はてなキーワード: 消費社会とは
本当だ。消えないうちにグーグルキャッシュからサルベージしておこう。
パスカル『パンセ』
ライプニッツ『単子論』
ジェイムズ『宗教経験の諸相』
レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』
ブーバー『我と汝・対話』
ライル『心の概念』
デュルケム『自殺論』
キャンベル『千の顔をもつ英雄』
ポランニー『大転換』
オルテガ『大衆の反逆』
オング『声の文化と文字の文化』
ポパー『推測と反駁』
フロム『自由からの逃走』
デリダ『グラマトロジーについて』
ペンフィールド『脳と心の正体』
ソンタグ『反解釈』
フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』
ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』
イーグルトン『文学とは何か』
ガダマー『真理と方法』
ダマシオ『生存する脳』
クワイン『ことばと対象』
マッキンタイア『美徳なき時代』
ツリー内主要エントリ
まずは次のデータを覚えておいてください。
1、 1355万円
2、 1570万円
3、 1427万円
4、 1572万円
5、 1112万円
6、 574万円
世の中は金がすべてだろうか。
金がなければ、電車に乗って会社に向かうこと自体できないし
タネ銭がなければ金儲け自体を進行することが出来ない。
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「カネ」がそんなに悪いのだろうか?といつも思う。
「もったいないよな。これを企業に売り込んで
例えば広告として使ったり、大金持ちの結婚式のイベントとして売り込めば
紛争地域ももっと豊かになるだろうにと思ったりする。
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カネまみれで生きることは確かに美しくしくはないし、
近寄りがたい印象が強い。
平和な社会が見えてくると言う矛盾。
「カネ」という道具は使い方によっては争いにもなるし、
平和の道を作ることができる。
誰もが欲しいくせに、「カネ」というトーンは、
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例えば金持ちは手にしたカネを贅沢に使い、
ビジネスを大きくするためにさらに投資する。
一般の感情からはそんなに儲けたいのか、と思ったりする。
しかし、ある程度の富を手にしたらその富を回転させて
再生産を繰り返すのが理想の姿。
嫌なやつといったイメージ。
送り込む作業をする人間というのは
社会のために生きていることになる。
金儲けがいいとか悪いとかを真剣に考え抜いたとしても、
明日になって買っておいた宝くじがあたったりすれば
嬉しくてしょうがないのが人間の感情。
世の中のほんの一握りの人間にしか微笑んでくれない現実が
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今年ももう終わり。
あと1週間もすれば門松に変わる。
ここ何年かで経済面で大きな事件といえば
ライブドアショックを忘れることができないでしょう。
当事者にとってはまだ終わっていない問題です。
ライブドアの堀江社長もヒューザーの小嶋社長も、つい2??3年前までは
「成功者」として「格差社会」の頂点に君臨していたわけですが、
気まぐれなマスコミからは今は忘れ去られようとしています。
奢れる者は久しからず。
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こう見てみるとここのところメディアを騒がせている
「格差社会」という仕組みも、
実は勝者がずっと勝ちつづけるわけでも
ないことが見えてきます。
格差に怒りを感じてしまうことも事実。
しかし、格差社会というものが今一つピンと
来ないところがあるのも事実。
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この言葉自体や、振りまいている人達に抵抗感を感じてしまうのは、
どうもうまく仕掛けられている、といった感覚。
今は本当に格差社会なのか、という疑問がふつふつと沸いてしまう
のです。
このあたりの分析は「新平等社会」(山田昌弘著)で詳しく解説されていて、
なんでもかんでも小泉改革のせいにしてしまう短絡ぶりに
疑問を投げかけている。
「希望とは努力が報われると思う時に生じる、
絶望は努力してもしなくても同じだと思う時に生じる」
この言葉が紹介されていて
「1990年頃まではほとんどの人が希望を持てる条件が揃っていた」
と書かれていたが実際には努力が報われないことも結構多かった。
とくに企業が安定していた頃は実力よりも
「社内政治」??会社で生き残ることだけしか頭にない人間が
結構威張っていて、それを思えば能力がないくせに権力だけは
昔はよかったというけれど、安定していた昔はそんなに良かったか、
とも思う。
企業奴隷として生きることを強いられた時代。
私も初めて就職した会社を辞めるとき、周囲から「この世の終わり」と
いうような脅しを受けたけれど、今思えばあのまま奴隷人生が
生涯の価値基準にならなくて良かったと思っています。
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「格差」の一つの正体には他人の成功に対するねたみもある
のかもしれません。
テレビを見れば自称「セレブ」が信じられないような生活を送り、
自分もいつか、と夢を膨らませる。
「勝ち組」という虚像に対する憧れや絶望感を感じながら日々を
生きさせられている嫌な感じ。
羨ましくも「うまくやりやがって」という、モヤモヤした感情。
