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ここで語られているのは男性の働き方(=生き方)の多様化と、コメント欄ではその称賛だ。
自分も基本的には賛成で、多様な生き方があるべきだと思うし許容されるべきだとは思う。それは世界のトレンドだ。
しかし、その一方で、あるコミュニティ(会社でも、国でもいい)の内部構成員が画一的である(多様ではない)というのは、ある側面強みである。瞬発力も大きいしベクトル加算したときの出力もあるし、意思決定も早い。この部分に対していろいろ異議はあるだろうが、少なくともそれで成功してきたコミュニティは数多い。高度成長期の日本もそうだし、日本の企業だってそういう社員教育をしているところが過半数で、その協力や税金でこの国は成り立っている。
日本人である僕は、「画一的であること、多様さを抑圧した社会であること」の恩恵を受けている自覚がある。
貧困国で生まれず日本で生まれただけでその恩恵は計り知れないとも思う。
コメント欄の彼らはその点をどう考えているんだろうか? つまり、彼らは恩恵と引き換えに多様化を要求している自覚があるんだろうか?
彼らの勤務する会社は本当に男性の育児休暇や、ワークシェアリングを受け入れられるんだろうか? それを受け入れて現在の業績を、ひいては個人の給与を維持できるんだろうか? あるいは、そんなことは経営者の考えることであって、自分たちは現在の手取りと休暇倍増を要求すればそれで済むという考えなんだろうか?
疑問に思うのは、ぼくたちの社会は多様性や個人の自由をどこまで受け入れることができるか? という点だ。
明らかに無制限受け入れは無理だ。そこで、どこかにラインをひいてルールや常識にする。
話を簡単にするためにたとえば50という数値をあげる。多様性や個人の自由は各人50まで受け入れられるべきですよ。それをルールで保証しますよ、と。この50という数字は説明のための過程なので特に意味はない。
このルール下において、コミュニティ全員は50まで要求できる。例えば育児休暇とか。でもほんとうに50を受け入れられるのか? と言えば無理だ。全員が育児休暇(=50要求)を同時にしたらその企業はおそらく機能不全になる。個人は50まで要求できるが、コミュニティの限界許容量は300である(つまり、6人まで同時に育児休暇してよい)みたいなモデルになっているはずだし、そういうモデルしか作れないと思う。
これは、ぼくたち一般的な社会人が、自分の銀行預金は自由に引き出せる権利を持っているにもかかわらず、預金者全員が一斉に預金全額を引き下ろすと銀行が倒産してインフラが壊滅するのに似ている。ぼくらが額面上もっている自由はその程度の保障しかない。
そういうモデルって、結局は、要求者が非要求者にフリーライドしているだけの話なんじゃないのか? 要求できる出来ないが個人の政治力に依存してるだけじゃないのか? という疑いがぬぐえない。そのコミュニティには明示されない奴隷階級がいて、その奴隷階級が働くおかげで、上位者が多様化とか自由と言っていられる構造だ。社会というのはそういうものでしかないんじゃないのかとおもうのだ。
ブラック会社についてもそう思う。
僕もブラックは嫌だ。やめた経験もある。サービス残業してるやつはマゾだと思う。夜中に電話が鳴って急に呼び出される仕事は二度とやりたくない。
法定にしたがって労務を管理すべきだし、給与は必要十分に支払われるべきだと思う。それを要求するのは労働者の権利だ。
が、しかし、労働者全員がその点を100%クリアにして真っ白な社会を作り上げたとき、今の日本社会や経済が維持できるような気もしてない。
安価な外食産業は軒並み倒産するか値上げになるだろうし、そうするとぼく個人の生活も厳しくなるだろう。
僕は現在ブラック労働ではないしそこそこお金を得ているが、それはつまるところ、社会のどこかにいるブラック企業の奴隷階級に奴隷労働をさせたうえで、僕の生活は便利さや豊かさを維持できているのだ。自覚と罪悪感はあるが、同時にてばなしたくもない。
さらに言えば、国内のブラック労働者でさえそれは同じだ。国内のブラック労働者は国外のブラック労働者から搾取して日本という豊かな国の便利な生活ができている。
多様化とか個人の自由とか公平とか正義とか、賛成だ。みんなが得られるべきだと思う。
でも、そのケーキを全員で等分したら僕の取り分はきっと今よりずっと少なくなる。百分の一以下になる。僕だけじゃなくほぼ全員の取り分が消え果る。
この問題でなにかいい考えが浮かんだことは一度もない。