はてなキーワード: 脳科学とは
いう切実な問題とともに、人生を見つめなおす必要がでてきた。
年も若くない。31になった今後どうやって生きてくんだ。
三連休、寂しさもあいまって鬱々とした気分でいる。
重ねて、心が明るくなるようなビジョンが出てこない。
熱い志しを語っていた。
すげぇよ。すげぇビジョンだ。でも、あんたにしか描けない。
何も積み重ねてこれてない、自分には当然、そんな
ビジョンなんて描けない。
ことができない。
でも、一般ピープルが「事を成す」ことなんてできるのか?
その人のサイズにあった「事を成す」でいいのかもしれないけど、
俺になんかできるのか?
・人を救うような革命は起こせない。
・人の生活を便利にするような革命を起こすことができない。
がんばれば、近所のおばあちゃん達の介護を頑張って
人の役にたつことができるかもしれないけど、
もう一つテンションがあがらない。
幸せな家庭を築いて、まぁ楽しく生きるのが積の山か。。
立派な人が語る、人生の熱さとは無縁の生活だ。。
むなしいぜ、俺の人生。
しょうもない映画を最後まで見てもしょうがない、
前半の20分でやめときゃよかったという糞映画。
・そんな中、いろいろ考えてた時に思いついたことが、
少々、ハイになってきた。
それは、日常の中で「ヒーハー」を求めて生きるということ。
「ヒーハー」とは、ブラックマヨネーズ小杉がテンションあがった
ドット出る。
自分の生活でも、心の中で「ヒーーーハーー」が適切な瞬間がいくつも
あの体験が「ヒーーーハーー」だ。
「ヒーハーー」が起こるには、2パターンある。
自分にとっては快な状況になり「ヒーーハーーー!」
いつ勃発するかわからない。
もう一つは、偶発的ではなく、
自分から発動できる「ヒーーハーーー!」だ。
それは、少し挑戦的な事柄をやり遂げたときに「ヒーハー!」が
発動する。
「自分ができなかったことができると、脳内でドーパミンが放出され、
強化学習が成立する。」ってやつ。
フロー理論でいうところの、自分が能動的な姿勢で、自分の能力を駆使して、
感じるというのにも繋がる。
日常のなかで、この「ヒーハー」を求めて行動するようにする。
「ヒーハー中心の生活」を目指す。
「ヒーハー」が多い人生はきっと実り豊かな人生なんでないかな。
結果としておもろいものになっているのでは?
さて、僕は女の人のコミュニケーションが苦手でコンプレックスでも
あるのだけど、「ヒーハー」の視点から見れば、そこには
埋蔵されまくっていることになる。
TO BE HeaaaaaaHA!!!!!!!!
■「はてな」では、まことしなやかに「統合失調症」といわれている集団ストーカー(ガスライティング)。
果たして、本当に嘘なんでしょうかね?
