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2010-02-14

狂人失格』を読んでみようかなと思った理由。

 友人に中村うさぎが大好きな人がいた。

 本が好きと言っていたけど、たぶん生き方とかも、あれこれ気にしていた気がする。

 なれるものならきっと中村うさぎになりたかったぐらい、好きだったんじゃないかと思う。

 中村うさぎの本は、当時角川スニーカー文庫で『ロードス島戦記』を読んでいた流れで、その系列は片っ端から読んでいた。

ゴクドーくん漫遊記』にはそれほど大きな思い入れはないけれど、いまにして思うと人によってはもっと違った映像が見えたのかも知れない。

 友人はもういない。

 もっといろいろ、話したいことがあった。


 友人には「よく君、生きてられるよね」と言われたことがあった。

 ひどいとは思わなかった。

 いまも大してかわっていないけれど、仕事が無く、当然お金もない私を、ご飯に誘ってくれたりお菓子をくれたり。

 人には決してなつかない、野良犬気質の私に、よくまあ興味が続くものだと不思議に思ったぐらいである。

 死にたくならないかという話だったのだろうけど、それはもちろんある。

 でもどういうわけか、薬を用意したり、高いところに登ったりとか、そういう気分になったことがない。

 だからそういう思いにとらわれる人と私とは、なにか根っこの部分が違うのかも知れないと感じたものである。

 この先もそうと言えるかは、ちょっと自信がない。


 中村うさぎの新作インタビューに気がついたのはたまたまだった。

「これまでで一番醜悪な作品」。

 うわっ、と思う。

 でもなぜそうなのかがインタビューの中で説明されていて、ついふむと頷いてしまった。

「女の世界では自虐する者こそ王になる」。

 そう考えて行動しているのなら、中村うさぎ王道を走っていると言える。

 まあ考えて行動しているからといって、それが本当に王道であるかは確かではないけれど。

 信心の一種だと思う。

 その中にあった、優花ひらりの説明に、「自己顕示欲がありながら、あんなに自意識のない人もいないんだよ」というのがあって、ああそれは私のことだと思った。

 それにしても優花ひらり誰だよ、と思って調べても出てこない。渚水帆? やっぱりよくわからない。


 内田樹先生が『Twitter自殺について』で言う、「寒い、暗い、ひもじい」上に「信仰もなく孤独」であるので自殺リスクは相当高い。

 実はここのところ歩きながらやるぐらいツイッターにはまっていて、これまで何日携帯を放っておいても電池が切れないと、鳴らない電話をもてあましていた状態が、一日で電池が切れかけてビックリしている。

 ツイッターは鬱改善いいんじゃないか、そういう事を言っているのかなと思って内田先生の記事を読んだのだけれど、全然関係がなかった。 

 ツイッターと事と自殺の事を書いてるだけだった。

 でも自意識の発散にはなっている気がする。

 ひどく苦しんでいた友人に、ツイッターがあったらと。そんなことを思った。


 にしても『狂人失格』、高い。

 買うにはいろいろ動員しないと。


※ご指摘がありまして、タイトル間違えてました。申し訳ございません。『狂人日記』ではなく『狂人失格』です。滝本竜彦の『超人計画』とどっかまざってしまって。これもなぜか『超人日記』と覚えてました。『超人日記』は山本貴嗣

