はてなキーワード: テレビ番組とは
今、日テレで『介護うつ』という本の特集をやっていた。どうやら清水由貴子さんが介護うつで自殺に追い込まれるまでのことを書いた本らしい。ただ、私はこれを最後まで見ることはなかった。見られなかった。同じくテレビの前には、私達家族が介護している母親がいたから。
私の親は数年前から要介護5の状態となり、全く歩けない。動けない。そして喋れない。会話も特殊な道具を使わないと出来ない。ただ、意識ははっきりとしていて痴呆などの症状はないので、食事を食べさせてあげることも出来るし(それも嚥下の都合上苦しくなってきたが)、家族の疎通でだいたいのことがわかる。ただ、本を読む程手を動かすことも出来ないので、一日のうち多くはテレビ、ラジオ、新聞を見る(これはめくってあげる)ということになる。故に夜も寝る前の時間、車椅子の上で私とテレビを見ていた。
その時に流れた『介護うつ』という本の特集。これを見たとき、非常に嫌な気分になった。何故ならそこにいるのは、その介護うつにさせるかもしれない、そしてそれがどうしようもない人なのだから。
だが、放送は始まり、いかにもな感じて話が進んでゆく。ただ、ここで不自然にチャンネルを変えようものなら、本人がもっと気にするのではないかと思い、気まずく話が進んでゆく。私は再現VTRが始まる直前、比較的よく見ている『シルシルミシル』がやっていたのを思い出して、その話を振ってチャンネルを変えた。しゃぶしゃぶの映像が流れていたが、その番組は終わりかけていた。そしてすぽるとにチャンネルを変えた。そして今、親を寝かせたところだが、それまで一度気まずくなったのを落ち着かせるために、いつもより寝る時間を遅らせ、15分程特集を見ることになった。そして今も自分は、最初からチャンネルを変えておけば、と後悔している。
このような経験は今までもある。同じように介護の大変さを語るニュースが流れたとき、親と同じ病気がネガティブな単語(死に至る、大変苦労する等)という言葉と共に流された時などだ。故に最近はテレビ欄を見て、それ系の特集や感動番組が流れそうになると、警戒してチャンネルを変えることが多い。
もちろん、清水さんの家族を責めるものではない。介護の苦しみは相当わかる。本を出されたのもその認識を広めたいというのも理解出来る。ただ、これが『放送』という、無条件に入ってくるものになると、このような状況になり、苦しむ人もいるということだ。昔、親子でテレビを見ていてアダルトなシーンが流れて気まずい思いをしたという人は多いだろう。あれも考えてみれば望まれない情報が入ってくることで、視聴者に対してマイナスの感情を与えているのだ。そしてこれはこのように気まずいレベルではなく、落ち込ませかねないこともあるのだ。
病気で死んだ人のお涙頂戴番組が流れるというのはよくあることだが、思うにその影で同じ病気であり、現在進行中の人はどのように感じるだろうか。
たしかにこれらの放送がなされてプラスになる面もあるだろう。だからそれらをやめろ、とは言えない(内容にもよって、お涙頂戴だったりしたら否定したくなるが)。ただ、何気なく流れているそれは、誰かを傷つける可能性があるということが知って欲しいと思う。それを知って欲しい。特に『放送』という性質上、それが一番強いテレビ、ラジオにおいては。
世の中には、『情報』を望まない人も、それで傷つく人もいる。
http://d.hatena.ne.jp/toronei/20091017/M
ダウンタウンやナイナイが粉まみれにならないとか,どんだけテレビ見てないんだこの人.
普通になっとるよ.ダウンタウンがひどい目に遭うことも多々あるよ.
少なくとも年末の笑ってはいけないシリーズだと松本だろうが浜田だろうが容赦ないだろうが.
問題なのは,世の中にはいじめられっ子よりもいじめっ子(もしくは傍観者)の方が多くて,
結果的にいじめっ子側向けにテレビ番組を作った方が視聴率が取れるっていう構造なんでわ.
番組を作るのはテレビ局なわけで,そいつらが視聴率を求めるから
若手いじめが起きてるんですよ.
とはいえ,志村が露骨に叩かれるのを嫌がってるのをテレビで見たときは
こいつは芸人じゃないなぁ,と思ったなぁ.
そりゃみんな嫌いやわ.
