ポリコレという概念は人権保護やら道徳やらとだいたい同じでありまして、本来ポリコレは異性愛者男性キモオタのことも守ってくれるのだ、というのは全く正しい。
オタクだって人間だもの。貧しい人や学のない人も人間だもの。人権やポリコレはあまねく守ってくださる。本当なら。
しかし現状を見ると、ペドフィリアをセクシャルマイノリティに含めてくれという論の旗色の悪さとか、メンズリブやマスキュリズムの低調さが象徴するように、今のところオタクはポリコレを積極的に利用しづらい。
ポリコレはいわばオタクも装備できる武器であり防具なはずなのだが、どこで失敗したのか、オタクの手には馴染まないようにチューニングされてしまっている。
全く使えないとは言わない。ポリコレによる恩恵を一切受けていないとは思わない。たとえば「ポリコレってオタクジャンルに対して妙に厳しすぎるだろ」という反論は、オタク側が「不当な差別はよくない」というポリコレを使っている例だ。
しかしどうも効果はいまひとつで、このポリコレってのを自分たちのために利用しきれてないんだよなという感じが漂う。
理想的解決策としては、オタクもポリコレ肯定を前提とした議論に参加し、ポリコレの用いられ方を自分たちも使いやすいように改善していけばよいのだろう。
だが、建設的議論というのは多くの人にとって負担でとても面倒なものであり、まして既にアウェー状態なリングに上がるほどの意欲を持てというのは困難な話だ。
「話し合いましょう、根気強く丁寧に、色々調べて、難しいことを悩んで、広く長い視野を持って、傷つくこともあるだろうけど我慢して、感情的不快感などは冷静さのフィルターを通して、ひとつずつ物事を善くするため考えていきましょう」
そんな誘い、よっぽど能力や気力や体力や適性や時間や意欲のある人間しか応じない。
そこまでして、ポリコレという手に馴染まない装備を自分も使えるようチューニングしたがるオタクはあんまりいない。
それはまあ、ポリコレを使いこなせるようになればとても便利で強力であろう。
だから長期的な視点で見れば、苦労しつつもポリコレ議論に向き合い、オタクの立場を守るポリコレの運用方法を確立させるのが良手だ。
でもやらねえ! めんどいから! 長期的な視点より今の快楽を貪ることで精いっぱいだよ! おれっちバカだから!
自分は使いこなせないのに他グループが活用する装備なんだったら、ポリコレなんてまるきり否定してやるぜ!
もしも将来ポリコレが本当になくなったらオタクも困るんだろうな。
でも知らねえ! おれっちバカだから! 将来のことを考えるなんてダルいぜ!
生きるってのはだいたいの人間にとってストレスまみれでいっぱいいっぱいだから、その上に正しさを気にしろ、将来にも目を向けろなんてのは要求しすぎだ。それでも正しさに殉じられる人たちがいるのは不思議なことだが、誰もがそれをするのはムリ。
求めているのは正しさなんかじゃない、今の苦痛を一瞬でも誤魔化す気持ちよさ。
なのに正しさで説得しようとされても耳を傾ける気にはならない。気持ちよくしてくれなきゃ。
刹那快楽主義の未来は暗いとは思うけど他に憂き世に効く麻酔がないからしゃーない。
ポリコレは原理的には異性愛者男性オタクも守るものだけど、実際は異性愛者男性オタクが援用しづらい状態になっている。
しかしポリコレ用法を改善していく面倒な議論に参加するモチベーションは抱きづらいので、ポリコレ自体を攻撃する動きが大きくなるのも仕方がない。
ちなみに
異性愛者男性オタク、キモオタ、オタク、などの言葉が混在してるけど、明確な使い分けをしているわけではない。
女オタや同性愛者オタクでもポリコレの加護の薄さに悩んでいる人もいるだろうなと思う反面、「オタク」と呼ぶとポリコレの加護を実感している人も含んでしまいそうだと考えたので、複数の呼び方をしてお茶を濁しただけ。なんならオタクである必要もないので、ポリコレの恩恵が薄いと感じている人は自分を当てはめてください。
どこが正しいんだよバーカ