はてなキーワード: 伝統とは
僕は時々、道を歩いていてクスっと笑う事がある。
と、思うと嬉しさが込み上げてくる。
激烈な競争を勝ち抜き伊藤忠商事に入社して3年。企業の威信をかけた戦いが始まっている。
僕は伊藤忠商事の者として、将来の日本を背負っていく使命を帯びているのです。
しかし先輩方は僕に語りかけます。
『いいかい?君が母なる伊藤忠商事に何を成すかを問うてはならない
君は選ばれし神だと言う自覚を持ち、いかに伊藤忠商事に貢献出来るかを問いたまえ。』
僕は責任感の重さに胸が熱くなり、武者震いを禁じ得ませんでした。
でもそれは、伊藤忠商事を造り上げてきた先輩始め先達からの深い慈愛なのでしょう。
近い将来、この美しい企業を牽引してゆく僕たち社員の熱き誇りなのでしょう。
こうして僕たち伊藤忠商事の学生は、伝統と栄光を日々紡いでゆくのです。
嗚呼、何と素晴らしき伊藤忠商事哉。
余計な説明は一切いらない。
ただ、周りの人に『どちらの企業ですか?』と問われ
『ITOCHUです』と答えるだけで尊敬のまなざしが、更に『繊維部門です』の一言で憧憬のまなざしが注がれます。
美しい人妻から投げ掛けられる甘濡れた視線。
そして、2ちゃんに来る度に味わう圧倒的優越感。
ITOCHUに入れて良かった。
伊藤忠商事に入社出来て本当に良かった。
1976年刊。米国を代表する歴史学者ウィリアム・マクニールの主著で、その後のグローバルヒストリーの研究にも絶大な影響を与えた。ジャレド・ダイアモンドのベストセラー「銃・病原菌・鉄」のタネ本の1つとしても知られる。
本書で中心となるメッセージは、次の1点に集約される。「疫病の流行が、世界史の重要な決定要因でありつづけてきたのにそれが無視されてきた」ということ。昔の人類がいかに疫病に苦しめられてきたか、また疫病が歴史上の事件にいかなる影響をあたえてきたか、医学の発達した現在においてはそれらを実感することは難しい。史料の乏しさも手伝って伝統的歴史学ではこの重要な要因が無視されてきたことをマクニールは冒頭、痛烈に批判する。数少ない史料を補完するように、彼は一流の歴史家として培った卓抜な想像力を武器に、議論を展開していく。例えばこんな具合に;
・インド地域での諸王国はなぜ、なぜいつも外部から簡単に征服され、その征服王朝も短命だったか。その背景には、高温多湿な気候がはらむ高い厄災リスクが、各王朝の国力(人口)を削いできたからではないか。カースト制度も同様に、病原菌に侵された原住民への隔離意識というものがそもそもの発端にあったのではないか(上巻p160)。
・欧州の文明の中心が地中海世界から北部へと移動していったのは、長い間くりかえされてきたペストの影響が大きい(上巻p209)。西暦634年から、急速に拡大していったイスラム勢力に対して東ローマなど欧州勢が簡単にやられてしまったのも、542年以降に地中海世界に繰り返し起こっていたペストによってかなりの国力をそがれていたのが一因だ。
・その後、欧州でしばらく活動を休止していたペストは、なぜ14世紀になって思い出したように全ヨーロッパで猛威をふるったのか。それは大モンゴル帝国の影響がある。もともとヒマラヤ山脈を本拠地としていたペストは、モンゴルの同地への征服活動の結果中国に広がり、それが交易路に乗って1348年のヨーロッパに到着し大流行した。実際、1331年にペストは中国で流行。ユーラシアの草原部は1346年を軌に人の流れが止まった。その地にいた人が病気ですっかり死んでしまったからだ(下巻4章)。
・16世紀初頭。スペイン人が新大陸アメリカに侵入してきたとき、アメリカ原住民は天然痘などに為す術も無く犯され人口は20―25分の1に激減した。これは無理もない。ユーラシア、ヨーロッパ、アフリカ間の広大な土地がもたらす生物多様性の中で、繰りかえしの厄災をくぐり抜けてタフになったヨーロッパ人に比べると、アメリカ原住民はただの無垢なヒトにすぎなかった(下巻5章)。
そして現在、天然痘、ペスト、コレラなどの医学的対処法が完成し、新大陸アメリカのように無垢な住民が大量に存在する未開拓エリアも存在しない。つまり、私たちは数千年の人類文明史上初めて、疫病による大量死のリスクが消滅した時代に生きている。このことはもっと認識されていい一方、気を抜いてもいけないと著者は警告する。マッドサイエンティストたちが、有毒かつ伝播性の高い病原菌を作りだす危険性もあるし、地球温暖化の進行は我々と病原菌とのバランス(均衡)を崩すかもしれない。また今後起こりうる地球外生命体との接触は、我々人類に全く新しい疫病をもたらすかもしれないのだ(下巻6章)。
強く感じさせられるのは、この難解かつ前人未到だったテーマに果敢に挑んだ著者の気概だ。特に、紀元前のころの疫病の影響については有用なデータがほとんど存在しておらず、事実上推測することしかできていない。普通の研究者ならば、こんな局面に直面したとき「やっぱりこのテーマ止めようか」となる。あるいは周囲からそのように諭される。にもかかわらず、これだけ自信をもって堂々と議論を展開している所に、何だか読んでいて勇気すら与えられる。清々しい本。
久しぶりに、もう本当に久しぶりに"出会い系"で検索したら掲示板からなにからみんな有料になっていた。
昔は携帯電話会社のオフィシャルサイトでも出会い系があったのに、すごい変遷だ。
さて、目的はさておき、どこにいったんだろう?
10代の男女だって、20代だって、30代40代だって、独身者の一定数は異性を求めてるはずだ。
既婚者だって「いい人がいたら・・・」って思ってる人だっているはずだ。
どこで、どうマッチングしてるんだろう?
お見合い制度が復権してるようにも思えないし、有料サービスに以降してる気もしない。(アメリカじゃネットで結婚相手を探すのがかなり一般的になってるらしいけど。)
気に入った人に声をかけてデートに誘ってっていう個別交渉が一般化してきたようにも思えないし、結局は知人や親類縁者の紹介でっていう形に戻ったのだろうか?