陰鬱な空から雨が降り注いでいた。街が灰色に蝕まれていく。くすんで、濡れそぼっていく。
宵口の窓辺から覗く世界は、ほんのりと濃紺に染まっていた。行き交う車のヘッドライトが煌々と筋を刻んでいる。等間隔に立ち並ぶ街灯は、どこか所在がなさそうだった。漏れ出す家々の明かりがやけに白々しく見える。
閉め切ったガラス窓に、水滴がぽたぽた、打ち付けてはゆっくりと流れ落ちている。やがてひとつになって、窪地に溜まり、淀み、溢れて排水溝に流れ、支流は河へ、本流となって海原へ……。白光のもと、再び上空へ駆け昇っては、いつもみたいにどこかに降り注ぐ。
滑り落ち始めた一滴をなぞりながら、この雫はかつていつこの街に降っていたのだろうと考えた。数日前かもしれないし、数週間前かもしれない。数ヶ月、数年などという期間も候補に考えられなくはないような気がした。そもそも、混ざり合い、どこの、いつの雨なのかが分からなくなってしまっているのだ。数十年、数百年、数千、数億年――あるいはもっと、それ以上にも及ぶ悠久の時を深海の底で眠り過ごしてきた初めての一滴である可能性も捨てきれなかった。
可能性が選択となって、頭の中で遮るものなど何もない広大無比な高原の如く展開していく。そのあまりにも壮大なスケールに、思わずくらくらしてきてしまった。軽い眩暈に瞳を閉じて、冷たい硝子に額を押し付ける。
透明な境界は、視覚的に透明であるために捉え難いだけで、確かにいまここに存在している。なるほど、姉にとってはこの敷居を跨ぐことがなによりも大変で、困難で、恐ろしいことだったのだろうなとぼんやりと考えた。
顔を上げる。後頭部を窓に、背中からもたれかかるようにして立ってみる。何年もの間、碌に光が差し込まなかった、内からさえも照らし出されなかった小部屋の中には、染み付くかのように重たい、へばりついてくる、濃厚で濃密な掬い取れるかのような闇が沈んでいた。
そんな部屋の中央に、天井から輪が釣り下がっている。簡素な机と、スチール製のベッド以外に、例えばポスターだとか、本棚だとか、CDラックだとかが病的なまでに何もない部屋の真ん中に、タオルで作られた即席の絞首台が設けられている。
込み上げるようにして息を吐き出した。そこに浮かんでいた表情が、安息そのものだったことを思い出す。彼女はやっと苦しみから解き放たれたのだ。姉は絶望的な辛苦から逃れることに、その手段を用いることに成功してしまっていた。
視界の右端、壁に面した机の上に、一冊のノートが置かれている。先ほどざらりと読み終えたばかりのノートだ。全ての紙面を埋め尽くそうとしていた心象は、あるときは言語であり、あるときは稚拙な絵であり、スケッチとなり、あるいは音階となって私の目に代わる代わる飛び込んできた。そしてその内容は、私が思っていた以上に、家族が知っていた以上に壮絶なもので、どうして姉が今日までの日々をこの小さな部屋の中で完結させなければならなかったのか、あるいはどうしてその部屋の中からさえも逃れなければならなかったのかを如実に示してきていた。
『やさしさノート』と題されたその一冊は、これまで姉が関わってきた人たちに対して、こんな自分をまだ見捨ててくれないでいる家族に対して、そしてこの世に存在しているありとあらゆる人たちに対しての謝罪を冒頭に据えて、つらりつらりと始まっていた。
ごめんなさい。
その一言を、姉は一体何度このノートの中で繰り返したのだろう。対象となった人の人数は? おそらく、私がこれからの人生で頭を下げることになる人数を優に一万倍以上超えているはずだった。姉は自らがここに存在していることを呪い、悲しみ、恨み、溜まりに溜まった申し訳ない想いを吐き出すために何度も、何度も何度も何度も何度も、ごめんなさいと謝り続けるしかなかったのだ。
完全に他者を排し、愚直に紙面とだけ対峙しながら、強大な感情に取り憑かれてペンを走らせ続けていた姉の姿を想像する。漆黒に染まった部屋の片隅で抱いていた苦しみを、廻りまわり続けていた激憎を、決して消えることのなかったその業を思い、私は再び絞首台に目を投じた。
「大変だったんだね」
彼女に向けることのできる言葉は限られている。姉の苦しみは、絶対的に姉にしか分からないものだし、他の誰かが、とりわけ私になんぞは共有できるものではなかったのだから。
姉は、小さい頃から聡明で、何でもできて、いろいろなことを知っていて、たった三つしか歳が離れていなかったはずなのに、幼い私にはまるで全知全能の神様のように映っていた。同時に、幼稚園でいじめられていないかと心配をしてくれて、守ってあげるからと毎日一緒に通学してくれていた。姉の掌はどんな時も私の小さな右手を包んでくれていて、そのぬくもりを、感触を抱いていられれば、私はどんなことにも立ち向かっていけるはずだったのだ。
歯車が狂いだしたのはいつのことだったのだろう。気がついたときにはもう修復など効かなくなってしまっていた。歯はぼろぼろに欠け落ち、空回りをするばかりでうまくいかなくなってしまっていた。