内情を知ってる人も、アンタッチャブルなものだから、腫れものに触るように接してるだけでは?(むしろ触らずというか)
■私を庇う仕草を見せた人が逮捕されたりとかあったしね。
「被害者」のブログを読んでたら、被害者・加害者とも殺された(らしき)人もいるらしい。
だから、やってる人も、必死なのかなとも思うけど。
■確かに、ヘリコプターだとか、爆音鳴らして走り去るバイクだとか、ぞろめナンバーの車だとか、道行く人の咳払いだとか、クラクションだとか、延々と続く「左に曲がります、ご注意ください」だとか、ガンつけられたりだとか、通りごとに走ってる古物回収車だとか、そんなものは実害がないから無視すればいいと思う。
でも、配達される郵便物や荷物がもれなく破損していても業者に話しても取り合ってもらえないとか、周囲にありもしない噂を流されるとか、住居侵入の痕跡とか、クラッキングの痕跡とか、生活に実害がでてくるとちょっと見逃せなくなる。
集団ストーカー被害しか受けない人もいるけど、発展するといわゆるテクノロジー犯罪になって、実際に幻聴みたいなのが聞こえてきたり、身体に傷みを感じたりするらしい。
(テクノロジー犯罪にあっている人は、かならず初期には集団ストーカーを経験しているらしい)
■犯人論については、いろいろある。
某宗教団体。公安や警察(国)。在日など、朝鮮関係者。果てはユダヤ・イルミナティー・サンヘドリン(!?)。
当初はインターネット上では公安という説が多かったようだけど、最近の流行は某宗教団体のよう。
■そして、いちばん一般の人には疑問に思われているとおぼしき、資金源について。
リストラストーカー以外はまだ納得できる説は見つからないけど、近年ものすごい勢いで発展した脳科学分野での人体実験だとか、宗教団体が団結するためのスケープゴート(いじめ対象)だとか、某国で被害者に保険金をかけて気づかれないようじわじわ殺害する保険金殺人だとか(まぐろ漁船みたいな?)、国の諜報機関によるスパイの演習だとか。
頭の弱い私には、わからないですけどね。なにかあるんでしょう、メリットが。
■インターネット上では、集団ストーカーについて記し始めると、「統合失調症」扱いする人たちが湧いてくる。
まぁそもそも、統合失調症というのは元々国とかにとって都合の悪い人たちに貼るレッテルでもあったので、使い方として間違ってはいないのだろうけど。
(でも、病院行っても治りませんよ。世の中の仕組みとは、「集団ストーカー」という病気は病院に行けば治るものなのか、と無理やり行った病院で、精神科医に「もっとお金持ちの人にすればいいのにね~」「お薬ださなきゃいけないんだよね~、うーん」とか言われましたし。ついでに、被害者の方は薬飲んじゃだめ。廃人になるよ)
統合失調症扱いが効かないなら、偽被害者扱いして仲間割れを狙う人も湧いてくる。
そもそも、集団ストーカーがそもそもありえないものなら、わざわざお節介にそんな人湧いてきますかね。大量に(ご苦労様です、なんだか)。
■まぁ、インターネット上で被害を訴えている人も、もっと冷静に論理的に訴えればいいのにとは思う。
たとえば仕事の場だったら、提案するときは何らかの根拠を示すだろうし(伝えるためのテクニックも使うだろうし)。それをなしに思い込みで決めつけて、例えば犯人論など言ってるだけでは、信じてもらえっこない。