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ところで最初に見てもらった金額は
ある企業に勤める社員の平均年収。
会社名は何かと言うと
1、テレビ朝日
2、TBS
3、日本テレビ
4、フジテレビ
5、テレビ東京
7、永谷園
(MSNマネー企業概要より)
格差社会を憂いている人達が、社会の最も頂点に存在している皮肉。
普段給料が高いと批判をされている銀行でさえテレビ局には勝てない。
納得できる企業。
それを消費者が支払い、デフレで賃金が押さえられている今でも、
テレビ局には大量のカネが流れ込む。
勝者で居続ける大手マスコミの商売道具であるという一面。
彼らは競争相手が少なく勝ち組の代表。
郵政省からの天下りと談合に守られ、生涯が保障されている人たち。
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しかし、彼らを支援しているのは結局は我々で、
たとえば亀田兄弟。
亀田を持ち上げ、批判し、また持ち上げ
何をやっても思考回路停止のままついてきてくれる
視聴者の皆様のおかげでTV局員の高額報酬が
永遠に約束されております。
職員に代わりまして、わたくしが御礼申し上げます。
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何か言い出したらロクなことはない。
「地方の時代」と言う言葉が使われた時代があって、
そう言っている割には自分の会社は東京のど真ん中にあって、
地方の実態なんかにはこれっぽっちも興味のない連中が発信をしていた。
「女の時代」と言う言葉が使われた時代もあって、
そう言っている割にはマスコミ各社の役員に女はどれくらいいたのか。
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「格差社会」は多分真実でしょう。
また、「格差」は仕方がないという言葉を、
今の時点で一応成功している企業の経営者なんかが
語っているのを見るとカチンとくるけれど、まあ真実の声でもある。
いちいち振り回されるのもまた腹が立つ。
勝利者が集まる空っぽの洞窟。
は敗北者という「勝者の視点」。
物凄く狭い価値観の中で、勝った負けたと騒いでいる状態。
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「格差社会」というキーワードも、観測地点を変えればその通りだったり、
そうじゃなかったりするわけです。
例えば障害者に対する援助の打ち切りは格差の助長だと思うけれど、
というレベルの問題に関しては格差でもなんでもない。
そんなもん知るか。
一方では消費社会をひたすら煽る。
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人間味を殺ぎ落としてまでも効率よく収益を上げることが正しい経営、
という価値観に影響を受けた経営者が増えたからかもしれません。
メディアの振りまく「成功イデオロギー」だけしか選択肢が無くなった不幸。
これが格差社会の正体。
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―「弱者」というものが、常に「エリート」によって「発見」されるという、
これまた古典的な構図による。
ネットカフェ難民、ニート、年金生活者、在日コリアン……というように、「エリート」同士の
政治闘争に利用できる、明白な「弱者」だけが「発見」されていく。
「エリート」は「弱者」を利用して政治的なライバルを攻撃し、「エリート」内の階段をのぼる。
「弱者」のなかにも、それを見透かして、政治的な「利権」を手にする圧力団体の
ようなものが出てくる。両者は共犯関係にある。―
http://miyajima.ne.jp/index.php?mode=res_view&no=56#nmjp57
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彼らの将来を間接的に奪ってるんじゃないか。
「かわいそうなあなたたち」という視線は絶対に救いにはならない。
「自分は不幸だ」「悪いのは世の中だ」と彼らに煽られても
誰もチャンスも仕事も金も持って来てくれないぜ。
特にあいつらは。
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□石原慎太郎に心ひかれる自分がある。
□オリンピックやサッカー・ワールドカップでは心から日本を応援する。
□中国や韓国はいやだと思うことがある。
これらのコピーの上に「以上の項目が半分以上当てはまる人は下流的である“!」
ある種のバイアスのかかった人達の『商材』であることがなんとなく見えてしまう。
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問題は、以前ほど未来に対しての安心感が
ないまま日々を送らないといけないこと。
もう一つは、一度企業社会のコースを外れてしまうと
なぜ嫌うかというと、そういう決まりだから。
なぜそういう決まりかというと、そういう決まりという決まりだから……………
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「リトル・ミス・サンシャイン」という映画を今年見ました。
出場するために車でニューメキシコから
「エンターテイメント」としての役割を背負った作品が
圧倒的に多い。
そういったファンタジーものとは別に、
現実のつらさを描いたのがこの作品。
しかし生徒は集まらず本人はビンボー。
2種類のうちでは敗け組の方。
成功コンサルタントの裏面を皮肉的に取り上げていて
この映画を見ると「ギクッ!」とする人も多いのでは?
