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2023-01-24

史上最強侍ジャパン

1落合博満(二) 出塁率最優先

2秋山幸二(中) もうすぐ40本40盗塁と足の速さも含めて二番

3松井秀喜(右) 長打ゴジラから

4王貞治(一) 現代通用するかとか知らんが数値がスゴイ

5村上宗隆(三) 三冠王

6山本浩二(左) 打てる外野手

7野村克也(捕) 打てる捕手

8松井稼頭央(遊) 打てる遊撃手

9大谷翔平(投) 打てる投手

2021-09-07

例えば日本政府大谷選手を拘束して

イチロー秋山幸二松坂大輔も拘束して、

有望なアスリート女性毎日あてがって種付けを強要させて、年間200人ずつくらい彼らの子供を産ませるとしたら

すごいスポーツ選手は増えるのかな?

2020-12-15

anond:20201215133810

福岡中学校講演会やったとき秋山仁を呼ぶはずが手違いで秋山幸二を呼んでしまって野球好きの生徒が大喜びしたエピソード死ぬほど好き

2020-10-19

なんか最近の中堅は元気が無い

昔は中堅手といえば俊足強肩でないと務まらないポジションといわれ、外野手の中でもスター選手が多かった

福本豊山本浩二秋山幸二、SINJYOなどスター性のある選手が守るポジションだった

流れが変わったのはイチローからだろうか

外野手で一番強肩を求められるのは右翼手という考えが主流となってしまった

イチロー福留、糸井、鈴木誠也高橋由伸など名だたる選手がみんな右翼になってしまった

から野球を見てきた自分としてはやはり3番センターor4番センターという打順に未だに惹かれてしまうので

球界代表するような中堅手が出てくることを願ってやまない

2016-02-04

清原和博凋落

 (以前書いたものを今回の事件修正

 清原和博覚醒剤容疑で逮捕された。1990年頃に彼がここまでひどい人生になるとは、一体誰が想像しただろう。

 今の若い人で「球界アイドル清原」の時代を知る人は少ないだろう。入団の経緯もあり、計算高そうで表情の起伏に乏しい桑田との対称で、清原喜怒哀楽が素直で純朴、というイメージ一般には持たれていた。また球界代表する投手のウィニングショット(例えば山田久志シンカー)を簡単に流し打ちスタンドに運ぶ打撃など、野球ファンに抱かせる将来への期待という点でも計り知れないものがあった。日本球界で、最もバッティング能力が高かった選手は誰かと言われれば少し迷いつつ「落合博満」と答えるが、素質や潜在能力については迷わずに「清原和博」と答える。

1990年代前半まで、当時は日曜日の午後に、テレビ朝日で必ず西武戦の中継が行われていて、私は(アタック25と一緒に 笑)毎週ほとんど観ていたと思う。だから清原和博の全盛時代は目に焼き付いている。

 かといって私は清原の大ファンだったわけではない。むしろ西武では石毛宏典秋山幸二などに比べて、プレースタイルが野暮ったいという印象があり、話すことも面白みのない優等生発言ばかりで(ヤクザキャラ現在でもこれが器用にできたりするのが悲しい)、正直それほど好きではなかった。しかし、これからどのくらい凄い成績を残すのだろう、というワクワク感を抱かせる選手であったことも確かである。好きな選手石毛秋山ではあったが、毎日の成績が気になったり、テレビで是非打ってほしいと願いながら見ていた選手は、明らかに清原であった。

 清原はいから悪くなりはじめたのか。個人的な印象で言えば1993年である。多くの人は1997年巨人入団から急激に悪化したような印象を持っているだろうが、それはあくまで「キャラ」の部分である。私は西武時代後半の不調を、そのまま巨人入団後も引きずってしまったと考えている。年度別成績を見ればはっきりするが、西武時代最後の2年と巨人入団後の2年はほとんど成績が変わらない。

 それまでの清原は、PL学園時代に叩きこまれ技術をそのまま生かして、自然体の構えから、そのまま軽く素直にバットを出している感じだった。それが1993年から、力感のある構えから打席内で大きな(さらに言えば無駄な)動作をするようにな った。体つきは、かつてよりガッチリするようになり、野茂伊良部の剛速球を豪快なホームランで弾き返すことがあった一方で、明らかに雑な三振が増えるようになった。それまでも調子の起伏が激しく、意外に精神的に不安定な選手であるという認識はあったが、この頃から徐々に打撃そのもの劣化している印象があった。