集団ストーカーやテクノロジー犯罪被害にあって、訳わからないことばかり起こって辛いのはよく分かるけど、もっと論理的に証拠集めして示してほしい。
・・・そんなことができる人は、さっさとチョメチョメされるのかもしらんけどね。
・・・というか、残ってられてる人は、信憑性のない情報をばらまいてくれる人たちだとしたら。怖。
From Creating Passionate Users
By Kathy Sierra
私はTwitterが怖い。これだけ人気があるサービスだけれど、私は少なくとも三つの問題点を見て取れる: 1)Twitterは心理学にいう「間欠的不規則報酬」のほとんど完璧な実例である。これはスロットマシンが人を惹きつける仕組みと同じ。 2)Twitterを使うことで得られる強力な「人とつながっている感覚」は、脳を騙して「何か有意義な社会的交流を行っている」と思わせてしまいうる。その一方で、脳の別の(古い)部分では、そこに人間の生存にとって重大な何かが欠けていると「分かっている」 3)Twitterは「常時マルチタスク状態」の問題を悪化させる要因の一つであるーーもしかしたら他のものよりもっと強力かもしれない。Twitterをしながら(もちろん、emailでもチャットでも同じ)、深く考え込んだり、フローの状態に入ったりすることはできない。
[注意: 私はこの問題について本当に少数派みたいで...ほとんど100人中99人がTwitterを支持している状態だから、たぶん私が間違っているのでしょうね(でもとりあえず書いてみるけど)。それと、この記事の大部分は、関係するテーマについて私が書いた様々な記事を混ぜ合わせて作ったものです]
この三点についてもっと詳しく見てみましょう:
スキナーの発見の中でも最も重要なものの一つは、間欠的に強化された行動は(継続的に強化されたものとの対比において)、最も消えにくいということだ。言い換えると、間欠的な報酬は予測可能な報酬より優れているのだ。これは大抵の動物トレーニングの基礎となっていて……人間にも応用が効く。スロットマシンがあんなに人の心に訴えるのはそのためで、別に中毒にならずともこのことに気がつくことはできる。
テクノ心理学者のパトリシア・ウォレスは〔中略〕Emailがーー十代の子供のみならず成人に対してもーー持つ魅力の一部はスロットマシンの持つ魅力に似たものだと主張している。「間欠的変動強化を受けているのです」とウォレスは説明する。「毎回報酬をもらえるのか、またどれくらい頻繁にもらえるのかがはっきりと分からないがゆえに、ハンドルを引き続けるのです」
多くの人にとってTwitterの最大のメリットは、他の人とよりつながっていると感じられることにあるようだ。カーソン・システムズのリサは、Twitterを擁護するテラ・ハントの記事へのコメントの中で、これを次のように表現している。
「Twitterは友達の感情や地理的な場所、動作を記録することによって〔中略〕このギャップを生めてくれる。まるで私たちが本当にそこにいるみたいにね。このおかげで『本当に』つながっているって感じになるの」
これは本当に良いことなのだろうか?