「オレたちはみんな、敗者だ!」
映画の中で誰かが叫ぶ。
アメリカ人がみんな勝っているわけじゃない。
アメリカ人自身が「成功を追いかけ続ける敗者」で
あることをうすうす解っている。
その成功をありがたがる「いいお客サン」である日本人。
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アメリカ型を追いかけるのが難しい理由としては、
日本とアメリカとのマーケットの大きさの違いがあると思います。
抱えるのに加えて、英語圏全ての地球規模で
ビジネスの勝負ができる条件。
日本との環境の差は無視できない。
もしあれだけ大きな市場があれば一発くらい狙ってみたくなるし、
多少のリスクは背負ってもいいかなと思う。
しかし、一発でかく儲ける戦略を取るには
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億万長者を生み出すベンチャービジネスのからくりの一つを見てみると、
株式を上場して上場益の恩恵に浴するという戦略があります。
強引な売り込みを仕掛け、訴訟をいくつか抱えて裁判沙汰に
なってたとしても、株式上場で金が手に入れば
それでOKとする考え。
もちろんその戦略があたればバンバンザイだけれど、
上場できなければ会社は破綻。
いつのまにか今の世の中基準になってしまった。
多くの人が抱えていることは、こんなことをしてまで
金儲けをしなきゃいけないのかよという感情。
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ビジネスの成功者として華やかな世界の人達がよく取り上げられる。
しかし例えば、スナックの経営で儲けている人とか、
絶対にメディアでは取り上げられない。
彼らは「成功の法則」からは外れたところにいる透明人間。
結局のところ、巷に言われている「成功」とはメディアで
成功にも本当は色々あることは知っておいて損はない。
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成功するというのはすばらしいし、
誰もが「勝ち組」になりたいのは正直な気持ち。
しかし、「勝ち」とか「負け」とかはどっちでもいい
勝つこともあれば、負けることもある。
「勝利」を維持するためのノルマと無理な目標設定。
責任だけは日々大きくなるくせに何も決定権を
持たしてもらえない状態が幸福とはいえない。
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この先、我々はもう一つの成功者を
生み出す必要があるんじゃないかと思います。
多分「格差社会」ということに関しては
我々が試されているんでしょう。
冷静でいられるのか。
この世は金が全てか?
ノー。100%ノー。
「カネが全て」だけでは人の感情や行動にも
限界があるという事実。
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格差と言う割には日本社会はかなり「のし上る自由」のある国で、
世襲制度がイギリスとかフランスよりも強くないという現実もあります。
エスタブリッシュメントは『永続性のある権力と威光の階層』を
意味するのですが、イギリスなんかは貴族社会ですから綿々と
この手の権威が継承されてきています。
しかし日本にエスタブリッシュメントと言われる存在はほとんどなくて、
歴史的に見ても「下流の人間」がのし上れる社会でもあります。
ということは弱者が強者にだってなれるということ。
しかし「欧米的なもの」が進んでいて自由である、
という、でたらめばかりを言ってきた連中は、
この手のことには触れようとしない。
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カンボジア型成功でも好きなのを選べばいいのです。
「あがり」を生み出す思想からの脱出を。
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アントニオ猪木の逸話の中で、こんなのがあります。
どうしても敵わない相手に押さえ込まれて、
全く体が動かない状態になった時、
小指の一本でも動かせないかともがいてみた、
という話。
とにかくもがいてみる。
すると小指の先から徐々に動かせるようになっていく。
そして小指が動くようになったら今度は手が動かせないか。
手の次は腕。
そして足、という風に少しずつでも抵抗をしていく。
うまく行かないときは絶望感に襲われてしまうけれど、
小指の先から暴れてみることを考える。
誰もが出来る小さなレジスタンス運動。
結局「勝者」とはこういうことを少しでも考え、
実行できる人だと思う。
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冒頭に見てもらった年収を稼ぐ人達がつくる「社会の常識」が
いつのまにか社会を支配してしまいました。
彼らの生活基準がいつのまにかこの世の幸福になり、
そこから外れたら敗北者。
東京のごく狭い範囲で起こっていることが
しかし、絶望ばかりでもなくて今までよりも
時代が変わっているのも事実。
親が金持ちで、格差の頂点にいる勝者。
絶対に負けない人達。
ところがこんな事実がある。
現在コンビニが全国で4万店。
歯医者が7万店。
つまりスタートして四分の一は消えてなくなる。
社会環境が完全に変わり、今までのやり方が通用しなくなったのも事実。
これまでアウトサイダーだった「オタク」が巨大なマーケットを作り、
今はかつての「負け組」が勝つ時代でもあるというのは本当でしょう。
つまり今年までの負け組が来年には勝ち組にもなれるということ。
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今年の終わり。
この日記を読んでいる方は残りの数日間、
ふと一人になった時、こんなことを考えてみてはどうでしょう
自分にとって金より大事なことは何なのか。
これがこれから先のあなたを成功に導く。
金より大事なもの。
自分の子供。
古本屋でやっと見つけた本。
家族。
大枚をはたいて買った骨董品。
一人になる時間。
いつも通う喫茶店の窓際の席。
成功。
愛車。
クリスマスのこの日。
その何倍も不幸を感じる人間がいる。
元々クリスマスなんて家族と静かに過ごす日なのに、
いつのまにか孤独や不幸が通常よりも
増幅してしまう日になってしまった。
つまらない言葉)の正体は結構こんなことじゃないでしょうか?
他の突出した人間と比べて勝手に不幸を感じたり、
「負け組」を探し出して、勝手に見下しているだけだったりする。
カネ以外のものに対する情熱を持っていれば、
この先の時代はあなたは有望。
今の時代の「成功」はまもなく消え去る。
時代は変わる。
「オレだって」「私だって」という野望が
結構受け入れられるのが、日本社会です。
そのためにはカネよりもまず「情熱」という
革命用の武器を手にする必要がある。
美しい人生を手に入れるために、心に情熱を!