伝統形式のお見合いが廃れただけで、結局はお見合いと一緒かな?
売春、回春だって需要があるんだからどこかでやっているんだろうけど、普通に暮らしているとまったく見えない。
ソープランドは売春黙認っていうのは聞いてるけど、そこだけに封じ込めは成功してるわけ?
ここしばらくのところ、開かれた人間と閉じられた人間、ということを考えてきた。
それを考えるに至った理由は、高校時代には良いことだと思ってきた好奇心が、
大学に入って、なんだか悪いことのように思えてきたからだ。僕自身、周りの影響を受けて遠慮するようになってきたのだ。
それが大人になることなのかもしれない。だけど全く楽しくなかったし、読んできた無数の本の内容が
全て否定されるような気がした。それに否定してくる人たちはみんな退屈だったんだ。
退屈は悪いことだ。新しいものを生み出すことをしない。
退屈の空気に慣れると、変化を嫌がるようになる。
だけど変化を否定した組織や共同体は、死んでいるんだ。変わるとしても、腐敗するだけなんだ。
僕の周りでは、どうやって変えるかについて議論をする奴はいなかった。
開かれた人間は閉じた人間には興味がなくて、自分たちでやっていけばいい、と言うんだ。
そうなのかもしれない。変わりたくないって言ってるやつを無理に変えることはない。
でも、変わりたいけど変わり方がわからないやつに対して、何ができるかを考えることには意味がある。
それともう一つ。この文章をここまで読んでいるだけでも、完全に閉じてはいないことを分かってほしい。
僕の周囲を見渡してみると、好奇心を肯定する人間と、否定する人間、そういう基準で人間を二つに分けられることに気付いた。
ここで書かれている「好奇心」は、質問を歓迎するか、ということで言い変えてみてもいい。
好奇心を肯定する人間は吸収し続けている。これを開いている人間と呼ぶことにしよう。
好奇心を否定する人間は、ルールを学習した後は、それを変えることを好まない。
これを、閉じている人間と呼ぶことにしよう。
一般的に学校の先生は殆ど閉じている。学校という組織が開くことを否定するものだからだ。
彼らは、質問はありませんか、と言う。
だけど、僕らの疑問に興味を持ってはくれないんだ。
予習が足りないとか、授業をちゃんと聞けとか、そんなことを言うんだ。
開かれた人間は大体が、閉じられちゃったら仕方ないよね、と考えている。
諦めてしまっているんだ。ただ開かれている人間を見つけたら、一気に仲良くなる。
で、僕が考えるのは、なんとか人間をこじ開けることができないかということだ。
それを小説でやろうと考えていたんだが、小説を動かすエンジンになる「思想」
が明確化されていないのに小説の結論を出すのは難しい。
だからエッセイを使ってみることにしたんだ。
http://blog.livedoor.jp/simoom634/archives/50189369.html
というエッセイで言及していたことだ。
つまり、頭の中で考えるんじゃなくて、文章にして考えてみるんだ。
グレアムの流儀に従ってみることにしよう。
エッセイは質問から始まる。
閉じた人ってどんな人?開かれた人ってどんな人?って具合に。
で、僕にはあらかじめ考えがあったわけじゃないんだ。どこにたどり着くかもわかってないんだ。
ここで2つ目の質問を出そう。これは大事なテーマだ。
「閉じた人はどうやったら、開いた人になれるの?」
これは最初に書いた定義に従えば、どうすれば好奇心を取り戻せるかってことだ。
それは閉じた組織にいるときには難しいことだ。閉じた組織は疑問を持つことを否定するんだ。
じゃあどうする?反抗するのがいいのか?従って、だけど頭では違うことを考えているのがいいのか?
これはどちらも間違っている。
反抗したところで、閉じた思考の持ち主は、とりわけあなたの上司は、閉じることに関してはあなたよりも一枚上手だ。
なにしろ彼はあなたよりも長い間、どうやったら疑問を抑えられるかを学んできたのだから。
もし従ったならば、あなたの思考は多かれ少なかれ、それに適応してしまう。
開かれた人間はコースアウトするんだ。面白そうなところに向かおうとするんだ。
そして自分のルールを見つけて、楽しく生きるために必要な原則を見つけるんだ。
開くために必要な手段は、素朴な疑問を持って、それを潰さないようにすることだ。
それと、楽しんで生きることができる例をもっと沢山知ることだ。仕事は義務で、趣味に生きるっていうのではなくてね。
開かれている人の集まる場所を考えてみよう。一人になることだって、麻痺させないためには悪くないんだけど、
それは寂しいし、慣れないだろう。
だから開かれた人のいる場所を考えてみることにしよう。
彼らは大体が一人でいるか、小さな組織にいる。
もしくは、大きな組織の中でも、独立性の高い小さな組織にいる。
大きな組織と開かれた人は相性が良くないんだ。
彼らが彼ら自身のルールに従うから。。
子供の頃はみんな開いている。みんな素朴な疑問や、旺盛な好奇心を持っている。
それが「正しい」ものかは別にしてね。
それが大人になるにつれて、規律とか、常識とか、空気とかを理解するようになっていく。
親や学校や社会の教育で、そういうものに従うのが正しいものだと思うようになっていく。
閉じた人間はこう答える。でもこれは伝統だから。歴史には理由があるんだよ。
もっと閉じた人間はこう答える。これはルールだから。ちゃんと守らないと。
それはトートロジー(Q女とは?A人間のうち男でない方みたいな説明のこと)じゃない?って疑問には、沈黙を持って答える。
どちらでもない人間は迷う。おかしいなあ、と思う。
それを開いてやろう、とぼくは思うわけだ。
音楽や小説や映画やエッセイや美しい学問は、人を開く役に立つ。
必要なのは、相互に矛盾するような性質のものを両方受容することだ。
こんな具合に。
だけど、どちらでもない人間は、少ししか空いてないわけだ。
だから一度に沢山の物を入れることはできない。
それに強烈なメッセージには拒否反応を示すかもしれない。
始めは、変わってしまうのは怖いことだから。
「教え」が入り込んでくるのは、自分が自分でなくなるような気がするからだ。
だけど、「考え」だって、「教え」の総和にすぎないわけだ。
素敵な大人達が厳選したものではあるけどね。
それに対抗するには、沢山の教えを学んで、シャッフルすることだ。
沢山の教えの中には、閉じたものも、開いたものもある。
だけど歴史に残るものには、開いた人の作るものが圧倒的に多い。
彼らが何かを変えてきたからだ。