おそらく、答えはイエスなのでしょう。たぶん、ほとんどの人にとっては。けれど、「人とつながっているということは常に良いことだ」という反射的な回答は批判的に検討してみる価値はあると思う。UCSFの神経生物学者であるThomas Lewisさんは、「注意しないと、たとえ実際はそうでない場合であっても、人は脳の一部を騙してーーはるか昔より人の生存にとって不可欠なものであるーー本当の社会的交流を行っていると思わせてしまう」と主張している。これは不快な(しかし無意識の)認知的不合致、つまり脳が必要だと思っているものを取っているのだけど、「科学的に完全に分かっているわけではないけど、おそらく嗅いで感じられる何か」を満たすには足りないという状態につながる。彼はこれをTwitterについて言ったわけじゃないけど……Conference on World Affairsで彼の講演を聞いた時には、emailやチャット、さらにはテレビにまで言及していた(脳は「人々」を見ていると認識して、社会的関係を持っているに違いないと考える(GOOD)、けどそこには何かが欠けているとも気がついている(BAD))
Lewis先生はとても多くの研究を引いていたけど、私はそれを書きとめなかったので、このことは割引いて聞いてもらってもいい。加えて、私は彼がemailやチャットについて述べたことをTwitterに拡張していることにも注意。けれど、Lewis先生が言うことには、私たちがこのようになる理由の一部は、私達の脳が体の身振りや顔の表情や声の調子などを解釈する先天的な能力を発達させていて、こういう情報のチャンネルを予期していることにあるのだという。だから、社会的交流があるように見えているけれども、この先天的な、昔ながらの脳の機能の一部が働いていない状態になると、ストレスを感じるのだ。
繰り返すけれど、だからといってそれに見合う価値がないというわけじゃない。これは遠くに離れた家族や友達とつながっているには非常に有益なものだ。私が言いたいのは単に、これが一部の人々に「私はつながっている」という誤った感覚を与えていて、現実のつながりを犠牲にさせているかもしれないと問うてみる価値があるということだけ。
隣の人とコーヒーを飲むのは、千のTwitterの投稿より脳に多くを与えてくれるかもしれない。
これと同じような議論はずっとなされてきたし、テレビにだって同じことはいわれているけど、それだからこの話が間違っているということにはならない(孤立したカナダ人の村にケーブルがようやく開通すると、集団のIQが下がってしまったという研究がある...とルイス先生は講演のなかで述べていた。私はこの研究への引用をウェブで見つけることができなかったけど)
皮肉なことに、Twitterのようなサービスは同時に、仲間の輪の中に入っていないのではないかという心配を一部の人たちに植え付けて、「つながっていない」という感覚を起こさせる。「常に更新している」ことの重要性を高めることで、十分頻繁にtwitterをチェックしたり投稿したりしていない人たちの「何かが欠けている」という感覚を増幅させてしまうのだ。
前の私の記事より:
最悪なことに、この押し寄せる投稿は、私たちのほとんどを最も幸せにしてくれる「あること」から引き離してしまうということだ...つまり、フローの状態にいることから。フローの状態に入るには深く考え込み、意識を集中させる必要があるけど、この種のコンテキストを切り替えるものはそのどちらも妨げてしまう。フローの状態では知識やスキルを意欲的に使う必要がある。これはマルチタスクで(食べながらや、テレビを見ながらなど)できるような頭を使わない仕事とは全然違う。フローでいるには、ある程度の時間を使って知識とスキルを脳のRAMにロードする必要がある。そして、それが大きいものであれ小さいものであれ、より多くの邪魔が入るにつれて、ますますフローの状態にはたどり着き難くなる。
しかも、フローの状態に入れなくなるというだけではない。およそ何かについて熟達するということもなくなってしまい、エキスパートにもなれなくなってしまうのだ。脳科学者に尋ねてみれば、エキスパートとなるのに重要なのは天才かどうかではなく、物事に集中できるか否かなのだと教えてくれるだろう。
情報過多という現象に対する反動はもう見えている。Web2.0 VC はかなりの額を、情報を整理(されたままに)する サービスを約束する会社に注いでいるみたい。43 Foldersがトップ100のブログに入っているのにはそれ相応の理由があって、それは単にMerlin Mannがカッコいいというだけではないの ; )
たくさんの人がこのことについて語っている。でも、たぶんLinda Stone以上に雄弁な人はいないと思うけど:
継続的な注意散漫状態とは、半端な注意を払うということーーそれも絶え間なくね。これはネットワークのライブノードでいたいという欲求に基づく行動だ。別の言葉で言えば、私たちは人とつながりたいし、つながれた状態でいたいの。どんな時でも、チャンスを見逃さないように効率的に目を見張らせようとし、最も良いチャンスや行動や関係のために最適化しようとしている。忙しくすること、つながっているということは、すなわち生きているということ、他者から認識されること、そしてなにがしかの存在となるということなの。
絶え間なく部分的な注意を払うのは、何一つとして見落とさないため。常時つきっぱなしで、どこへでも、いつでも、どんな場所でも働くもので、人為的に作出された慢性的な危機感もこれに含まれる。この人為的で慢性的な危機感というのは、マルチタスクというより、継続的な注意散漫状態に典型的に見られるものよ。
Twitterを使うことにメリットがあると思う? もちろん。Teraはこのメリットを本当によくまとめている(その全てがメリットであるとは考えない人もいるけれど、その人たちもテラの主張には賛成の立場に立っているのであって、大事なのはその部分)
人々がTwitterを責任を持って使えると考えているの? しっかりコントロールしつつ、twitterを使うことで注意散漫になりすぎたり、(タブロイドニュースやTVがアメリカでこれほどまでに広まった原因たる)覗き見のたぐいを避けて?