姉が賢すぎたのかもしれない。本を読みすぎたのかもしれないし、私に気を回しすぎたのかもしれなかった。あるいはそれは私の問題で、そして姉を取り巻いていた周囲の問題でもあって、徐々に変化し拘泥していった姉の人格を見抜けなかったからなのかもしれなかった。様々な事柄をたったひとりで考え処理するのにはまだ小学生にすぎなかった姉は幼すぎたし、置かれている状況も恵まれすぎていた。
多眠が始まったのがちょうど中学生になった年で、以降姉は塞ぎがちになり、与えられた問題を集中的に考えることができなくなった。部屋から出られなくなったのはその翌年だ。どうすることもできないまま姉は自らの精神によって自室に追いやられ、そこから抜け出すことができなくなってしまった。
姿を、心無い人は蔑み、揶揄し、大袈裟に嘯いた。面白おかしく吹聴する者もいた。何を隠そう、私自身がそうだった。
情けない姉、駄目な姉、わがままだから絶対的に社会に求められない。荒んでも、落ちぶれても、ああはなりたくないよ、などと知ったような口をはいていた。友達と家族の悪口を言い合う行為は、思春期を迎えた嗜虐的な子供心にはとても気持ちのいいことだったのだ。纏わり付いている繫がりというものを、私は心底疎ましく思っていた。
だから、姉が私に謝る必要などないのだ。どちらかといえば私のほうこそ彼女に謝らなければならなかった。苦しみに喘いでいた姉に細心を払うわけでもなく、あろうことか邪魔者扱いをしていたのは私だったのだから。
姉は、どんな時も私のことを穏やかな視線で想い続けてくれていた。この小部屋の中にいなければならなくなりながらも、想像を絶するような苦しみの中にありながらも、真摯に私のことを心配し続けてくれていた。
それを、それを私は――
……後悔など、するだけ無駄だ。淀みの中から掬い上げて振り返り続けることなどは無意味だった。高校に進学し、幼い恋を、出会いと別れを重ねて、大学に入学する前にはちゃんと理解していた。
いまここにいる私には、彼女に言わなければならない言葉がある。
「ごめんなさい」
姉に対して、何もできなかったことを、何もしなかったことを、それどころか邪険に思い扱っていたことを。実家を離れるようになってから、ずっとずっと謝りたいと思い続けていた。
床に降ろした腰に冷たい感触が伝わってくる。膝を抱えて小さく、誰もぶら下がっていない絞首台を見上げた。その小さな輪が作り出した痣を思い出してぐっと震える唇を噛み締めた。
階下では、両親が恐慌をきたしながら救急隊の到着を待っている。通報からもう二分ほどたっただろうか。意識を失った姉に付きっ切りで、私がいなくなっていることには気が付いていないようだった。
「お姉ちゃん……」
こんなの駄目だよ。ずるいよ。私が永遠に謝れなくなってしまうじゃないか。
身勝手な考え方だとは理解していた。もしくはそれこそが姉の願いであり、最初で最後の、多大なる復讐なのかもしれなかった。でも、それでも私には、姉にまだ言いたいことがたくさんあったのだ。
大学生活がどんな風か。好きな音楽や小説のこと、テレビ番組のこと、おいしい喫茶店のこと、教えたいことがたくさんあった。姉には私を知ってもらわなければ駄目だった。かつて守ってもらっていた、ずっと心配してもらっていた姉には、伝えなければならないことがたくさんあったのだ。
ギブ・アンド・テイクの関係性。貰っていた寛大な想いに、私はまだひとつも返事を返せていない。だから――
「駄目だよ。まだ死んだりしちゃ」
握り、額に押し当てた両の手に祈りを込めた。幸い、発見が早かった。不穏な物音に只ならぬ予感を抱いた私が、姉の部屋の扉を蹴破ったのだ。きっとまだ助かる。絶対に助かる。助からなければならないはずだった。彼女はまだ生きなければならない。他の誰でもなく、彼女自身のためだけに。
救急車のサイレンが近くなる。家の前で停車。救助隊が声を上げながら駆け込んでくる。
気を失っていた姉はすぐさま運び出されて、両親と共に病院へと運ばれていった。離れていく救急車を、留守を預かると決めた私は、姉の部屋からじっと見送る。
伝え足りない想いがあるのだ。
霖雨の中を点滅する赤色灯を、角を曲がって見えなくなっても、私は凝視し続けていた。
http://anond.hatelabo.jp/20091103144337
子供の身の回りの世話をするのは、子供自身が出来ないから「代わりにやってやってるだけ」なんで、自分で出来るようになったらしろよ。と言いながら育てたよ。子供の世話してやんなきゃらなんような義務はないけど、産みっぱなしたら生き延びられないものを放っておくのは無責任だと思った。
掃除やら洗濯やらご飯の支度やらしてきたのは、子供に対して責任を取ろうとしたからだ。じゃあ、その責任を引き受けたのは誰か、と言えば、私だから、子供に「してやった」って気持ちはない。もちろん、感謝しろって気持ちもない。だって、私にとっては「やって当然」だから。でも、子供に対するサービスとしての「義務」じゃないんだ。子供にとってみれば「当然、親がすること」ではない。例えば、男親は外で稼いできて、お金で生活を支えてくれるけど、直接子供に触ることはない。おむつひとつ取り換えられない。
元増田の言う「親が当然すべき義務」を果たしてないが、男親としての責任は果たしているだろう?
