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2019-10-27

anond:20191027074054

そもそも性的消費」という概念で殴りつけられるのは、どこまでか? を少し考察してみよう。

たとえば、昔あった「ビール広告水着女性」が×となったのは、単に女性飲酒率が上がったためでもあるが、表向きの理由としてある程度の正当性があると言えるのは「海水浴場プール以外の場では通常水着を着ない」というコンセンサスがあるからだ。街中のビール広告水着を着た女性がこれを宣伝しているというのは、「性的服装ヘテロ男性の注目を集めるため」以外の理由見出しづらい。一応明らかに性的消費」だと言える。――(1)

では、「性的ものを強調した服装」はどうだろうか。古くはアンナミラーズ、あるいはHOOTERSといった店は店内ならともかく、街中の服装として適切とは言えない。これらが、その制服を前面に出した広告デカデカと駅に張り出したら一定数の人々からクレームが来るだろうことは想像に難くない。その意味では、これらもまた「性的消費」であることにはそれほど異論が無いと考えられる。――(2)

では、「セクシーアイドル」はどうだろうか。いや、そもそも大なり小なり「セクシー」でないアイドルなど存在しないという意味では、あらゆる「アイドル」を利用したポスターの是非は?(たとえばhttps://www.watch2chan.com/archives/20190615092712.html) またそのアイドルは男女問わないとしたらどうか? あるいはアイドルではあるがアニメ絵アイドルならどうなのか? このあたりについてクレームを付ける人は実際そう多くない(からこんなのがあるのだろうhttps://www.walkerplus.com/article/166328/)かなり減ると推測できるが、これもまた「性的な興味で広く注目を集める」以外の理由見出しづらいという意味で、まさしく「性的に消費」の実例なのだが、なぜかそれほどクレームが来ない。実際、先の乃木坂ポスターは「実は彼女らが一人も献血したことなかった」という理由炎上したわけで、彼女らに求められていたのは必然性ではなく「性的な魅力」であったに過ぎない。――(3)

では、「一般的には普通表現だが、記号的に一部の特定層に性的に受けとめられることを期待した」ポスターならどうか。たとえば制服女子メイドさん服装、などがそれに相当するだろう。

制服女性は若々しさ、凜々しさ、清々しさを表現するためのものであり…」とか「萌え性的ものではなく…」とかそういう御託は全部嘘だ。むしろ「マズいな」と思っているからそんな言い訳が出てくるので、これも一般的には批判されない/されにくいが、一部では燃えることがあることは実証されている。(もはや人間ですらなく、メイドらしい恰好をしたロボット表象が叩かれた例https://www.huffingtonpost.jp/2014/03/04/jinko-chino_n_4900699.html)ただし、これを「性的消費」という文脈で叩くのは難しいので、一般には「学生にこんなことを」とか「ジェンダー固定化懸念がある」とかそういう文脈を用いて叩く。これを混ぜこむのが混乱の原因というのが元増田の主張でその指摘は理解できるが、批判者はむしろそこを混ぜるところに意図があるのである。――(4)


それから、「表現者や対象には明らかにその意図がないかあっても薄いが、そう見られる可能性を排除できないもの」はどうだろうか。(例:ある公的ポスターコンクールの作例 https://twitter.com/abo_saitama/status/1023415216208470018 )この作者に性的デザインをしたという意図は全く無いだろうが、明らかに構図は胸を強調しているし、いわゆる「乳袋表現すらある。世にある(セクシーな)漫画記号表現デザイン、構図を踏襲したこと、そして、無意識下の「こういうのが受けるだろうな」というイメージが影響したと想像される。…そんなことを述べると一般人的には「?」となるが、学者意見を述べるのがこういう対象である時代の中で生きている我々は、同時代の様々なイメージの中で、日々ソレを呼吸しながら自分を形作り、つまり時代内面化〉している。そのように個々人やその表現内面化された表象分析するのは学問分野の領域であるし、「一般人には分からないが学問的に危険性が明らかなモノ」に対して警鐘を鳴らすのは、文系理系わず学問に期待される役割だ。ただ、学者意見が正しいとしても、それを規制することに社会的合意が得られるまでには段階が必要で、いきなり規制するのは乱暴である。――(5)

最後に、思考実験として二つの例を挙げたい。ひとつは「まいてつ×くま川鉄道事件鉄道ネタにしたエロゲを作っていたエロゲメーカー地元鉄道会社に善意で「そのキャラ差分」みたいな画像キャンペーン用に提供した(普通に着衣の絵)ことが大問題となり取り下げさせられたケース。(https://togetter.com/li/1031033)。もう一つは、「セーラー服少女が、ボロボロになり、へその間際や太ももが丸見えのセクシーな姿になった画像献血ポスターに使ったが全く問題視されていないケース」(https://eiga.com/news/20120528/10/) これらの線引きに対して「主観」以外の適切な理由が見いだせるだろうか? そして、主観以外の理由が見いだせないようなルールを作り運用するような状況で、表現は本当に萎縮しないか? 多少厳しくても合意が得られたルールが明確な基準運用されていれば、表現はそれほど萎縮しないどころか工夫を凝らして隆盛しさえするだろう。だが、曖昧ルール曖昧運用される状況というのは、過剰な自粛が進み、結果的表現の衰退を招く。

いま本当に必要なのは、上で挙げた(1)~(5)のような例のどれを許しどれを許さないのか、その明白な根拠は何か、をしっかりと論じることだと思う。戦後猥褻表現の自由を論じて争われた「チャタレイ夫人の恋人事件では、弁護側が「文学性」とは何か、「わいせつ」とは一体何か、ということを定義するため客観的データを示して懸命に論陣を張ったにもかかわらず、規制を主張した側が極めて感情的主観的に「明らかに猥褻」、「超弩級猥褻」といった無茶苦茶な陳述で切って捨てたため、結局、何の議論の深まりも得られなかった。(そしてもっと猥褻もの普通社会流通していた。)昨今のいくつかの表現に対する「明らかにエロい」といった極めて感情的告発は、残念ながら、魔女狩りにも似たこのような表現規制過去彷彿とさせる。

 
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