当然、そう思っている。
私が言いたいのは、ごまかしを避けて、「常に注意をそそぎつづける」というウサギ穴にどれだけ深く入り込みたいと思っているのかを判断してみるべきだというだけ。
私はTwitterのターゲットではなかったーー生まれながらの独り者なのよ。私はそこまでつながりあっていたいとは思わない。そして、ミステリーを残しておくという美学が大好きなの。それだけ多くの人たちについて、そんなにも多くを知りたいとは思わないし、人々にそんなに私のことを知ってもらいたいとも思わないの..それが日常のことであれその他のことであれね。だから、これは私がマイノリティたるゆえんで、私のTwitterに対する恐怖は、私独自のーーねじくれてあまり一般的でないーー個人的な性格に由来するものなの。
本文書は原文の著作権表示にしたがい、Creative Commons Attribution-NonCommercial-ShareAlike 2.5 Licenseのもとで利用できる。なお、訳者の著作権は全て放棄する。
近年の、脳科学の発達は著しい。その成果は以下のリンクを見て欲しい。
http://slashdot.jp/hardware/10/03/31/0119200.shtml
http://japan.cnet.com/news/ent/story/0,2000056022,20411925,00.htm
リンクを見てもらえばわかると思われるが、脳波の計測により、人の思考がわかるのである。
実は、この技術、R&Dの段階でもうかなり進んでおり、電磁波を用いて、人同士テレパシーができるまでに至っている。
さて、このテレパシー。多くの人はまだ空想科学の領域だと思っている。
そこで、この現状をを悪用して一方的に音声を人に送るのである。
送られた人は、テレパシーであると気づかずに幻聴(統合失調症)だと捉えてしまい、精神病院に送られる。
統合失調症になってしまた人は、まだいい。
送られた人のなかには精神病院に行くことを拒む人もいる。拒んだ人は、でたらめな事や「人を殺せ」、「自殺しろ」などといった。音声を送信される。
困ったことに、声の送信をされた人のなかにはその声を実際に行ってしまう人もいる。
ちょっと文章が下手になってしまったが、あとは禁則事項なのでここらへんしておく。イデオロギーと言論弾圧、お金に住基ネットなどを付記しておく。
ttp://ameblo.jp/takapon-jp/entry-10441966524.html
たとえば、鳩山首相の故人献金問題では実の母から政治資金を毎月1500万もらっていたそうだが、結局政治資金規正法違反で母親に類が及ぶのを恐れたためという話もあるが、母親から貰っていたのは事実で、結局鳩山首相は6億だかの贈与税を払うことになった。しかしこの政治献金は小口に分散偽装されていたり、故人の名義を使っていた。これが悪質な隠蔽行為でないとするならば、何が悪質な隠蔽行為なのか?
以前のブログで金持ちの坊ちゃん首相は告発されないが、これが出会い系サイト業者だったら摘発される可能性が高いと書いたことがあるが、まさにここが当局の恣意的な部分となる。もちろん偽装行為が全くなく税金が過少申告されていればそれは修正申告だけで済むが、ちょっとでも偽装と指摘されることがあれば、告発される危険性は高まる。
以前FXで儲けた主婦が逮捕起訴されたが、あれは私の記憶によれば単なる無申告で偽装などは無かったように記憶している。しかし脳科学者の茂木健一郎氏は無申告なのに無申告の重加算税の納付だけで済んだ。この両者の差はなんなんだ?前者はあぶく銭だから?
割と最近、「俺って頭いいのかもなぁ」ってそう思うようになってきた。
わかりやすいところで言うと学力がある。自分はなぜかやらなくてもできてしまう。
予習、復習もしてないし、ノートの取り方が上手いわけでも、特別な暗記術があるわけでもない。
普通にけっこう聞き流したり、よそ見していたり、落書きしたりしていても、
なぜか頭に入っていてテストで上位に入ってしまう。
それで塾とか予備校とか行ってる人を見ると「うーん、この人たち変なの」って思ってた。
だって普通に一日八時間、いや六時間は勉強していたらもうちょっといいとこ受かるでしょう。
単語、熟語、文法、構文を暗記していく。これだけだと思うんだけどね……。
といっても、このくらいの意見でもかなり日和っていて、
自分の場合は毎日映画見て、本読んで、休日はしっかり休んで、ってやってて受かったんだけどね。
自分でも不思議なんだけど英語だってぜんぜん勉強してないのになんか読めちゃうんだよね。
国語なんか、一ミリも勉強してないのに偏差値70オーバーが普通だったからね。
「っていうか、答え書いてあるじゃん?何でこの人たちは間違えんの?」って思ってた。
