http://b.hatena.ne.jp/entry/hamusoku.com/archives/4854701.html
最大勢力だけ出力。
anpo-sumeragi うーん。個人的には「お客さんを馬鹿にするような事」をする店員のいる店には2度と行きたくないし、それを黙認するような会社もどうかと思うんだけど。私みたいのは少数派なんだろうか。
ryokusai中傷云々より自社製品を持つてないことを誇らしげにツイートしたのがばれた時点で普通の神経なら会社にはゐられまいよ。 2011/05/25
自分の妻を「ビッチを具現化したような女」呼ばわりする店員が居る店なんて二度と行きたくないけど、可哀想って言ってる人はそう思わないのかな…そういう噂が広まると顧客減るし、店側としては妥当な対応と思われ。
rbtsro 接客業でこんなことしでかしたんだから、クビが重い対応とは思わないな。 2011/05/25
rebirthen 「処分が厳しすぎる」といってる人は「テラ豚丼騒動」のときのことを思い出してみよう。
K-Ono 「顧客」に対する損害を与えたのだからなー。まあ少なくとも顧客対応はさせれねえ。それに「イヤな店員」と接して次行きたいと思わんでしょ/やりすぎって思ってる人はリテールの接客業なめてんのかこら。 2011/05/26
jiki8man 身分を明らかにした上で顧客・契約選手を馬鹿にする社員を雇い続けるメリットなんてないでしょ。解雇が可哀想なんて思わんよ。 2011/05/26
wbbrz 契約選手や自社商品に敬意を払えない上に、それを公に発信してしまうような人間は、ブランドの社員としては不適格。無関係な身内に被害が及んだり賠償責任が出たりしたら可哀想だが、ただの解雇なら妥当かと。
彼らの心情の中には当然ながら「組織に属した人間として不適切な振る舞いだ」というのがあるだろう。
しかしよっぽどの社畜でもない限りは「取引先がウザい。営業のアイツ脂汗で窒息してあのダミ声をもっとダミラせて死なねーかなー」のひとつぐらいは思うはずだ。
そしてこれはもちろん問題ない。「内心の自由」というやつだ。これも社畜でない限り納得していただけると思う。
さて、Twitterの炎上事件に共通するものがある。それは「Twitterで内心を発露した」ということである。「バカの可視化」と言われる所以はここにあると言ってよい。
つまり、アクセシビリティの飛躍的な向上により、内心が可視化されるケースが増えたということである。
もちろん、内心の自由を実際に表現してしまった以上、それは内心とは呼べない。ただ、その方法自体は匿名が掲示板で愚痴を吐くというルートと同じである。
そしてたとえ匿名だろうと書き方によっては補導されるだろう。「殺す」とかね。つもりはなくても、書いたらダメってわけだ。
ネットはもはやグチをこぼすツールとしては成立し得ないのだ。公共性が高まり、そこにおいても私情を殺すことが優先される。プライベートが存在しないというのはすべてがパブリックということだ。その意味を少し考えるべきである。もちろんそれはネットにおける活動が表現としての役割が強まっているとも言える。
少し話がそれるが卑近な話題としては、大阪府条例におそらくなるだろう国歌起立の問題がある。
ここでこれを支持する人間の主だった意見としては「公共性が高い、職務命令がすでにされている、職業選択の自由があるんだから嫌ならやめろ」というのがある(反日がどうだとか当たり前だとかいう多くのノイズは、残念ながら”意見”とは程遠い)
はじめに「公共性が高い」という意見について考える。式典が公共性が高い場である、という主張であり、ゆえに起立しないという私事で調和を乱す行為は許されないというのがおもだった筋だ。つまり「ご起立願います」という進行があるのだから、それに従わないのは許されない、ということである
(私は、この文言がないのであれば座っていても公共性は損なわれないとするスタンスだが、おおかたの式典ではそういったアナウンスがあるだろう)
職業選択の自由があるんだから嫌ならやめろ、という意見もある。ただ、この主張は「従うのがあたりまえだろ」という奴隷意識に根ざしているものもいくつか見られているため、あまりいい気分はしなかったのがしょうじきなところだ。
さて、なぜこの二つを取り上げたかというと、組織に従属する人間の行動が、他人に与える影響についてはほぼ似通っているということだ。そしてそれはやはり論理とはかけはなれた、感情に起因するものである。
私は企業の判断は判断として受け取るべきだと考えている。すなわち、プロセスはどうあれ、一旦はその命令を受けて、彼女は職を辞するべきである。しかしそれは当然ながら他人の溜飲を下げるためにするものではない。それを望む人間が転び公妨などの類を否定するならただの無知と傲慢と油断だ。
このふたつの例における「クビは妥当」と「嫌ならやめろ」は同根である。もっと言ってしまえば、集団の構成員に思想信条の自由などは存在しないということである。
もちろんそこには「集団に適格な資質」が内在している。つまり、内心に叛意を抱くことのない強固な愛国心、愛社心が求められているということだ。構成員である以上トップダウンは絶対であり、構成員もそれに逆らってはならないのである。そしてあろうことかそれは「外圧」によってなされるということだ。
もちろんNOだ。
これはゼロリスクと同じ(All or Nothing)の思考である。信仰くさく言えば「処女性」である。処女性は未経験に起因するのではない、その純潔さの信仰によって得られるのだ。一縷の穢れさえ許されない、ということだ。
だからこそ彼らは集団にもその純潔さとしての整然を求めるし、調和の取れた動きとしてミリタリスムな行動を求めるのである。
彼女は排外されたのだ。穢れたものとして。穢れた人間のいる店には通いたくないという外圧を前にして排外されたのだ。
彼女は何処へ行くのだろう。穢れた公務員は何処へ行くのだろう。
彼らにはNIMBYこそふさわしい。そう考える。あるいはNIMBYさえも相応しくない。そう考える。
奴らと同じ空気を吸いたくない。
こういう欲求が、ヒトを殺す。
そしてそれは、合法だ。
今日も見えないところで人が死ぬ。
それは信徒の意志だ。