文化は目覚しい発展を遂げていった。

何故なら、二次元は決して裏切らないからである(と思ったら、かんなぎが...)。

 

 

このように、本来は性に自由だった国民性が、明治以降に徹底的に抑圧され、

解放されかけてはどん底に突き落とされ、の連続で萎縮しまくった結果が、

現代日本のこのすばらしき変態文化を生んだんだよ!!

 

 

そして、世界不況の今こそ、日本はこの変態力で世界に向けて反撃の狼煙をあげる。

いいか、OTAKUHENTAIANIMEMOEKAWAII で、日本は天下を取るんだよ!

 

日本人変態パワーなめんな!!!

TEATIME(ILLUSIONも同系列)は、マイクロソフトGoogleに次ぐ次世代技術の先端企業になるぞ!

モニターの前でパンツおろして、しっかり見てろ!!

2008-12-28

カンパニー松尾AV世界(前編)

www.midnighteye.comより、雨宮まみの「弟よ!」経由。

長いので二つに分けました。

カンパニー松尾AV世界

ヨハネス・シェーンヘル

<日本AVとは>

日本アダルトビデオ、略してAVと言われているがそれは驚くべき多様性の世界でもある。もし欲情を喚起するためにセックスを描写し、売り物にするのがポルノグラフィの定義なら、どこからどう見てもそれはポルノなのだ。AV安価日本中至るところで目にすることができる。この国のどんなビデオショップに行ってもこのジャンル商品はたいてい、大きな棚を占めている。

しかし、日本映画表現が欧米で多くの信者を生み出す一方、アダルトビデオはほとんど顧みられていない。日本の得意とする怪獣もの、アニメをはじめとする全ジャンルに関する日本映画フェスティバルヨーロッパ北米で花盛りだが、AVはどこにある?もちろん、日本ポルノは性器を直接描写できないという問題を抱えている。それらは処理画像の向こうにあり、欧米視聴者にとってはいささか奇異に映るものだ。にもかかわらず、AVは魅力的な分野である。

最初に、日本におけるポルノ映像の区分けにふれる必要がある。

まずは、ピンク映画。これは1960年代初頭から制作されている。小林悟の「肉体の市場」がおおまかにいってこの分野のさきがけといえよう。性への大いなる情熱、そして時には理由なき暴力や変わった性的ファンタジーまで描写する一方、ヌードシーンは一部に限られ、疑似性交が主を占める。

そして裏映画訳注日本語ではブルーフィルムがより的確な表現だと思います)、こちらはさらに映画史の初期にまでさかのぼることができる。こちらは本番ありの無修正、たいてい8分から10分の短い映画だ。白黒映画時代に欧米存在したブルームービーは時には手の込んだプロットを開陳していたが、日本のはたいてい伝統的な畳の部屋で性交にいそしむ男女を描写するにとどまっている。裏映画が上映されるのは、だいたい温泉街であった。男の客にとっての温泉街でのくつろぎは、しばしば買春と結びついており、そうした街の赤線地帯では法律で固く禁じられている裏映画ショーを楽しむことができた。今日では裏映画裏ビデオに取って代わられ、そうした未修整のポルノビデオビデオショップで信用のある客にのみこっそり売られている。

ビデオデッキの普及に伴い、アダルトビデオ1980年代初頭に成長をとげる。家庭で映画を見る習慣が広まり、そしてもちろんビデオデッキ接続されたテレビセックスを鑑賞することを人々は望んだ。初期AVは、東映新東宝といった大手ピンク映画会社により支配された。撮影済みの映画ビデオ化し、自宅向け市場へと流したのだが、短いバージョンであることもしばしばだった。市場の急速な拡大につれ、それらの映画会社ビデオ専用の映像制作するようになった。これらの映像は直接ビデオで撮影されているにもかかわらず、ピンク映画伝統踏襲し、ピンク映画ルール・制限に固執した。

ピンク映画会社制作するAVは、高額な費用をもって制作され、ほとんどの場合有名女優を主役にすえていた。しかし新世代の野心あるポルノ映像作家ビデオという形態安価であり、あらゆる種類の新しい可能性を提供してくれることに気づき始めた。つまり機材取り回しの容易さ、無限ともいえる長さの尺をとてつもなく低コストで撮影できるということである。

これらの新しい可能性を最大限に生かした最初の監督が、かつてピンク映画監督だった代々木忠である。「ドキュメント・ザ・オナニーシリーズ80年代初め)にて今日AVにて見ることのできる根源的要素を彼は取り入れた。本番の導入、そして素人俳優採用によって秘められた日本セックス事情ドキュメンタリースタイルで描写したのだ。

ドキュメント・ザ・オナニー」は驚くべきヒットを記録し、映像に関心のなかった投資家連中という新しいグループの注目を引くことになった。裏本ビニ本業者はAV制作会社を設立し、金鉱とも思えるそのビジネスに飛び込んでいった。

