幼児の面会が禁止されている産院だった為、お見舞いに行けなかったヒロコは、サキの退院を心待ちにしていた。
お祝いを手に、ヒロコはサキの家を訪ねた。
「ありがとう。片付いてなくて悪いけど上がって」
サキはほんの少し疲れの見える、けれど元気な笑顔で迎えてくれた。
「わぁ可愛い。ほら、赤ちゃんだよ、ユウ。寝てるから静かにね」
「あとで起きたら抱っこしてあげて。ユウちゃん、お菓子どうぞ」
部屋の隅でミニカーを走らせていたケンタにも声を掛けるが、ケンタは小さく首を振るだけだった。
「ケンタくん。一緒に食べない?」
ヒロコも声を掛けたがケンタは反応しない。
サキは苦笑いしながらコーヒーの入ったカップをヒロコの前に置いた。
ユウにはリンゴジュースだ。
ヒロコが制する間もなく、ユウはお菓子を口に運んでニコニコしている。
「ユウちゃん、慌てて食べると喉に詰まるよ。沢山あるからゆっくり食べてね。…ケンタの事は気にしないで。赤ちゃん返りしちゃったみたいでね、構って欲しいくせにずっとああやって拗ねてるの。ねー?赤ちゃんケンタちゃーん?」
サキがからかうように声を投げるとケンタは口をへの字に曲げてテーブルにお尻を向けた。
「ね?退院してからずっとこう。もうお兄ちゃんになったんだからそんなに甘えられても困るんだよねぇ。私だって赤ちゃんで手一杯なのに。放っておいていいよ。お腹が空いたら勝手に食べるから」
ふぇぇ…と新生児独特の小さな、けれども弱々しくはない泣き声が耳に届く。
ユウが反応して振り向いた。
「あかちゃ!ないてう!」
「赤ちゃんて泣き声も可愛いね。もうユウなんて泣いてもうるさいだけだもん」
抱っこしていい?とサキに確認して、ヒロコは赤ん坊を抱き上げた。
軽い。
ヒロコが頬をつつくと赤ん坊はきゅっと目を瞑り、口が緩やかに開いた。
生理的微笑だ。
ヒロコの頬も緩む。
「じゃあもう1人産めばいいじゃない」
サキがヒロコの脇を小突く。
「欲しいけどこればっかりはね」
ヒロコは苦笑いして上を見上げた。
「私の事を選んでくれる赤ちゃんいないかな~。降りてきて~!なんちゃって」
「今、空から見てるかもよ~」
その時ケンタがポツリと言った。
「赤ちゃんなんて嫌い」
サキが溜め息を吐いた。
「またそんな事言って…。ケンタ、ママが大変なのは見てわかるでしょう?お兄ちゃんらしくして欲しいな。ね?ママを困らせないで」
「まぁまぁ、ケンタくんも寂しいんだよ」
リビングの気まずくなった空気を和ませようとヒロコは明るい声を上げた。
「ケンタくん、知ってる?赤ちゃんて、ママを選んで産まれて来るんだよ。きっとこの赤ちゃんもケンタくんとケンタくんのママに会いたくて産まれて来たんだよ。ケンタくんだってそうだったでしょう?」
「そんなのしらない」
ケンタはふてくされた顔で横を向いた。
「忘れちゃってるだけなんだよ。ケンタくんだって赤ちゃんが産まれることまで空の上でわかってて今のママの所に来たんだよ。ユウはちゃんとママを選んで来たって覚えてるもんね?」
ヒロコがユウを振り向くとユウは急に自分に話を向けられた事にきょとんとしていた。
「ユウ、ママを選んで来たの、覚えてるよね?」
ヒロコに重ねて問われ、ユウはやっと頷いた。
「おそらのおじいちゃん」
「ええ?ユウちゃん覚えてるの?」
サキが驚きの声を上げた。
「そうなのよ」
「あの絵本を読んでたらね、ユウもここにいたって言い出したの。空の上から見てたって…」
サキが感嘆の息を吐いた。
「凄い…。本当に覚えてる子っているのね」
「私も驚いちゃって」
ヒロコも深く頷く。
「いいなぁ。ケンタなんか全然知らないって言うし、さっきもあんな事言うでしょ?この子には産まれる前の事を覚えておいて欲しいなぁ」
ケンタはそんな会話など聞こえないかのように部屋の隅でまた1人遊びに戻っている。
──
ひとしきり話した後、新生児のいる家に長居しては悪いと、ヒロコは腰を上げた。
「さ、ユウ、行こうか」
辺りに散らかったおもちゃを片付けながら声をかけると、ユウは口をへの字に曲げて手にしたおもちゃに力を込めた。
帰りたくないと言う意思表示だ。
ヒロコはつかつかとユウの側へ寄り、おもちゃを取り上げると箱へ戻す。
「やぁだぁ~!!」