だからそういうものを受け入れることによって、開いた人になることができる。
だけど、閉じた大人たちだって、本を読めとは言うんだ。
どの本を読めとは言わないけどね。
それは彼らがどの本が良いかを理解できないからだ。
そういう訓練を(つまり沢山の本を読むことだ)してこなかったからだ。
別に本に限らないんだ。音楽でも、映画でも、漫画でもいいんだけど。
とにかく自分の中に規制を設けないことだ。読みもしないのに、聞きもしないのに批判をしないことだ。
そしてとりあえずちょっとずつ試してみることだ。
何か気に入ったものがあれば、その作者の他の作品や、その作者が好きだったものや、薦めているものや、
amazonで薦められているものを調べたりしてみることだ。
一つ注意点。昔の小説は、昔の作品は、長い前置きがあるんだ。
忙しい現代人の為には作られていないんだ。
それを耐えるためには、読みやすい文章のものを選ぶこと。そしてそういう事実を理解することだ。
だけどそうやって開いたところで、社会の押し付けはしつこく続く。
これに対抗する方法は、戦うことじゃない。さっさと逃げることなんだ。
素晴らしい場所を見つけるんだ。技術や知識を磨きながらね。
なんなら素晴らしい場所を作ったっていい。
素晴らしい場所を作るっていうのは、尊敬できる友人と起業するってことだ。
そうすれば素晴らしい人生を送れるはずだ。少なくとも閉じた人間よりは、沢山のことを見ることができるし、
沢山の感情を感じることができるんだ。
私は出会い系で異性を探していて、ときどきクスッと笑うことがある。
「ああ、私は非処女なんだ」と思うと、嬉しさがこみ上げてくる。
非処女となった日のあの嬉しさがいまだに続いている。
「非処女」・・・・・
非処女の先輩方に恥じない私であっただろうか・・・・。
しかし、先輩方は私に語りかけます。
「いい?伝統というのはわたしたち自身が作り上げていく物なのだよ」と。
私は感動に打ち震えます。
「男が何をしてくれるかを問うてはならない。君が男に何をなしうるかを問いなさい」
私は使命感に胸が熱くなり、武者震いを禁じえませんでした。
でもそれは将来日本の各界をになう最高のエリートである私たちを鍛えるための天の配剤なのでしょう。
非処女を作りあげてきた先輩はじめ先達の深い知恵なのでしょう。
出会い系で異性を物色することにより、私たちは伝統を日々紡いでゆくのです。
嗚呼なんてすばらしき非処女。
素晴らしい実績。余計な説明は一切いらない。
「エッチしたことある?」と聞かれれば「非処女です」の一言で羨望の眼差し。
非処女になって本当によかった。
僕はハロワで求人を探していて、ときどきクスッと笑うことがある。
「ああ、自分は無職なんだ」と思うと、悲しさがこみ上げてくる。
送別会の日のあの悲しさがいまだに続いている。
「無職」・・・・・
しかし、ハロワにいる先輩方は僕に語りかけます。
「いいかい?伝統というのは我々自身が作り上げていく物なのだよ」と。
僕は感動に打ち震えます。
「ハロワが何をしてくれるかを問うてはならない。君がハロワに何をなしうるかを問いたまえ」
僕は使命感に胸が熱くなり、武者震いを禁じえませんでした。
でもそれは将来日本の各界をになう最高のエリートである僕たちを鍛えるための天の配剤なのでしょう。
この状況を作りあげてきた先輩はじめ先達の深い知恵なのでしょう。
ハロワで求人を探すことにより、僕たちは伝統を日々紡いでゆくのです。
嗚呼なんてすばらしき無職。
素晴らしい実績。余計な説明は一切いらない。
「ご職業は?」と聞かれれば「無職です」の一言で羨望の眼差し。
無職になって本当によかった。
「ああ、自分は正社員なんだ」と思うと、嬉しさがこみ上げてくる。
入社式の日のあの喜びがいまだに続いている。
「正社員」・・・・・
しかし、先輩方は僕に語りかけます。
「いいかい?伝統というのは我々自身が作り上げていく物なのだよ」と。
僕は感動に打ち震えます。
「上司が何をしてくれるかを問うてはならない。君が上司に何をなしうるかを問いたまえ」
僕は使命感に胸が熱くなり、武者震いを禁じえませんでした。
でもそれは将来日本の各界をになう最高のエリートである僕たちを鍛えるための天の配剤なのでしょう。
この企業を作りあげてきた先輩はじめ先達の深い知恵なのでしょう。
会社で成果を上げることにより、僕たちは伝統を日々紡いでゆくのです。
嗚呼なんてすばらしき正社員。
素晴らしい実績。余計な説明は一切いらない。
「ご職業は?」と聞かれれば「正社員です」の一言で羨望の眼差し。
正社員になって本当によかった。
突然だが,今注目されているバンド「神聖かまってちゃん」の、日本社会史あるいはパンク史的な意義はもっと指摘されてよい。
和製パンクロックが生まれて30年、日本人はついにこうしたバンドが評価される社会へたどり着いてしまったのかと言うレベルである。
少し回り道をすれば、2年前の6月8日の秋葉原の路上、私もその場所に居合わせたから忘れもしない。
「非リア充」の26歳男が赤の他人7人を次々とぶっ殺した。「格差社会」「ニート」「希望のなさ」などのバズワードとともに、秋葉原連続殺人は、00年以降の社会に訪れたこうした変化の象徴と言われた。
その時、私たちは気づくべきだった。不適切かもしれないが、その事件は別の見方をすれば、パンク好きにとって願ってもない時代の到来を告げていたのである。すなわち、日本で訪れることのなかった、本来のパンクロックが受容される時代へと、日本が変化(退化?)しているという事実だ。
教科書的になるが、1970年代に生まれたパンクロックは、当時の英国社会のなんとも言えないクソッタレな社会環境で生まれた。自国産業は衰退し失業率は最悪だった。若者は職も金もなく伝統的な階級社会に阻まれてはい上がることも出来ない。こんな絶望感の中で若者はロックという媒介手段を用いて不満を発散させた。セックスピストルズは、たとえ演奏技術はなくても圧倒的な説得力をもって浸透していった。
80年代以降、パンクロックが日本にも輸入され、反社会的な曲が大量生産された。もちろん素晴らしい曲やミュージシャンも次々と生まれたが、すべてに共通する根本的な欠陥があった。それは、当時の日本が総中流社会で、基本的に成長を続ける豊かな社会だったということだ。「フリーター」は当時は今とは逆に希望を持った生き方として受け入れられていた。若者が抵抗する相手は、両親とか、学校の先公(古い!)とか、そんな微笑ましいものだった。ザ・スターリンに影響されてビリビリに破けたTシャツを着る人たち。80年代後半のバンドブームでカラフルに染めた髪の毛をツンツンに立て演奏する人たち。彼らの反抗的なパフォーマンスは、すべて豊かな日本人の”真似事”でしかなかった。たとえ人気を呼んだブルーハーツでも、社会派的な曲は空回りしていた。