少額の予算ピンク映画会社に勝つために、本番は彼らの切り札となった。こうした決断大島渚の刺激であるともいえよう。著名な日本人監督である大島フランス資本で撮影したアートシアター系映画である「愛のコリーダ」(1976年)は、命がけの悲しい情熱を最大限に表現するために実際のセックスをいくつものシーンにおさめた。一方で、非合法である裏映画からの強い影響も見てとれる。裏モノである「洗濯屋ケンちゃん」が一躍注目を浴びることになった。いつ、誰が作ったのかは現在に至るまでまったく不明である。しかし多くのフィルムが出回り、それらはビデオコピーされた。主要雑誌はこの映像について書き立て、大きな話題となった。裏映画の直コピーの常として、「洗濯屋ケンちゃん」はもちろん非合法なものであったが、新しい本物のセックスという報道記事によって、どんなにお金をかけても得ることのできない宣伝性を得ることになった。

もちろん、新しいAVにおけるセックスは本物であったが、いぜん審査されていた。セックスシーンでは役者の全身はおろか、クローズアップも映し出されていた。しかし、性器とヘアーAV業界でいうところの「モザイク」と呼ばれる電子的処理画像に隠されていた。処理画像がある限り、スクリーン上のすべてが許された。精液が処理画像から飛び出して、非処理画面に映る女優にかかってもおとがめなしである。ピンク映画では役者のモチモノは家具植木鉢をレンズとの間に置くことによって隠されていたが、いまや自由な撮影が可能となった。編集の段階でモザイクをかけ、ぼかすだけでいいのである。

そうした映像処理は、海外映画審査起源を発している。ヌードシーンはこれまでカットされることはなかったが、俳優の性器は黒塗り、もしくは白のぼかしで隠されていた。この和らげられた映像が、ある程度本来のイメージを知る、手がかりになったのである。

こうした規格を確固たるものにし、政府の取り締まり・警察逮捕といった危険からAV産業を守るため、AV会社により自主審査団体が設立された。映倫ピンク映画制作する業界により審査委員会が運営されている)をモデルとしたビデ倫が設立された。業界トップは、AV監督アナーキー連中の集まりであることを正確に把握しており、最初から強い手段をとることにした。ルールを守らせるための必要な権威づけのために、ビデ倫審査委員会警察官僚役人天下りを呼び寄せたのだ。

現在ではAV業界は一大産業を形成している。しかしその内訳はさまざまである。ピンク映画会社が今もなお重要な役割を果たす一方、無数の小さな会社があり、世には知られぬ顧客の嗜好を満たすべく特異化をはかっている。とはいっても、AVには二大分野が存在する。つまり、「単体」と「企画」である。単体ものはふつう、大きな会社が扱うが、大予算とひとりのスター女優に焦点を合わせるところに特徴がある。美しい女の子を起用し、なるだけソフトに、かわいく作られる。一方企画ものでは4、5人の女優が一本のビデオに出演する。彼女たちはかわいくもなく、見た目がイマイチであるのは決して珍しいことではないが、カメラの前での行為は大胆不敵である。企画ものはセックスについて変わった側面を取り上げることが多く、小さな会社制作している。企画ものの方が予算が安く済むからだ。単体女優はスターであり、一本につき100から200万の金を手にする。企画女優はというと、10万から20万といったところだ。にもかかわらず、ふたつのやり方は相互補完的だ。多くの男性視聴者女の子にふたつのことを望む、つまり可愛らしさと変態さだ。

日本では魅力的な若手女優が必要とされており、単体の女の子はスターでありアイドルでもある。企画女の子はというと、タレント的であり、それはアマチュア意味する。こうしたタレント募集のやり方はまさしく日本的だ。モデル事務所タレント事務所は多くのスカウトマンをかかえている。スカウトマンは若い男連中であり、ファッションに敏感な若い子でにぎわう東京一角に、前途有望な娘を見つけるべく徘徊している。彼らは若い女性に声をかけ、音楽ファッション業界仕事をもちかける。実際、ファッションモデルテレビエキストラになる場合もある。レコード会社が特定の容姿を歌唱力より優先させたい場合には歌手になることも。一部の女の子たちは、スカウトマンから声をかけられ、そうした仕事に着くことを夢見ながらおしゃれして渋谷原宿の通りを歩く。しかし多くの場合、モデル事務所AV仕事をもちかけ、そして多くの女の子が「いいですよ」と答える。街角からリクルートされたタレントたちの登場するAVの信じられない本数が示すように。彼女たちはたいてい手っ取り早く金を稼ぐためにAVに出演する。もしくは冒険や遊び心、モデルキャリアへの道を見いだしているのかもしれない。

企画もののスタイルジャンルを一覧にするにはいささか数が多すぎる。しかしその中で最も重要であり、かつ一般的なものをあげるとしたら、ピンク映画の時代から続く、ずばりそのものの異性間セックスが最初に来るであろう。教師・女生徒看護婦といったちょっとした嗜好を交えたり、レイプAVでは一大分野だ)・緊縛などの暴力の一形態を伴うこともある。しかしAVビデオならではの特異なジャンルも拡大しつつある。ブッカケ(集団男性女性の体に射精する、顔がより好まれる)や密着ドキュメンタリーの特殊なケースであるハメ撮りなどである。