2009-01-23

個人サイトライトノベルの距離が近くなっている件について

近くなっている気がするのは俺の気のせいかな。いや、気のせいじゃない。反語的表現。

いや、気のせいかもしれない。俺の知っているサイトばっかり話題になるからそう思えるだけなのかもしれない。

とりあえず、最近起きた個人サイトラノベについてのうんたらかんたらを列挙してみる。

俺の妹がこんなに可愛いわけがない(2) 発売記念インタビュー  -前編-

http://blog.livedoor.jp/geek/archives/50769260.html

■いっぱい中出ししてしまってすみません。

http://ameblo.jp/hirasakayomi/entry-10195451809.html

■「実はかーずさんのこと、今度出る『ラノベ部』に載せちゃいまして」

http://karzusp.sakura.ne.jp/2009/01/22-065733.php

■[ラノサイ杯]集英社SD文庫「ベン・トー3」の帯に「ライトノベルサイト杯1位!」と宣伝文が掲載

http://d.hatena.ne.jp/kim-peace/20090121/p1

まぁ、大体こんな感じ?他にありましたら、教えてください。

個人的な感想

個人サイトライトノベルの距離が近くなっていくというのは俺としてはすっげーうれしい。

だって、ファンがだよ。何の肩書きも持っていないファンが近づけるんだぜ。作家に。交流できるんだぜ?

千載一遇どころじゃねーだろ。何これ。うはwwwすげぇwwwwだよ。

インターネットの可能性だろ?これ。マジスゲェ。はんぱねぇ。

これについてクネクネしているとか馴れ合いだとか言っている人については、ただのひがみだろwwwとしか思えないなぁ。

マスメディアは、クネクネコネで売り出しているものなんだし。しょせんネットマスメディアだし。

そりゃあさ、俺にだって嫉妬心くらいあるけどさ。それよりも俺はすげぇwwwと思うんだよな。

いままで、会社とか、ゲームを大ヒットさせるとかすっげー大きな肩書きとかじゃないとネタにもされなかったような俺らがだよ?

個人サイトを運営しているだけで、作家と交流できるかもしれねーんだぞ?本当すげぇや。

もちろん、個人サイトを運営することだって大変だ。だけどさ、それ以上に可能性が広がったと思わない?

本当、インターネットって可能性広がるわ。これを機会にライトノベル感想サイトとか増えないかな。

そんでもって、もっともっと面白い作品に出会える確率が増えたりしないかな。それもまたインターネットの可能性だろ?

  

トラックバックがきていたので、俺なりに答えた。

http://anond.hatelabo.jp/20090123124446

  

  

ブクマコメに返答(していないけど、返答)

内輪ネタメタネタは別に気にならないが、作者と読者が交流しすぎることには不安を覚える。

んー?そこらへんは大丈夫じゃね。作者と読者が交流しすぎるんなら、サイン会とかはダメ?どこまでで線引きする?その作者のキャラクターで分ける?境界線はどこだ!という新たな問題が出そうだなぁ。

後、元々の作者の友人とかはどうなるの?それは変わるの?変わらないの?と思わないでもない。

作者だって人間だぜ。そこらへんは作者と編集者の考えに任せようと思う。

そういや、こち亀素人さんがお金こち亀出場権を買って、本当に出たことがあったなぁ……

  

>「ファン」が上がっているのか、「作家」が下がっているのか。

作家の方が上なの?ファンの方が上なの?そうじゃないと思うけどなぁ……

どちらかが上じゃないといけないのかなぁ……

  

インターネットの異様にコンタクト取りやすいって特性による。マニアック界隈なら何処でも起きてる現象

なるほど!としか言えない。

  

>これについては、「子供が真似すると危険」という、アレだ。

そうだよなぁ。下手に真似ると、大やけどどころじゃすまないと俺も思う。

リスク背負う勇気があるかないか。かなぁ。

  

> 「文体」への影響力は強いよね。

上の文章はあれだよ。深夜1時44分に書いたからあんな感じになっちゃったんだよ。

増田だから控えめにする必要ないと思ったし。読み違えていたらごめんなさい。

  

>間に出版社編集イベント団体をはさまない、作家と読者の直接の交流はむしろここ数年減っているのでは? 最近は結構ビジネスライク

ビジネスライクでいいんじゃない?そのほうが、より多くの人が健全だと思える交流だと思うよ。

すこしさびしいけどね。ファンレターとかのやりとりのほうが直接の交流といえるのは確かだよねぇー。

じゃあ、何で俺はこんなに騒いでいるのかなぁ。あぁ、そうか目に見えるからか。

  

>将来的にいいことなのか、わからないけどね

未来は誰にだってわからないからそれを議論したってしょうがないことだと思う。

  

>ファンにとっては嬉しくても、「ウザー」と思う作家はいないのかなあ?読者と作者って一定の距離はあっった方が都合いいときありそうだし。

今回の一件書いているうちに思ったけど、余計読者と作者の距離って離れたりするんじゃないかな?と思ったり。近づいているように見えて実は離れている!みたいな!みたいな!!!(うぜぇ)

ウザーと思う作家?いるだろ。そりゃ。だけど、だからどうした。と思わなくもない。

  

web2.0マーケティング

前々から思っていたけど、この2.0って何?単純に2でよくね?