「神聖かまってちゃん」には、こうした日本のロックが抱えてきた嘘くささがない。それが決定的に新しい点だ。いわば日本のパンクロッカー達が、演技的に”狙って”なろうとしたポジションに、不気味なぐらいナチュラルにすっぽりと収まっている。なぜならば、彼らは間違いなく格差社会になった現代日本の底辺に生々しく存在しているからだ。「ナンバーワンよりオンリーワン」などという腐ったバズワードが好意的に受け入れられていた時代の生ぬるさの中に、彼らはいない。
ボーカルのの子は、高校をすぐに中退しネットに没入した腐れニートだ。感情に極度に左右されやすい社会生活上致命的な問題も抱える。他のメンバーも派遣やバイトなど非正規労働の日々を送る。彼らは、ピアキャスやニコニコ生放送を使って、そのどうしようもない自分自身の生活を、包み隠さずそのまま見せる。渋谷の路上でライブパフォーマンスをし警察に補導されたり、メンバーの自宅では酒を片手に1時間でも2時間でも暇つぶしのグダグダトークを展開する。楽曲もありえないほど”ありのまま”、ただ心の中の衝動をぶちまけているだけのように見える。曲は洗練されてなく子供のような詩だ。歌い方や演奏も改善の余地がかなり大きい。それを意図的にやったかどうかはともかく、結果としてこれらの行為すべてが人気の要因だった。彼らがいる底辺、そして彼らが底辺にむけて放つ叫びはあまりにリアルに映る。熱狂的なファンがいるのもうなずける。パンクを歌うにあたり、彼らよりも”適した”ポジションはないからだ。「そんな立ち位置からロックを歌われたら、もはや彼ら以外の誰もロックを歌うことなんかできなくなってしまうよ」的な反則技の感すらある。
私は「神聖かまってちゃん」とそれを受け入れる日本社会に1970年代のイギリスを感じる。もちろん実際経験した訳ではないが、おそらくこんな感じだったのだろう。戦後の急成長はどこ吹く風,かつての英国のように格差が拡大し、ゆるやかに衰退する日本。もはや自分をわざとアウトロー的に脚色する必要すらない、無加工の生き方がそのまま”パンク”的表現になって若者の共感を呼ぶ。いいにしろ悪いにしろ、私たちは今、そんな時代に生きているのである。
実に馬鹿げた話だと思う。
そんなことより、夫婦が互いの立場を尊重して
仲良くしてるほうがずっと大事だろうが。
どうせ、別姓を選択するのだって、1割か2割だろうし、
それも子どもは男の側を大体とるだろうよ。
ごく一部の夫婦が、別姓にすることで家庭も丸く収まり、
子どもだって増えるかも知れない。
手前のうちは勝手に今まで通りやってればいいのに、
いったいどんな不都合があるのかと。
そんなに人ンちの子どもが気になるなら、
トム・ハンクス「第2次大戦では、我々アメリカ人は日本人を黄色い犬と見ていた」→米国内でフルボッコ
ttp://news4vip.livedoor.biz/archives/51504117.html
イーストウッドは厳密には保守主義ではなくて道徳的個別主義と呼ばれる立ち位置の人だよ。アメリカ人は大抵右も左も前提としてアメリカはなんだかんだで善だという観念の元で生きているが、イーストウッドみたいなタイプの人はそれは必ずしも正しくない(かといってアメリカが嫌いなわけではない)という考え。共和党の支持者には少数ながらこういうグループが存在する。アメリカでは日本と違って2大政党が成立してるから、人によっては単に思想信条だけで支持政党を決めているわけではない。ここに居る連中の中にも「日本古来の伝統やしきたりは大切にすべきだし、外国人参政権は当然反対」って人でも基本的な思想自体は「社会保障を手厚くして欲しい」とかのリベラルな(=左翼という事ではない)立ち位置の人もいるだろ?単純な二項対立では図れないわけだ。
どうも死にたい人間が多いようなので、「自殺の仕方」について列挙し、その利点と欠点を書いてみた。
・首吊り
これがもっとも苦しまずに逝ける方法だと言われている。
ところが俺は何度かチャレンジしたが、うまくいかなかった。
どうもうまく頸動脈が絞まらないようだ。
・注射器による失血
これが一番苦しまなく、また「引き返せる」方法だろう。
注射針は18Gの太いものを購入する。
ネットで300円もしないで買える。
人は、
500mlごとに状態を見つつ、血液を抜く。
リスカと違って針穴しか残らないので、跡が残らない。
血管の位置は、一旦献血して確認すると良い。
その他、
・自動車の排気ガスを社内に引き込む
また、一酸化炭素を吸い込み、蘇生したあと、1年後脳が溶けて死ぬ、という症例がまれにある。
一酸化炭素を吸い込んだ記憶すらない人が、いきなり亡くなったりする。
死ぬ気が失せたあとで亡くなるのは、農薬を飲むのと同様悲惨だ。おすすめできない。
・硫化水素
苦しい、死体が醜い、発生した硫化水素によって二次災害が引き起こされる、などでおすすめできない。
失血死が流行すると良いと思う。
han_org:日韓条約締結後も、在日コリアンに対するさまざまな差別は温存された。「日本人に準じる様々な権利が付与された」という歴史的事実をひとつでも出せるか。
miyadai:差別はなくなっていない。だからといって「在日=強制連行」図式を前提にした政策を継続するべき理由もない。強制連行の虚偽を知れば永住権を与えているだけでも相当なもの。永住権には生活保護や社会福祉の受給権が含まれている。
han_org:強制連行がなかったのは「ウソ」ではないけど、植民地支配によって伝統的秩序と経済基盤が破壊された。それで朝鮮半島の膨大な人口が半島外へ流出したのだから「強制移動」だ。マクロな社会状況を見ていない。
miyadai:朝鮮半島の一部の人が日本に出稼ぎに来ただけなのを「強制移動」とするのは嘲笑されるか、水掛け論。それなら在日政策を強制連行を前提にしないで強制移動を前提で実行すればよい。
コリアンは長年「強制連行された」つーて日本を罵ったり交渉材料にしたりしてきたくせに
嘘がばれたら「嘘つきました、すみません」もなく次のポジションに移ろうとしてる。それは通らないだろう。
「村で話をしてたら突然縛られてトラックに詰め込まれた」みたいな臨場感溢れる作り話をたくさん流布させてたんだぜ。
その話を信じてたら本当に奴隷商人みたいな感じに朝鮮人を100万人さらってきました、みたいな認識になるし
まず、嘘だったじゃんと。