<ポルノ日記>

ドキュメンタリー的手法は日本AVの多くに見られる。しかしハメ撮りほどドキュメンタリー的なものはないであろう。手短にいうと、ハメ撮りはポルノ日記の一種である。それは男性(たいていカメラマン監督である)の主導のもと、タレント女優フィルムに収める作業である。カメラ片手にしゃぶってもらったり、テーブルに置かれたカメラ性交を記録したり、時には行為中にずばりそのものにカメラを向ける。こうしたやり方がたぶん、映像にじかの力を与えているのだろう。キャストなし、クルーなし。ただふたりがやって、その男がまさしくそこでセックスをしている、非常に個人的な視点を視聴者はまっすぐに見せられる(原注:残念ながら、筆者は女性による女性の視点からのハメ撮りにお目にかかったことがない)。

しかし、ハメ撮りの売り物はセックスだけではない。セックスと同じくらいの興奮を呼び覚ますのが、ふつうの、一般的な女の子がどうやって「演じる」かという点だ。彼女たちは朝、地下鉄であなたの隣りに座っていたかもしれない、夜にはビールを運ぶウエイトレスだったかもしれない…夢みたまえ。ハメ撮りが売るもの、それは夢であり、日本の男たちが望むけど実現不可能な、あるいは現実には十分に得られないような性的出会いがあるかもしれない、という夢だ。でもそのイメージリアルである。それこそ手に取れるくらいリアルだ。

<カンパニー松尾: ハメ撮りの達人>

今日のようなハメ撮りを作ったのが、カンパニー松尾だ。ハメ撮りという生まれたてジャンルを親密な映像体験に仕立て上げた。彼の代表作である「オークション01」「オークション02」は2004年制作された。これらの作品デジタル撮影され、DVDにて販売されている)は松尾が出会ったさまざまな女性との個人的な出会いを多く収録している。

たいてい松尾レディースコミック広告を掲載し、彼と会う勇気を持ち合わせた女性募集する。作品の各章は彼女たちが実際に電話をかけるところから始まる。松尾は彼自身が電話を取り、待ち合わせ場所を決めるシーンをカメラに収める。次に私たちが見るのは、松尾彼女のいるところに向かって移動するところだ。松尾はおおいに旅を楽しんでいるように見え、それを日記スタイルで撮る。いろんな駅のシーン、車窓からの眺め、日本日常光景は常に導入部分となり、彼の行き先を示す。最終的に彼は女性が指定する場所で面会する。その場所は彼女の住む町だったり、リゾートだったりする。女性はときに彼をからかう。居場所を推測させたり、行き先の張り紙を残すこともある。しかしたいていの場合、駅などの待ち合わせ場所に彼女たちは素直に現れる。松尾は非常におだやかに話す、好ましい感じのする男だ。こうした資質がものごとをうまく進める理由であるに違いない。しかし最初から明らかなのは、彼女たちはお金を受け取っていて、なにやらセックスのようなものがこのふたりの参加者のあいだで始まることだ。

まず第一に、松尾女性のことを知りたがる。彼らはしゃべり、冗談をとばし、お互いが容易になじめるみちすじを探す。そしてすべてはカメラに記録される。今回の出会いに至った動機、いつもの生活、そして夢。ついに彼らはホテル彼女の自宅へと向かう。

この段階において、視聴者はすでに彼女について十分知っている。とても親しく感じられる。ある娘たちは積極的にセックスに至ろうとするし、渋々な娘もいる。なんであれ、松尾は撮影する。彼女が「だめ」と言う時でさえ、松尾ありのままカメラにおさめる。驚くべきことは、女性たちは作品の中では自らについてとてもあけすけで、その多くがセックスの段になっても決してシャイではないことだ。日本女の子が実際にどうやって考え、何を求めているか知りたければ、多くの洞察がここから得られよう。

松尾1965年日本の中央に位置する愛知県に生まれた。高校時代から、松尾テレビ業界希望していた。専門学校卒業すると、松尾音楽番組制作会社に入った。この仕事には彼は大いに失望させられた。音楽のことを考え、バンド内面映像化するかわりに単調な台本を追う日々だった。ひょっとしたら意外でないかもしれないが、会社はほどなく倒産した。失業した松尾は飲み屋で昔からの友人に会う。友人はAV世界への参加をもちかけた…ここからは彼自身の言葉で語ってもらうとしよう。

