はてなキーワード: アジテーションとは
いや
だからさあ
って
その「同族キモヲタ」って括りが既に、
何を指してるんだか、どういう意図の括りなのか、
あんたの中では自明らしいけど他人にとってはそうじゃないよね?
本当は単に考えや突き詰めが足りないでボンヤリしてるだけな気がするけど。
「分かってる」こと前提にしているのはその通りで、普通の人にゃ理解不能なのも分かる。
違うって
俺エロマンガとか結構読むオタクだけどあんたの話がさっぱりピンと来ない。
個人の主観過ぎる上に、たいして突き詰められてないし、他人にわかる形にしてないからだよ。
他人ていうのはオタク含めての他人。 オタクは全部あんたと同じ人なの?違うでしょ。
下手糞に限って「時間がなかった…!」とか「マウスで線が…!」とかいうコメントを自作イラストにつけるよね
まるで本当はもっとちゃんとしたのが書けるみたいにさあ
元増田です。自分語りばかりになってしまいましたが投稿します。
「みんな」が食べていくには、相応の「生産量」が必要なので、「誰かがさぼれば、その分、自分にしわ寄せがくる」と考えてるからじゃないかなあ。実際、社会保障なんてさ。誰かが納めた税金から、生活保護費とか出るわけでしょう? 余力があるなら、もっと生産して、納税しろよって税金たくさん納めてる人は思うよね。
その視点はあえて追求するのを避けていました。
理由のひとつは、あまりにも殺伐とした短絡的な考えに思えるし、自分にもいわゆる「社畜的な面」があると知っているからです。
私自身、アルバイトなどで明らかに手を抜いている人間を見るといらっとくるのも事実です。さらに言えば、そのいらつきの原因が、おそらく賃金以上のものを相手に求めているから、自分の立場を管理職や経営者のそれに誤って置いてしまっているから、であることも認めなくてはなりません。だから、時給1000円前後のアルバイトに求められるクオリティのハードルはそんなに高くない、と思うようにしています。20歳~25歳の社会人のいったい何パーセントが時給換算で1000円を超えるかは分かりませんが、正社員なら福利厚生やボーナスや社会的地位もありますものね。いらつくたび、手を抜いているかどうか決めるのは自分ではないと自制するし、そのうえで相手が自発的に動くような、自らのパフォーマンスの改善を楽しく有意義に捉えてもらえるような声かけをするよう心がけています。
もうひとつは、そうした社会的葛藤を解消できる、あるいはすべきなのは、葛藤している者同士の対立によってではなく、第三者である(さらに言えば、力ある第三者になれる)政府機関などによる調整によると考えているからです。
国民に納税の義務があるならば、国家には最大多数の最大幸福を果たす義務があるはずです。最大多数から漏れた人は不平不満を訴えるでしょうが、しかし訴える相手を「最大多数派」だけに定めてしまい、選挙権を放棄したり、政治における勢力拡大のための周知活動やロビー活動をしないというのはおかしい。社会を放棄してしまうこと自体もひとつの行動になるのでしょうが、連携がなければ早々に各個つぶれていくだけで終わるでしょうし、攻撃は自分の陣地を増やすには非効率的。だからこそ、私のような少数派はアジテーションの次の段階(たぶん潜在的支持層増加のひそかな促進)に進まなければならない気がします。
個人的意見としては、いまの日本において「最大多数の最大幸福」を実現するには、税収を増加させる以外の解決法はないような気がします(嫌だけど)。でも、それを目に見える形(逆進税=消費税アップ)で断行すると政治的支持を失い政権を失うため、表向きには少数の高額負担者からの収入を増やす格好を取りつつ、多数派層であるサラリーマン層や高齢者層の負担をじりじりと増やす、というのが自民党政権末期(たとえば後期高齢者保険制度とか)で、それを拙速に反転(改善ではない)させようとしているのが民主党(子ども手当⇔扶養者控除廃止とか、高校無償化とか)ではないでしょうか。どちらにしてもこの経済状態では財源確保は難しいでしょうね。
元増田は十分納税義務を果たしていると思うから、その程度で罵倒されるんなら、ニートや引きこもりなんて、どうなることやら。心身の不調は誰でも起こすことだし、努力ではどうにもならない部分が多いのだから、「お互いさま」の気持ちであたたかく見守ってもらいたいもんだとは思う。
私は昨日からの増田さんたちとのやりとりで自分が完璧に心の不調を起こしていると気づかされましたwww生暖かく見守ってwww
