基本的にぐうの音の出ないほど同意なんだけど、実際の差別発言の論争は裁判のようなものではなくて、発言者側に弁護の機会は与えられないのよね。特に企業に属する場合は。
「こいつこんな差別発言してるぞ!」ってTwitterで炎上してしまった場合、発言者はあなたの言うように論理的に反論することはほぼ不可能で、場を収めるために一応の謝罪をするしかない。特に企業の場合はそうで、論理的に「こうこうこういう理由で客観的にみて差別発言ではありません」なんてことしたら火に油注ぐのは目に見えている。差別発言をしてないし、認めないように謝罪する苦肉の策として「不快な思いをさせてしまったことに謝罪します」と言うわけだけど、この謝罪が謝罪でないとさらに叩かれる。
押し付けられる「多様性」によって好きな作品を作れなくなる、楽しめなくなるのが害悪でしかないんだが?
実際、アメリカでは味方に黒人やヒスパニック系、LGBTを入れないといけない様な規範が出来つつある
話に余計な制約がかかるんだよ。
朕もそう思います。