2006年の2月に私は東京のファッショナブルなエリアである原宿にある、新しく広々とした松尾オフィスで彼に会った。ちなみに原宿日本若者文化の先端を行くホットスポットとして知られている。

http://anond.hatelabo.jp/20081228015206 に続きます。

2008-11-19

http://anond.hatelabo.jp/20081119151140

どうなんだろうねぇその辺は。ベクトル的にそうなるってのはわからんでもないが、それ以外の数々の社会背景パラメータを落としてる気がする。

江戸時代に関しては不義密通は極刑人妻に思いを寄せられてもそれに応えれば極刑)だけど、女が結婚してさえいなければ妾をとることは法律的に全く問題がなかったので(制裁はいい思いをしなかったり嫉妬をする場合もあったようだけれども、妾が正妻に正月挨拶に来るのが礼儀という風習がある)、それほど性的に制限されていたとは思わない。性的な部分よりは贅沢をすることに対しては厳しかったけどね。贅沢禁止令が何度も出されたのは歴史をちょっと勉強すればわかるけれども。

性的に緩かったというのは湯女の存在や、遊郭以外でも売春宿(後の赤線現在歌舞伎町など)が多数存在していた(ただし売春自体は病気を懸念してかもしくは治安的な意味かはわからないが法律的には規制されていた)こと、春画などからそれなりにおおらかに認められていたようには思う。

女の処女性に関しては特にきいたことはないが(別に詳しくないし)、生娘ということばもあるからある程度は処女性を重んじる社会ではあったのだろう。身分制度が血筋で固定されているから、特に武家なんかはその辺を重んじたってことは納得できる。逆に言うと血筋を守らなきゃいけない家以外はそんなに気にしなかったんじゃないのかなぁ。強い子供がほしいなら乱交の方がいいってどっかできいた気がするけどどこだったっけな。人間以外の動物社会では処女性が全然重視されてないこととか考えると、社会処女性を求めるようになってるというのは納得ができるが、本能的にそうだというのはあまり納得がいかない。そのあたりを説明するようなソースってないのかな?

2008-09-28

http://anond.hatelabo.jp/20080928211521

売春を合法化するかどうかというより、現実存在してるんだから。ただ、法の規制で表風俗が良くも悪くも日本独特で、したがって「本番行為」(笑)を伴う裏風俗の値段がどうしたって上がる。ヘルスピンサロサービスとしてあってもいいけど、でもヘルスまで許可できるんだったら全部認めてしまえばいいんだよ。たいした違いがないんだから。売春行為にかかわる規制が取れてしまえば、確実に値段が下がる。地域によるけど、全体的に日本セックス産業の相場は高い。たとえば、セックスなしであの値段をとるヘルスなんて、いらないと思うね、僕は。

ほんとはね、売春をきちんと社会で管理するべきかどうかは、もっと議論されたほうがいいんだ。ってのも、とくに病気の管理の問題があって、はっきり言っていまは野放し状態でしょ。某地区の女の子エイズが出てそれでも生でやってるなんて話、よく聞くし。エイズ以外にも性感染症を含めて管理をちゃんとしたほうがいいと個人的には思うんだけどね。50年前、東京赤線が廃止されたとき、都の保健婦がみんな怒ったそうだよ。せっかく努力して病気を封じ込めてるのに、これでまた野放しになってしまうと。事実現在そうなっちゃってる。

抽象的というか哲学的な議論は不必要じゃないかな。売春業は永遠に不滅だからさ。抽象哲学的議論で考え込むより、現実なにをしてどうなってるかを見て考えるほうが適切なんだろうな。

もっとも、裏社会からセックス産業を取り上げて、国行政が全部管理してそのあがりがとれるのかというと、簡単にそんなことにはなりゃせんだろうがね。けど、ドイツなんかで売春婦が自分の仕事仕事として誇りを持ってるのを見てると、国家売春婦の上げ前をとる(たとえば施設の一部屋あたりの使用料とかってことになるんでしょうけど)ことにそんな否定的になることもなかろうとも思うんだわ。でも意見は色々あるだろうから、だから議論が必要になってくるんだよ、本当はね。見て見ないふりをしている現在はあんまりよろしくない。

2008-07-08

Re:シンガポール

http://anond.hatelabo.jp/20080708145345

シンガポールの男どもは、どこかできちんと発散してるんだろう。

 シンガポールには、ゲイラン(http://tocchiclub.exblog.jp/i3)という公認娼婦がいる街がある。

 あと、船で20キロほど行ったインドネシアナゴヤ(http://www.excite.co.jp/News/bit/00091211964500.html)にも巨大な赤線地帯がある。

 他にも、デリバリーマッサージ店は市街地にもいくつもある。

 性的には厳しいイスラムの国も含めて、性産業はどこにでもあるところはある。

2008-06-27

http://anond.hatelabo.jp/20080627141848

いやーさすがにオープン化したところで親に言える仕事になるかってさすがにそんなことはないんじゃない?

昔は赤線なんていう公娼制度があったけど、そこに勤めてる人が蔑まれなかったなんて話は聞かないし。

何十年も経って性産業に対する社会通念がドラスティックに変わることがあれば分からないけど、今までの歴史を考えると可能性は少なそう。

あと、不特定多数男性と肌を合わせることの生理的嫌悪感は相当なものでそれだけで敷居が高いよ。

オープン化したらお金のためにゲイ男性と寝るノンケの男娼は増えると思う?