1 平然とデマを流布する傲慢(数字は金明秀氏がblogでつけた論点)
han_org:日韓条約締結後も、在日コリアンに対するさまざまな差別は温存された。「日本人に準じる様々な権利が付与された」という歴史的事実をひとつでも出せるか。
miyadai:差別はなくなっていない。だからといって「在日=強制連行」図式を前提にした政策を継続するべき理由もない。強制連行の虚偽を知れば永住権を与えているだけでも相当なもの。永住権には生活保護や社会福祉の受給権が含まれている。
han_org:強制連行がなかったのは「ウソ」ではないけど、植民地支配によって伝統的秩序と経済基盤が破壊された。それで朝鮮半島の膨大な人口が半島外へ流出したのだから「強制移動」だ。マクロな社会状況を見ていない。
miyadai:朝鮮半島の一部の人が日本に出稼ぎに来ただけなのを「強制移動」とするのは嘲笑されるか、水掛け論。それなら在日政策を強制連行を前提にしないで強制移動を前提で実行すればよい。
han_org:「参政権がほしいなら国籍を変えて」とマジョリティの知識人がマイノリティの生き方に口をはさむのは傲慢。「特別永住者には無条件で日本国籍を選択できるようにすべき」であれば、まだ理解できる
miyadai:一般永住外国人に参政権を与えないのに、特別永住外国人に参政権を与える合理性があるか否か。一般永住者を含めた手続簡素化論を展開するなら道理が通る。
4 国際標準を語る愚かさ
han_org:国籍がエスニック・アイデンティティに重要な役割を果たしているケースも少なくはない。
miyadai:エスニック・アイデンティティが国籍と関係あるのは当たり前。それが「民族国家」の定義。
han_org:国籍とエスニック・アイデンティティが独立している例もあるが、そういう国は国籍が出生地主義だ。「世界標準」などと一概に言えない。無知をさらけだしている。
miyadai:OECD加盟国のほとんどで「●●系○○人」というのが自明。参政権がほしいなら●●人から「●●系○○人」になるのが普通。もしそれらの国は二重国籍があるからと言うなら、参政権より二重国籍を認めろと運動すればいい。
5 簡単ならやってみるがいい
han_org:日本国籍をとった在日コリアンの知人で国籍取得を「容易だ」と言っている人に会ったことがない。おまえがやってみろ。
miyadai:一般永住者にくらべれば特別永住者の帰化は容易。そう言っている知人も複数。それに大変かどうかは水掛け論。それに「帰化がとてもメンドー。国籍が取得しにくい。だから参政権がない。だったら国籍なくても参政権を与えろ」は馬鹿げた理屈。
miyadai:特別永住者と違って一般永住者には、生活保護や社会福祉の受給権があるのに窓口で追い払われてるケースが大半。一般永住者の処遇がめちゃくちゃであることを直すのが先決問題。処遇の滅茶苦茶さゆえに、子供世代が言葉も喋れず、参政どころじゃない。
hang_org:miyadai はごちゃごちゃ書いてるけど話がずれまくってる。議論どころかケンカにもなってない。
*かってな要約と対応づけになっているので、本文や細かい言い回しが気になる方は
金明秀氏の方は http://han.org/blog/2010/03/post-140.html
宮台真司氏の方は http://twitter.com/miyadai
を見てください。
今まで関東圏の色々な高校の生徒を見てきたが、有名校(伝統校?)と言われるとこの生徒さんほど自由を感じる。
特に早稲田慶応麻布開成の生徒さんを見る機会が多かったのだが、こういうのをリア充というのだろう。
頭の回転も早いし、コミュニケーション能力もあるし、フットワークも軽い。
勉強一本やりではなく、勉強以外にも取り組んでいて、そこそこ楽しそうにしている。
でも成績は(全国的に見て)そう悪くはない。
これに比べて地方の進学校の生徒さんには、なんというか元気さが足りてないような印象を受ける。
押し付けられた勉強をいやいややってます、という受け身のスタンスが滲み出ている。
そのせいか勉強以外のところでもパッとしない。
前者は東京という何でもある場所に立地しており、しかも原則としてある一定以上の学力を有していないと入れない有名な伝統校で、瑣末なことに捕われなくてもよい男子校だ。
それに比べて後者はどのような特徴があるのだろう。
両者の何がこんなにも印象を変えるのか、決定的な要因に行き着かなくてもどかしい。
ttp://page2rss.com/p/96a0e72a7042412eed472fdf0da855e5_4826124_4827570
日本を5分割して順番に年2回5連休を取る計画を立て、政府が各界の意見を聞いた。行楽地が混雑せず経済効果も上がるというのである
秋に「国民祝日法改正案」が提出される所まで話は進んでいる。今春を例にあげると、北陸の5連休は5月15日土曜から19日まで。次いで関東や東北、北海道の連休が始まる。花見の遅い地域は5月末がちょうどいいと言うわけだ
いらぬお節介である。そんな行楽カレンダーが可能と思っているのだろうか。長い歴史に育てられた祭事や農林水産業と密接にからんだ春秋の休日である。お上(かみ)が民に指示する性質のものではなかろう
息子娘が連休に帰省したら、ふるさとの親は仕事で大忙しだったということが起きる。企業も支店や工場間で休日が異なることになる。不透明な内需拡大・雇用創出を錦の御旗に、伝統や習慣を犠牲にするのは本末転倒。ひょっとして「道州制」の試運転か
昔から暦の支配は国家権力行使の一つだった。が、平成の世では権力の乱用もここに極まるといった感がする。そのうち、盆も正月も地域ごとに別々にやれと命令が来ないか心配になる。
ttp://sofusha.moe-nifty.com/series_02/2010/03/post-eac7.html
たとえば『マトリックス』では、裏切り者、つまり悪役側のサイファーという人物がこんな言葉を口にします。
「俺はな、このステーキが存在しないことは知ってるんだよ。口に入れると、マトリックスが俺の脳味噌に、これが肉汁たっぷりで最高にうまいと教えてくれるんだってこともな。9年かかって俺がなにを理解したか、アンタわかるか? 無知の至福さ。」
現実よりも仮想現実を選択するという判断が「悪役」のものであるということ。この描写が象徴するように、「現実>仮想」あるいは「三次元>二次元」という価値観は、もはやハリウッド映画の強迫観念ですね。虚構産業の自浄作用のようなものでしょうか。まあそれはともかく。
