2021-01-12

Vtuberを好きになった後好きじゃなくなった過去から考えてみた(追記済み)

前もって置くと、増田については詳しくない。ただ匿名で書けるからと言うだけで来たので、オタク的な話に縁遠かったら申し訳ない。

2年ほど前にVtuberにハマっていた時期がある。

元々ゲーム実況などの動画が好き、というのが大きいと思う。

ただ、割とすぐに見なくなった。

理由はなんとなくでしか無かったが、今更少し考えてみた。


VTuberというのは個人性とキャラクター性が両立しているわかりやすい例だ。

性格的なキャラ、というよりは偶像性というニュアンスだろうか?)

まあ普通アイドルなんかもそうだろうし、現実普通人間でも言えることではある。

私たちキャラクターに対して色々な想像をし、それをすりあわせる行為をする。

いわゆる解釈一致/違いという奴だ。これも普通人間でもある話。

これらの想像とは、広く捉えれば期待と呼ばれるものになる。

ただ、個人が演じている限りその期待が完全に満たされることは無い。

芸能人有名人がどれほど炎上してきただろうか。

(当然、ファンの誰もがその存在炎上して欲しくないと期待している)

そうした期待の裏切りは一方で裏切った側の失敗だと捉えられるが、違う見方もできる。

ファンとしている我々側が、過度/過小な期待をしているということだ。

個人性というものを知りながら、キャラクター性に先行し完全性を求めすぎていた(またはその逆)我々側のミスとも表現できる。

VTuberというのはこれがわかりやすい。

彼らの今のトレンド動画形態よりライブであるので、長時間二次元的な=作られたキャラとして演じることになる。

一方で個人性を要求するような場面も多くあるので、当然そうした解釈違い的なことも起こりやすくなる。

まだ新しい文化であるというのもそうした失敗を後押ししているだろう。

まあ要は、自分に限った話であるが、何かしら期待が裏切られたとき自分責任だと思ってしまうという話だ。

自分が期待する程度を読み間違えたからこそ、それがある種の重圧として機能していたのかもしれない、と。

正しく達成できるレベルの期待にとどめていれば、こちらも向こうも幸せなはずなのだから

(まあ先に挙げた炎上の一部は常識倫理に反しているものもあるので、例外はあるとだけ書いておく)

実際、「意外」という言葉が心底嫌いで、言いたくもないし聞きたくもない。

それは個人を正しく判断できなかったということを露呈した言葉であり、場合によっては失礼だ。…と考えてしまう。

まあ、自分が言われたら(期待されたキャラ遂行できなかった…)と考えてしまうわけだが。

で、多分こうした「自分が期待の程度を間違えたこと」をまざまざと見せつけられることに耐えきれなかったのが、

VTuberを見なくなったきっかけなんじゃないかと思っている。

思ったより長くなったし、書いていてよくまとまらなかった。文を書くというのはあまりやったことがないのでわからん

自虐的思考ってだけでは?とか色々思うが、正しい程度の期待を持つべきだ、とは思う。

ただ、それが人間にできたら困ることはないかも知れない。

追記

ありがたいことにいくつか反応をいただいたが、VTuber主題にしたためかやや誤解されたように感じたので少しだけ補足。

この増田の話は、ただ単にVTuber革新性でもある新たなバーチャルの形が個人性格上で合わないような気がした、というだけに過ぎない。

ここでいう「新たなバーチャルの形」とは本文にある個人性とキャラクター性の明確な両立を二次元空間アニメ文化圏で行った点だが、

こうしたアンビバレンスが未経験な身としては、視点の据え方に迷ってしまう。

個人性、キャラクター性のみの視点で見るとすれば、それは今までの動画投稿者と何ら変わりがなくなる。

なので両方の重心をもって視点とするはずだ。

ただ、その重心が不明瞭な位置にあるが故に新しいバーチャルは期待と現実のズレが増えてしまった。

いわゆる「杞憂民」が用語として確立するほどに多いことが、まさにこの新バーチャルの不可避の欠点証明する。

ただ、こんな欠点があるからVTuberダメだなんて言うわけではない。

そのズレを何事とも思わぬ大勢の中で、自分けが勝手自責に駆られているだけなのだ

  • 黙れV豚 語るな 価値のない言葉だ

  • V は マンガやアニメにある創作性が高いキャラクター性 と 中の人がやりやすい人間らしさ をあわせもった存在だ。 同時に 創作物に対するのと同じレベルでの過度な期待 と ...

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