== == == == == == == == == == == == == == == == == == == = == == ==
== == == == == == == == == == == == == == == == == == == = == == ==
Gladys Knight and the pips - Neither one of us
http://jp.youtube.com/watch?v=1p57xtVXEAM&feature=related
デヴィッド・サンボーンバージョンも好きだけれど
ボーカルものもやっぱいい。
ドラマチックな盛り上げ方に時代を感じるものの、
いまこれがやれたら結構かっこいい
トレンドばっかり追いかけないで、この路線で勝負すればいいのに。
Dean Martin, Gladys Knight & The Pips
http://jp.youtube.com/watch?v=3thV0XGJlEE&feature=related
グラディスが太った安室ちゃんだった頃の映像
"Memphis Soul Stew" King Curtis & The Kingpins (Live)
http://jp.youtube.com/watch?v=6WHcWu-1iUg&feature=related
ファンク系は司会までラップノリでグルーブしまくっているところが
超かっちょいい。
Jaco Pastorius- Soul Intro- The Chicken (Live 1982)
http://jp.youtube.com/watch?v=RJfiYdQcQtc
ソウルつながりでジャコ。
ドラムのピーター・アースキンの髪の毛が健在な頃で
やってしまった例。
http://jp.youtube.com/watch?v=9wQKl2P7Ql0
最後は東京に戻って
さんまの番組でのデイヴィッド・サンボーン。
「Smile 」はポール・サイモンの曲(サンボーンのライブ盤での曲)
じゃない方のスマイル。(ナット・キング・コールが歌っていた。)
この映像は以前ユーチューブで削除されていたので、
もしかしたらもうなくなっているかも。
(さんま。お前は判って聴いてんのか?)
それでは皆さん、よいクリスマスを。
http://kageura.blog52.fc2.com/blog-entry-56.html
予兆はずっと前からあった。
90年に出た「誰のためのデザイン」という本でも記されていた。
大量生産大量消費からモノが抜け始めている時点でwebは遅れをとっていた。
一人一台、携帯とPC。テレビの普及。車の普及。核家族化。ニート。ひきこもり。コンビニ。
大量消費社会の遺産とでもいうべき波が訪れている。
すばらしいデザイナーたちはそれに気づいていた。
本当に、デザインの時代が来そうだ。
ただし次にくる時代はweb2.0でもない。3.0でもない。
それを考えると過去をもとめる行為も必然だったんだ。正しく言えば私たちはなにも過去をもとめていたわけじゃない。
新しいものをデザインしなくちゃいけない。
でも新しいという言葉に惑わされてはいけない。
本当に、デザインの時代が来てる。
気づくのが遅すぎた。いや、わかっていたことの再確認だった。
理解している人はすでにいっぱいいる。でも、まだ。まだまだ。
負けない。
http://anond.hatelabo.jp/20070818135658
http://anond.hatelabo.jp/20070818141853
旧来型の貧乏
・自分が住んでいる地域とか、血縁とか、性別なんかで貧乏かどうかが決まっちゃう貧乏。
生まれたときから親兄弟親戚近所一同皆負けてます、みたいなもの。
部落とか、母子家庭とか、田舎に住んでいるかとか。生来的なもので決まっちゃう。
あとインフラ格差の解消とか。下水道ありません、とか、電車通ってません、近所に病院ありません、とか。
その解決の道具がお金(土木系公共事業・ばら撒き行政)と教育。
田舎や貧乏人の子供は家の手伝いで小学校までしか行かせてもらえなかった分、就ける職業も限られてた。そのために夜間中学なんてあったし。女が学問するなんて!って驚かれた時代。
でも、昔は学歴小学校卒非モテニートでも親の家業や農業を継げばよかったし、自分の家のクラスや住んでいる地域に合わせて勝手に決められた見合いで結婚できた。後天的なコミュニケーション能力不足なんて関係ない。とにかく家の面子を守ることと嫁という労働者が欲しいということ。離婚なんてタブー。嫁が子供が産めないという理由で離縁されることはあった。そこに職業選択の自由と結婚の自由はないけど。
それと長男は親との同居が当たり前。女は姑と同居が当たり前。介護に嫌気が差して座敷老人なんて問題もあった。
『ALWAYS三丁目の夕日』みたいな貧乏があっても皆幸せだったのは、『皆いっしょ』に貧乏で皆一緒に豊かになろうとがんばっていたから。
新しい貧乏
・『中流家庭』に育ったはずなのに、ある日突然貧乏。またはいつのまにか貧乏。