『アバター』で、主人公ジェイクは、あらゆるハリウッド映画的伝統に逆らって、なんと仮想現実に生きることを選択します。この部分、あまりにもあっさりと描かれているので気づかれにくいようですが、これは二重の意味で画期的なことです。
前衛映画ではありません。超娯楽大作の主人公が、地球(=現実世界)に還らず、仮想空間(パンドラ)のヒロインと生きることを選ぶということ。なんともオタク的な「ネイティリは俺の嫁」宣言です。すいませんわかりにくかったですね。これは一般には、漫画やアニメのキャラクターにリアルな恋愛感情を喚起されてしまった漢(おとこ)たちが口にすべきテンプレートとされています。
さらにいえば、キャメロンはこの映画で「もう現実とか仮想とか区別しなくてもよくね?」と提案しているようにもとれます。アメリカでは本作を観た観客のなかに、「パンドラから帰りたくない」という思いが高じて、うつ状態におちいった人々がすくなくなかったと報じられています。もしこれが事実なら、キャメロンの目論見は見事に当たったといえるでしょう。なにしろハリウッド映画に連綿と受けつがれてきたプラトニズム(イデア>現実>虚構)の伝統を、根底からくつがえしちゃったんですから。
では、なぜ現代において、私のような生きかたは「イージー厨」だったり、植物や動物と同じかそれに近しい扱いを受けるのでしょうか?
(そう扱われているって自体が被害妄想な気がしてきたけれど)
その扱いが事実はともかく、元増田がそう感じているならば、元増田も伝統的な「労働は尊いものだ」という価値観を理解出来ている部分があるのではないかと思う。「労働は尊いものだ」という価値観が理解できなかったら、なぜ迫害(?)されていると感じるのか分からないだろうから。
ま、さらに言えば、その質問のその裏返しが、「人類に貢献した人間がなぜ尊敬され丁重に扱われるのか?」ということだと思うが。
ただ、現実的な話として、今の人類は、技術的にも政治的にも、「労働は尊いものだ」という価値観を完全否定できるまでにはなっていないのではないかなあ。もちろん、将来的には可能かも知れないし、現在でも、技術の組み合わせ次第で可能かも知れないが、適切な仕掛けがまだ見つかっていない、あるいは政治上の都合でまだその段階まで進めていないのではないか。
要するに今は過渡期ということだと思う。
繰り返すけど、歴史的背景があるから、元増田には、伝統的な「労働は尊いものだ」という価値観を理解出来ている部分があるような教育が施されている。しかしながら、その時代に元増田が生きているかは分からないが、技術革新は続いている訳で、元増田の理想としているような価値観がメインストリームの時代が来る可能性はあると思う。
http://anond.hatelabo.jp/20100221123714の続きです。
現在、統一協会の信者がはてなダイアリー他のはてなのサービスを使用しています。そのうちの一人である、id:ucnow(http://k.hatena.ne.jp/ucnow/)が協会に都合の悪い箇所を隠蔽しようと必死です。
2010/03/03 10:45:08にキーワードの内容の大部分を削除しています。
編集時刻: 2010/03/03 10:45:08 編集者: ucnow 編集内容: 6,26d5 -**教祖 -教祖は戦前、朝鮮を日本からの独立させる抗日活動をしていた[文鮮明]。 - 文鮮明はこれまでに6度投獄されたことがあり、また女性関係では女性信者を清めるという名目で性関係を持つ“[血分け]”をして来たという根強い噂があるが、教団はそのような事実は一切ないと否定している。朝鮮戦争以前に韓国の興南(フンナム)収容所に投獄されたのはその現行犯で逮捕されたという説もある。 -1980年代にはアメリカで脱税の罪で懲役刑を受けて以来、1年 以上の懲役あるいは禁固刑を受けた外国人は入国できないとした入国管理法の規定により、日本への入国ができなくなっている。 -**教団の特色 -★独自の聖書解釈 - この教団は、聖書に再び来ると預言された[キリスト]とはイエスそのものではなく、文鮮明であると教えている。統一教会では、文鮮明を「真のお父様」、その妻の[韓鶴子]を「真のお母様」と呼び、夫妻を「真の父母」(真のご父母様)と呼ばせている。 -教団は独自の聖書解釈をしているために、一般のキリスト教会からは[異端]もしくは「異端ですらない」とみなされており、[エキュメニカル](教会一致促進運動)の対象にもなっていない。 -★独自の活動 - キリスト教でいう[原罪]を清算できる唯一の道だとされる「[合同結婚式]」を数年毎に行ってきた。また独自の経済活動として、偽霊能者を使って、壷や多宝塔、[高麗人参]エキスなどを法外な値段で売る「[霊感商法]」や福祉などの名目で行うニセの募金活動、さらに日本人女性に日韓関係の問題を韓国側の立場から説き伏せて罪悪感を持たせることで洗脳し、韓国の農村部の男性と結婚させていることなどに対し、社会的批判が強い。 - このような霊感商法による被害や、教会名や宗教であることをひた隠しにして、サークルや関連団体を通しての伝道(「[青春を返せ裁判]」)や、合同結婚式による婚姻の無効性などに関して、被害者や元信者らによって多くの訴訟が提訴されてきており、統一教会自体に信者の不法行為に対する「[使用者責任]」があるとされた判決が多数出ている。 -また、多数の関連企業(武器製造、高麗人参の販売など)を世界各地に持っており、『ワシントンタイムズ』(米国)や『世界日報』(韓国・日本)を通じたメディア活動および政治工作なども行っている。自由民主党との癒着も指摘されている((安倍晋三前総理大臣ら自民党議員が統一教会関連組織へ祝電を送った事実からも推測される。))。 - 彼らは様々な団体を隠れ蓑にして様々な活動を行っていり。宗教団体が学校や病院、企業をもつケースは珍しくないが、統一教会の場合は一見すると“まったくの無関係”を装って世間の目を欺いている(ただし実際は、その独特の名称センスのために非常にわかりやすい)ところが他の教団ともっとも異なる。 -霊感商法等の経済行為や政治的工作等に加え、近年は北朝鮮に対する莫大な経済援助をしていることなどによって、公安警察の監視対象になっている。
内容の書き換えが明らかに協会の都合のよいものとなっています。ところで「一部のキリスト教関係者や左翼的思想を持った者に「カルト」と認識され、」と書き直していますが、この認識は正しいのでしょうか。カルトと思っている人はほかにも多数見られますが、何か?