ほぼ同意します。「お互いさま」の対義語が、きっと(本来の意味から逸脱していた使い方をされている)「自己責任」なのでしょうね。自己責任は、自分で負うかどうか決めるもので、強迫的に責め立てる理由にはならない。「俺たちの税金」「空気読め」と同じくらいへんてこだし、人々を萎縮させるだけにしか作用していない。そりゃチャレンジ精神も沸かないし、閉塞感も蔓延しますよね。「日本は嫉妬社会」という字面を昨日どこかで見つけて、自分を含めてそのとおりかもしれないなと、とても憂鬱になりました。
それはやはり、私自身が余裕のある生活をしているからで、1日14時間働いても1日の生活費は256円くらいしか計上できません。なんて暮らしだったら、余裕ありそうな人はもっと稼げばいいのになあと思うかも知れない。
余裕ありそうな人はもっと稼げばいいのに、というのは、もっと稼いでもっと税金払えばいいのに、ということでしょうか。
切羽詰まったら「もっと稼げばいいのになあ」なんて思う前に余裕ありそうな人を片っ端から蹴落とすくらいするんじゃないですかね、人は。
京大に「折田像」が今年も登場したが、今年もずいぶんと良い出来であった。例年この二次試験の時期は雨が降り、ともすれば無残な姿を晒しかねないハリボテは、しかし雨を受けてもなお一点の色落ちもなく、見事なものだ。投入された技術は、たしかに数年間の制作の経験が生かされているのだろう。ニュースにもなったし、受験生の目にもおもしろいものとして映ったに違いない。
ところが、である。
京大生の一人として、今年はついに像に対して「憔悴」に近い感情を覚えてしまった。
理由はただ一点。
「誰にでも作れる像を造って、どうするのか?」ということだ。
折田像の歴史は、「誰にも考えつかないことをやってきた」歴史である。塗り替えるだけでは飽きたらず、着せ替え、かぶせ、はては像そのものまでねつ造してきた。それは、真に驚くべき創造力の歴史だ。だからこそ折田像はいまや京大の象徴としてニュースにも取り上げられるほどの知名度を誇るまでになった。毎年毎年、誰ともわからぬ匿名の、それも非公式に建てられた像が、これだけ全国区に有名になったことはかつてないことだろう。まさしく、「創造力」のなしえたことだ。
しかし、だ。この数年に、はたしてその「創造力」が存在しただろうか?
「タケシ」の像に、「誰にも考えつかないこと」の一つや二つがあっただろうか?
皮肉なことに、「よりよくできた像」を作れば作るほど、「創造力」は失われているんじゃないだろうか。今年の像だが、自分の目には、「クォリティが高いものを作っていれば、みんなが喜ぶだろう」という傲慢さだけが目についた。それは言うなれば日本の「モノづくり」の象徴であり、今日本が抱えている問題そのものだ。「作れば売れるだろう」「技術力が高ければ売れるだろう」という傲慢さ、である。日本の家電メーカーがなぜ行き詰まっているか。高い技術力を誇っているのに、なぜ韓国に後れをとっているのか。なぜうまくいかないのか。なぜ沈没しようとしているのか。その問題の象徴が、あの折田像にあるんじゃないだろうか。
日本のものづくりの歴史は、ある意味自らの破壊そのものだった。よりよいものを作るために、これまで常識とされていたスタイルさえ破壊し、新しく、革新的なものを提案していった。それはまるで折田像が汚され、被され、そしてあまつさえ新しく作り替えられた歴史とうり二つだ。そして今、京大にはただ単に「よくできた」というだけの像が建っている。なんのおもしろみもない、ただの像が。技術力と、過去の知名度だけで名をはせる、まるで空虚なあの像が。
それは、完全に行き詰まった日本の姿、そのものではないか。
京大当局は、像をなし崩し的に認め、いや、今や、推奨すらしているかもしれない。いずれ当局の「支援」が行われるかもしれない。「伝統」という名の保護主義のために。その先には、死んで腐った創造力でもたらされる、ただ単に見た目だけがよい、うつろな幻としての折田像が残るだけだろう。そしてそれすら残らなくなる。あとに残るのは、一地方大学として細々存続する京大の姿だ。ああ哀れなり京都大学。日本ナンバー2として、東大と並び称され、「変人」を排出することで知られた大学は、ただのありふれた大学に成り下がるのだ。いや、悲しもうじゃないか。それは世界における、将来の日本の姿そのものなのだから。
ばかばかしいとは思う。あんな像ひとつに、日本の将来を予言させるなんて。でも、危機感を持って欲しい。たたえるだけではなく、新しい創造を行って欲しい。日本を変えるような、すさまじい力が欲しいのだ。
しかし、現実は、少なくとも京大生には――あの像を造った京大生には、その力がない、ということだ。
そろそろ、あの像の姿に、絶望しても良いんじゃないだろうか。
***
相変わらず爆釣だぜ、と。
で、お前さんは「折田先生像」に勝る何かを生み出したの?