  

>ラ管連(笑)ですね。距離感も必須。あんまし近すぎるのもそれはそれで問題だ。

ラ関連?知らないなぁ……というか、俺含めてこのことに関して話している人は作品を読むべきだなぁと思った。

  

>気のせいであろうか、いや気のせいではない(反語) ←みんなこの言い回し好きだよなー

みんな大好き!反語的表現!

  

>「しょせんネットマスメディア」←名言

ネットだから特別とかそういうのどうかと思うんだよなー。

  

>最初の例以外単なる迎合としか思えなくなってる

作品読めって。なっ?

  

>浅いさんを思い出しました

誰だ!?おれのちしきがたりねぇ!

  

>たまにはこういうのも面白いかな、くらいの認識

一番いいスタンスのような気がするぜ!

  

>なんだかよく分からんけどやたら興奮しているのが不気味っちゃあ不気味だ。

悪かったな。眠い中テンションMAXで書いたんだよ。

まさか、こんなにブクマされるとおもわねーし、興奮しているのが不気味と言われるなんて思いもしなかったんだよ。

  

>売れるところに売れるものを売れるように提供するのが商売ってもんですよ

だと思うぜー。それの何が悪いんだろうねー。わかんね。

  

作家に会いたいとは思わないなあ。

え?俺、会いたいなんて言っていないぜ。言ったのは交流したいって言っているだけだ。

ただ、チキンだからファンレターとか恥ずかしくて出せないのさ。こういうことなら書けるのにな。

  

同人みたい

だから、作品読もうぜ。なっ?

  

>こういうの本気で言ってる奴がいるからなあ(笑)

はっ?本気で悪いかばかばーか。と言ってみるテスト

うれしいことに本気になって何が悪い。ぐだぐだ言っている暇あったら作品読もうぜばーかばーか。と言ってみるテスト

言ってみるテストと言っていれば何言ってもいいと思っていると言ってみるテスト

そんなわけないのにね。と言ってみるテスト。だけど、言っていることの意見もわかってしまう俺が悲しいと言ってみるテスト

俺も、上のやつ書いたとき、こいつどうにかしてんじゃねーの。と客観的に見てちょっと引いていたと言ってみるテスト

  

>その昔に角川スニーカー文庫の某作品あとがき名前載ったヲレがとおりますよ//今思い出すとツライな、コレ。サイン会も行った記憶が…

うらやましい。素直にうらやましいんだが。別に恥ずかしいと思うなら恥ずかしくていいんじゃない。当時はどうだったの?うれしくなかったの?微妙な感じだったの?サイン会行くってことは本気で好きだったんじゃないの?未来自分がどう思うか?と思って行動しているの?

  

> 既に充分あるかと。 >これを機会にライトノベル感想サイトとか増えないかな。

増えすぎってことはないと思うんだ。充分あってもいいんだよ。もっともっと増えればその分可能性が増える。

まぁ、可能性が逆に減るってこともあるとは思うけど、そういうリスクを見ても仕方ないかなぁ。って。未来なんて誰にもわかんねーんだし。

好きなサイトが増える可能性がある。知らない作品と出会えるチャンスが増えるかも知れない。俺はそういう可能性に期待したいんだ。

と、サイトやっていない俺が言ってみますよ。

  

>考えてみれば、ブクマしているはてな民の中にも実は匿名作家してる人とかいてもおかしくないわけで。|ネット上ではみんな公平だと思うよ。人によりそれを好むかどうかは違うだろうけど参加は自由だし

