これ、凄い良い所だったと思うんですけど皆イマイチ言及してない気がします。
ボトルネック奏法での一発逆転は盛り上がりましたし、そこに行く流れとしての「アル中の迷惑客が一番前に陣取って酒瓶を散らかしていた」というシチュエーションが瓢箪から駒の二重構造を産んでいたのも話作りとして緩急があって良かったので話題になるのは当然なんですが。
でもあそこで一番大事なのって「結局ぼっちはこの土壇場でコミュ障が治ったりしない」っていう所で、強烈なインパクトのあるボトルネック奏法はどちらかというとそれを物語に組み込むためのバーター、脱臭のための要素に思えるんですよね。
ぼっち・ざ・ろっくって「ギターを凄い練習したコミュ障の承認欲求モンスターの物語」という設定を裏切ること無く丁寧に進めているから面白いというか、主人公がコミュ障なのを超絶ギター技能を持つ学内ヒエラルキー底辺というスタートを成立にするためだけの「スタートダッシュ台」にしてないのが売りなんですよね。
どんなにバンド仲間と一緒に過ごしても持って生まれた陰キャ性は絶対に失われないっていうのを、物語の都合よりも優先しているからこそ作品にリアリティ(リアルかどうかではなく実在してる感覚があるかの意味)を持って鑑賞できるわけで。
もしもここで「ライブ回なので気合入って後藤ひとりが覚醒して完全無欠になりました」だと物語の作り上げてきた世界観が一気に色褪せていたんだろうなと。
ボトルネック奏法の直前で崩れていく後藤ひとりを結束バンドメンバーがアドリブで間をつなぐ、まさに結束だなーってシーンは#8話にて失敗に終わりかけたライブをギターソロで持ち直させた後藤ひとりに対しての恩返しのような側面もあるんですよね。
でもその両者において後藤ひとりが結束バンドに対して捧げたのは結束というよりも「自分中心の世界になったことで解放されたギターヒーローとしての超絶技巧」によって答えるんですが、これは結局のところ後藤ひとりにとってのベストな状態がアニメ終盤においてもソロプレイであるという事なわけです。
これって要するに#1話の完熟マンゴーの頃からまだ脱皮しきれてない、というか、ここまで来てもこうなら最後までぼっちにとってのベストな状態はギターヒーロー状態の時なんじゃないかという疑念さえ湧いてくるわけです。
そこに追い打ちをかけるように喜多郁代は「皆と合わせるのは得意なのでバッキングが上手くなった」と語っているのがまたなんとも。
つまり、後藤ひとりのぼっち性はバンドをやって仲間ができた所で変化しておらず、陰キャが陰キャとしてバンドに貢献する形は、陽キャのそれとは違った形で現れる、結論としては「陰キャはどこまでいっても陰キャ」が文化祭ライブまでにおけるぼっち・ざ・ろっくのストーリーとなるわけです。
完成品を見てしまうと当たり前に感じるんですけど、作品の中での山場を超えても主人公を「主人公らしい物語を盛り上げやすい人格」に成長(矯正)してしまわないというのは決して簡単じゃないと思うんですよね。
普通だったら分かりやすい盛り上がりの一環として主人公の人格をまるっと陽キャに入れ替えてしまうんじゃないかなと。
でもぼっち・ざ・ろっくはそこに逃げること無く「機材トラブルを言い出すことも出来ずアタフタする」→「仲間が助けてくれる」→「超絶技巧で殴ってきり抜ける」というスタイルを貫き「ギターの上手なコミュ障」のまま主人公に山場を切り抜けさせてるんですよ。
白状すると私はぼっち・ざ・ろっくのことを最初「都合よく性格レベル-100にした主人公を雑に成長させて、性格レベル±0からスタートした時との差分で状況を大きく見せるよくある陰キャの文化盗用」ぐらいに思ってたんですよ。
でも実際に蓋を開けてみると全く違っていて、ぼっちは少なくとも文化祭段階まではほぼ全く変わらずにぼっちなんですね。
特定の性格やそのステレオタイプに対する雑な偏見を組み合わせて物語を作り、そこから雑に成長させて終わらせるのって実際の所、作劇の仕方としては王道とも言えるんですが、それをやると物語が寓話性に飲み込まれてリアリティを失うという欠点があると私は考えています(逆にディズニーなんかは意図的に寓話的な話にすることでリアリティラインをコッソリ下げるのに利用してたりする気もします)。
でもぼっち・ざ・ろっくはそれをやったらおそらく作品として「死ぬ」んですよね。
折角面白いアニメなのに、フィナーレを飾るためという安易な理由で自分から死んじゃうのかなって。
でもそれは単なる杞憂で、実際には貫くべきものを貫くことで守るべきものを守って終わらせたわけです。
いやこれって凄いことですよ。
変な話、大体の作品は途中で勝手に自分から死にがちですからね。
なまじ期待の大きい作品ほどそういう所があるので本当に怖かった。
でもそうじゃなくてよかったなと。
あ、そんだけっす。
成長譚を永遠に続けるために10年も20年も年を取らない小中学生や家族なんかあるのに十話そこそこでキャラクターが変化しないのがすごいっていまどきの感覚なんかね
すきなもんは何でもすごく感じるものなんや