人間が都合のいいものだけを求めて都市を作った。そこまでは良かったのだが、あまりに都合がいい世界が出来上がってしまったがために、逆に都合の悪いものが目立ち、それに若者は怯えている。
人間の存在そのものが、人工物だらけの都市にとっては都合が悪い。
しかしそう思う自分自身も人間であり、自然物だ。この耐えがたい矛盾から逃れる方法はただ一つ、引きこもること。
実は引きこもるという選択は現代人にとってとても合理的で正しい選択なのだ。
だがここで疑問が生じる。人間を避けるために引きこもっているはずの人々が、こぞってネットをやりたがる理由は何?暇つぶしのネタが欲しいならマンガでもアニメでもテレビでもいいのに。
ご存知の通りネットというのは単なる情報が膨大にある場所ではなく、人間が暮らす場所の一つである。ネットを使う人間は時には一緒にゲームをし、掲示板で誰かの悪口を書き、動画にコメントを投稿し、オフ会をして盛り上がる。なぜ現実の人間が怖いはずの人々がこんなネットの世界にハマるのだろうか。
「人間は人間といるのが一番楽しいから」と思った人は、惜しい。概ね正解ではあるが足りない。答えはこうだ。「人間は"都合のいい"人間といるのが一番楽しいから」だ。
都合の良い人間とは、とても極論すれば「自分の悪口を言わない人間」のことである。自然物としての人間は、都合の良い人間であり都合の悪い人間である。だから、一緒にいて楽しい時もあれば楽しくないときもある。仲良くしていたと思ったら悪口を言われ喧嘩してしまうこともある。それが自然物としての人間だ。
しかし、彼ら、つまり人工物に囲まれて生きてきた人間にとって、普通の人間の「都合の悪い面」というのは恐ろしくて恐ろしくてたまらないもので、関わりたいとは到底思えないものなのだ。
それは彼らがひたすら都合のいい環境でだけ生きてきたからに他ならない。自然と共に生きる人間は自分の思い通りにいかなくても案外すんなりと妥協するし、それをいつまでも記憶に留めていたりはしない。しかし彼らは違う。彼らにとって都合が悪いことというのは、そもそも「ありえない」「あってはならない」ことで、存在そのものが許されないのだ。
人工化の過程にある現代ではここまで極端な考え方をする子供は珍しいかもしれないが、レベル的には近い人間はごろごろいる。引きこもっているのはそんな人間達だ。
話をネットに戻すと、ネットというのはじゃあどのくらい都合のいい人間がいるのか。
たとえば同じ趣味を元に集まったグループであれば、「自分の趣味を理解してくれない」人間は排除されている。つまり、自分にとって居心地のいい世界がそこにあるわけだ。
また、ニコニコ動画では不都合なコメントをフィルターで隠すことが出来る。自分の好きな動画をけなす「不都合な人間」は排除できる仕組みだ。ネットゲームでも、自分が嫌いな人間は簡単に「ブラックリスト」に登録して消すことが出来る。
現実世界では、こういうことはなかなか簡単には出来ない。フィルタリングのように存在を見えなくするためには「殺す」しかないだろう。殺すという行為は、ネット上でのフィルターをかけるという行為と比べてあまりにもリスクが高い。これも、不都合なことは簡単には出来ない現実世界の不自由さであり、彼らが社会に出るのを嫌がる理由でもある。
ネットでは自分の見たいものだけを見ることが出来る。そもそも人間は見たいものしか見ない生き物だが、そこで待ったをかけるのが自然物であった。だから、人間は心の底から「見たいものだけ見る」のではなく、不都合なこともどうにか許容してきた。この許容の精神こそが、社会で言うところの大人に求められる能力であり、これが出来ない人間を世間では子供と呼ぶ。
しかし一方で、「大人」たちは子供のために安全で快適な人工環境を作り続けてきた。学校というミニ社会で子供は自然物たる人間と出会うが、彼らが自分に不都合なことをした場合、親が学校に殴り込み、不都合を解消しようとする。子供は何もせずに、まるでネットゲームの不具合が解消されるのを待っているだけだ。親はなぜ学校ではなく不都合な子供自身を責めないのか。自然とは制御出来ないものだからである。人工環境の中にいる人間には自然を「なんとかする」という気持ちはそもそもなく、不満を言ってそれが解消されるのを待つだけだ。もはや自然=不具合であり、不具合だから誰か(サービス提供者)がさっさと直してよということになる。一見すると学校に殴り込み教師に向かって怒鳴り散らすモンスターペアレントは異常だが、彼らの行動原理は「レストランで座っている席が汚れているから文句を言う」のとほとんど変わらないものであり、サービスを受けているのは自分なのになぜテーブルを掃除(=息子をいじめた子供に説教)しなきゃならないのかということなのだ。そして、学校の教師というサービス提供者は自然物たる人間ではなくただの「サービス提供機械」なのであり、人間扱いする必要はないということになる。コンビニ店員に代表される第三次産業従事者が時に非人間的な扱いを受けることがあるのはこういったものの考え方をする人間がいるからだろう。
これらを「おかしい」と思うのはもう古い。
人間にとって都合の良い環境を「人間が」作っていることを忘れた人間がいても、それは都市の副産物であり何ら驚くに値しない。
不都合な出来事がなくなり都合の良い世界にだけ暮らす人間はとてつもなくわがままで自己中心的で傲慢でとてもじゃないが一緒に付き合おうとは思わないだろう。
しかしそれでいいのである。そもそも人間は「誰かと一緒にいなければならない」環境を改善するために文明を発展させてきた。本来、自分の生命だけを第一に考える人間が手をつないで仲良く暮らすことなど出来るはずがない。過去の人類はその不都合を「仕方なく」受け入れてきたに過ぎない。よって、人と人との繋がりを修復しようとか、過去つまり現在よりも人工化が進んでいない時代に戻ろうとする思想は全てまやかしであり自己満足である。誰も真の意味で分かりあいたくなどない。必要なのは「自分を完全に受け入れてくれる」「自分の思い通りになる」人間だけであって、それはすなわち自分以外にありえないのだ。
人間は不都合な出来事にはそろそろ耐えられなくなってきた。大いに結構なことだ。引きこもり達よ、君たちは未来の人類のモデルケースとして存在している。自分を否定する必要はない。大いに受け入れよ。