編集時刻: 2010/03/03 10:41:28 編集者: ucnow 編集内容: edit -「[[世界基督教統一神霊協会]]」の一般的な略称。統一協会側は「統一協会」ではなく「統一教会」を正式な略称として主張しているが、統一協会の対策にあたる人々や統一協会に反対する人々の多くは「統一協会」の略称を用いる。 + 「宗教法人世界基督教統一神霊協会」の一般的な略称。統一教会側は「神と人間の理想である地上天国を実現するために、神からそのみ旨を託された創始者・文鮮明師によって、1954年5月1日韓国・ソウルで創立された」と説明する。日本統一教会は、1959年10月2日に創立され、1964年7月15日に宗教法人として認可。2009年に創立50周年を迎えた。 -統一協会とその関連団体による霊感商法などで知られており、手口や被害の多さから、カルトと認識する者が多い(([http://www1k.mesh.ne.jp/reikan/japanese/index-j.htm:title]など。))。 +伝統的なキリスト教との教義の違い、平和運動・勝共運動の社会的影響力などから、一部のキリスト教関係者や左翼的思想を持った者に「カルト」と認識され、様々な批判を受け、呼称も「統一協会」を使用されている。
はてなブックマークニュースという広告企画で、
インターネットで物議をかもしてる人物が登場してることがわかった。
問題となったのは「切込隊長」と名乗る人物。
100億円規模のプロジェクト専門のファンドを設立し、IQ190以上を自称するが、
その経歴には多くの疑問符がつけられ、まとめサイトがいくつも作られている。
今回の広告でも資金調達や金融関連の事業をやってるとほのめかしてるが、
台所の一角にしかみえない。
外資系ファンドの対日アドバイザーや知的財産権管理、3Dエンジンの開発、
複数の会社の上場準備などを手がけてると語るわりには、どうも質素なオフィスである。
はたして、この企画を担当したはてなは、誰かを騙そうとしてるのだろうか。
ライフネット生命は信用できるのであろうか。
http://b.hatena.ne.jp/articles/200910/532
パパになった切込隊長
http://b.hatena.ne.jp/articles/200910/532
切込隊長という御仁がいる。
弔い問答 その2
ttp://indai.blog.ocn.ne.jp/osorezan/2010/03/post_82b7.html
南 もっと問題なのは、おそらく『クレヨンしんちゃん』以降には家族マンガはでませんよ。だってここから先、一人しかいないもの。あれは大変な問題なんです。
家族マンガというのは、およそ三十年間近く『サザエさん』が独壇場だったんですよ。ところがその後、一九九〇年代に『ちびまる子ちゃん』が出たんですよ。この二つの決定的な違いは、じいさんの存在感なんです。波平さんと舟さんは家長としての存在感を持っていますが、『ちびまる子ちゃん』のじいさんは、からかわれる道化みたいな役になっています。でもまだ一応三世代なんです。事実上、核家族ですが。
ところが次の『クレヨンしんちゃん』が団地住まいの三十歳前後の夫婦に、五歳の手に負えない息子がいるという完全な核家族。ここから先に家族はいないですよ。
『サザエさん』には構造的に非常に優れたところがあって、あのマンガは、日本人が必ずどこかに自分を位置づけることが出来る。そのポイントは、マスオさんです。マスオさんは婿ではない、フグ田なんだから。だけど、あたかも婿であるかのように振舞っている。ということは、婿入りした男は全部そこに引っかかっている。『サザエさん』には、じいさん、ばあさん、親子関係、兄弟関係もあるが、実は叔父や姪と甥の関係もある。タラちゃんは弟じゃない。すると日本の家族構造として必要な要素が、全部そこで見えるようになっているんです。これはもうないんですよ。そして『クレヨンしんちゃん』の先はない。
『サザエさん』に対応していたのが、日本仏教の伝統的な教団で、おそらく事実上の核家族である『ちびまる子ちゃん』と『クレヨンしんちゃん』の世代に対応したのが、たぶん創価学会や立正佼成会などの新宗教ですよ。
その後、家族がなくなったところ、つまり単身者みたいなところに、もろにコミットしてきたのがオウム以降です。オウムの特徴的なのは「出家」と言うでしょう。鎌倉時代以来初めて、日本の宗教者が出家ということを真っ向から言った特異な例なんです。
私はオウム問題を、未だに完全に処理出来ていないんです。とても重要な問題で、日本の仏教は逃げまくっていると思いますからね。「オウムは仏教じゃない」と言っただけではダメなんです。「仏教じゃない」とは言いがたい側面があるから、ちゃんと処理しないといけない。
しかも特徴的なのは、「出家」を言った指導者が、出家者じゃないというのが日本的なんです。麻原は在家修行者です。人を出家させても、彼は結婚して、子供をつくっている。非常に日本的なんです。一方、同時に出た「幸福の科学」というのは、全国統一神理学試験というのを教師の選抜にやっていたんです。あれは共通一次テストがモデルです。学生みたいな人間を信者に想定している。つまり学生とは何か。家族を持たない世帯者ですよ。
そのうち多くの人があなたと同じように像に興味を失って、新しい「伝統」がでてくるからそんなに心配しなくいい。
この世の中、常に新しいものが出てくるわけじゃなくて、成熟を経て飽きが来て、そこで初めて進むことがある。
たぶんこれもそういう類いの流行。
京大に「折田像」が今年も登場したが、今年もずいぶんと良い出来であった。例年この二次試験の時期は雨が降り、ともすれば無残な姿を晒しかねないハリボテは、しかし雨を受けてもなお一点の色落ちもなく、見事なものだ。投入された技術は、たしかに数年間の制作の経験が生かされているのだろう。ニュースにもなったし、受験生の目にもおもしろいものとして映ったに違いない。
ところが、である。
京大生の一人として、今年はついに像に対して「憔悴」に近い感情を覚えてしまった。
理由はただ一点。
「誰にでも作れる像を造って、どうするのか?」ということだ。
折田像の歴史は、「誰にも考えつかないことをやってきた」歴史である。塗り替えるだけでは飽きたらず、着せ替え、かぶせ、はては像そのものまでねつ造してきた。それは、真に驚くべき創造力の歴史だ。だからこそ折田像はいまや京大の象徴としてニュースにも取り上げられるほどの知名度を誇るまでになった。毎年毎年、誰ともわからぬ匿名の、それも非公式に建てられた像が、これだけ全国区に有名になったことはかつてないことだろう。まさしく、「創造力」のなしえたことだ。
しかし、だ。この数年に、はたしてその「創造力」が存在しただろうか?