そのぐらいの心理的抵抗がある職だと思う。

2008-02-14

電子辞書反対

勉強するための辞書は「書き込み」ができないと嫌だ。何回も引く字に赤線を引くだけで機能性があがる。

確かに電子辞書は検索性に優れるかもしれないが、電子書籍が普及せず紙の本が廃れないのを見ても分かるように「検索」ではなく「読む」という観点からすれば、これまた紙辞書の優位はやはり動かない。

まあAT車がいくら普及してもマニュアル車がなくなるわけではないように、両者は共存していくだろうとは思うが、「大人が使って便利」というのと「初学者学習に良い」というのは微妙に観点が違うから注意すべき。

http://anond.hatelabo.jp/20080214013416

2007-11-30

http://mazzan.at.infoseek.co.jp/lesson2.html

35年ごろに少年犯罪で強姦が激増しているが、結局これは赤線廃止の影響だろう。それまで潜り込んで何とか処理していたのができなくなった。で、やったと。

その後の40年代の強姦数の現象は、ようするに親告数の現象。

  • 社会が安定化し、女が開放的になり、飢えた男が減った。
  • 結婚前に男にだかれる女」がアリだという考え方が広がったため、押し倒されても抵抗しなければならないと思わない女が増えた.

言っちゃ悪いが「我慢できない男」に釣り合う女は割と簡単に体を許すようになった。だから犯罪は減った。つまり、犯罪数とポルノの相関は始めから無意味。そしてポルノ禁止の声が性の乱れを押し止めるのが目的なら、犯罪数の遷移を説くも無意味

ところで他の犯罪に関しては、よくわからん。しかし、平成からこっち、犯罪が激増しているのは事実だろ。「昭和がよかった」というのは幻想、というのは勝手だ。そりゃそうだ。しかし、昭和の末期、日本は非常に安定して安全な社会を築き上げた。戦後日本経済的に復興し、そして安全な社会を作り上げた。それは事実だろ。そしてその安全が坂を転がり落ちるように失われつつある。これもグラフがはっきりと示している。

昭和が安全でいい時代だったなんて嘘」というやつは、「現在我々は築き上げた安全を失いつつある」ことに目をつむっている嘘つきである。そいつらがなぜ目をつむっているのか、あるいは、なぜ我々に嘘をついているのか。真剣に考える必要があるのはそこだ。

2007-07-21

感覚と社会的なジェンダー

匿名ダイアリーの id:20070718150956 を読んで思ったこと。

ひょっとしたら、自分の「はてな」本館((ここはあくまでも匿名で名前は書かないのが流儀なんだろうから、今の所は伏せておくけど))で同じネタ書く((下手すりゃ、コピペ?))かもしれないけど。

正直な所、男性が性的な視線で見られるという事に鈍感だというのはあると思う。

逆に言うと、そのあたりは社会的な。と言うか明治以降、男性身体性を否定されつづけてきた日本社会ジェンダー観がかかってくると思う。

実際、戦前戦後男性というのは労働をすると言う役割が強くて一部の「種馬」は逸脱した存在であったと言う暗黙の共通認識((っつーか共同幻想))があって、その中で、男性のリビドーというのは存在しつづけたわけで、その部分を「赤線」「青線」なんかや「お見合い」と言うのがガス抜き装置として作用していたんだけど、そこいらも社会的な部分から否定されて、残ったのは、「恋愛」を通じたセックスの回路だけになってしまったと言う感じがするんですよね。

逆に、女性の側も身体性を否定されていて、「良妻賢母」だ「貞操」だなんだと言うあたりで抑圧されてきていて、抑圧がきつかった分、逆にアメリカ文化が入ってきたときにハジける具合が早くて、女性男性セックスアピールを見る目も、自分のセックスアピールがどう見られているかという視点も「鍛えられた」

そういう意味では、ガス抜き装置がある程度作動している分、男性の方が鈍感な場合が多くなるのは必然だし、「性的な視線で見られている」と言う意識は、実は男性の場合は恋愛と直結している訳ですよね。

笑えないのは、男性女性に対する性的な視線と恋愛が直結している訳ではない。と言うパラドックスがある事なんですけど。

それはともかく、実際の所、「恋愛資本主義」って言葉に代表される最近の状況ってのは、男性が、自分の性的魅力がどう見られているのか、敏感になりはじめていることなのではないかな。と思います。

恋愛モテること=自分の性的魅力があること」であると言う事を、直感的な部分で感じているのではないかと。

ただ、そこをまだ言語化できていないとか、自分の性的魅力も他人の性的魅力もを通り一遍の基準で見ようとしている辺りが、ジェンダーの縛りがまだ(最低でも男性には)かなりきつい状況から抜け出せていないのではないかな。とかおもうんですけおね。