 特に1995年失望の年だった。春のキャンプ清原肉体改造をして相当に絞り込んでいるという姿が伝えられ、今までとは違う精悍な顔つきの清原に、私も「これは期待できるぞ」と思っていた。しかし、シーズンに入ると成績はさっぱりで、相変わらず動作の大きな打撃フォームから、雑な三振を繰り返していた。シーズン半ばに走塁中の肉離れで一月弱ほど戦線離脱をしたが、それまで故障知らずだった清原が、通常のプレー中に大きな怪我をするというのが俄かに信じられなかった。

 この「劣化」の背景には色々考えられる。一つにはよく言われていたことだが、清原自身打者としての理想や上昇志向が高すぎて、欠点を直そうとするばかりに利点を失わせてしまったこと、二つには秋山石毛、辻といった黄金期を支えたベテランメンバーが次々と西武を去り、清原自己満足的な打撃に歯止めをかける存在がいなくなってしまったこと、そして三つ目には、この時期パリーグ球場が新しくかつ広いものとなり、本塁打数も全般的に減少傾向にあったのだが、それに力で対処しようとしてしまったことである

 それでも清原が成長する過程なのかもしれない、と当時はまだ若干の期待を残していたが、巨人入団後に完全に露呈した打たれ弱さ、精神不安定さと、週刊誌の「番長キャラ」に自らも乗っかるようになったことで、清原の将来に期待することは完全になくなった。選手としての能力以前に、人格的に国民スターの器ではない(ある種純粋人間ではあるけど)ことは余りに明らかだった。週刊誌清原ネタを、自分も笑って楽しむようになってしまった。

 2000年以降に(清原によるとホームから離れて打席に立つことで)若干の復活の気配も見せたが、明らに無理なトレーニング野球選手とは言えないような体型となり、毎年のように大きな故障長期離脱を繰り返した。番長キャラにも年々拍車がかかった。オリックストレードされた頃は、既にかつての天性のしなやかさは完全に失われ、最後はまともに走ることすらできなくなっていた。若い頃の清原は頑健というだけではなく、無駄全力プレーをすることがない、身体に負担の少ないプレースタイルだったので、晩年ここまで怪我に悩まされるとは想像もできなかった。

 誰しもが思うことだが、18歳の時に既に完成されていた打撃技術をそのまま大事にし、無理なトレーニングをせずに練習で自然についた筋肉だけで勝負し、私生活でももう少し節制すれば・・・もし1990年の頃の自分に会うことができたら一体何をアドバイスするか、と清原に一度尋ねてみたい。

2015-12-02

トリプルスリー

全然流行語じゃないし。普通プロ野球用語じゃん。

前人未到の記録ならわかるけど、松井稼頭央秋山幸二他8人ぐらい達成してるし。

そんなに他が嫌だったら「安心してください」とかにしとけばいいのにね

2014-09-24

清原和博劣化について

 最近清原和博をめぐるニュースが、薬物疑惑DV、劇太り、後輩の離反、仕事の激減、離婚などなど、あまりにひどいものばかりだ。1990年頃に彼がここまでひどい人生になるとは、一体誰が想像しただろう。

1990年代前半まで、当時は日曜日の午後に、テレビ朝日で必ず西武戦の中継が行われていて、私は(アタック25と一緒に 笑)毎週ほとんど観ていたと思う。だから清原和博の全盛時代は目に焼き付いている。

 かといって私は清原の大ファンだったわけではない。むしろ西武では石毛宏典秋山幸二などに比べて、プレースタイルが野暮ったいという印象があり、話すことも面白みのない優等生発言ばかりで(ヤクザキャラ現在でもこれが器用にできたりするのが悲しい)、正直それほど好きではなかった。しかし、これからどのくらい凄い成績を残すのだろう、というワクワク感を抱かせる選手であったことも確かである。好きな選手石毛秋山ではあったが、毎日の成績が気になったり、テレビで是非打ってほしいと願いながら見ていた選手は、明らかに清原であった。