親のほうから見れば「小遣いやるのは当たり前」なんだが、子供のほうから「義務として小遣いよこせ」と言われたら、「この感謝知らず」と罵りたくなるなあ。親御さんの気持ちはわかる。
つまり、立場が違うと感じ方も違うはずなんだよ。
だけど、子供のほうから「親の義務」と言うのが立場をわきまえない不穏な発言であるのと同じく、「感謝知らず」と子供を罵るのも親の立場をわきまえない不穏な発言だと思う。そもそも、自分の責任を果たすためにやっていることを「してやった」と言うのは押しつけがましい。元増田が引っ掛かるのはもっともだ。
もう成人したのだから、しばらく親御さんから離れてしまったらどうかな。10年も顔をあわせずにいたら、落ち着いて考えられて感謝とまではいかなくても「義務」じゃないんだということがわかるかも知れない。
そう言えば、今朝テレビ番組で「親にありがとうを言う」って企画があって、しみじみ考えてみたんだけど、子供に「ありがとう」なんて言われるようなことなんにもしてないよ。食わせて寝かせて着させるのは当たり前だしさ。もし、子供に「ありがとう」とか言われたら、地面に穴掘って潜りたくなりそうだ。恥ずかしくて。
だいぶ前ですが、mixiが株式を上場するのと前後して急激に路線を変更した。テレビ番組が「低学歴」「社会不満層」「下流」と括られる人々に向けて作られ、その質や番組作りのモラルが問われるご時勢ですけども(その最たるものが安上がりなだけが取柄のバラエティ番組とか、パチンコのCMとか、茶番なだけの報道合戦やみのもんたの舌禍ですね)、mixiも携帯認証を認め、年齢制限を緩和し大量にそういう括りで見られる人々を、ただ集めた。集めたはいいがフォローしたり啓蒙することを怠ってきた。肝心のインフラや雇用が未整備で都市型スラムが生成されてしまうのと同じような過程を踏んでしまったんですよね。つまり、大量のライトユーザと若年層が増えることで、全体の質が下がる。それにつけこんだ業者や犯罪も増える。結果的に生活環境はひどくなり、人は減り、世間からも糾弾され最後は存在自体が忘れられるか葬られる。いまじゃマイミク以外に積極的に足跡踏んでくるヤツはMLMとFX勧誘してくる業者かその信者、頭も尻も軽そうなネーチャンの援助募集と相場が決まってますからね。「足跡帳」ってわざわざ作ってあげてるのにただ踏みに来るだけ。この人たちは日本語が不自由なんでしょうか?でも携帯をいじれるくらいの知能はあるようですね(笑)で、そういう連中がガキを相手に営業活動してる。事務局も規約で謳ってるくせに取り締まろうとしないですし。いったいなんのための規約だよ、と灰皿を無闇に叩きつけたくなります(苦笑)
大阪市における弱者救済のための社会政策が、結果的に西成の生活保護率の異常な高さとそれによる市の財政危機を生み出し、さらにはそういう人々をエサにピンハネで懐を肥やす手配師。暴動を煽るプロ市民に麻薬を路上で売るヤクザ。mixiって例えたらそういう場所なんですよいま(苦笑)
「建物の窓が壊れているのを放置すると、誰も注意を払っていないという象徴になり、やがて他の窓もまもなく全て壊される」で有名な割れ窓理論*3というものがありますけども、そっくり当てはまる気がしますね、いまのmixiって。
「誰が見てもすぐ理解できる」
「みんなが参加できる」
それがこの体たらくです。必然的にもっともレベルの低いヤツを基準にしなきゃならないでしょ?それってテレビが衰退した事例と似てませんか?積極的に情報発信する人間がますます減り、ただ受け身なだけの人間が増え続ける。で、登録制ですもんねいま(まだ?)。招待制なくなって。
せめてmixiだけはそうなってほしくなかったですけども。そういうテレビを好んで観る層が大半を占めてしまったいま、それを望むのは贅沢なのかもしれませんね。
そういえば最近GREE真似て?mixiもついにあのアプリとかいうのを実装してしまいましたからね。質より量を、さらに促進しようという方針です。これはもうやばいなと。受け身でつまらない場所にしかもうなりませんよ。こないだも違法な動画アップでお騒がせな事件があった。西成の第○次暴動みたいに報道すらされなくなったらもう潰れますね。mixiはそういう場所なんだって認識されて。いや、もうされてるか(苦笑)もう続けていくのはやばいなとは思ってますけども、惰性でまだやめてません。どうせならその崩壊まで見届けてみたいという悪趣味な視点もありますしね。どんな事件でmixiが壊滅に追い込まれるのか(苦笑)