サンキュー。こんな言い方だから否定意見ばっかりくるかと思っていた。あんがと。

実際そうだよなー。俺らが知らないだけで作家をしている人とかいっぱいいそうな気がするよな。インターネットってのは顔が見えなくて肩書きなんかも何も見えないからなぁ。そこらへんがいいところだと俺は思っている。レスじゃなくて、俺の感想でごめん。

  

IDでやればいいのになーと思わなくもないような気がしなくもない。

あ、IDはkarabouです。どうも、みなさんこんばんは。

  

補足。サイトやっていないって書いたけど、あれはライトノベル感想サイトをやっていないという意味ね。

補足その2:交流じゃないことにいまさら気がついた。作品の中に入ることができる可能性だった。だめだめだね!

後、イタい人でごめんね!

2008-09-07

イスラムオタが非オタ彼女イスラム世界を軽く紹介するための10冊

http://anond.hatelabo.jp/20080721222220

まあ、どのくらいの数のイスラムオタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、「オタではまったくないんだが、しかし自分のオタ趣味を肯定的に黙認してくれて、その上で全く知らないイスラム世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、イスラムのことを紹介するために見せるべき10冊を選んでみたいのだけれど。

(要は「脱オタクファッションガイド」の正反対版だな。彼女アニメ布教するのではなく相互のコミュニケーションの入口として)

あくまで「入口」なので、時間的に過大な負担を伴う4巻、6巻のシリーズは避けたい。

できれば新書文庫、長くても単行本一冊にとどめたい。

あと、いくらイスラム的に基礎といっても古びを感じすぎるものは避けたい。

映画好きが『カリガリ博士』は外せないと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。

そういう感じ。

彼女の設定は

イスラム知識はいわゆる「テレビまんが」的なものを除けば、高校倫理世界史程度はかじっている

サブカル度も低いが、頭はけっこう良い

という条件で。

まずは俺的に。出した順番は実質的には意味がない。

井筒俊彦イスラーム文化』(岩波文庫

まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「井筒以前」を濃縮しきっていて、「井筒以後」を決定づけたという点では外せないんだよなあ。厚さも文庫一冊だし。

ただ、ここでオタトーク全開にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。

この情報過多な作品について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限の情報彼女に伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力」試験としてはいいタスクだろうと思う。

片倉もとこ『イスラーム日常世界』(岩波新書)、桜井啓子『日本ムスリム社会』(ちくま新書

アレって典型的な「オタクが考える一般人に受け入れられそうな入門書(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのものという意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには一番よさそうな素材なんじゃないのかな。

イスラムオタとしてはこの二つは“エッセンス”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。

ニザーミー『ライラとマジュヌーン』(平凡社

ある種のイスラム神秘主義オタが持ってる愛への憧憬と、ペルシア文芸のオタ的な悲劇へのこだわりを彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにも谷口悟朗

童貞的なださカッコよさ」を体現するマジュヌーン

童貞的に好みな女」を体現するライラ

の二人をはじめとして、オタ好きのするキャラ世界にちりばめているのが、紹介してみたい理由。

リチャード・ベルコーラン入門』(ちくま学芸文庫

たぶんこれを見た彼女は「聖書学だよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。

この系譜の作品がその後続いていないこと、これが東洋学では古典になったこと、イスラム世界伝統とは相容れず、それが日本に輸入されてもおかしくはなさそうなのに、日本国内でこういうのがつくられないこと、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。

佐藤次高・鈴木董・坂本勉編『新書イスラーム世界史』(講談社現代新書

「やっぱり新書は一般のためのものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは板垣雄三編『「対テロ戦争」とイスラム世界』(岩波新書

でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、この作品にかける著者たちの思いが好きだから。

断腸の思いで削りに削ってそれでも三巻、っていう尺が、どうしても俺の心をつかんでしまうのは、その「捨てる」ということへの諦めきれなさがいかにもオタ的だなあと思えてしまうから。