特別に英語耳を作ろう!とか頑張ったわけじゃないのに映画見てて翻訳の甘さに気づいちゃったりとかね。
「××が苦手」とか聞くと「なんで?参考書覚えるだけじゃん。何でそんなことに得手不得手が出てくるの?」って思う。
それ以外でも美術、建築、文学、地学、脳科学、哲学、サブカルチャー、
まぁ、一つのことを深くは知らないが(専門家には負ける)、どれも基本は満遍なく知っていて、
それらを繋ぎ合わし、応用して日々生活をしちょります。
はっきり言ってしまうと実生活であまり「この人すごいなぁ」って思うことがない。
「この人知識、薄いなぁ」「浅はかだなぁ」って」思うことの方が多い。
いや、ネットと教授陣は別よ。いわゆる大衆の現像を見つめているとね。
例えば人がなにかに感心していたりすると
「うわ、この程度で感心しちゃうんだ。今まで何十年も生きてきて
この程度のレベルのことに触れる機会なく過ごしてきたんだ……」
って反射的に哀れだな、って見下しちゃうんだよね。
もちろん、相手の言葉の持つ含意をすべて理解したうえででね。
で、最近になって自分は普通じゃなくてかなり恵まれている方なんじゃないか、って思い始めたのよ。
だってどうやら世間には、中学生にもなって九九がわからない奴がいるらしいし、
どんなに勉強したって結果が出てこないって人がいるらしい。
書店で英会話教材の山を見ていると、世の中の人ってどうやら頑張って教材と格闘して、
それでもできない、って人がいるみたいと思わせる。
背広を着た良い年齢の人が「中学英語の総復習」みたいなの広げててさ……。
こういう「できない人」に遭遇する度に「変なの」って思ってたんだけど、
どうやらこういう人が多数派らしいぞ? 俺の方が変らしいぞ? って気づいてきた。
だからさー、今まで特に頑張ってきたわけじゃないけど、
これからはもうちょっと頑張ってこの才能を活かしていこうと思っているわけですよ。
あいつらちょっと最近調子乗っていて悪い方向に進んでいくんじゃないかっていう予兆がある。
まぁ、それは冗談だけど、自分が天才だと自覚すると、なんか使命感が生まれてきますな。
みんなはどうかね……俺のこと天才かと思うかね……まぁそれはこれからの結果次第か。
少なくとも俺より偏差値低い大学に行っている奴や、俺より時間かけて勉強して成績悪い奴よりは優秀なわけだ。
それをどう活かすか……思い浮かばないってことは天才じゃあないのかもな。
インターネットの発達で、紙の本や雑誌は滅びる――そういわれてから何年たつだろう。そしてそろそろ事態が動きはじめたかと思われる節がある。まずグーグルが世界的にすさまじい量の書籍の電子化に乗り出した。コンテンツはこれでかなりの蓄積ができた。またリーダー機器の面では、日本では未発売だがアマゾン・コムがキンドルという電子ブックリーダーを発表し、一定の成功を収めている。流通も、アマゾンの電子ブック販売や、アップルのiTunesストアなどが手法をほぼ確立しつつある。
だがその過程で、電子メディア特有の問題も次第にあらわになりつつあるようだ。それを示す事件が最近立て続けに起きている。
アマゾン・コムのキンドル用に、オーウェル『1984年』『動物農場』の電子ブックを買った人は、6月に驚愕した。版元に問題があったから、としてこれらの本が手元のキンドルから勝手に消し去られていたのだった。いったん買った本や雑誌やソフトが、自分の本棚やパソコンから勝手に消し去られるなんて、これまでは物理的にもありえない!
アマゾンは、この対応について平身低頭し、二度とやらないと宣言した。が、そもそもそんなことができるということ自体に多くの人が戦慄した。そしてその舞台がまさにそうした情報統制社会の恐怖を描いた『1984年』だったとは、なんたる運命の皮肉か。
一方アップルは、オンラインのiTunesストアで販売されるiPhone/iPod用のソフトの健全性に、たいへん神経を使っている。わいせつ語が入っているソフトは、軒並みアダルト指定を受ける。先日、なんと普通の英語辞書がこれを理由に改変を要求され、ストアへの出店を拒否された。アップルは対応のまずさを認めたものの、方針にはいまのところ変化はない。
わが国では動画投稿サイト、ニコニコ動画が同様の問題を示した。酒井ノリピーの昨今の騒動を受けて、彼女の替え歌を歌唱ソフト『初音ミク』に歌わせた動画が投稿された。ところがなんとその歌唱ソフトのメーカーであるクリプトン・フューチャー・メディアが、そんなことに使われたら自社ソフトのイメージダウンだ、と称して削除を要求したのだ。
当然ながら彼らはそのコンテンツについて何の権利ももっていない。が、信じられないことに、ニコニコ動画を運営しているニワンゴは、この無根拠な抗議にあっさり応じて、問題の動画を削除してしまった!