昔自分がまだ小学生だったか幼稚園だったかの頃、両親と一緒に見ていたテレビ番組に東大生が出ていた。
その頃は勉強なんてよくわかっていなかったから、両親の説明を受けて東大生って神みたいな存在なのではないかと思った。
毎年、日本から3000人ほどしか入れない日本の最高学府(まあ、医学部には難易度では負けることもあるが)である東大のイメージは、
当時の私に鮮烈な印象を与えたことも覚えている。
幸運なことに、私は幼い頃羨望の的でしかなかった東大に入ることができた。
合格発表のときは単純に嬉しかった。
もちろん、他人に自慢できるようなことをやったんだという気持ちもあった。
しかし、入学から半年余り経った今は全く考えが変わってしまった。
中には、努力できるかできないかが大きな問題とかいう人もいるが、
入学してしまったものの立場からすれば、東大生であることは就職で有利になることくらいには何のメリットもない。
私の母は近所のお母さん仲間からうらやましがられるそうだが、実際私自身はどうでもいいと思っている。
東大に入らなくても、私と同じ19歳の時から働いて一人で立派に生活している人もいるし、
そういう人の方がよっぽど自慢できることをしていると思う。
http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20090913/1252836093
私は『女』が非常に苦手だった女です。なぜか物心ついたときから『女の子は怖いもの』と頭の中にインプリンティングされていて、女の子の友達はあまり作らず男の子とばかり遊んでいました。もちろん『女の子として』遊んでもらうのではなく、男の子と対等であると思っていました。
怖い女の子もいる。でもそうでない女の子もいる。その差はどこにあるのか、子供心に考えました。小学校中学年くらいの頃にその答えらしきものは見つかりました。
ある日母と一緒に、何だったかは忘れましたがテレビ番組を見ていました。そのテレビに出てくる女の人が、私がクラスで怖いと思っている女の子と全く同じだと気づいたのです。常にどうやって男子の歓心を買うのか、それに一生懸命になっている人でした。そして自分以外の女子が男子に注目されていたら、ストレートに嫉妬していました。もう滑稽なくらいに。それを正直に母に言いました。「女の人って大人になっても考えが変わらないんだね、この人、クラスの子と同レベルだよ」と。母はこう答えました。
「そりゃそうよ。女は生まれたときから女なんだから」
ニワニュースには、Good/Badを記事に対して投票する機能があるが、1人が複数票投票できるという
クソ仕様のため、工作しほうだいである。だから、気に入らないニュースがあったらBadを入れまくったり、
気に入ったニュースがあったらGoodを入れまくることで、プチ世論統制が出来てしまう。
過去には、アッキーナアンチと思われる人が工作をやらかす事件が何度もあったが、今回も見事にやって
くれましたので、ここに晒します。
アッキーナ3970円衣装で登場 - ニワニュース - ニワンゴ
http://niwango.jp/pc/niwanews/search.php?id=33218
タレントの南明奈が9月8日、低価格カジュアルブランド「g.u.」の、「990円(キュッキュー)」シリーズ秋冬物発表会に、PRキャラクターとして出席。同シリーズ上下3点で、計3970円というリーズナブルな衣装を身に着け、「毎日オシャレを楽しんで」と笑顔でPRした。
現在の評価は
注目して欲しいのはこの異常なBad数の多さ。このBad数を見て、アッキーナって不人気なんだなあと思う人が現れる
ことを狙っているのだろう。だが、あまりにも不自然すぎる。記事内容にはどこにも「Bad」とされるべき内容が見あたらない。
あまりにも酷いのだが、ニワンゴ側がこうした行為を黙認しているようだ。
ちなみに、アッキーナとは、元モデルで幅広い層に支持されている国民的アイドルであり、テレビ番組のレギュラー出演も
たくさん経験してきている。知らない人はほとんどいないと思うが、念のため。ここで、アッキーナ画像を見ることができる。
――やられた。これは何かの間違いだと信じたかった。
端的にいってしまえば、涼宮ハルヒの憂鬱の一エピソードでしかなかった「エンドレスエイト」が、日曜夕方6時半から放映されている。エンドレスエイトは既にテレビ放送という媒体においてはほぼ“独占"といってよいほどの勢いをみせていた。初めはテレビ埼玉の木曜25:30から30分間の枠だけであったが、次第に1時間、2時間と広まり、月、火、水、金と平日深夜のテレビ埼玉は全てがエンドレスエイトになった。
