顔のない女はモテる。
例えば椎名林檎である。彼女の顔を思い浮かべようとするとき、それ自体よりもMVで着ていた服やそのときの髪型や新しい亀田誠治やら花束で殴られている伊澤一葉ばかりが出てこないだろうか。そこまで詳しくなくとも意外と苦戦するはずだ。デビューから20年は経っているというのに新曲のMVを発表すればYouTubeの急上昇ランキングに躍り出る程のアーティストである。なのに、あの女はいったいどういう顔をしていたのだっけ?
この現象は、名前だけ知っているというような人より、椎名林檎が好きで新曲や動向を逐一追っているようなファンの方に発生することが多い。
なぜか? 彼女はMVごとに顔を変えているからだ。「獣ゆく細道」ではたおやかな着物の女を、「流行」ではツンとしたモデルを、「鶏と蛇と豚」ではもはや人外を演じている。椎名林檎というとその独特さや他にない雰囲気に目が行くが、その裏に、徹底して曲のイメージに自身を叩き込むセルフプロデュースの巧みさと強さがある。個のなさとアイデンティティの強さが両立している。
だからこそ椎名林檎は時代にモテた。レーベルにモテた。テレビにモテた。なにより聴衆にモテた。顔のない女に誰もが好き勝手な像を見出し、その歌に強く表れる「椎名林檎」にまんまと魅了されたのである。
では夢見りあむはどうか。
断言しよう、夢見りあむにも顔がない。
夢見りあむの設定自体はとてもインパクトがあるものだ。ファッションメンヘラ、クズ、社会不適合──彼女を形容するさまざまな言葉がTwitterに溢れたが、未だかつてこんな言葉で括られたアイドルは余りいないだろう。
ハイスペックな家族に劣等感を抱いている。自己肯定感が低い。ドロップアウトの経験がある。学校は辞めたいし、努力するのは嫌い。だからこそ努力して輝くアイドルが好き。
読んでいて覚えはないか。これは自分だし、あの人ではないだろうか。つまり、現代社会によくいる疲れた人間たちそのものではないか。
ピンクと水色の髪を持たず、また輝くような容姿も大きい胸も無くとも、上記の点で夢見りあむと共通するなんらかを持つ人間は沢山いる。「夢見りあむは俺/私だ」と思う人も少なくないだろう。多くの人間が夢見りあむに自分を見る。そうこうしているうちに野次馬は増え、好き勝手な像を結びはじめる。ある人間は1歩踏み出した世界線の自分を、ある人間は自分の担当が昇るシンデレラの階段に泥を塗る売女を、ある人間は総選挙というシステムを破壊する最後の爆弾を夢見りあむに見る。そうなればもはや夢見りあむの個性など関係ないのではないか。人間たちによって夢見りあむの顔が奪われていったのだ。
夢見りあむは流行になり、顔のない女になった。
夢見りあむは総選挙3位になった。充分な大番狂わせである。この影響は計り知れない。
夢見りあむには声がつく。楽曲も制作される。そうなればもはや、彼女は顔のない女ではいられなくなるだろう。他のアイドルと同じ舞台に引きずり降ろされるのだ。彼女が月並みなキャラクターに収まるか、もしくはまた何か特異さを発揮するか。私としては前者だと思うが、いずれにせよ、夢見りあむが流行であったという事実は消えない。
……なんというか、夢見りあむを作った人間がいて、もしここまで見越していたとしたら、頭が下がる。なんという手腕。なんという悪趣味。椎名林檎の「流行」には「感情が誘うより早い私の気分を喰らい 代用を仕立て上げて さようなら名プロデューサー」という歌詞があるが、たしかに名プロデューサーとはそんなものなのかもしれない。