2018-07-23

仕事をつくって生きていく、ということ

私は間もなく45才になる経営者だ。

父親の立ち上げた会社を引き継いで7年が過ぎ、その間に売上は右肩下がり。自分自身が売上に貢献しているとは言い難く、それまでの蓄積と家族社員)の頑張りで、なんとか食いつないできている。ほぼ家族のみの小さな会社

業種は、小売でもなくメーカーでもなく、流通中間位置する卸売業地場産業品を海外に輸出するのが主業務で、一昔前はずいぶんと儲かった業種だったようだが、現在ではその大半を中国製品に置き換えられており、日本製品は主にコスト面、デザイン面で競争力を失っている。メーカー設備投資をする体力もなく、ジリ貧状態だ。当然、ウチの売上も激減している。

輸入もしていた。15年くらい前までは、中国製品の雑貨品が大変にもてはやされ、日本で作るのより大幅にコストが抑えられるということで、毎月コンテナで何本も輸入しては得意先に卸す、ということを行っていた。私がこの会社に参画したのもこのあたり。それまではプログラマをやっていた。やがて雑貨輸入も落ち目となる。雑貨のような軽工業品は、比較的誰でも取り扱うことができるため、参入障壁が非常に低い。すぐに価格競争になったために、現在ではほとんど行っていない。

自社製品を開発してメーカーとなろう、と息巻いていたころもあった。有名なブランドライセンスを借りて、ちょっと変わった製品コラボさせて、自社製品として売り出そうという発想だ。モノづくりの手配なら一日の長がある。たまたま関係することができた有名ブランドからライセンスを借りることができたため、無事に製品化にこぎつけた。これが市場ちょっとした話題になって、予想を少し上回って完売した。しかし、その後が続かない。そもそもマーケット需要があるような製品であったかどうかが疑わしい。価格も安いものではない。それでもある程度売れたのは、それくらい強烈なブランドだったからだったと理解している。ただ単に運が良かっただけだった。

先代社長は大変に有能なビジネスマンで、関わる人みんなからの信頼を取り付け、どんな不利なディールでも最後までやり遂げることができた。最初は親の借金を背負い(つまり私の祖父借金)、バッタ品を集めてそれを売り歩き、やがて輸出を始めた。時代背景もあって地場産業品はどんどん売れた。相当なハードワークをこなしてきたらしい。出張から痛風で飛んで帰ってくることもあった。やがて取引先の紹介で輸入も始めた。先述の通り、最初は大変に売れた。そして私が会社に入り、程なくして社長を引き継いだ。先代の始めた事業は、どれもものすごい勢いで下火になった。現在仕事はほぼゼロ。前期末で大幅な赤字が出た。

「何か新しいことをしなくては」

社長を引き継いだときから毎日毎日、寝ても覚めても、一分一秒たりとも、呪いのようにこの言葉が頭から離れない。何度か新しい取引先を作って、新規事業として立ち上げてみた。が、どれも事業としては育てることはできずに、フェードアウトしてきた。客先とメーカーをつなげる立場としては、究極的には中間業者は無いほうがコスト的には望ましい。私達は独自の強みを発揮することができず、淘汰されるのは必然だったというわけだ。

さて、こんな状況でどうやって会社を立て直して行こうか。

現在地場産業品の輸出に加え、雑貨輸入で培ったOEM精算業務を行っている。ただし、こちらも現在は引き合いが非常に少ない。

地場産業品については、取り扱う製品自体需要が減ってきているため、我々がこれをどうにかするのは難しい。たぶん、近い将来見切りをつけなければならなくなると考えている。

OEMについてはどうだろうか。ウチの場合雑貨を中心として、いろいろな製品を手がけてきており、頼まれれば割となんでも作ってしまえる。こんな世の中なので、どんな製品メーカーでも大抵は探せてしまう。そこを探し出して、クライアント要求通りに物を作るのが、我々の仕事の一つだ。ただし、なんでもできる、というのは、裏を返せば特に強みが無い、ということでもある。我々がアクセスできる情報なんて、その気になれば他の誰もが知り得る情報であり、クライアントメーカーと直接つながるケースも珍しくない。我々が選ばれるためには、何か特長が、強みが必要だ。

「何か新しいことをしなくては」

と、なるわけだ。これが毎回毎回、頭の中を駆け巡って、でも前進できずに毎日悶々としている。

もう、何から手を付けたら良いのかすらわからない。仕事作っていかんと、生きていけへんやん。

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