全三巻の長さを俺自身は冗長とは思わないし、もう削れないだろうとは思うけれど、一方でこれが『新書アフリカ史』や『物語△の歴史』(中公新書)だったらきっちり全一巻にしてしまうだろうとも思う。

なのに、各所に頭下げて迷惑かけて全三巻を作ってしまう、というあたり、どうしても「自分の物語を形作ってきたものが捨てられないオタク」としては、たとえ著者たちがそういうキャラでなかったとしても、親近感を禁じ得ない。作品自体の高評価と合わせて、そんなことを彼女に話してみたい。

深見奈緒子世界イスラーム建築』(講談社現代新書

今の若年層で神戸モスク東京ジャーミーを見たことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。

現段階でイスラム建築研究の制度的担保がなされていない日本において、関連する新書はこの作品以外にはほとんどないとも言えて(中公新書の『モスクが語るイスラム史』は絶版)、こういうクオリティの作品が日本でこの時代にようやく出てきたんだよ、というのは、別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなくイスラム好きとしては不思議に誇らしいし、報道や資料集でしかイスラム建築を知らない彼女には見せてあげたいなと思う。

マルジャン・サトラピ『刺繍イラン女性が語る恋愛結婚』(明石書店

現地女性の「目」あるいは「語り」をオタとして教えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。「座学の教義理解からはとらえられない地域の日常を毎日生きる」的な感覚イスラム教徒には共通してあるのかなということを感じていて、だからこそ地域を知るための基本書は『もっと知りたい○』(弘文堂)、『暮らしがわかるアジア読本●』(河出書房新社)、『◎を知る■章』(明石書店)以外ではあり得なかったとも思う。

日常を生きる」というイスラム教徒感覚を知りたいという気持ちが今日さらに強まっているとするなら、その「理解」の源は現地の声をじっくり聴くことにあるんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。

中田考『イスラームロジック』(講談社選書メチエ

これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。

こういう日本人イスラム教徒イスラム理解をこういうかたちで書籍化して、それが非イスラム教徒に受け入れられるか気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。

谷川流涼宮ハルヒの憂鬱』(角川スニーカー文庫

9本まではあっさり決まったんだけど10本目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的にハルヒを選んだ。

井筒から始まってハルヒで終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、YouTube以降のアニメ時代の先駆けとなった作品でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい作品がありそうな気もする。

というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10本目はこんなのどうよ、というのがあったら教えてください。

「駄目だこの増田は。俺がちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。

こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。

2008-07-18

「ええと……どこか世界の涯(はて)の海岸みたいなところをとぼとぼ歩いてたんだ。そしたら、手紙の入った空ビンが流れついて……」

――飛火野耀『もうひとつの夏へ』下巻(角川スニーカー文庫


灰色の砂が積った浜辺で、僕は独りで暮らしていた。


灰色なのは浜辺の砂だけではない。海も空も灰色に濁っていた。白と黒の濃淡以外の色彩を持つものはその光景においては皆無だった。もしかするとこの僕自身も例外ではなかったのかもしれない。その時はそんなことは考えなかったけど、もし自分を海の水を鏡に見立てて映し出すことが出来れば、そこに僕はひとりの老成した少年(そう、その頃僕は紛れもなく「少年」だった!)の姿を見出すことが出来ただろう。髪の毛は黒くぱさついて、肌はやたらと白くぶよぶよ膨らみ、白目の中に輝きを失った瞳が黒く点となって存在しているような、そんな少年の姿を。


海辺には常に何かが流れ着いていた。例えば古いレコード。水を吸って死体みたいに重くなった猫のぬいぐるみ。壁に掛けるような大きな時計。判読不可能なくらいに文字がぐじゃぐじゃに滲んでしまった日記(それが日記であるというのも結局は表紙にそう掘り込まれているというくらいの根拠で判断したから、もしかしたら違うかもしれない)。それは全て僕に宛てて流されたものであるようにさえ思われた。でもそんな酔狂なことをやる人間はいない。死んだ人間や、或いは生きている人間が戯れに流したものが自分のところにまで届いた。それくらいの意味しか持たないのだということを、色々考えても結論として自分に納得させざるを得なかった。