はい。
しかしそれは「折田像」という形としては結実しなかった、そういう話です。
やってない奴が何を言っても無駄
本気でそう思うんやったら、こんなわかったようなわからんような文章書いてる暇があったら来年は自分がやったらええやん。
その気がないんやったら、要するに君は自分が言うたことを別に本気で信じてへんいうことやろ。
むろんアジテーションの趣が強いかと思います。
しかし「もののたとえ」は、どんなものにでも当てはまる。必ずしも崩壊は大きな音を立ててやってくるわけじゃない。
そして残念ながら、自己保身と、それから私にとっての「折田像」に忙しくて、私にはリアルの「折田像」を作っている暇がなかったのです。
現在、日本が陥ってる最大の問題は、この日記のように努力を無駄と切り捨てることではないだろうか。
だから、私は「折田像」の制作に関して一切の手出しもしていないし、また、完成した像を汚すこともしていません。
ただ、「そんなことをしていてはダメなんじゃないかな」と言っているだけです。
あまり京大生だから、見た目によくできているからといって擁護するだけでは、何も生まれませんよ。
それこそ護送船団の中で腐るだけです。
***
学生のお遊びごときに「没落日本の象徴」とか、おおげさ。「匿名で学生のお遊びに文句を付けるチキンが出るようでは日本も終わったな」とか言われたら、君はどう思うのかね。「俺は別に日本を代表してねーよ」とでも言うんじゃないのか。
さておき、学生のお遊びならFランでも誰でもできるような「タケシ」の像を京大生がわざわざ造ることに意味はない。
そういう意味で、自らさえぶちこわすような新しい提案をすることは、すでに京大生ですら不可能なんだ(日本第二位(笑)の大学のはずなのに)、絶望しようじゃないかって話です。
「文句をつけるな」などと批判されて、像を精神的に壊すこともままならないなら、残された道はただ物理的な破壊しかない。
「俺達は黙って働いてるのに、文句言うな!お前も黙って働け!」っていうのとまったく同じ。
革新派は、調和の名の下に握りつぶす。びっくりするほど日本の抱えてる問題と同じ構図だね。
その点で、誠に残念ながら、「俺は完全に日本を代表してものを言っている」。
予定調和最高や!自由なんか最初からいらんかったんや!
