はてなキーワード: 比喩表現とは
最近、昔読んでいた小説を読みなおすのが自分の中で流行っている。
「新しい話」を読んでいるようであって、以前の自分との対比ができて面白い、からである。
以前読んでいた時には引っかからなかった表現に、「ああこの時この人はこう思っていたのか」と新しい発見を感じることが多いのだ。
よく考えりゃそりゃそうだよな、と納得したり、当時の思い違いを修正するのも楽しい。
また、過去との違いを自覚し、成長を感じられるから楽しいという側面もある。
これは、小さいころわからなかった歌詞の意味が、大人になってふと耳にした時には理解できた、というような経験に近いようにも思う。
ただ、それとは違いがいくつかある。
まずは「空白」の長さだ。
僕が今読んでいる本は5年前当時読んでいたものだ。
他のものも、読み返していてなんだかんだ最後に読んだのは3~5年前のものが多い。
先に出した歌詞の例は10年は余裕で経っていると考えると、なかなか短い。
おそらく、わかるようになった(あるいは、わからなかった)要因も異なるのではないかと考えている。
5歳の時の「わからない」を10歳の時にわかること、というのは、
20歳の時にわからないことが25歳になってわかるようになる、というのとは違うように思うのだ。
幼いころの「わからない」は多分、単語や比喩表現の意味・また比喩に使われる「モノ」を知らなかったからだろう。
「知らずに口ずさんでいたけど「ろっぽーぜんしょー」って「六法全書」のことだったのか」、といったような(まあ当時驚いたのはそんな歌じゃなかったはずだけど)。
これは学生時代に勉強を重ねていくことでそれなりに身につくから、それで解釈できるようになったのだろう。
つまり知識の増加に伴い、知ることのできる事象が増えているといったもの。
けれど今、昔よりも本の中の世界を拡大できているのは、それが重要な要因ではない、と思う。
まず、「大学入ったばっかりの国語もろくに勉強する機会のない自分」と「アラサーの新聞も見出ししか読まないような自分」を比較したところで、
同じ本を読み返して人物の機微をより多く掴めるようには思えない。
ろくに訓練もしていないし、しようとも思ってなかったし、
大学では文学作品に触れる時間が増えたりすることも、それらを読解する専門家の話を聞くこともなかった。
つまり単純に知識が増えたから、理解の範囲が増えたとは言いにくい。
少し話がそれるが、自分は中高生ぐらいの頃から「自分で経験しないと学習しない」性質だと自覚している。
頭で想像の翼を広げたところで地面へ落ち損なうことなど到底できず、数秒間地面を離れる程度の想像力しかないのだ。
貧相な想像力だな、と思うことはあるが、いろんな経験を積む理由になるからと今のところこの素養で悩んだことはない。
想像力がないので落ち込むパターンも時間も多くできないためだろうとふんでいる。
・・・・つまり、今回の件で思ったのは「この5年間は今までで一番人間関係において多様な経験をしてきたから、読書をして分かる範囲が広がったのではないか?」ということである。
『気心知れた心地良い友人関係』以外の世界に足を踏み入れたり関わらざるを得なかったりして、様々な立場についた。
それまでは1パターンの自分しかなかったのだから(我が強すぎていつでも同じスタンスだった)、
それに比べたら何倍も経験を積んだことになる。n種類の立場についたらそのままn倍の経験をしたことになるのだ。
様々な環境に図らずも身をおくことができ、様々な立場の心境をちょこっとでも体験することができたから、
本を読んで「他人の機微」が理解できるようになったのだろうと思う。
今回こんなものを認めたのは、感謝の念を人知れず発信したいと思ったからである。
その経験をさせてくれた皆様と、その蓄積をすべて意味のあるものだと気づかせてくれたある人には本当に感謝してもしきれない。
なぜなら今の段階で僕がこのことに気づくということは、この年齢まで付き合ってくれた友人諸君は、「人の機微もわからない僕」と仲良くし続けてくれていたということにほかならないからだ。
今、本を読んで、知らなかったキャラの機微に気づいて、楽しめている。
それがすごく楽しいことだけでも感謝なのに、今までのことを考えると土に埋まっても感謝の念は表しきれない。
申し訳無さがこの身を覆い尽くさんばかりに襲ってきている、が、そんな醜態を見せても友人は喜ばないのである。
ーーこれからは実生活の方でも、人の機微にもう少し聡くなりたいと考えています。
本を読み返して反芻するのは、その練習になっているといいな、と下心もあるのです。
というわけで、ぜひ、新しくなっていく僕に乞うご期待してくれたら嬉しいななんて。
以上です。