ニワンゴの経営陣でもある西村博之がこの対応に疑問を述べ、その後同社は、問題の動画を復活させた――投稿者に対する自主検閲を促すコメントつきで。
ネットは著作権無視の違法コピーが横行する面ばかり取りざたされることが多い。でもじつはデジタルコンテンツの真の問題は、コントロールができすぎてしまうことなのだ。今回取り上げたケースが如実に示しているように。
これはネット法学の第1人者ローレンス・レッシグの10年前からの主張だが、それが急激に現実味を持ち始めている。紙媒体では物理的にできなかったことが、デジタル媒体では平気でできてしまう。そのとき、いま当然と思われている権利や自由があっさり破壊されかねないのだ。
いま多くの日本のコンテンツ運営業者は、抗議があればそれが正当なものだろうと不当なものだろうと、人に不快感を与えてはいけません、といった低級なお題目の下に問題のコンテンツをとりあえず消して、ほとぼりが冷めるのを待つ、というのがありがちな対応だ。ニワンゴの対応はその好例だろう。ブログの罵倒合戦くらいならそれでもいい。
だがデジタルメディアが紙媒体を置き換えるなら、紙媒体で建前にしても重視されている規範をどう維持するのかも考えるべきだ。目先の個人的な快・不快なんかより重要なことが世の中にはあるんだから。デジタルコンテンツも、それを考えざるをえなくなりつつあるのではないか。そしてそれを私企業の倫理だけに任せられないとしたら、どんな規制がありうるだろうか?
じつは今年、そのヒントになりそうな出来事がもう1つあった。脳科学者の肩書で各種メディアに頻出している茂木健一郎が、ネット上のボランティア執筆による百科事典ウィキペディアでの自分に関する記述に文句をつけ、それをかなり我田引水なかたちで大幅に書き直した。それに対して項目執筆者たちはひるむことなく、ウィキペディアの執筆ルールに基づいて茂木の苦情に形式的には対応しつつ、ほぼ従前の記述を復活させて、誠実な対応とメディアとしての中立性を見事に両立させたのだ。
こうしたネット上の自主的な倫理や規範も多少の可能性があるのでは? むろん、それがどこまで公的な権利保護の規制を補完代替できるかとなると、まだまだ考える必要はあるのだが。
スキナー心理学の特徴は結果さえでれば内的な処理を問題にしない点にある。
■「林檎を食べれば、空腹が治る」重要なのはこのことであって
■「どうして林檎を食べると空腹が治るのか? 内部でどのような処理が行なわれているのか?」
そんなことを知ってどうなるのだろうか?