http://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E5%B7%A6%E7%BF%BC%E3%81%A8%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8D-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-488C-%E9%88%B4%E6%9C%A8-%E8%8B%B1%E7%94%9F/dp/408720488X/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1255857512&sr=1-1
いつの時代にも青春に特有の不安や「自分探し」があるのではないか。世間でいうほど絶対的貧困状態に置かれた若者は多くない(フリーターは被扶養者であることが多い)。かつての新左翼も政治運動としてはナンセンスで、全共闘はマルクス主義というよりアナーキズムに近かった。60年安保も、学生のエリート意識による「集団的なストレス発散」だった。
こういう若者の不安を食い物にする連中はいつの時代にもいるもので、著者が企画した対談で『蟹工船』ブームを起こした雨宮処凜やモリタクなどの「貧困ビジネス」は、ちょっとした成長産業だ。しかしかつての新左翼や原理などと同様、こういうカルトは何も解決しない。ただ新左翼は日本の高度成長の最中にそれを批判する見当違いのお遊びにすぎなかったが、いまロスジェネの直面しているのは日本社会の本物の病だ。
ところが雨宮・モリタク的な貧困ビジネスは、彼らに迎合して再分配によって問題が解決するかのような幻想を振りまく。NHKの「クローズアップ現代」で「“助けて”と言えない30代」という番組が今年最高の視聴率を記録したそうだが、メディアにとっても貧困や自分探しはおいしいビジネスだ。しかし若者を孤立させているのが「新自由主義」による「自己責任」論だとかいうのは、お門違いもいいところだ。それはかつて新左翼が「日帝」とか「独占資本」などの藁人形を相手に闘ったのと同じである。
思えば「アプレゲール」が実存主義を語り、全共闘が疎外論を語ったのも、自分探しのバリエーションだったのかもしれない。最近は哲学ネタもつきたので、社会学がお手軽な不安の理論武装になっているようだ。こうした意匠は時代とともに変わるもので、経済成長で解決するわけではない。雨宮的なアジテーションは、『しがみつかない生き方』みたいな人生論と大差ないのだろう。本書がこの点を指摘したのはおもしろいが、中身は二次資料の切り貼りで読む価値はない。
今更だけど、いわゆる萌え系の恋愛How to本が出まくってるのを見ると、ヲタ合コンとかヲタお見合いとかそんなのが活発化してくるような気がする。いわゆるリア充のようなスタイルを模倣するというか。
昔誰かがヲタで合コンしたけどダメだったみたいな話があったが、アレは時代を先取りしすぎた。
あのときは、色恋沙汰について、2次元から3次元へ、フィクションから現実への移行がほとんど行われていなかった。現在は、いわゆるHow to本の出版やヲタ(もしくは理系)と色恋沙汰を絡めたブログの書籍化など、それがフィクションではなく現実に行われていることだという洗脳というかアジテーションというか、それが考えるほど絵空事でなくなっているんだよ、と言う広報活動が行われている。
<京都での、はてサの自称「反差別デモ」 http://www.mudaijp.com/wp/5515.html で、「反日上等!」と叫ぶことの是非について。>
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>虐げられた人たちと彼らのもとに立とうとする人たちが、敵対性を表に出すのは当然だ
引用されたページ内でもコメントされてましたが、フォローしなくてはいけない当事者実害より「敵対性」を容認してしまうことは、自分の想う「正義・正論」さえ掲げそれを振り回しさえすればドコでもOKという全面容認は、実際にコンフリクトを被る弱者を無視した一方的態度で、他者性・社会性に欠けます。
運動意志決定の立場にある者は、より冷静に問題に纏わる問題を一つ一つ整理していく必要があります。が、得てしてより過激なアジテーションに重点を置く者は、表明とその主体が完全無辜であるか印象づけることばかりに心血をそそぐという自家撞着ループに至っている者が多く、さて肝心要の問題現状がさっぱり明晰分析・検証提示されないので、他者異者には少しも問題共有出来得ず、問題にとっても運動にとっても一番の不幸が続きます。
俺は「お前の」言い回しがうざくて気持ち悪いって言ってるんだ。
古い民法総則の教科書を引っ張りだしてきてみたらその旨書いてあった。
法学的にはその通りだ。
マスコミ報道における「儲けすぎ」批判は法的な可否より、要するに儲け過ぎなんじゃぼけという感じ。いつものアジテーション。
