一昔前はストレス社会と言われることがあったけれど、今はそれを通り越して生きづらい社会になった。仕事辞めたい、学校行きたくない、死にたいと思うことなしに、心が晴れやかなまま生きている人はどのくらいいるんでしょうか。
生きづらさの原因は、日本社会の同調性偏重にあるのではないでしょうか。自分が自分であることを否定され、自分の価値が他者による承認でしか確認できないようになっていませんか。
現代日本社会では、飢える心配や過酷な暑さ寒さ、暴徒による略奪、迫害などにあうこともないし、豊かな物質社会にあり、水道をひねれば水が出て情報端末でいつでも様々な情報を得られます。ですが、生きている実感を得たり、至上の幸福を感じることはありません。
本来なら、生きているだけで幸せが感じられるはずです。想像してみてください、仕事や家庭、様々な悩みを忘れ、すべての社会的義務から離れ、壮大で美しい景色が広がる浜辺にごろんと寝転がり、穏やかな風にあたりながら、ゆっくりと雲が流れていくのを眺めている自分の姿を。
私たちは当然、皆顔立ちも性格も、好みも、得意なこと、不得意なこと、すべてが違います。家庭環境や住んでいる場所、両親も違いますが、同じ両親から生まれた兄弟姉妹であってもそれぞれが、不思議なことに性格や趣味嗜好が異なる別々の個性を持ちます。
ですが、我々の社会はそれを認めません。
私の興味関心や行動パターンは他の人と異なるのが当然であるのに「みんながやっているから」と周囲と同調するように是正されます。私の心を引くテレビ番組や音楽、趣味などは他の人と異なるのが当然であるのに、周囲の友人と話を合わせるためにみんなが見ているテレビややっていることに追従しなければなりません。学校の先生や上司に意見を求められたとき、自分の考えでものを言えば×をもらいますが、相手の顔を見て何を求めているのか察して追従すれば◯がもらえます。
そうやって私の他人とは違う自分は少しずつ死んでいきました。そうやって私はからっぽになりました。
誰かに認められたくて倒れるまで働き続けるような生活を送っても、待っているのは罵声と人間性を否定される言葉で、感謝されることはありません。失敗したりつまづいたりすれば、周囲は鬼の首をとったかのような喜びようで、さらに増大した罵声を浴び、人格を否定されます。家に帰って一人になっても、不安や緊張はずっと私につきまとい、離れてくれることはありません。仕事が無い休日でさえも心からリラックスできることなく、勤務日を迎えます。
欧米では、激務ながらも、仕事を忘れるぐらいのまとまった休暇を与えられたり、職場でも自分の好きな服や格好が認められてリラックスできるところもあるそうです。人と違う価値観を持っても周囲から病的な人格否定を受けることが少なさそうです。本来与えられた業務とその成果で評価されることがあっても、資料のホッチキスの止め方やお辞儀の角度、服装、あいさつ、社内飲み会での立ち居振る舞い、強迫観念にかられての自主的なサービス残業&休日出勤などで神経をすり減らす必要はなさそうです。業務をする上で緊張や不安を感じても、不要な人間関係での悩みを抱えることは少ないのではないでしょうか。
私はいつの間にか、〇〇でなくてはいけない、〇〇からはずれてはいけないと、自分自身にマインドコントロールをかけて追い込んでいました。
私はいつの間にか、不安と恐怖、妄想にさいなまれており、怒りに我を失ったり、病的なほどの欲望に溺れたりしました。
たかだか、暮らしていくのにやっとの金しかくれないくせに、どうして奴隷や家畜よりもひどい扱いを受けなければいけなかったのでしょうか。
ただ苦しいだけで、だれも得していないのに。
クソみたいな奴らには死を。