「ついにサザエさんさえやられたか……」
かつては俺と同じく、ハルヒ厨であった友人がつぶやいた。エンドレスエイトの躍進はそこで止まらなかった。U局を支配していったのだ。まずテレビ埼玉からだった。22:00以降のテレビ埼玉は平日休日問わず、すべてエンドレスエイトになった。次に、東京MX。千葉テレビ。この2局は最初30分枠としてしか放映してなかったが、テレビ埼玉と同じように次第に侵略されていった。そしてテレビ埼玉がエンドレス「エンドレスエイト」放映という頃には、京アニはキー局にまでその手を広げた。
意外なことに、初めに崩れたのはNHKだった。はじめは朝のニュースに挿入された1フレームでしかなかった。まるでサブリミナルのように挿入された1フレーム。30分の1秒。それが4日続いた。毎朝。毎朝。5日後、それは木曜日だった。木曜25:30、NHKでエンドレスエイトの放映が始まった。その2日後からNHKで放映される番組はすべてエンドレスエイトに変わった。エンドレスエイトが地上波放送ではじめて放映されてから、ほぼ1年がたっていた。
「長門はもう俺の嫁じゃない……昔のつつましい長門に戻ってくれ……」
俺と同じく、かつてはハルヒ厨だった友人がつぶやく。そうだ、俺たちもかつてはハルヒを愛していた。エンドレスエイトが始まるまでは。何も俺たちに限った話ではなくてアニメを愛していたオタクたち、特にハルヒオタクたちは共有の思いを抱いているだろう。NHKが倒れてからは早かった。日本テレビ、TBS、NHK教育、フジテレビ、テレビ朝日……テレビ番組は全てエンドレスエイトにすげ替えられた。NHKが倒れてから1週間と経っていなかった。しかし、エンドレスエイトと拮抗するただ一つのテレビ局があった……テレビ東京だ。
「ワカメのおぱんつが、小学生のおんなのこのおぱんつ……おぱ……おっぱい……おぱんつ」
テレビ東京は何が起きてもアニメを放映している。他局は緊急放送流しているのにテレビ東京だけは、なんて状況も数多く見たと思う。テレ東は期待を裏切らなかった。もちろんテレビ東京だってノーダメージではない。ほとんど多くの枠がエンドレスエイトに乗っ取られた。しかし、アニメ枠だけは粘った。粘りに粘った。アニメ以外の番組はなくなった。アニメ番組も減った。だが、粘った。戦った。すると呼応するようにフジテレビの、サザエさんが復活した。ちびまるこちゃんが復活した。ドラえもんが、クレヨンしんちゃんが復活した……。そして数多のテレビアニメがその息吹を吹き返した。テレビ東京が奇跡を起こしたのだ。
だが奇跡は長く続かなかった。エンドレスエイトのとってきた次の戦法は、「劇場版」だった。エンドレスエイト劇場版三部作。上映されると同時に、アニメは一息にかき消された。三部作全てが上映された後、残ったのはサザエさんだけだった。
さめざめと泣く友人の気持ちは分かる。もはや二次元のパンティーを眺める機会など無くなってしまったのだろうなという、確信にも似た思い。最後の牙城、サザエさんさえも崩されたか。俺はまさしく絶望した。そして同時に友人の異変にも気づいた。
「ぱんつ! ぱんつ! ぱんつ!」
友人はロリコンでもないし、常日ごろから「パンツを隠さないようなつつしみの無い女は嫌いだ」などとつぶやく変人だった。その彼が下着にこれほど執着するだなんて――。どうか、している。
「おぱんつうう!!!」
友人が俺の両腕を異常に強い力でつかむ。指先から赤黒く染まっていく。まずい。尋常じゃない……。エンドレスエイトは友人の善心を奪い、狂わせている――かまれた。首筋。痛みに苦悶の叫びがもれる。俺は、死ぬのか。
――バーン!
「うっ!」
銃声に友人が倒れる。
「大丈夫かい、君!」
「た、助かりました、あなたは?」
「私はテレビ東京アニメ部門のものだ。これ以上エンドレスエイトをのさぼらせるわけにはいかない」
「……というと?」
「だが、やるしかないのだ。それにわれわれには、ヤマカン様がついてる」
「尊師ヤマカン様……京都アニメーションに対抗できる数少ない人物ではありますが」
「パヤオ、庵野、冨野らがやられた以上、奴らに拮抗できる材料はあまりに少ない。だが、やるならサザエさん攻略で弱っている今だ」
「それでも勝てる見込みは多くはないでしょう……?」
「ああ。だがこれを逃せば、一生訪れないだろう。君、いい目をしてるな。一緒にくるかい?」
「ぜひ。」
1.