僕の方から浜辺の外へ向けて何かを送信することを試みたこともある。壜の中にたった一言、「お前なんか大嫌いだ」と書いて海へ流したことがある。もしかすると――あのポリスの曲みたいに――誰もが結局は「お前なんか嫌いだ」というメッセージを流していて、或る日海はそうした宛てもなく心情を吐き出したメッセージで溢れかえってしまう日が来るのかもしれない...あの海のことを考えると、そういうことを考えることもある。


僕も本当なら自分を理解する人間に向けてメッセージを送りたかった。だけど自分の周囲には僕のメッセージの伝わる人間はいなかった。それどころが、僕がメッセージなるものをもっているということ自体が奇異なことのように思われているようだった。僕以外の人間から僕に宛てられて届くメッセージは痛いほど僕に対して伝わってきた――「お前なんか大嫌いだ」と。だから僕はそうした場所から旅立ち、浜辺へと辿り着いた。郵便の届く保証のない家でじっとしているより、浜辺で永遠に打ち寄せる波とそれに合わせて崩れていく砂を見ている方が好きだったからだ。


そんなわけで、僕はその時期をラジオと猫だけを傍らに過ごしていた。チューナーの狂ったラジオからは色々な電波が流れてきた。帰る星を見失った、 1000光年離れた場所に存在する宇宙飛行士の嘆きと叫びや――そんなものがどうして「その時」届いたのか考えると奇妙な気持ちになる。1000年という時を越えてたったひとりの受信者である僕のところへ届いたということなのだろうか――或いは遠い国の様々なニュースだった。


ラジオが壊れてからは、海岸に時々落ちている貝殻をラジオ代わりに耳にあてて、耳をすましてそこで呟かれている言葉を聞き取ろうとした。遠い国で建設された塔が太陽よりも高みに達したというニュース人類が或る日滅亡したというニュース。失われた大統領心臓発見されたというニュース月齢が4.7に達した日に彼方へと旅立つ船が航行するというニュース。僕の前世は「アフリカ」という場所で茂っていた一本の葦だったというニュース。その更に前世ドイツの三文詩人が綴り、そして破棄してしまった言葉のひとかけらだったというニュース。そういったニュースを僕は楽しく聴いていた。流れている内容が本当なのか、それとも嘘とデタラメなのかはどうでもよかった。ただ誰かの言葉が聞こえるということ、それだけが僕にとって重要だった。


海辺で戯れに魚を吊り上げたことがある。釣れたのは全身を鱗に覆われた、さながらトカゲのような緑色で固い皮膚を持ち四本の足と二つの乳房と三つの翼を持つ魚だった。頚動脈を切断するべく包丁を突き立てようとしてその魚と目が合った。その目は悲しそうに潤んでいた。魚ではなく、人間の眼のように見えた。「わたしはせっかくあなたの孤独癒してあげられるのに」とその眼は語っているように見えた。結局その魚は足を切断して三枚に下ろして皮をむいて食べてしまったのだけど、えぐみの残る後味を噛み締めながらその瞳の持つ意味についてしばらく考えてみたことがあった――もっとも一晩眠った次の日になると忘れてしまったのだけど。


その頃の儀式めいた習慣のひとつとして、眠りにつく前に僕はピストルを右のこめかみに当てた。そして冷たい金属が肌に触れる感触を確かめながら、今度こそこめかみを打ち抜こうとした。サリンジャー短編に登場する青年が最後にやったように。しかし出来なかった。何故だったのかは分からない。死ぬに値するほどの何かを信じることが僕には出来ていなかったからなのかもしれない。それが僕にはひどく辛いことのように感じられた。


「暗い心を持つものは暗い夢しか見ない。もっと暗い心は夢さえも見ない。」死んだ祖母はいつもそう言っていた。

――村上春樹『風の歌を聞け』(講談社文庫


それは1991年のことだった。

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