2007-03-21

売春とかギャンブルとかトック作って合法化すればいいじゃない

http://anond.hatelabo.jp/20070321011457

個人的には用はないけど、そういうのを必要とする人もいるわけで、

そういうのが黙認されている地域も既にあるわけで、

赤線吉原だとかぐだぐだ黒いのを灰色にごまかしてないで、

パチンコだとかも回りくどいことやっていないで、

ダメなものはダメ!!でしょ。

それがイヤなら法律変えろよ。と、思うよ。

ドイツとか売春オッケーな国は多いよね。

売春について

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%B2%E6%98%A5

差別についてはよくわからん。

子供には見せたくないから、住宅街にはそういうところは出来て欲しくない。

このような判断が職業差別だとは思わない。

もっと陰なものであってほしい。

うん。ちょっとぐだぐだ。眠い。

2007-01-21

日記

見えるものや音や匂いなどが平坦に、平坦な俺に真っ直ぐ降り注ぐ。それは祝福であるなんて脳みそ皺なし。どうにかなって。140センチメートルほどの老女三人が談笑しながら歩いて、向こうからやって、決して俺を見ないのだが、一つだけ言っておきたい。三人はそっくり。俺は、何もかも平坦でつらいというか、しんどいし、だるいなあ。言ってもしょうがないから。音も平坦なのは耳が悪くなったのかなと思いながら、ぼうっときょろきょろばかりしていると急に目がおかしく、ぐわんって明滅し、次第にスケールが狂ってしまう。体も重い。ふにゃふにゃーっと体が背骨ごと折れ曲がって俺は座り込んでしまうともう立ち上げれず。老女はまだ遠くからにやにや歓談しながら近づいて、その所作は極めて小人っぽく、近づくごとに、ああ矢張り小人なんだろ、と確信したくなるほど小人なのだがしかし多分小人じゃないなと心の何かによって思って、落ち着け俺、と呟いたが落ち着かない。そわそわしてしまう。この奇妙さは何なの。あ、今気付いた。なんか俺が小人になっていくようでもあるな。なんでだ、と思っていた。そして、いや、スケールがおかしいのは俺以外のものがどんどん大きくなっているからじゃねえ、と思ったら。寧ろ婆たちはでかくなって、俺が小さくなりだして。あらあら。俺以外がみんな大きくなるのと、俺だけが小さくなるのはどこに区別があるんだ。むずかしいですね。俺以外はどんどん大きく、それか、俺がどんどん小さくなって、ある地点で、婆よりも俺のが確実に小さいと思ったけれどもサダカではない。しょうがないな。俺はガンタンクのように立ち上がってぐんぐんっと逃げたが、小さくなっているので中々前には進まないでその場から遠ざかれない。婆らが、しわがれた声で笑いだした。不穏。気温が下がった。サミー。ひゃーひゃーひゃーと笑う声が、ドーム内のようにくぐもって木霊するのがきもちわるく、むかつく。俺が小さくなるのは止まないし。笑い声も止まないし、耳が聞こえないし、目も見えなくなったよ。今。笑い声だけ聞こえる。何も見える。すべては世界の所為であると僕は直感した。それほど悪辣な、悪魔的な所業。世界の所為にした。私以外のものすべてが世界だろう。私は私のことを省みない婆たちを恨みたいが、しかし、善良幸福そうな彼女らが私利私欲怨恨怨嗟のために或いは意地悪で或いは俺を怒りらせようとしてわざと嫌な風に笑っているのだ、とは思えなかったし、文句を言う気も起きなかった。いづれ止むだろう。と思って我慢した。4秒。しかし、笑い声は止まぬので、俺は益々苛々してくよくよした。それを反復しました。いらいらくよくよしました。疲弊した。もういきていられぬ。婆らは自分がそのような声を出して笑っていることについてどう思っているの、と考えた。知っているのか。受け入れているのか。幾十年前は恐らく婆たちだって花も恥らう乙女だったんだと思うけれど、その時もああやって笑ったのかというと、あんな風には笑わないだろ。少なくともしわがれてはいないんだ。じゃあ今俺をくよくよさせているこの声は何なのか。これが老化か。格好良く言うと老化現象。わからないが。いや。分からないけど、でも、と、私ことあたいは思ったンだ。私たちの住む世界というのは何の断りもなく当人さえ知らぬうちに何もかも変容させるし、それも受け入れないならば死ぬしかないみたいな嫌がらせのようなあくどい世界で、それはまあ何度も何度だっていやになるのだが、しかし死んだからといって願いが叶うとは限らないし、それどころか死んでしまったら自分がその現状さえ維持することも極めて難しくなる。例えば、死んだ自分を自ら死んでない死んでないなどと言ってフォローすることさえ自らが死んでしまっては不可能なんであるからね、というか大体において死んだ身体というものは動かないし死ぬのは怖いし死の先は見えず見えないものというのは大体において恐ろしいものだけどそれが何故恐ろしいかというとそれが何なのか分からないからでまた大体のものというのは分からないものなのでもあるからこそ分かったような気にもなるのな。