生まれたときは一応中流(中の上、中の中、中の下)だったけど、いつの間にか自分ひとり負けてましたもう這い上がれません、みたいなもの。
雇用の流動化、核家族化、少子高齢化、消費社会化による行き過ぎた個人主義、グローバリゼーションと自己責任。
ばら撒きしようにも、今の家族の単位が小さくなりすぎた結果(中年独身男女も含む)、ばら撒く家族が増えてしまったことと、独居老人が多すぎることで、ばら撒けるお金に限界が見えた。
だから、国に頼る前にもっと皆繋がってください、支えあってください、自分の人生自己責任でということになる。
繋がれないと、老人孤独死。中年はへたすりゃ自殺。自殺率最悪。職のコネがないローン抱えた中年の親父が自殺。息子勉強して大学行ってサラリーマンになっても、同じサラリーマンの親自殺。自分の職業、労働単価の安い海外に外注で自分の職がなくなっちゃうかも。自分の職がいつ職業ごとなくなるかわからない。学問よりもコミュ能力。英語だのファシリテーションだのコーチングだの。
ニートの親はサラリーマン。自分が継げる先代から脈々と続く家業なんてない。地域社会の商店は大型ショッピングモールが出来てからボロボロ。工場は単価の安い中国に出ちゃった。農業は、海外から輸入作物の価格に影響されて、国内農作物の価格が安くなりすぎるもんで、補助金に頼らないと生活できない。でも国は地方にばら撒ける金もうないよ。
それと、昔は正社員の職しかなかったけど、今は契約社員とか、派遣とか、バイトとか、いつ首切られて孤立するかわからない立場の職ばっか。フリータになりやすい。雇用が流動化して職場すぐ変るから人間関係も不安定。山谷とか釜が崎とかに集っていた日雇い労働者も高齢化。若い日雇い労働者はネカフェの個室に一人きり。
こういうときに必要なのは、お金ばら撒きや職業教育よりも、人とのゆるい繋がり(コネ)と根拠なき自信。一旦繋がりが切れると対人関係の自信もなくなって二度と繋がれない。皆問題抱えためんどくさい他人と付き合いたくない。昔は地縁や血縁で面倒くさくても嫌々人と繋がってたけど。それで、格差っていうのは世間にある幸せコミュニティには自分は二度と入れないんだっていう絶望みたいなもの。ちがう?うーん、どうなろう?
http://www.mhlw.go.jp/houdou/2007/06/h0628-1a.html
で、家族っていうのは相互扶助社会の最小単位。昔は伝統や世間体を理由にして嫌でも家族と付き合う、っていう前提があった(その代わり家族の中でどんなドロドロが起こっているかわからない。嫁姑問題とか親から子への体罰とか当たり前。貧乏な家の子供は小さな大人であり労働力なので、ひっぱたいてでも働かせる。中流以上の家庭の子供は、親の面子そのものであり大事な家を支える跡取りだから、親の敷いたレールからちょっとでも外れたら親とドロドロの喧嘩)。
そういう前提が日本が消費社会化するにつれて変った。まず、日本の住宅に団地というものが登場して、核家族が爆発的に増えた。核家族っていうのは1970年代のアメリカンホームドラマを模倣したもの。家電製品に囲まれた消費社会的な家族の始まり。そこから消費社会的な自由が進行して、お父さん仕事とオタク趣味、お母さんも仕事と女友達とお買い物、子供はモバゲーで皆バラバラな家族の出来上がり。一人に一台携帯電話持ってるから話したい人と話せる一方で、話したくない人とは絶対に話さないということも出来る。最近の家族はLDKの持ち家やマンションに一人一室の個室を割り振られて住んでるし。昔ながらの障子や襖で仕切られているだけのプライバシーの無い部屋なんてありえない。だから皆付き合いたくない人とは絶対に付き合わない。付き合っても嫌なものは見ない。というか無関心。でも、おばあちゃん、おじいちゃんはどこ行った?親に事情のある子供だって、昔は親戚に養子に出されたのに今は施設直行。
そんな人付き合いの伝統や義務が無くなって人間関係が流動化した時代に、一旦自信の無さの塊になって、人付き合いに自信がなくなるとあっという間に孤立。行政はお金が無く、制度は家族の相互扶助の前提を崩そうとしないのに、「家族が嫌いでも、それでもやっぱり家族なのだから支えあうのは当たり前」という大義名分を主張することが、消費社会的な自由を阻害しているということを皆直感的にわかっているから中々主張できない。そして地縁、血縁、義理や情などで、面倒くさいんだけど義務的に構ってくれる人はどんどん少なくなり、他人の無関心に囲まれて消えるように自殺する。
これから日本人は、縁に縛られて毎日同じ他人といがみ合う苦しみと、生まれたときから将来が見えてしまっている不条理と共に生きることを選ぶのか。それとも、縁から自由になりすぎて高速で自分の前を通り過ぎる周りに無関心になるむなしさと、不安定な将来への漠然とした不安と共に生きることを選ぶのか。今の時代はそれらの選択の分岐点なのか、それとも折衷の機会なのか。国が行うシスティマティックなばら撒き福祉が大事なのは当たり前。けれどもそれだけじゃなくて、自分が嫌いな人や嫌いな世代に対しても、関心を持って扶助しあうような相互扶助社会も必要なはずなのにね。皆自分のことだけを大事にして生きてきたわけでは必ずしもなく、お互いに面倒くさいことを求めない、嫌なことはしなくていい、貴方は自由に生きていい、という優しさと気遣いを持って生きてきただけなのに。
