「どうして障害者のことをかわいそうだと思ってはダメなのですか?」
私が参加していたアクセシビリティの授業で、こう問いを発した学生がいた。
そのとき現場には衝撃が走った。問われた講師も、明確に答えられてはいなかった。確かに、なんとなくそう思ってはダメなことは知っているが、なぜだろうか。
私は障害当事者なので、密かにその言葉にショックを受け、なんとなく見下されていると感じた。そのことを悶々と考えた軌跡を忘れないうちに書いておこうと思う。
今年も24時間テレビが始まる。障害者の方がなにがしかにチャレンジし、芸能人は24時間走るらしい。毎年のことで、私のTwitterのTLには良い反応は流れてこない。当事者の間で、この番組が好きだという人はあまり見たことがない。かくいう私も好きではない。当事者でなくても、批判している人は多い。NHKでは「バリバラ」という裏番組を放送し、それが24時間テレビを揶揄したような内容で話題になった。
「障害」のことを知ってもらうという役割はあるかもしれないけど、それにしたって切り取り方があまりに一面的である、もっと理解につながる番組だったらいいのに。
私もそう思う。でもそうならない。なぜ?たぶん、それがウケるからで、視聴率が取れるから。
私が24時間テレビ良く思っていないのは、この構図をまざまざと見せつけられるからだ、と気づいた。障害者ががんばる、それを見て感動する。だけどそこに、私や私の大切な人がああならなくてよかったという感情がないと言い切れるか。私の人生はそんなにいいものじゃないけど、下には下がいる。その人たちが頑張っている!私はまだマシだ、明日から頑張ろう。そう思ってなんかいないと言い切れるか?
障害者を取り巻く「上下」の構図を「感動」というもので見せつけられている気がしてならない。もっと悪く言えば、感動のための道具で、人間扱いされていない。そういう番組が世間でウケる。
その構図を突き付けられる事件は、ここ最近頻発しているように見える。おそらくSNSの台頭がきっかけである。視聴率というオブラートにまだ包まれていた刃よりも、個人の意見という生身の刃があちらこちらに存在している。相模原障害者施設殺傷事件のときの、あのしらけた雰囲気。京アニの事件との反応の差を指摘した意見もあった。参院選での、れいわの舩後靖彦さん、木村英子さんの当選や公費負担に対して巻き起こる議論。信じられない…と思わざるを得ないツイートに何万件ものいいね。
障害者のことを人間扱いしないということが、時には感動として、かわいそうだとして、反応の差として、議論として、いいねの数として現れてくる。それは結構辛い。自分はその世界に生きていることが、恐ろしく思えてくる。エグい現実だ。結局、差別用語の禁止なんかで見た目はそれらしく変わったように見えても、障害者を積極的に排除してきた頃から根っこは何も変わっていないのじゃないか。
だけど、ちょっとした希望もある。それは、れいわのお二人が当選して、参議院の改修や制度の検討についてすごいスピードで進められていったこと。知人と、当事者がいるとあんなに早く進むんだねという話もした。現場にいると分かるが、変化というものはそんなにすぐは訪れない。前例が、予算が、人手が、時間が無いといって。その間に私の時間はどんどん減っていくのだけれど。まあそれはおいといて、変化は起こせるものなのだということを実感できたことはすごく勇気づけられた。
問いに自分なりに答えてみる。
なぜかわいそうと言ってはいけないのか?かわいそうという言葉がまずどこから来ているのか考えたほうがよい。たとえ何もやましい気持ちがないという結論になっても、その言葉は当事者を下に見る、人間として対等に扱っていませんという文脈を予想させる。それで世の中は溢れている。それが君個人の言葉として、より鋭利に変化して当事者を刺すこともある。障害を「欠落」としてみるのではなく、「異なる」部分を持つ人として見てほしい。
でもキモくて金のないおっさんはかわいそうとも思わなければ下に見ることすら躊躇しないんですよねわかります
これ。 同じ障害者の中でも、身体的障害はかわいそうランキングが高く、精神的障害はかわいそうランキングが著しく低い。 テレビに出せる障害者と出せない障害者がいることに気づ...
わかります、わかります。キモくて金のないおっさんですよね。わかりますよ、うん、わかります。キモいですよ。わかります。お金もなさそうですね。わかります。わかりますよ、わ...
別に障碍者じゃなくても京アニの犠牲者とか重傷者とかかわいそうだと思うよ 変なのか
同情を引く役割を求められるのも、同情の有無で扱いが大きく変わるのも、別に障害者に限ったことじゃないのにねえ