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2021-06-22

なぜVivyは評価割れたのか?

追記みたいなもんです。ほぼ自己満です。

感情移入はなぜ阻害されたのか

この作品の作者は基本的にはタイムリープと人の人生を変える、救うという組み立てを使いたがります。この起源を求めると際限がなくなりますが、とりあえずのところ『シュタインズ・ゲート』に求めることができると思います。多くのタイムリープものが変えることによって世界悪化させるのではなく、変えることによって人々を救うという物語になりがちです。そして、この究極的な選択がすべての人間を救う、という選択肢でした。この前例として宮崎駿の『風の谷のナウシカ』などが思い浮かびますが、宮崎駿自身が悩んで重苦しくなったテーマをそうそう扱えるはずもありません。聖女が一人で世界を背負う、その行く末に待ち受けるのは、聖女自己犠牲にほかならないからです。実際作品はVivyの犠牲によって世界が救われています。ちなみに宮崎駿はこの悲劇的な終末を原作映画ともに避けていますナウシカは戦う女であると同時に、正常な自尊感情他者尊重感情が成長によって獲得された人物であるという立場からだとは思います)。

世界のすべてを救うというテーマの割に、Vivy自身が「心を込めて歌う」ことに最後まで躊躇があった、あるいは無理解があったという点で感情移入ファクター一つが阻害されました。彼女あくまでも人間に近いなにかであったという点で突き放されてしまったのです。第二に、視聴者に伝えるべき人物ダイジェスト扱いだった点が挙げられます。早々と空港で爆死してしまモモカ、長い人生の経過を博物館とのやり取りで済ませてしまうVivyとマツモト博士(以下、オサム)。特にオサムに至ってはうディーヴァとして保管されていたVivyに恋愛感情を懐き、やがて悩みの時期に入ると母代わりになり、そして自身も伴侶を得ると良き人生相談相手となる非常に重要役割を持った人物でした。しかし肝心のオサム登場回は二~三話程度です。実際のところ作者がどう泣いてほしかったのかといえば、このもっともVivyを愛している人物事実上自死強要し、またオサムのなすべき全AIの停止を命じなければならなかったところです。二者択一の苦しみの中にオサムはあったということですね。しかしこれはあまり上手に伝わっていません。個人的別所24構成にすれば解決しただろうと書きましたが、おそらく根本的にそういう問題ではありません。

AIによるAIのための物語

この話はいくつかの構造を所持しています

  1. AIと人との物語
  2. AIAI物語
  3. AI世界物語

この内メインとなっているのはエステラやオフィーリアといったAIAIのあり方に関するものです。これはいわゆるSF的な考察ではなく、人物相関として見るべきものです。AIAIが関わるシーンが多いにも関わらず、Vivyはその他の人間も救おうとしています。こうなるとどうなるかといえば、人間同類AI感情殆どが持ってゆかれ、かつ最重要人物のオサムのエピソードが不十分になるばかりか、トァクの背後も語りきれなくなる、ということです。しかし作者的にはAIインフラ以上になってしまった世界を描きたかった節も感じられます。でなければAIAI関係性をメインにもってきません。そればかりかAIを狂わせ、利用しておかし世界にしているのは人間であるという業も人間側に押し付けています。これはつまりAIという善悪を取り払った像から人間という醜くも美しい存在を浮彫にしたかった、という心象が背景にあると見てよいと思います

どうすべきだったか

この場合AIAI物語である、という構造を減らして、人間AIの関わりを増やすべきでした。なぜならVivyは最後最後まで歌うことに対して逡巡していましたし、人間AI関係のみならAI敵対する人間、支持する人間、利用しようとする人間という様々な角度がより深く追求できたはずです。さらには人間との関係性や対話が濃密であればあるほど視聴者はVivyの成長も理解できるようになります

なぜVivyはフリーズしたのか

Vivyは物語の中である絶望感に襲われて、具体的には冴木教授の自殺によって一度フリーズします。この現象は上述の項目にかかっています。すなわちVivyはAI対人という構造で人を救いたかったわけではなく、全人類及びAIすら本心では救いたかった、というものです(他所ではモモカの死が重なったされていますが、話の根幹から切り取ると作品意図としてこうなる、という話です)。Vivyは常々手の届く範囲は全て救おうとする存在でした。したがってVivyは無機質な感情を持つアーカイブのみが理解できない存在であり、その他のシンギュラリティを達成しているAIに関しては人間と同様の扱いに終止していました。これは作者の意図によるところです。作者は最初からVivyを聖女に仕立て上げたかったわけで、大きな風呂敷の中で終盤を終わらせるつもりだったはずです。その中身こそが「全てを救いたい」というリゼロでは成立しにくかったテーマです。もっとも結果として人間選択してAIを切り捨てていますが、この辺への苦言は終盤にてナビがフォローしています

どう調整すべきか

前述の人間AIという構図を増やし、全てを救うのではなく苦渋の決断AIを停止させるという感情面の描写がより鮮明に描かれるべきでした。これは本来オフィーリアとアントニオ事件ときに行われるべきでしたが、彼らの背後には柿谷が関わっていたため、純粋AI悲劇を描きにくかったように思えます。結局AIAIという構図を減らしてワンクールで収めるべきでした。

実はメッセージ的にはやれることはやっています。例えば先程の人間の業故にAIは悪にもあるし善にもなる。それを処断すべき存在アーカイブであったという話、オサムが二者択一及び悲劇的な立場にあったという話。AI反対派の柿谷がやがて孫の代になってVivyと協力するという大河ドラマも盛り込んでいます聖女であるVivyがその使命を最後までブレずにまっとうするという面も全てです。むしろ盛り込み過ぎと言うべきでしょう。しかし逆に言います12~13話は約5時間ですので、映画一本分と思えばやれないこともないはずです。ではどうすればよいかといえば、感情表現をすべてセリフで済まそうとするのではなく、シーンで伝えきる技術をより先鋭化すべきかと考えます。僅かな感情のやり取りだけ、沈黙だけで意図理解できるようにすべき、ということです。もっともこれは監督仕事ですが。

付け加えるなら

Vivyがあまりにも完全無欠の善人として描かれすぎているように思います。この時代AIは少なくともシスターズに至っては人間レベルですから人間のように不義に逆上する場面があり、その過ちを反省する未熟さもあってしかるべきです。こうした人間的深みの一部がVivyから欠落しているがゆえに感情移入の一つを失ったことは、すでに前出で言及しています

もうひとりの脚本家、梅原英司

ゼロローリングガールズだけ知ってますが、たしかに関わったものを見るとサスペンス系が多いように思えます。かみ合わせ的にどうだったんでしょうか。脚本本数が少ないのでこれからなんでしょう。

おまけ:なぜ『ゴジラ S.P <シンギュラポイント>』は評価割れたのか。

SFサスペンスとしてSF屁理屈言い訳物語を紐解く推理として捉えられる層と、物語全体の展開を見る層、キャラ萌えする層、旧来のファン層に分かれちゃったからです。わたしは上から二番目です。

いいんですよ。怪獣四次元から投射されてるとか特異点自体計算機になる理屈があっても。でもそれメインだと映像では厳しい。そこがすべての人は超楽しかっという。でも楽しんだ観点も間違ってないと思ってます。楽しかった感情までどうこうできる権利もないので。

 
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