ユウがわぁんと声を上げた瞬間、ヒロコはその頬を迷いなく叩いた。
パチンッと言う乾いた音が響き、ケンタがハッと顔を上げた。
サキも「え…」と声を漏らす。
叩かれた痛みに更に泣き声を大きくするユウをヒロコはぎゅっと抱き上げる。
「ユウ。痛かったよね。ごめんね。でもママの手も痛かったんだよ。ママだって嫌だけどユウがワガママ言うから仕方なく叩いてるの。わかるよね?ユウも叩かれたくないでしょう?」
ゆっくりと低く、含むように諭すヒロコ。ユウは涙目を開いて、うん、と頷いた。
「わかったね。じゃあ帰ろうか。」
「うん」
掛ける言葉が見付からず目を泳がせているサキににこりと笑うヒロコ。
「驚かせてごめん。最近は私も我慢しないで正直に怒ることにしてるの。叩くのはよくないけどちゃんと理由もあるし、説明すればユウも今みたいわかってくれるから」
「そ、そっか。うん、いきなりだからびっくりしたよ…」
「ちゃんと愛を持ってやることは子供にも伝わってるんだよってあの作家さんも言ってたから大丈夫」
ヒロコの自信に溢れた顔を見て、サキはふっと息を抜いた。
「ヒロコ、変わったね。この前来たときは凄く疲れてたから心配だったけど、ちょっと安心した。しっかり考えて育児出来てるの偉いよ!私も頑張らないとって思った」
「色々ありがとうね。サキが話聞いてくれたおかげだよ。また辛いときは頼っていい?」
サキは「もちろん」と応じた。
ヒロコはユウの手をギュッと握り、その暖かさを噛み締めながら帰路に着いた。
──
それから数ヶ月、目に見えてユウのイタズラは減っていた。
いや、ヒロコの意識が変わった事でイタズラが以前ほど気にならなくなったのかも知れない。
自分は背負い過ぎていたのだと気付いて、ユウへの接し方を変えてから育児がうまくいっていると感じていた。
ヒロコがそんな物思いに耽っていると洗面所の方から不穏な物音が聞こえた。
ふと見るとさっきまで目の前にいたはずのユウの姿が消えている。
ヒロコは溜め息を吐きながら洗面所へと向かった。
一体何をどうしたのか、ユウは洗面台の前に出来た水溜まりにびしょ濡れで座り込んでいたのだ。
「ユウは本当に悪い子だね…」
ヒロコが声を掛けるとユウはびくりと体を震わせた。
ヒロコは躊躇いなくその頬に手をあげる。
ヒィン…と小さな声を漏らしたユウの瞳から涙がポロポロと零れた。
「ユウはママに叩かれたくて生まれてきたのかな。ユウのせいでママの手が痛くなっちゃった」
「ママ…ごめんしゃい…」
か細い声でしゃくりあげながらユウはヒロコを見上げる。
ヒロコはため息を吐いてユウの前にしゃがみこんだ。
「ママは、ユウがママを選んでくれた事、本当に嬉しいんだよ。だからがっかりさせないで。ちゃんとママの事喜ばせてっていつも言ってるでしょう?」
ヒロコが諭すように言うとユウはこくりと頷いた。
ほら、怒鳴る必要なんかない。心で話せば子供に伝わるんだ、とヒロコは実感していた。
「ユウはママの事嫌いなの?」
「すき…ママのこと、すき…」
ユウは絞り上げるように言葉を紡ぐ。
ヒロコはにっこりと微笑んだ。
「よかった。ママもユウが大好きよ。じゃあ一緒にお片付けしようか」
ヒロコはユウの肩を抱き寄せた。
手が触れる瞬間、ユウの体が硬直したように感じたのは水に濡れた寒さからだろう。
ヒロコはいそいそとユウの着替えを用意した。
このくらいの悪戯なんて何でもない。子供のしたことをいちいち怒鳴っても仕方無いんだから。
ヒロコは余裕を持ってそう思える自分に満足していた。
子供に愛され、子供を愛する事はなんて素晴らしいんだろうと満ち足りていた。
ヒロコは幸せだった。
~完~
前半はこちら↓
「またやっちゃった…」 ヒロコは苛立ちと罪悪感でいっぱいになった胸を抑えて深く溜め息を付いた。 間も無く3歳になる娘のユウが赤くなったあどけない頬をめいっぱい歪ませて泣き...
再投稿は甘え ついでにステマも甘え
あれだ、このあとママはおばけになって一件落着するやつだ。
あー、やっぱ元ネタはのぶみか
多分子供に選ばれた母は子供に何をしても正解なのだって思い込んだママがはちゃめちゃになって、最後におばけになってハッピーエンドになるんじゃないか
ネタバレ禁止 予想発表も禁止