「タケシ」の像に、「誰にも考えつかないこと」の一つや二つがあっただろうか?
皮肉なことに、「よりよくできた像」を作れば作るほど、「創造力」は失われているんじゃないだろうか。今年の像だが、自分の目には、「クォリティが高いものを作っていれば、みんなが喜ぶだろう」という傲慢さだけが目についた。それは言うなれば日本の「モノづくり」の象徴であり、今日本が抱えている問題そのものだ。「作れば売れるだろう」「技術力が高ければ売れるだろう」という傲慢さ、である。日本の家電メーカーがなぜ行き詰まっているか。高い技術力を誇っているのに、なぜ韓国に後れをとっているのか。なぜうまくいかないのか。なぜ沈没しようとしているのか。その問題の象徴が、あの折田像にあるんじゃないだろうか。
日本のものづくりの歴史は、ある意味自らの破壊そのものだった。よりよいものを作るために、これまで常識とされていたスタイルさえ破壊し、新しく、革新的なものを提案していった。それはまるで折田像が汚され、被され、そしてあまつさえ新しく作り替えられた歴史とうり二つだ。そして今、京大にはただ単に「よくできた」というだけの像が建っている。なんのおもしろみもない、ただの像が。技術力と、過去の知名度だけで名をはせる、まるで空虚なあの像が。
それは、完全に行き詰まった日本の姿、そのものではないか。
京大当局は、像をなし崩し的に認め、いや、今や、推奨すらしているかもしれない。いずれ当局の「支援」が行われるかもしれない。「伝統」という名の保護主義のために。その先には、死んで腐った創造力でもたらされる、ただ単に見た目だけがよい、うつろな幻としての折田像が残るだけだろう。そしてそれすら残らなくなる。あとに残るのは、一地方大学として細々存続する京大の姿だ。ああ哀れなり京都大学。日本ナンバー2として、東大と並び称され、「変人」を排出することで知られた大学は、ただのありふれた大学に成り下がるのだ。いや、悲しもうじゃないか。それは世界における、将来の日本の姿そのものなのだから。
ばかばかしいとは思う。あんな像ひとつに、日本の将来を予言させるなんて。でも、危機感を持って欲しい。たたえるだけではなく、新しい創造を行って欲しい。日本を変えるような、すさまじい力が欲しいのだ。
しかし、現実は、少なくとも京大生には――あの像を造った京大生には、その力がない、ということだ。
そろそろ、あの像の姿に、絶望しても良いんじゃないだろうか。
***
相変わらず爆釣だぜ、と。
で、お前さんは「折田先生像」に勝る何かを生み出したの?
はい。
しかしそれは「折田像」という形としては結実しなかった、そういう話です。
やってない奴が何を言っても無駄
本気でそう思うんやったら、こんなわかったようなわからんような文章書いてる暇があったら来年は自分がやったらええやん。
その気がないんやったら、要するに君は自分が言うたことを別に本気で信じてへんいうことやろ。
むろんアジテーションの趣が強いかと思います。
しかし「もののたとえ」は、どんなものにでも当てはまる。必ずしも崩壊は大きな音を立ててやってくるわけじゃない。
そして残念ながら、自己保身と、それから私にとっての「折田像」に忙しくて、私にはリアルの「折田像」を作っている暇がなかったのです。
現在、日本が陥ってる最大の問題は、この日記のように努力を無駄と切り捨てることではないだろうか。
だから、私は「折田像」の制作に関して一切の手出しもしていないし、また、完成した像を汚すこともしていません。
ただ、「そんなことをしていてはダメなんじゃないかな」と言っているだけです。
あまり京大生だから、見た目によくできているからといって擁護するだけでは、何も生まれませんよ。
それこそ護送船団の中で腐るだけです。
***
学生のお遊びごときに「没落日本の象徴」とか、おおげさ。「匿名で学生のお遊びに文句を付けるチキンが出るようでは日本も終わったな」とか言われたら、君はどう思うのかね。「俺は別に日本を代表してねーよ」とでも言うんじゃないのか。
さておき、学生のお遊びならFランでも誰でもできるような「タケシ」の像を京大生がわざわざ造ることに意味はない。
そういう意味で、自らさえぶちこわすような新しい提案をすることは、すでに京大生ですら不可能なんだ(日本第二位(笑)の大学のはずなのに)、絶望しようじゃないかって話です。
「文句をつけるな」などと批判されて、像を精神的に壊すこともままならないなら、残された道はただ物理的な破壊しかない。
「俺達は黙って働いてるのに、文句言うな!お前も黙って働け!」っていうのとまったく同じ。
革新派は、調和の名の下に握りつぶす。びっくりするほど日本の抱えてる問題と同じ構図だね。
その点で、誠に残念ながら、「俺は完全に日本を代表してものを言っている」。
予定調和最高や!自由なんか最初からいらんかったんや!