たぶんだけどね。お前が悪いわけじゃなく、お前が悪いわけでもないんだがお前が嫌い、と思っていた。僕は。そして、気がつくと目が覚めていた。気がつくときはいつも目が覚めていた。ほってんとりを見ていたら、コーヒーをこぼしたらキーボードが壊れた。多くのキーが反応しない、そんななか、kキーだけ自分は押されてると思い込んでkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkkってなってる。押してないいよ。キーボードを買いに行く。しかしお腹が、ぐるうん、ぐるうん、ぐるうん、と断続的に、連続的に鳴り続けて止まないのだがどうしたら良いのだろう。お腹の音は本人が思うより周囲には聞こえないものだけれど、聞かれても大人的に知らんふりされるのだろうけどで、さすがに、これは、知らんふりしずらく、見つかったら、奇妙というか珍妙で、恥ずかしい、堪らないなと、僕は舗道をずんずんと早歩いていた。空腹というのは波だから、収まるのを待とう。それまでは、騒音のある郊外にいようとおもったのである。さみーとか思いつつ。考えつつ、ふらふらする。そもそもお腹の音が止まないということはありうるのだろうか。僕は今現に自分で止まないと言っているのにそれを疑っています。疑り深い。ぐるうん、ぐるうん。空腹。自分が楽器になったようだ。或いは虫だな。空洞の胴体が振動している。手はおまけのようにくっついてぶらぶらしているし、足は勝手に歩んでゆくような。頭は余計な下らない装飾のように生えているだけだ。腹が歩いてく。盲目の人を見かける。こんな街中で。赤線の入った白い格好良い杖をもっている。俺のことが見えない人。盲人。意地悪をしたくなる。僕は眼というのが嫌いだなあ。とくに軽蔑の目なんかは胃が痛くなる。敗北感が鳩尾辺りできりきりする。次の朝起きれなくなる。その割りに僕という人は尊敬される人でないし、寧ろ積極的に軽蔑される人だよなー。不思議。世界は絶望で満ちていますか。だって。わらた。いやらしいハッピーエンドいやらしいいやらしいいやらしい。迷惑な命。生まれてきて残念でしたすいませんでしたもうしませんもう生まれてきませんビスケットのすいませんでしたマリーを食べていたら頬がなんだか熱をもってしまい口中は乾いてつばを飲んだら喉が痛うという憂き目である。散々だ。死んだほうが益しだ。菓子ばっか食っている。たまにしか死にたくならない。幸いなことである。なんて幸福なの。なんて幸福なの。自己を規定する際他人というものはとりたててじゅうようで他人なしに自己を形成しようとすると失敗してしまうな。自分とはおそらく社会的なものなんであって他人なしで自己を作っていくと自意識だらけになってしまうのだろ。結果的びに自分の誠実を守るために都合の良いルールを取り入れなければならず、自分中心を後後天的に許容して、独我てきに、あらゆる責任は私に帰するのだとして、私が気持ちよいやうにやる、と言って逃げ回っておるだけで、逆説的に、逃げるのはつらくないから気持ち良いのであって、結局、態度を保留し続けているという極めていやらしい態度で生きている。のうのうと死にもせず、愛されもせずに。おぞましく不愉快生物がいたものである。ああそうだ。何もしてないのに髪が伸び続けるのは俺へのあてつけで、嫌がらせなのだ。爪が伸びるけど爪きりが見つからない。すぐに物をなくしてしまう。数年前のことなんだけど、2ちゃんねるの書き込みの、思春期に愛されなかった人はもう一生愛を知れない、というような断言には呪われてしまっていた。そこまで言い切る根拠はなんだ、気が狂っているのか、こいつと、おれは全く思わずに、静かにゆったりとした時間の中でぼんやり発狂するところだった。精神薄弱である。でも実際、そんな阿呆な、とすら思えなかったのでびびりますね。如何に下らない言説であろうともタイミングによっては直撃的なネガティブ信仰呪いとして無抵抗で受け入れてしまうときもあるものなのだな。少なくとも俺にはそういうところが。俺はそのときは本当に呆然自失して、がびーん、てなってた。もうだめだ。もう。このクソみたいな煽りみたいな2ちゃんレスに中てられているんだけだとは半ば、知りつつも、悲劇みたいな憂鬱的な心地よさにおちついて、徐々に憂鬱浸しになってゆくしな。しにたいとゆって、決して死にたくないのに。死にたいと言う人にじゃあ死ねというのはひどいね。だれのこととはいわないけども死にたいって言うひとはたしかに気持ち悪い。うぜえ。死ねばいいのに。だめなやつら。時折死にたいと呟くやつがいるが、いけないんだぜ、実にいけない、俺は少なくとも本当は死にたくなんてなかった。死んでしまった以上なんとも言えなけれどもね。俺は、つうか寧ろ、なのであるが、生きていない状態を死んでいると言うから、つまり、それは生きているの対義語なんであって、だから、生きたくない、死んだ状態になってしまいたい、という意味死にたいと言ってゆるのであって、まじ死のうとしている気狂いと一緒にすべきではなかった。