昔の日本は士農工商とかだったし、今の海外も、先進国でなくとも文明化しており職業分化が進んでいる国であれば、
職業に貴賎があるのが当たり前。資本主義国家だとブルジョワとプロレタリアートの区別があるし、
それ以外にも貴族と庶民の区別は日本以上に明確。貧民街があったりな。
アメリカなんて行ってみたら分かるが、驚くほど職業差別がある。
なにせ、ILOの定めた雇用平等に関する条約に批准していないのは先進国でもアメリカと日本だけ。
日本の場合は、確かに肉体労働者や風俗などに対する職業差別は存在するが、国民の意識として職業差別がいけないということは皆の了解事項となっている。
2.
こうした、欧米人の持つ差別意識を理解するうえで大切な点は、彼らは生まれつきの才能・素質を認めるという点である。以下、アメリカを例にとる。
素質論と哲学では呼ばれるのだが、日本でも多少は家柄を大切にする風潮はあるものの、さすがに生まれつきアホといった考え方には
大きな抵抗を示す人が大多数である点で、日本では素質論はあまり馴染みがないと言える。
ところが、アメリカでは、宗教的な理由や文化的な理由からか、生まれつきアホという考えはよく行われ、それがいけないことだという意識はあまりない。
また、アメリカ人は自分のことを平気でアホと認めるものである。日本人であれば、馬鹿にされることを嫌うものだが、
アメリカ人の場合はアホであっても人間としての尊厳が失われるわけではないと思うような感性を持っている点で大きな違いがある。
だから、遺伝子研究にしても、アメリカでは「デブの遺伝率は何パーセント」「知能の遺伝率は何パーセント」といった研究が非常にさかんであるし、
そういったことに興味を持つ人が多く、そのことについて人道的な問題を感じる人は少数なのである。
日本であれば、人道的な問題があるから、あまり遺伝率についての関心が低いし、研究結果がでてもあまり注目されない。
さらに、アメリカでは日本と圧倒的な差でIQテストに関する関心が高い。
これはアメリカ人数人がいる場所でIQの話題を出してみれば分かることである。彼らはたちまち食いつき、議論が始まる。
知能集団メンサの会員も、アメリカでは5万人いるのに対し、日本のメンサ会員は300人ほどしかいない。
IQを測るテレビ番組「テスト・ザ・ネイション」も、元はと言えばアメリカの番組であるし、
IQだけでなく、クイズやパズルへの関心も高く、クロスワードパズルが非常にアメリカ人は大好きである。
日本生まれアメリカ育ちの友人が五人ほどいるのだが、そのうち三人はパズル大好きである。
日本でパズル大好きな人間というと、10%もいないのではなかろうか。
既に日付が変わってるが、少し前に晩飯を食ってたらテレビで流れてた。何ともなしに漫然と見ていると、とあるクイズが出題された。
アウトドアで女性に人気のタオルに施してある工夫とは?とかいうやつ。
正解は「フードとしても使える」というものだった。真ん中あたりがフードの形状をしており、首にかけておけばそのまますっぽりと頭が隠れる。
なるほど、日焼けが気になる女性には魅力的な商品なのだろう、と、そう思った。
で、回答者の中の、二人組のお笑い芸人みたいなのの回答が「ワンタッチで濡れタオルになる」というものだった。俺には「?」な理屈だった。
そして次の出題。何千円もする団扇が大人気だという。普通の団扇よりも涼しい風が発生するその理由は何か?というものだった。
正解は「水に濡らして扇ぐ」だった。細かい水の飛沫が顔の辺りにかかって涼しいらしい。
・・・おや?
もしかしてこの芸人、この問題の正解を「タオル」の方に間違えて書いてしまったんじゃないか?