 清原はいから悪くなりはじめたのか。個人的な印象で言えば1993年である。多くの人は1997年巨人入団から急激に悪化したような印象を持っているだろうが、それはあくまで「キャラ」の部分である。私は西武時代後半の不調を、そのまま巨人入団後も引きずってしまったと考えている。年度別成績を見ればはっきりするが、西武時代最後の2年と巨人入団後の2年はほとんど成績が変わらない。

 それまでの清原は、PL学園時代に叩きこまれ技術をそのまま生かして、自然体の構えから、そのまま軽く素直にバットを出している感じだった。それが1993年から、力感のある構えから打席内で大きな(さらに言えば無駄な)動作をするようにな った。体つきは、かつてよりガッチリするようになり、野茂伊良部の剛速球を豪快なホームランで弾き返すことがあった一方で、明らかに雑な三振が増えるようになった。それまでも調子の起伏が激しい選手ではあったが、この頃から徐々に打撃そのもの劣化している印象があった。

 特に1995年失望の年だった。春のキャンプ清原肉体改造をして相当に絞り込んでいるという姿が伝えられ、今までとは違う精悍な顔つきの清原に、私も「これは期待できるぞ」と思っていた。しかし、シーズンに入ると成績はさっぱりで、相変わらず動作の大きな打撃フォームから、雑な三振を繰り返していた。シーズン後半に走塁中の肉離れ長期離脱をしたが、それまで故障知らずだった清原が、通常のプレー中に大きな怪我をするというのが俄かに信じられなかった。

 この「劣化」の背景には色々考えられる。一つにはよく言われていたことだが、清原自身打者としての理想や上昇志向が高すぎて、欠点を直そうとするばかりに利点を失わせてしまったこと、二つには秋山石毛、辻といった黄金期を支えたベテランメンバーが次々と西武を去り、清原自己満足的な打撃に歯止めをかける存在がいなくなってしまったこと、そして三つ目には、この時期パリーグ球場が新しくかつ広いものとなり、本塁打数も全般的に減少傾向にあったのだが、それに力で対処しようとしてしまったことである

 それでも清原が成長する過程なのかもしれない、と当時はまだ若干の期待を残していたが、巨人入団後に完全に露呈した打たれ弱さ、精神不安定さと、週刊誌の「番長キャラ」に自らも乗っかるようになったことで、清原の将来に期待することは完全になくなった。選手としての能力以前に、人格的に国民スターの器ではない(ある種純粋人間ではあるけど)ことは余りに明らかだった。週刊誌清原ネタを、自分も笑って楽しむようになってしまった。

 2000年以降に(清原によるとホームから離れて打席に立つことで)若干の復活の気配も見せたが、明らに無理なトレーニング野球選手とは言えないような体型となり、毎年のように大きな故障長期離脱を繰り返した。番長キャラにも年々拍車がかかった。オリックストレードされた頃は、既にかつての天性のしなやかさは完全に失われ、最後はまともに走ることすらできなくなっていた。若い頃の清原は頑健というだけではなく、無駄全力プレーをすることがない、身体に負担の少ないプレースタイルだったので、晩年ここまで怪我に悩まされるとは想像もできなかった。

 誰しもが思うことだが、18歳の時に既に完成されていた打撃技術をそのまま大事にし、無理なトレーニングをせずに練習で自然についた筋肉だけで勝負し、私生活でももう少し節制すれば・・・もし1990年の頃の自分に会うことができたら一体何をアドバイスするか、と清原に一度尋ねてみたい。

2009-04-25

282 名前:名無しの心子知らず[sage] 投稿日:2009/04/18(土) 15:21:31 ID:mSAsQXQ4

プロ野球選手子供でちょっとヤバいと思った名前

秋山幸二 → 真凛(まりん

朝倉健太 → 大空(そら)

井口資仁 → 琳王(りお)

池山隆寛 → 拳聖(けんせい)

稲田直人 → 愛輝(あいら)

岩隈久志 → 羽音(うた)

江川 卓 → 早(さき)、与(あと)

栗原健太 → 心愛(ここあ)

小林宏之 → 夢行(ゆあん)

佐伯貴弘 → 珠巴咲(たばさ)

清水隆行 → 咲吏(えみり)

福留孝介 → 颯一(はやと)

藤川球児 → 温大(はると)、絢英(あゆな

松坂大輔 → 日光(にこ)

三浦大輔 → 澪央斗(れおと)

山部 太 → 稀音(けいん)

和田 毅 → 心結(みゆ)

 
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