願っていただけだった。おれは。静かに。死ぬという行為をスキップして死んだ状態になりたかっただけだ。歩きたくなければ歩かなければ良かった。生きたくなければ生きなければ良い。それは馬鹿だ。馬鹿な話だ。この世は極楽だ。歩かないことは簡単であるが、生きないことは簡単ではない。我々はもはや生きないためには積極的に死ななければならない。生きないからと言って呼吸運動を停止するのはつらく、ご飯を食べないのもつらい。痛いのはつらい。そして、だからこそ僕は死にたいと言って死ぬ覚悟を得るために生きない理由を思いつこうとするがどれもこれも結局のところ全く致命的ではないのだ。吃驚しますね。いいから死ね。積極性をもって死にたくない。だって俺は生きたくないだけだ。誰が好き好んでつらい思いして死ななきゃならないんだ。馬鹿か。もういみわかんねえ。せかいはいみわかんねえよ。いいから死ね。命に意味ほにゃららと誰かが言い、クソカルトである不謹慎禁止教徒どもが、わめきちらす思想はすべての命を汚辱に浸している。倫理なんか水伝と一緒の癖に。人なんかみんな死ねばいいんだ。つらいのが嫌なだけで、そういった思想の持ち主は生きていてはいけないのだ。俺はただ動物のように生きたいと言うが動物にしては恵まれすぎている、といって、俺から言語を使うな、火を使うな、道具を使うな、公共を使うな、恥じ入っても生きろ、などといえたものか。動物が有利を捨てたりするものか。あらゆる責任を放棄して、迷惑をかけて、死、ん。うんざりだな。死にたくない。今の生きている状態を回避していたい。つまり死にたいのだが。死んでいたい。最初から死んでいたい。それはできない相談だ。死ぬのが怖い。それだけでなく、実は死ぬ先も怖い。びびっている。地獄なんてないのが嫌なんだよ。俺は。地獄なんてないと人は言うのだ。まともな神経の人間はそう言う。地獄なんてないとまともな神経の人間は人は言うのだが、そんなはずはない。僕に地獄が与えられないはずが無い。平等に与えるべきだ。子犬に、子リスに、養鶏に、俺に。平等に。あらゆる生き物の命は平等である。それは正しい。あらゆる命が平等に無価値だ。正しい。たしかに! そうして価値は常に"社会的"にのみ宿るのであった。ウケル。俺は絶対に働かないと言ってやる。そうすれば少なくとも俺から奴隷的価値はなくなるかもしれない、扱いにくいとして少しは減ぜられるかもしれない。もしかしたらだけど。いいから早く死ね。そうして、俺は不健康だし、やせ細って、いる。だが僕には価値がある。マッドサイエンティスト実験人間としての価値。人間を粉にして作る薬の原料としての価値。まずい人肉としての価値が、俺にはあるぞ。僕が何かの人質になると人道的なんとかと言って誰も俺を望まなくても俺には人質として価値が付与されるのだ。俺は社会的な生き物なのだ。じゃあ鯨も社会的だ。鯨食いてえ。蟻は社会的だ。ライオン社会的だ。カブトムシ社会的だ。カカオ社会的だ。人間なんてくそだ。って鯨が言ってましたよ。どうなんですか。人間。鯨の命はチキンのより価値があるのだろう。ばい菌やビーフやエチゼンクラゲ保健所の犬とかわいがられてる犬と投げ捨てられる子猫野良猫と血統書とかペットとか金持ちの子と貧乏人の子。すべての価値を認めたくない。地獄なんてなかったね。行ってきたけど、ありゃあ地獄なんて呼べるようなとこじゃねえ。よって結論はあの世に地獄なし、ということでね、知ってるわ、じゃねえ。しらねえよ。お前。地獄なんて信じないくせに。いや、あるかもしれないし、死んでみないことには、などと、阿呆らし、論壇きどちゃって? はは、こうしたこまっしゃくれた奴らは駄目さ。なんでもメタに構えちゃってね。俺がメタメタに立って優越感ゲームになっていますね、って、そのレッテル貼りが既に優越感ゲーム、ゆゆゆゆゆって、ですか、阿呆らし、やめよ、どちらにせよ論理的云々などといってはまた保留だよ、永遠に保留し続けますか。まあ、だからと言って地獄存在を鵜呑みにする連中ってのもどうかと思いますけどね、端的に言って宗教者はきもい。宗教は駄目だ。というのは俺が信じれないからだけど。俺に純真がないからなあ。奇跡がない。啓示が。俺に与えられない。これからも与えられはしないだろう。何かを与えられる事を望んではいけない。どのような状況においても。それは甘えなのだ。つらい事をやめてはいけない。それは怠けなのだ。ナマケー。いいからやれ、と、結局はそれへ収斂するよね。あらゆることがそうなのだよ。俺は仮定で、空想上の人物で、空論以外に、何かを実行することが、不可能なのにな。残念だ。あるひとは俺を指して、言語に支配されてきもい、と言ったのだ。たしかに。だった。そういうしかねえよ。本当正しいぶっていますね。俺なんて、いいから死ね、といわれればそれまでである。死ぬしかない。いいからやればー。うるせーばか(ここで絶命しました)。

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