脳科学などに取り組むよりも、林檎が有益であることがわかればそれで十分で、林檎を植えたほうが良いというのがプラグマティックな判断ではないのか。
脳科学は「どうして○○を善だと我々は思うのか?」「なぜ林檎を美味しいのか」といった常識を生理現象から詳しく説明するだけであって
叩きではないのですが、
そもそも学術的にはイロモノの域を出ないリスニング学習の本を持ち上げたかと思えば、
その理論部分に問題があるという。
彼が何を書いているのか、最初さっぱり分かりませんでした。
反復学習の効果的側面は臨床データもたくさんありまして、リスニング学習は効果が
限定的だというのは1980年代からさまざまな論文で語られているんですけど。
それで、今度は単なる一症例、それも単なる脳卒中からの脳機能回復の体験談に過ぎない
「奇跡の脳」を山車にして、両者を比較すると言う、心療内科の世界からすると誤謬
としか言いようのない書評を書いておられます。
彼は、
「これははっきりと「No」と弾言させていただく。私にとって言葉は理解と表現の道具で
あっても、思考の道具では実はない。」
とまで言っていますが。
認知学で言うなら、言葉の理解と表現を行うのは、思考の「結果」であって、別物と
かそういう以前に、脳機能のうえで区別すらできないもののはずなんですが。
と言うより、言葉で理解していながら、「思考は言葉で行われる」という基本的過ぎる
主張に「NOと弾言」というのは、甚だおかしいです。意味が分からない。
さらに、
「同書で最も驚いたのは、左脳が麻痺した著者が見た世界が、いかに私が「考える」
時の状態に近いかだった。自己の境界と時の流れがなくなったその世界にこそ、
「マイワールド」なのである」
集中している時の脳活性は自己の境界線(自己的知養)が発現しないのは当たり前
です。言語野が確立していない胎児にいる状態でも記憶は残り、のちに言語化されて
記憶が再整理され、胎児中の記憶が蘇ることは学術的にも確認されていますが、
これ、本論とは一切関係ありませんよね。
「本書の価値は、実践の方にある。ハウツー本にとってより重要なのは、理論の
正しさではなく実践の効果である以上、本書はたとえ理論に納得できないとしても
価値がある。そしてその実践の効用が大きいことは、私自身を証拠として提示できる。
私も「耳勉強法」の実践者だったのだから」
その後も、彼独自のヨタ話が続きますけど、書評で出ている実戦方法と、この人が
「耳学習でかるたを覚えた」と言っていますが、文章記憶を行うのにリスニングが
適しているだけの話で、これを数式や化学式の暗記に応用しろと言われても無理
でしょう。彼が言っているのは、簡単に言えば言語を効率的に習熟するには
リスニングも必要であるという、ごく当たり前のことに過ぎません。
「有名な話しであり、またこの話が「人は見た目が9割」のベースにもなっている
のだが、むしろ私が驚くのは、聴覚が38%もあることだ。」
これも関係ない話ですよね。聴覚による情報摂取比率が脳科学的に高いからといって、
ここで取り上げたリスニング学習法が実践価値があるという意味にはならないです。
むしろ、現在の学習に関する研究では、視覚聴覚などの取り入れる配分をどうするか
というレシピのほうの調査が主で、学習障害が何故発生するかや、集中力との関係
といった分野が大変重視されるのですが、やはり本論とは何ら関係はない。
「ここで、今まで「耳勉強法」が今までそれほど活用されていなかったもう一つの
理由にたどりつく。それは「耳を使うのは非常時」という、耳のもう一つの特性だ。」
もはや、何を言っているんだか分かりません。
緊急時の情報優先が聴覚であるという学術論文は25年間のあいだで読んだことがない
ですね。危機対応能力を求められる職種の人は、嗅覚が鋭くなる傾向にあるという
調査報告がある程度で、聴覚が優先されるなどと言う話はまっとうな論文では
見たことがありません。
非常に不誠実で、不正確な書評で、脳科学や認知に関する基本的な理解が不足した、
問題の多すぎる論述ばかりで、読んでいるこちらが逆に驚いたぐらいです。
臨床データを読みこなせるようになってから書いてください、というわけではない
のですが、知らない、分からないことに対する論述の慎重さ、丁寧さ、誠実さと
いったところが欠けすぎていて、残念に思いました。
ある程度、そちらの方面では専門であるわたしから見ても、まったく無価値な議論
ばかりだな、という印象です。
それはそれで評価できるからなんなの?
>俺高校の時インターハイでベスト16に入りましたけど?みたいな
いつ過去の栄光にすがる様な事を評価したの?
>結果正しく伝えているかでしょ?
いつメディア出ること自体が凄い言うたの?
>脳科学やってる同業者からきちんと評価される人がメディアに出るべき
>だから元の増田はもちおは同業から見てどうなのか知りたいと書いてるんでしょ?
>タレント性は、あくまでも付加価値であって、本業が糞なら出ないほうが良いじゃん
一行目はわかるとして、彼らは本業糞なの?
梅田はパシフィカがあるし、茂木は一応学術機関で論文出してるけど「VCはじめたり論文学会に出すだけなら誰でもできる」ってか?