だから格差社会っていうのは、世代間や地縁血縁の相互扶助と承認が機能しなくなった、今の核家族・孤立家族といった家族社会の拡大版だと思う。
こんにちは! 今日は記念すべき日だ。フルキャスト(FC)への業務停止命令が決定したんだ。FCといえば、グッドウィル(グッド)と並んで日雇い派遣の大手だからね。といっても、僕はFCやグッドを責めるつもりはない(嫌いなのは確かだけど)。責められるべきは、この“派遣漬け”の日本社会だ。「フルキャストなんて会社、知らないよ」という人は、ぜひ知ってほしいんだ。あなたの現代的な生活が派遣労働によって支えられているということを。
物流業界は、おそらくFC/グッド依存度が最も高い業種だ。現代の物流では、海外から輸入されたり、工場で生産された商品は全て倉庫に集約され、そこから全国へ配送される。この倉庫というのは、映画に出てくるような、赤煉瓦と三角屋根の古典的な倉庫とはだいぶ趣が違って、「物流センター」とも呼ばれる近代的なものだ。これらは大体、4-5階建てぐらいの、「箱」という形容が相応しい無味乾燥な建築物で、お台場あたりから浦安、市川あたりの東京湾沿いに集積している。
倉庫では、ピッキングと発送という2つの仕事をひたすら行う。ピッキングってのは針金で鍵を開けるアレじゃなくて、注文に従って棚から商品を選び出す仕事のことだ。たとえば、「うまい棒」を大袋で5袋、「とんがりコーン」を2箱、「プリングルス」を3箱、という指示が来たら、倉庫の中を歩き回って、それらが置いてある棚を見つけて、台車とかコンベアを使って発送係のところへ送る。ピッキング係の仕事はここまでだ。
発送係は、ピッキング係から送られてきた商品が注文通りかどうかチェック(これを検品という)して、発送用の段ボール箱に詰める。このとき、中で荷物が暴れないように緩衝材を詰めるのが一番大事な仕事だ。詰め終わったらテープで箱を閉じて、パレットの上に乗せる。パレットってのは、フォークリフトのツメを入れるための台だ。パレットの上に乗せ終わったら、サランラップのお化けみたいなやつで荷物をグルグル巻きにする。これで荷崩れを防ぐわけだ。ラップ巻きが終わったらここから先はフォークのおっちゃんがトラックのところまで運んでくれるから、発送係の仕事は終わり。また検品に戻るわけだ。
ピッキング係と発送係は分業になっていることが多い。つまり、ピッキング係は一日中ピッキングをして、発送係は一日中発送をする。これは恐ろしく退屈な仕事だ。だから正社員はこんな仕事はしない。小遣い稼ぎの学生が主戦力で、すこし年上の氷河期世代がチーフとなって指示を出す。もちろん、どっちも派遣だ。
考えてもみてほしい。あなたは今日、どこで何を買ったか? いや、ここでは「何を」はどうでもいい。「どこで」が重要だ。工場に直接買い付けに行ったりはしていない筈だ。あなたが買った物はすべて、時給700円のワープアによってあなたの元に届けられているんだ。皮肉なことに、ワープア達もこの消費社会の一員なんだけどね。それにしても、この事実からは目をそらしたくなる。我々の生活はワープアによって支えられているんだ。介護事業どころの話じゃない、老若男女みんながワープアありきの構造の中で暮らしているんだ。まったく、何回「絶望した!」と叫んでも足りないよ。
格差社会なんてそれこそ幻想だろと吾輩はひんぬーである。を読んで。
確かに戦後生まれである私は、生まれてこのかた食べ物に事欠いたことなどないし、おっぱいだけで女性を判断するようなこともない。
だけど、豊かなおっぱいを前にした時のあのもどかしい感じは…
モノの溢れた消費社会にあって現代人がほとんど体験することのなくなった、
まさに「飢え」としか呼びようのない感覚じゃね?
見るだけじゃ何も得られないし、それが自分の持ち物でないこともよく分かっているはずなのに、
そこから目を逸らすことは、とても損な行為のように思えてしまう。
(チラ見)0.2秒×(多くても)5回=合計たった1秒!、だとしても
その谷間を少しでも記憶にとどめたいと思ってしまうんだよなあ。
女性には分からないだろうが、例えて言うなら
戦後まもない頃、たまたまレストランの前を通りかかった貧しい家族の光景なんだよ。
子供が腹を空かせてるところに、身内が亡くなった時でも食欲を催してしまうような匂いが漂ってくる。
でもカネがない。
母親は「ウチにはそんなお金はありません!匂いだけで我慢しなさい!」て言う。
子供は泣く泣く匂いだけ嗅いで目を閉じ、
「母ちゃん、牛肉食ってるみたいだよ!いつかは本物を食べられるようになりたいな!」
あの頃の感覚なんだよ。
