「公共にエロが氾濫していると社会の構成員が影響されて犯罪に走るようになる」みたいなのは根拠を持って証明することがほぼ不可能なレベルで困難だから、規制の根拠とするのはやめたほうがいいと思うんだよな。そんで、同時に「害悪性を証明できないのにお気持ちで規制とかwwww」とかいう自由戦士も最初から不可能なのがわかってて煽りたいだけで言っており、人間性が腐ってるので議論をする気がない。
「害悪性の証明」などと言い出したら、性器丸出しの全裸イラストを駅に掲示するのだって、本質的には「何が悪い! 規制は悪!」ということになってしまうが、まあ9割以上の現代日本人はそれはさすがに直感的に受け入れられないと思う。受け入れられないよね? …え、マジすか? もし自由戦士が「それは法律で規制されているから客観的基準たりうる」と言い出すのなら、それは単にフェミの規制はムカつくが、お上の規制はしたがいます、という奴隷根性の表明であり、議論にならない。
結局のところ、「公共空間における表現の規制」というのは社会の構成員の心理的安全性を「できるだけ」守る、ということに尽きるんだよ。幼女やJKの半裸イラストが公共空間にあふれていることに、強いストレスを感じる人が無視できないレベルで存在し、該当エロ表現が誰かにとって絶対的に必要でない限り、それは考慮されなければならない。もちろん、権力によって規制されるよりは、公共空間の管理者が自主的に考慮するほうが望ましい。
「半裸にストレスとかフェミのお気持ちwwwww」という手合いには、たとえば「労働者は奴隷! 経営者は社員を生かさず殺さず搾取しよう!」とか、「オタクは社会の養分! オタグッズをつくって破産するまで搾取しよう!」というフィクションがマジョリティによって愛好され、日常的に町中に氾濫しているような状況を想像してみよう。たとえそれが実行したら違法であり、ただの表現ですよ、といわれても、そんな社会でノンストレスで安心して生きていけるだろうか。それはやはり、一人一人を尊重する民主主義社会において、公共空間で押し付けられるべき状況ではない。
自由戦士陣営は「公共」があたかも自然物のようにニュートラルにただそこに中立にある所与のものだと考えている節があるけど、あくまで人間の社会におけるある作られた空間であって、どこまでいっても具体的な人間が作り、管理するものなんだわ。だから、公共空間では誰もが無限に自由であってよいわけではない。他者の自由と衝突する自由は、人間たちの話し合いによって調整されなくてはならない。逆に、ヒステリック規制派は自明のルールが所与のものとしてあると当然に考えている。ルールは自然発生しないし相対的なので、対立する人間と対話しなければならない
まあしかしかといって、すべてのセクシー表現を町中から排斥するべきだとは俺も思わない。不毛な「お気持ち」論破は双方やめて、思いやりを持って落としどころを探るような議論がインターネットに表れてほしいと願っているよ。無理だろうけど。