しかしいくら非営利と行っても、倫理的側面から見れば漢検協会を使って理事長が不当に金儲けしてるという批判はあり得る。
2.漢検協会が広告出稿を発注している会社は理事長本人が経営している会社でありそこで理事長の懐に金が入る。実質的に構成員に分配(独占だけど)されてる。そのうえ随意契約で漢検協会に不当な損失を与えている可能性がある。そもそも広告代理店に直接発注すれば良いし、入札だって考えてよい。
まあ巷間ありがちな補助金もらって天下り先作っただけの財団法人と違って、ここはまだ自分たちで漢字検定というビジネスをやってるだけましとは思うんだが、それでも理事長の好き勝手でやってるふうなのがお上の逆鱗に触れたのかもね。
それでも理事長本人が文部省出身だったらこんな事件は表面化しなかったかも知れない。
従来漢検協会がどれほど天下りを受け入れていたか知らないが、漢字検定が巨大なビジネスとして育った今、今後はトップからまるごと文部省の天下り先として接収されるんじゃないか。もしかすると乗っ取るために理事長を泳がせていた?そうだったらまさに孔明の罠だ。
いしけりさんのブログをみた。すなおに、これでよかったと思った。
http://blogs.yahoo.co.jp/isikeriasobi/56046895.html
今度の件は簡単で、選挙が近いから保守派が選挙対策にネットを利用して騒いだんだと思う。人権擁護法案反対運動から、こういう光景は見慣れている。僕は見慣れていたけど、見慣れない人もたくさんいただろう。ネットを政治が利用するって、つまりこういうことなんですよ。
でも、最後に判断するのは有権者なんだよね。あまりアジテーションはやりたくない。やりたくないけどやっぱり言いたい。
こんなつまらんことで大騒ぎして国民にウソの解釈を吹き回った国会議員、立候補予定者には、絶対に投票しないでおこうよ。そして国会議員のバッジは永久にはずしてもらおう。それが。それだけが、ひとりひとりに与えられた責任じゃないのか。
http://blog.livedoor.jp/habuakihiro/archives/65115500.html 「元請けにこだわる理由」に
とあったので、すでにスーパースター級の人が答えてるけど、凡庸な人も答えてみる。こっちの方が圧倒的に数は多いので、意味なくはないかと。
自社のバックオフィスの方が、外注先に対してどんな立ち居振る舞いをしているのかご存じですか? 自社と外注先との間の契約がどのようになっているのかご存じですか? それを目の当たりにしても同じことを言い続けられる自信はありますか? そういうことはスーツの仕事とレッテルを貼って見て見ぬ振りをしてませんか? それでいて業界を変えたいなどといいますか?まず自社の外注先との関係をもっとしっかりと構築する気概を見せて頂きたい。
ほとんど知りません。たまに購買部署から納品・検収日をずらせとか指示が来るので、結構えげつない事もしてるかもとは思います。その問題は重大です。重大ですがしかし、それが重大だからと言って、技術が重要である事には変わりありませんし、外注さんにとっても技術を磨く事が有益である事も変わりはないので、言い続けない理由がないです。購買部署もコスト削減のために数人で数百の発注を滝のようにこなしつつ、常に上からの指示される目標数字に実態に合わすための仕事に忙殺されていて、1開発部門の1開発者が理想論をぶっても聞く耳を持つ余裕はないようです。
みんなで技術力を向上しようなどとアジテーションを繰り返しても、その成果を挫くような契約形態を取ってる会社に属して禄を食んでいるのが事実なのではないですか? 会社名の入った名刺を持つ時点で、会社の看板を担う一人なのです。住宅ローンを組むときに所属企業の信用があるから組めるというのは、それは「会社と自分は関係ない」などとは言えないということなのです。自分の信用は自分だけの力ではないのです。
すみません。ごめんなさい。生きててすみません。ただ、たしかにローンもカードも作れますが、給料については大学の同期で金融とかメディア系とか他業種に行った連中の話を聞くと、うーんって感じではあります。それでも、計算機が好きなので、後悔はしてませんが。
エンドユーザのところに謝罪に行く際に外注先を連座させて「開発したのはこの会社です」などとやるなら、だったら元請けなどやらなければいい。何のためにマージンを抜いているのか? お金を頂くに値する仕事をすべきです。
そんな事は自分や自分の周りではあり得ません。たとえ外注さんがこっちの言う事を無視して隠れて手抜きをしたのが原因であっても、謝りに行くのは我々です。厳しいお客さんは、原因の顛末の詳細を文書で要求しますが、当然元請けであるうちらの不手際という内容の文章を作って提出します。
作業が忙しいのと仕事が忙しいのは別の話です。俺たちだって忙しいんだ、などと下請けに対しては死んでも口にするものじゃないのです。言うべきは「お仕事を引き受けてくれてありがとうございます」です。その程度の節も通せないから、デスマるのです。プロジェクトマネジメントの筋も曲がってしまい機能しなくなるのです。筋を通すために体を張れずして何がマネジメントぞ。