消費フェミニズムが猖獗を極めている現状で、男は得だ、女は損だ、男は優遇されてる、等とほざく女はもうほんといい加減にしろ。どれだけゲタをはかされたら気が済む?甘えてんじゃねえよ。この状況で女の人生損ってどんだけルサンチマン濃いんだよ。つうか女ってネット見る前はいろんなメディアとか消費社会で優遇されまくりな状態だからそれが自然すぎて優遇されている事も得している事も分からないんだろ?結局。でも自分が傷ついたり損したりすることにはどれだけ些細な事であっても敏感女だから、2chでバカ女発言を叩く程度の事にに反応して(実的被害は無いというのに)ピーピー騒ぐ。はあ?どんだけ自意識過剰なんだと。他人に対してはどれだけでも酷く差別できる癖して、自分がちょーっとでも損をしたと思うと騒ぎ出す。自己中なのも度を過ぎて笑える。子供気分は女子大生で終わっとけっつーの。そんな甘っちょろい精神で社会に出てくるな。心底迷惑だ。労働するにせよにせよ何にせよ、つねに男らしさを求められ、腰掛女、ニート女とは比べ物にならない困難と苦労と罵倒と暴力と、3K長時間労働があるというのにそれでも男は何とか頑張ってんだ。今の日本の状態で女は損とか言ってる奴はもうどんな社会でも生き抜けねーよ。それこそ家事の出来ない家事手伝い位しかないだろ(余裕で生きていける!)。すぐ男女問題にして男をたたきたがる奴ってのは、結局、そうすることによって間接的に女のナルシシズムに安住し、そして女である自分は結局「女子供」の守られ枠だから大丈夫なんだと安心したがってるだけ。無根拠に自信過剰でロクな能力もないけどプライドもすごく高いんだよなw(はあと
実力の伴わない連中が評価されてプッシュを受け、あっという間に見捨てられて消費されるシーンが、
実力とは何か?誰が持っているのか?ですね。
売れるには売れるなりの力があるんです。ただ、それが歌唱力ではないだけで。
彼女達が提供しているのはエンターテイメント=芸であって、お客が喜んで、そして、お金を落としてくれればそれで良いのです。そのための「売り」が歌う事であり曲であるだけで、それが(優れているにこしたことはありませんが)特に優れている必要は無く、それ以外に、たとえばファッションやしゃべり等が出来ればそれで良いのです。重要なのはそれらを如何に魅せるかという能力、つまりプロモーション=演出なんです。つまり、その演出の手段として彼・彼女たちがたまたま曲や歌唱を選んだだけで、たとえばスタイルを選んだ人はグラビアアイドルになったり、しゃべりを選んだ人はお笑い芸人になったりするわけです。
そして、それらプロモーションを行っているのは何も本人だけではなく、プロモーター・プロダクション・プロデューサーといったプロがいるわけです。彼ら視点・立場にとっては、お客に次々とお金を出してもらった方が良いわけで、そのためには次々と消費してもらうほうが良いのです。いわゆる消費社会というやつの構造ですね。製造業では資源環境問題で脱却をはかっていますが、発生する物理的ゴミが少ないとか、物理的資源の消費が少ないので問題にならず、そのために残っているサービス業の、その現状の一つでしょう。
次へ次へ新しいカモを求めるうちに本当に実力あるアーティストが分相応の評価を受けにくくなってるのかね。
芸能界・娯楽産業が大衆をカモにしているかどうかは意見が分かれるところかもしれませんが、それは置いといて。
「実力あるアーティスト」とはいったいなんでしょうね?
先の通り、人を喜ばせてお金を頂く芸能人においては、スタイルや歌唱力が如何に優れていようとも、多くの人を喜ばせることが出来なければ「能力がある」とは呼べないのではないでしょうか。いや、確かに何か一つ秀でた芸があれば人々を楽しませることが出来るでしょうが、それにしたって魅せ方があるわけで、プロとしては、やはり演出の力の無さ、その道の人との出会いが無かったという運としか言い様がないですね。古今東西、能力があるから売れるとは限らないわけで。
オルテガ(DQ3のひとじゃないよ)いわく、大衆的なものを嫌悪する大衆が存在するようになると「大衆社会化ここに極まれり」ってな具合らしいですが、はてな村を見学して回るとつくづくそう思いますね。自称「リベラル」も自称「保守」も、そろいもそろって「オイラちゃん(アタシちゃん)は愚昧なる大衆ちゃんとは違うでゴンス」と吠えている割に、なんかの拍子に漏れる本音がびっくりするくらい下衆で「どうみても大衆です本当にありがとうございました」みたいな具合だったりしちゃったりなんかしちゃったりなんかして。げひひ。
で。
そういう「大衆批判するやつこそ大衆的だ」みたいな思考を学習して中二病(大衆批判)から高二病(大衆批判する大衆を批判)に移行したやつもはてなーにはたくさんいるんだけどさ、それもまた痛いというか、高二病のやつは「大衆批判する大衆を批判」して「批判など思いつきもしない大衆」を持ち上げるんだけど(cf.吉本"だいたいでいいじゃない"隆明「大衆の原像」)、でもそうやって「大衆」を対象化している時点で高二病さんも「大衆」ではなく、ただ「大衆批判する大衆」の間のパワーゲームに「大衆」という概念を使っているだけなわけで、本当に「大衆批判する大衆」の存在が害悪だとかなんだとか思うんならまず自分が積極的に沈黙しろや!!カチコミいれんどワレ!!
