はてなキーワード: 文章家とは
文章で何かを表現しようととすると文法とかの規範意識に強く縛られる気がする。
ありあわせの言葉で済ませてしまう気がする。そうやって自分の言いたいことが四捨五入するように丸め込まれてしまう。
それは俺だけじゃないと思う。文章家でもなければほとんどの人の文章を通じたやり取りは、通じ合った気になってるだけかもしれない。
当初期待していた答えと異なる評価軸で受け答えしてくるいわゆるこんにゃく問答でも
その期待していた記憶さえも話の流れに上書きされてしまって、やり取りが正しく成立してるように錯覚してしまっている恐れがある。
おかしな答えだけどいいかと妥協してるかもしれないし、その妥協すらも無自覚なものかもしれない。
本当に「コミュニケーション」がしたいなら文章ではなく音声でやりとりするべき。
話し言葉は無軌道なところもあるけどそういう規範とのちょっとぐらいずれてる方がもっと人に伝わる表現が成立するのかもしれない。
また、文章でのやり取りは創造的な文章が生まれるのを阻害すると思う。
結婚生活というものは、屁理窟の世界ではないのである。思想が違うから、とか、人種が違うから、とか、そういう一般論では割りきれないもので、男女二人の関係は、いつの世に限らず、男女二人だけの独特の世界だ。
そしてその夜、銀座裏のバーで酔っぱらいながら、異民族間の距ては如何ともしがたいなどと、梅子のことについてではなく、一般論として言いだした。それから更に、日本人は全体として中国人を蔑視してるとまで言った。
以上、一般論は終りだ。どうも僕は、こんなわかり切ったような概念論は、不得手なのだ。どんな、つまらない本にだって、そんな事は、ちゃんと書かれてあるんだからね。なるべくなら僕は、清潔な、強い、明るい、なんてそんな形容詞を使いたくないんだ。自分のからだに傷をつけて、そこから噴き出た言葉だけで言いたい。下手くそでもいい、自分の血肉を削った言葉だけを、どもりながら言いたい。どうも、一般論は、てれくさい。演説は、これでやめる。
よき文章家には、必ず隠そうとして隠し切れないであろう特色が、自らその文章に浮び出るものである。要は明快であることだ。だが、これは一般論であって、その小説から文章だけを切り放して、内容と別個のものとして論じることは不可能なことである。以下、私は各論にはいるのであるが、そこで各種類の中に、内容と文章とを合せて詳論したいと思っているから、ここではこれ位に止めることにしよう。