これは意味が分りません。もちろんパートナーなので下に見るのはいけませんしそう心掛けていますが、上に見なくてはいけない理由が分りません。こちらの仕切りの迷惑を掛ける事もありそう言うときは平身低頭でお願いしていますが、逆に隠れた手抜きとかショボイ出来やスキルが追っつかなくてそもそも全く出来ないとかそういうを、外注さんがほとんど帰宅して家でのんびりだか彼女とよろしくやってる頃に、事務所で必死に尻ぬぐいしてるのも事実です。パートナーはパートナーです。
弊社などとは比較にならないほどの資本力と人材を持っていながら、一向に生産性が改善されないのは何故ですか? 相変わらず外注頼りなのは何故ですか? 自社で完結出来ない案件を受注するのを恥ずかしいとは感じないのですか? 何故10年前と取引価格が変わらないのですか? ブログなどで社外の人に向けてに叫ぶより先に、自社の中で行動して自社を変えてください。身の回り一つ変えられなくて、何が業界ですか? 何が社会ですか? 何が世界ですか? やりたいこと・出来ることをやってるだけで、世の中が変わるほどそんな都合のいいことはないのです。社内で上り詰めて改革をするくらいの気概を見せてください。
外注さんのメンバーは身の回りですが、購買部門も自社システム部門も開発部門からはまったく身の回りでないどころか別世界です。あと、重要な事を言いますと人月ベースで生産性が上がっていないというのは、本業としてお客さんには申し訳ないですが、外注さんにとっては生命線と言って良いほど必要なものです。もっとアジャイルでどんどん回せるような人だけでやれば生産性は上がりますが、通常の外注さんでそのレベルの人はリーダクラスとか一部だけです。多く見積もっても3??4人に一人がいいところ。羽生さんの所のような高スキル集団は極端な例外。そんなやり方をしたら、外注さんの売り上げはよくて半減、そして外注さんの7割は飯を食えなくなります。自由競争の社会ですから仕方ないと言えばそうかも知れませんが、自分は一緒にやっている外注さんのメンバがそうなるのは忍びないと感じるのは正直なところです。
1年前と・3年前と比較して、何をどれくらい変えることが出来ましたか? その実績をこそ叫んでください。これからの話よりも前に、これまでの苦闘とその結果を語ってください。であればこそ、その奮闘の先にある未来を信じることも出来るでしょう。プロは結果でのみ評価されます。
購買部門も自社システム部門も手が届かないので、身の回りは低レベルながら変えています。無駄なモノは作らなくて良いようにしたり、意思疎通を改善したり、外注さんのスキルアップをしやすいシステムにしたり、などなど。もちろん、羽生さんや比嘉さんみたいなデッカい事は出来ていませんが、コツコツとやっています。
購買部門も自社システム部門も、経営レベルで「これでは立ちゆかない」という危機意識を持たない限り変わらないと思います。一開発部門の一開発者が叫んでも、煙たがられて消されるだけです。自分も消されはしてませんが、圧力は何度も受けています。彼らに危機意識を持たせるには、羽生さんのような所が頑張って追い込んで貰うが非常に重要だと思っていて、影ながら応援しています。これからも頑張ってください。
なんか風物詩の様な感覚ではあるけど、再び児童ポルノ問題が取り沙汰されてるね。
この手の規制法案って過去何度か挙がっては消えを繰り返されているけど、
その度に2chを中心(?)に大々的な反対活動と宣伝がされてたと記憶しているが、
俺も昔は「こりゃイカン!俺も反対運動しなくちゃ、とんでもないことになるぞ!」等と
可決後の日本を憂いていたさ。(実際には活動しなかったけど)
でも、いつのまにか風化して、結局ネラーの活動がどの程度の規模で、どの程度影響があったかなんて知らぬまま。
むしろ似たような規制ばかりが取り沙汰され、その度に反対運動がされるもんだから
これも一種のアジテーションなのか?と懐疑的になる始末。
今回の騒動も同様で、冷ややかに静観している状態。
これも大して騒ぐ事でもないんじゃねーの?と思えて熱くはなれない。
ときどき自分はものすごく馬鹿で非常識なんじゃないかと思うことがある。
たとえば
半日くらい真剣に、会社の問題点を考えて、それを資料にまとめる。
かなり網羅的に検討してるし、問題点を分かりやすくまとめて、それに対して前向きな解決案を書けたと、自分では思う。
自信を持って提案するものの、玉砕。理由は・・・
特にないんだ。
単に反応がない。
網羅的な検討とか、本質的な問題解決なんて、実は誰も求めてない。
キャッチーなバズワードが欲しいんだと思う。それが「心に響く提案」ってもんだ。
大多数にとって、正論を振り回すなんてことは「鬱陶しいこと」に過ぎない。
僕らよりずっと偉くて有名でいい収入を得てる彼らが、何か一つでも正論を言って前向きな解決に合意形成できるか?