そして次だかその次だかの出題。「鮫(サメ)」という漢字の「つくり」に「交」があてられているのは何故か?というものだった。
まず漫画だが、古い作品では原稿がすでに失われている物もあり、そういう事態を避けるためにもちゃんとした公立のアーカイヴが欲しい。
それと漫画は例えば手塚治虫や楳図かずおなど、単行本を出す度に頻繁に描き変えを行うような漫画家もいるし、過去の作品が復刻される際はかなりぞんざいにセリフの改変などが行われている(そもそも漫画のセリフを表現に問題があるとして改変するのは(たとえ作者が了解してやったとしても)ミケランジェロのダビデ像に後から他人が勝手に割礼を施すような行為だし、ほとんどの場合改変箇所の記述すら無い事からどれだけ漫画が軽く扱われているか分かる)。そういう版の研究・管理もきちんと系統立てて行ってほしい。国会図書館に全て保存されているわけでもないし、そういう研究・管理は大学や在野の研究者が細々と行っているものに任せっきりになってるのが現状だ。
次に映像メディアだが、我が国では黒澤明や内田吐夢のようなドメジャーの超巨匠の作品ですらフィルムが失われた事により(一部、または全部)観ることができない作品が存在するのはよく知られている。映画のフィルムは現在国立のフィルムセンターという機関が保存、研究を行っているが、予算が少なくとても苦しいらしい。
テレビ番組の場合、例えばNHKアーカイブスが知られているが、フィルムとビデオの端境期にビデオで収録された作品は、放映後多くの場合ビデオテープが別の作品で上書きされており(当時のビデオテープは高価だったので受信料を取っている手前再利用した)、視聴者や出演者が家庭用ビデオテープに録画した物などを少しずつ収集・複製・修復してアーカイヴしているのが現状だ。
以上のような原稿、フィルム、ビデオなどの収集、修復、バージョン管理等々は高度な専門知識と膨大な手間がかかるわけだが、専門の職員を大学の専門学科で教育するといったような事から考え始めると莫大な予算がかかる事が予想される。
私は現状でも文化事業(美術館や上述のフィルムセンターや各種公立図書館等々)にいくら税金がかかっているかが国民に詳しく知られたら大反発(こんなに苦しいのに漫画や映画なんかに金をかけるとは何事だ!)を食らうだろうと思っている。その上にさらに金をかけて上述のような機関を作ることが許されるのかどうか分からない。そのような機関は必要だが公立で税金をかけてやることは無いという意見もあるだろう。
二次規制が始まった場合に対峙するであろう最大の敵は警察・政府ではなく、創作物の消費者自身である。
おそらく規制が始まってから、特定作品に存在する、児ポ法違反と思われる表現を糾弾するサイトが雨後のたけのこのように湧き出てくるはずだ。
そのうち予告.inに似た、表現情報の集積サイトも現れるだろう。
その作品を嫌うアンチはそれらのサイトを見ながら、どんな些細なものであろうが片っ端から、例えば未成年女性が短パンで生足を出した格好をしているだけの表現であろうと、
それらの表現に対するクレームを作者に送るであろう。クレームを受けた作者は警察へ通報される事を恐れ、その表現を自主規制せざるを得なくなる。
こうして消費者個人個人が、嫌いな作品内における些細な表現に対する糾弾を繰りかえしていくことで、彼ら自身の手によりじわじわと表現規制が進行して行き、
ついには警察や政府の直接的な介入無しに、サブカルチャー全体が萎縮し、価値の無いものになっていくのである。
テレビ番組が、自主規制につぐ自主規制の流れで、やりたいことができなくなっていった過程と一緒である。
どんな人気作品であっても、その作品を嫌うアンチは少なからず存在する。
漫画等のアンチサイトや掲示板を見れば、執拗に特定作品に粘着し、本当にちょっとした表現であってもパクリだの何だのと無茶苦茶に叩くことを生きがいとしているような者がいることはすぐに分かる。
そういった人々は、二次規制が始まることを嬉々として待っているのではないだろうか。なんといったって、児ポ法違反を糾弾するという大義名分で、嫌いな作品を堂々と叩けるようになるのである。
一般向けゲーム、漫画などでもアンチは存在するので、同様の流れになるのは間違いない。18禁漫画、アニメ等が規制されるだけですまないのは明らかである。
ここを見ている出版社、ゲーム会社、漫画家、同人作者、サイト運営者、その他創作を行う方々は考えてほしい。
「貴方(貴社)の○○における表現は児童ポルノ禁止法に違反するのではないのか」
創作物における、今では何でもないような表現に対し、
言ってることが間違っているわけではないと思うけど、
それを元増田の経験にそのまま当てはめるのはちょっと違うかなーと思った。
大人の自己主張ということにおいては、何でも自分の思い通りになるわけじゃないし、
そのために正当な理由をつける必要があるし、ただ怒ればいいわけじゃないけど。
ただ、子供の時期は、そういうコーピングの技術自体を学ぶ必要があって、
この親はそのための対応ができてないんじゃないかな。
つまり、元増田が「テレビ番組が嫌だ」といったら、「嫌なのはわかったけど、私たちが見たいから」とか、そういう対応によって、
自分の気持ちが最優先されるわけじゃないことを学ぶのであって、感情をただ否定することによってではない。
あなたが言っていることは、対等な位置にある他人とのやり取りの場面では正しいけど、
親と子の場合は、親のほうが明らかに強いし、子供は未熟なんだから、
受容するとか導くってことがある程度でも必要だと思うよ。
もちろん、これから元増田がそういうことをできるようになるには、
ただ親を恨めばいいわけじゃないけど、自信のない人の場合あなたの言うようなことで、
「やっぱり自分が悪いのか」というふうになってしまって、結局解決から遠のくってこともあると思ったので。
親のそういうところがよくなかった、という認識は持って、
ちゃんと怒ったりする技術を身に付けていく、ていう方向でないといけないんじゃないかな。