で。で。
この文章は「中途半端に前衛気取りのブロガーどもめ、お前らいますぐ回線切って首吊れ!」とか主張しようっていうもんじゃねーんですぉ。戦後民主主義体制の中進行した消費社会化の完成に加えて、インターネッツの発展(モチオ!)によってますます中途半端に「知」にアクセスしやすくなったこの日本において、本来ならば目覚めてもどうしようもないような社会的な地位に置かれているにもかかわらず、内面だけはいっちょまえに貴族や知識人のようになってしまった悲劇的な存在は、この同一の社会階層内での流動性は極めて高く、階層間の上下移動の流動性は極めて低い社会でどうやって生きていけばいいんでしょうか、とかなんとか相談がしたいんですにょ。「NPOにでも入れ」とか「恋でもしろ」とか、その手の「終わり無き日常をイ??」系のおもんない回答以外でシクヨロ。諦めようとしてもどこまでも諦められないから悩んでるのに「諦めろ」とか返すやつはコミュニケーションスキルの低いお馬鹿タン、すなわち「ダメ萌えキャラ」ですよ(←「コミュニケーションスキルが低い」とひとこと書いておくとはてなのウザいひとたち(例:白熊)は押し黙るから便利だと聞いた)。
htt://d.hatena.ne.jp/fuku33/20070112/1168601308
へー。地産地消ってのはロマンティシズムなのか。ローカリズム(?)というのがあるのかどうか考えてみよー。
fuku33さんは、売り物に対するレッテルの貼り方みたいなものをみているのかなぁ?
そこからなにがしかを読み取ろうとする体系を作ろうという感じなのだろうか。
いや、なんつーか、立場を把握しないと正確なところ(なにを読み取るべきか)がわからんかなぁーって(ひとり言)
fuku33 幻想商品 地産地消という現象はいろんな文脈で語れると言うことです。どの文脈も排除しませんが、僕は「商品を感情充足の手段として見る」ということです。ローカリズムがその大義名分になることもあります。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20070112215710
マーケティングとゆったり、プロモーションとゆったりするものの一種なんだろうか。それをすることによって何を導けるのだろうか。
なんじゃろホイ。革命じゃないけど革命的な進歩が必要なんじゃないか説?
歴史を紐解いてみてもフランス革命然り、ソ連の誕生から崩壊までの過程然り、成功しないのです。ただ成功しないだけならともかく、その失敗という歴史的事実の裏側には無数の無辜の民が蹂躙され、死んでいったという重く苦い経験があるのです。このような経験をしてもなお、急進的な主張をし、その主張を支える理念や倫理観を素朴に唱えている人達に対して私は激しい嫌悪感を感じます。
この論を唱えている方は、いったいどんなトラウマがあるのだろうか?歴史の悲劇は「理念を押し通すことを進歩」と解釈したことに端を発する「理念を押し通すことで進歩する」と信じて行動した結果、革命は失敗しちゃった→なので「理念を前に出してもダメじゃん」と思っているように感じる。
みうらじゅんが言うところのDTというものであり、妄想力が生命力の源となっているというのもあながちいい話。
現代における妄想は「お金持ちになる。」程度のものなのだろう。そのお金持ちになるという妄想は現世はすべからく経済によって回っていて(正確には経済的な認識のみが人類の共通言語)、その上でしかダンスを踊れないというふうに勝手に枠を作ってしまっているんだろうな。
理念というか、いわゆる正義感がなければ行動へと移行するだけのパワーは得られないと思うのだけれどなぁ。要するに、現在話題の「閉塞感」の打破のためには(過去に習えば)革命的妄想が必要なのではないか(と思ったり思わなかったり)
http://anond.hatelabo.jp/20070113024605
生活必需品以外なんて、これをもってる私カッコイイ!と、これを買ってあげてる私カッコイイ!の、どっちかでしか買わない。
たぶんfuku33さんは、キュウリやコークを買う際にもその「カッコイイ!」という感情のようなものを当てはめたとしたらそこにはどういう感情が入るのだろうか?って考えているんだと思います。さらにもっと踏む込むと、それらの感情を整理・カテゴライズすると経済や人の動きをこれまでと違った目線で見れるのではないか?新しいマーカーを社会に設けることが出来るのではないか?と考えているのではないでしょうか。新しいマーカーで社会を追うと新しい説が生まれるのでしょう、きっと。
オウム真理教の前身となるオウム神仙の会は、1984年に発足している。当時はバブルが始まった頃で、これから景気も良くなってジャパンアズナンバーワンだ、と浮かれていた時期だ。11年後には、そのオウムがサリンを撒くというかたちで、大規模なテロを起こした。
80年代の中ごろというのは、いまの状況とある側面では似ていると思う。経済が上向きになり、「勝ち組/負け組」(当時はマル金/マルビなどと言われていたらしいが)というような区別が流行り、消費が一気に活性化し、再開発が進んだ。そしてその狂騒にノれなかった人たちが、鬱屈をかかえて宗教に走り、その一部はカルト化した。
今の経済のフェイズが84年なのか85年なのか、はたまたバブルの天井の88年なのかは分からないけれど、景気回復の裏側で消費社会にノれない人たちが鬱屈を抱えるという現象は今も起こっているように思う。彼らの鬱屈がいつどのような形で噴出するのか、それは2015年かもしれないし2017年かもしれないし、平和で何事も起こらないのが一番いいのはもちろんのことだ。けれども、何らかの形で歴史から学ぶことはできるのではないか、と思う。