単にワーワーと自分や党や既得権益の立場からの意見を一方的に言って、相手の意見なんて聞きやしない。
ここでは「議論していること」が大事なんだよ。議論が前進して何かを解決することじゃない。ポーズだ。
何か社会的に重要なアジテーションを、みんなが納得するように意見形成できてるマスコミが一つでもあるか?
彼らにも哲学なんて無いんだ。すべては「報道してる」「社会派」みたいなポーズが必要なんだ。
理由は「日本人は忘れっぽいから」。
マスコミは「視聴率がとれなくなるから」近日中にニュースにするのをやめるだろう。
政治家は「国民の支持を得るために」もっと議論のかっこがつく、新しい意見が言える問題に移っていくだろう。
僕らが悪いんだよね。忘れるから。
そして、正論を鬱陶しがるから。
めんどくさいことが嫌いなんだ。それに同じことを聞かされるのは飽きる。問題意識はあっても解決する責任は無い。
当事者意識の無い烏合の衆がしたり顔で批判ばかりしてるから、何も進まないし、それを知ってる人たちは時間稼ぎの牛歩戦略をとることになる。
おれはね、でもね、許さないよそういうのは。
鬱陶しいと思われても、正論をぶつけてやるし、しつこくしつこく問題を追及してやる。
おれはマッチョじゃないし、マッチョにはなれないけど、だからこそ自分が所属する組織、会社も社会も、良くなるように声を上げ続ける。
そうじゃないと、このままじゃ潰されるからね。やるしかないし、そういう危機感を共有していきたい。
年末年始短期バイトの応募の電話は、仕事納めを直前に控えているであろう相手の、電話の前で生あくびしているようなぬるさの感じられる、「応募者多数で締め切らせてもらいました」というあっけない温度の低いもので、あえなく私の駆け込み熱は切り取られる……「応募者多数……」の前にせめて「申し訳ございません」でもあれば慰撫されるものがあったのかどうか、私に渡されることのなかった感情労働は家族と恋人に向けられるのだろうか、さして関心がなく……まったくこのふつふつとしたこれでは年を越せないという焦燥と、年末の振り返りモードに入るブログ主の一個一個の出来事の見事な忘却具合への苛立ちが混じりあっているのかどうなのか、直線の形をした記述による忘却、グラフを眺めて悦に入るものにはツリー状の、ツリーの先で腐乱していく出来事が見えてもいないし、それだけを大事に取って置くという方法しかとれないものに対する配慮はまったくなく、果実をもぎ取って行くだけ、「私には確かな収穫があるのです!」おめでとうおめでとうでっていう……祝祭に背を向けるしか方途のない仲間さえいてくれれば、家々から出た暖気に暖められた通りの空気を蹴散らすことも可能であるのに、やはりここは寒く、「どうしようもない」という現実原則の最終項が降りてくる。リア充がくる、リア充が来る、たわいもない雑談の中にリアルを持ち込みながら、リアルである強さを纏わせて、リア充が来る、冬厨が来る。年齢関係なく、話すことそれ自体が説教としかいいようのないリア充が、冬厨が、ネット空間に溢れ出し、「ここを作ったのは俺だ!」と言い始める。そう、世界はあなたのものであるかのような風采を呈している、とあなたには映っているのかもしれず、眼差し自身を脱臼する作法はいったいどこにあるのだろうかとわれわれ(!)は模索しはじめる。次に粉砕すべきは正月ではないのか、いやしかしわれわれにはコタツと甘酸っぱい蜜柑を自ら手放すなどということはできない、いやわれわれはコタツも甘酸っぱい蜜柑もはじめからないのではなかったか、ここにあるのは何だ、大掃除できない鬱陶しさの塊としての事物か、われわれはいったい……せめてわれわれという全人称が、空疎で破廉恥なアジテーションが市民や国民や俺や僕や私の癒着をさらに溶かしますように。退屈な幼女を探している。分厚いコートを纏い呆けた振りをする肌でなく、寒さそれ自身としての肌を、退屈な幼女を(ry
ブクマで人気だから読んだのだが
著作権違反の違法コピーやそれらをネットで手に入れる違法ダウンロードが問題になって久しいですが、音楽業界にとってはいささか衝撃的とも言える調査結果が発表されました。
