2016-05-28

の子時代はまだ詰め込み学習が幅を利かせていた時代で、全国展開している塾が満員御礼時代だった。

御多分にもれず教育ママだった母のもとに生まれた俺は、ある程度の金銭的余裕もあり、勉強以外にも多種多様習い事を受けた。

週二日の塾が2つ、毎日の家庭学習教材が一つ、習字そろばんスイミングスクール英会話野球

小学校までは季節毎に活動部活が変わるため(期間制だった)、サッカーバスケ水泳陸上と、受けられるだけの部活動を行い

中学からバスケ部所属し、上記習い事と家庭学習に加えて学校練習量の多い部活を両立した。

今、俺は学歴必要ない、上記の様々な分野とは全く関係ない生活を送っている。

基本的能力が平均的以下な俺は、これだけ勉強しても偏差値63が限界だった。県内一の進学校に落ち、滑り止めの私学に入った時には、

はいつの間にか侵されていた癌で入院していた。

間もなく母は死に、解放された私は全ての柵を捨て、勉学を一切放棄し、成績不振留年が決定したと同時に高校をやめた。

皮肉なことに、高校をやめてから進んだ道が今の職業に繋がっている。

中学卒業までの生活は、基本的苦痛だった。毎日毎日勉強ノルマがあり、母にチェックを得てから眠る日々だった。

習い事ノルマしかなかったので、いか効率的に終わらせるかという一点にしか興味がなかった。

(例外として、学友の多く所属していた野球をしている時、塾の休憩時間にお喋りをしている時は楽しかった。)

興味の無い習い事は、一定レベルまでしか身につかなかった。具体例を上げると、夏休み習字宿題評点で銀賞をたまに貰うくらい。水泳部マイナーな種目の三番手くらい。

時間を費やしても全く成長の意欲が無かったうえに、(あとから気づいた事だが)才能も劣っていたために、ただの器用貧乏が生まれた。

逆に、何もしなくてもいい点数がもらえるものが幾つかあった。教科で言えば国語現国は、何も勉強しなくても90点は取れた。漢字の書き取り以外は間違える気がしなかったし、実際ほぼそうだった。

音楽も同じ様に、リコーダー演奏も平均よりはるかにできたし、小学生時分のイベント特別楽器演奏できるとあらば名乗りを上げた。文化祭学芸会の劇ではサックスアコーディオンを誰に習わずとも独学で勉強し、演奏した。歌は基本的に手本となる生徒だった。

夏休み昆虫スケッチ習字よりも良い賞をもらえることが多かった。

今になって子供時代を振り返ると、なぜあの時に今の道に触れることができなかったのかと後悔する。なぜ専門家の道を最初考慮しなかったのか。

その道は、後になって発見しても遅いのだ。高校入学時に洞窟発見しても、辺りはもう夕暮れなのだ

母に対して思う事はそんなに無い。死んでから時間が経っているのもあるが、上記生活の辛さと、その他少しのいい思い出、それに同情と申し訳無さが合わさってある程度フラットになっている。

ただ、後悔だけが残ってしまった。

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