ところが記事でも元ネタと紹介しているカナダ政府委託調査に関する日本語でのエントリー「カナダ政府委託調査:ヘビーP2Pファイル共有ユーザほどより多くのCDを購入」では
カナダ全体の集団の分析では、P2Pネットワークからダウンロードされるファイルの数と購入されるCDとの正の関係も、負の関係も見られない。
とあるように、この調査では大きく2つの論旨が導き出されている。
したがって
「違法ダウンロードされたほうがCDは売れる」という表題の表現までには飛躍があり、しかしすぐ後に「違法ダウンロードをしてる人ほど音楽CDをたくさん買っている」と表現こそ似てるが因果関係と相関関係を入れ替えた全然異なる言い直しをしていることから誤解に誘導する意図があるのが分かる。
想像するに音楽ファンは興味があるからいろんなものをいっぱいタダでダウンするけどCDもたくさん買うのだろう。しかし一方で全体に影響がないということはCDを買う予算はあらかじめ決まっていて購買はその範囲を出ず、リサーチのためにP2Pを利用していると想像できる。
プロモーションとしては有効かもしれないが、売上げを伸ばすとまで言うのはアジテーションというものだろう。嘘をつくと己に帰ってくるものだ。だからP2Pの未来を思うなら嘘をつくべきではないと思うのだが。
仕事以外のものにはなりうるし、なっているが、生産性志向批判をしている以上、生産性を重んじる人から批判されるのは当然だね。他人が書いた保守性の低いプログラムのために自分の生活の質を何度も落とされている人はたくさんいるから。苦労話のコメントに「現場のことなんかどうでもいい」と書けば、上から目線と指弾されるのも当たり前。
繰り返すが、増田がやるべきは社会に対してアジテーションをぶちまけることじゃなくて、自分が作った作品で問うことだよ。笑われるかもしれないが、批判されるようなことじゃない。それに対して広く世にスパゲッティプログラムの復権を問うようなまねをすれば、袋叩きもやむなし。
http://anond.hatelabo.jp/20070831032758
こういう時に自由に放言できるのが増田の良さでもあると思うので、ストレートに。
私は貧困の解消とか、弱者を救えとか、そういういかにもリベラルなスローガンにあまり関心が無い。それよりも今の自分の仕事をしているほうが面白い。もちろん、ダルフールのニュースとか、または最近増田でいくつか紹介されてい親に恵まれない故のきついエピソードとかを読めば胸が痛む。小額なら募金もする。でもせいぜいその程度で、友人のように海外青年協力隊でアフリカに行こうなんて考えたこともないし、そのチャンスが与えられても即座に断る。私には他にやりたいことがあるから。
一応海外で働いている以上、日本の看板(の端っこ)は背負っていると思っている。だから、今の職場で「日本人はなかなか使えるじゃないか、また雇おう」と思ってもらえるようにすることが私に出来るせめてもの貢献。欧米で日本人が(アジア人が)現地採用されるっていうのは、そんなに簡単なことじゃないからね、現状では。もちろん、それは何よりも自分のためでもある。後は新しいエントリーのほうでも書いたけど、自分の失敗談を他人にシェアすること。一個人として社会に出来ることはそのくらい。
むしろ、大上段の議論「だけ」をして、それで自分が社会に対して何事かを為した気分になっている人の方が、私は問題だと思う(これは特定の人のことじゃなくて、社会党とか共産党系の人にかなり幅広く見られる傾向だと思う)。
それから最後に、私は共感を求めて文章を書いているわけじゃない。幸い前のエントリーは数百人、もしかしたら千人以上の人が呼んでくれたかもしれない。彼らがみんな同じ感じ方をするわけが無い。共感だけを要求する文章はアジテーションと大差ない。反感を感じてくれても結構。私の文章が何がしかの思考の糧になるなら、そこでどんな感情が生じようが、私は全く気にしない。出来れば、その思索の時間が有意義なものであってほしいとは思うけど。