30前というのは、公私ともに微妙な年頃だ。
私的な面は言うまでもない。子供を持ちたいのであれば、そろそろ結婚前提の彼氏がいても良い時期だ。大学の同級生だった私の彼氏は、時折そんな話をしてくるものの、ちっとも具体性が出てこず、その気があるんだろうかどうかよくわからない。
仕事の面では、私の場合は、そこそこ名の通った大学を卒業して、総合職として入社して7年。そろそろ同期の間で有能な人とそうでない人が見えてきている。会社からの期待度がどれくらいかというのも色々とほのめかされる。留学に行ける人、業界団体に出向する人、後輩の指導役になる人。そしてもうすぐ、次の職位に上がる同期が出てくる時期だ。私はと言えば、2年おきくらいに異動があって、それぞれ前の仕事とはほとんど関係がない仕事ばかりを回される。もちろん、留学みたいな特別のプログラムの声がかかることもなく、要は、ぜんぜん期待されてないってことをひしひしと感じる立場だ。
そんなことを漠然と思っていたこの4月に、私のいる部の部長が交代した。部長どまりの人がいつも来る部なのだが、なぜか今回は、40歳過ぎたばかりのエリートが来た。東大卒で、会社の中枢をずっと歩いてきた人だ。人を人とも思わぬ凄腕という噂ばかりが轟いており、恐れていた我が部の面々は、実際にその人が来てみると、とても人当たりが良く部員一人一人に目をかけて励ます姿になんだか拍子抜けしたくらいだった。けれど、日に日に部長の凄さは明らかだった。どこから出てくるのかよくわからないくらい素晴らしい着想と、少しの無理を強いるスケジュール感と、段取りの良さで、我が部の業績は、目に見えて上がっていった。
私にも、部長はとても目をかけてくれた。仕事が滞ってたら直接私の席に来てトラブっているところを聞いては改善指示を直接くれた。時折みんなで昼食や夜の飲み会に行くときに話す機会があれば、こういう本を読んだらいいとか、こういう心がけで仕事をすればいいとか、親身にアドバイスをもらった。ただ、彼は年上の部下も含め、部員みんなにそういう態度だったので、私が何も特別だったというわけではない。
そうして過ごしていた6月のある日。たまたま客先との飲み会の帰り、部長と一緒の方向に帰る人がおらず、二人で最寄りの駅に向かって歩いていたその時。ふと私の中でわだかまっていたものが何か弾けたのだろうか、部長に「折り入ってご相談があるんですけど、今からお時間をいただいていいですか?」と思わず聞いてしまった。部長は「別にかまわないけど、女性の部下と2人きりって本当は良くないんだよね。ほかの人には聞かせられない話なのかな?」と言ったように記憶している。結局2人で軽く飲みに行った。そこで少し覗き見た、彼の深い仕事に関する知識と、社内の有力者とのつながり。こういう人の仕事の仕方を、こういう人の経験を、そしてこういう人の知識を知ることができれば、私も、仕事ができない三十路間際の総合職という立場から抜けられるかもしれない。言葉を交わすほどに、私は、彼に惹かれていった。もっとこの人の言葉を私が聞く方法はないか。できればこの人しか知らない話を聞く方法は。
めくるめく思考の中で、やはり答えは1つだった。2人きりで飲んだ3回目の夜に私が選んだお店は、私の一人暮らしのマンションから徒歩の距離。夜が更けるともない早い時間に、うちに来ての飲み直しを誘ってみた。
その夜、私は、部長に、抱かれた。
部長の奥さんは美人で、少なくとも私よりは美人で、しかも高給の専門職だ。夫婦して大変な子煩悩であることも知っている。彼が、奥さんと別れることはあり得ない。そして、私にも独身の彼氏がいる。部長と結婚したいとかそういうのじゃない。ひたすらに、微妙な年頃の微妙な立場にいる強い不安だけが、彼に抱かれる動機だ。そんなことは分かっている。
でも、部長と夜を過ごすたびに、問わず語りに語ってくれるその深い経験と知識、そしていろいろな裏話。時折実感する、仕事能力の上達。人事ユニットにも影響力のある彼は、あからさまではないにしても、私についての良い報告を少しずつ入れてくれているようだ。部長と関係を持ってから、私は少しずつ変わっている。仕事面では、間違いなく良い方向に。
部長とはだいたいいつも私のマンションで逢引だ。軽く飲んで、私のマンションに来て、そして私を抱いて帰る。これまで2回くらい、とても良いホテルでご一緒したけれど、記念日に限るって感じ。ゴムが嫌いらしいので、私はピルを飲んでいる。結婚する気もないのに面倒は起こしたくない。40も過ぎているのに、私の彼氏よりも精力がある部長は、いつも2度か3度、私の中で達する。1回目は私が気持ちいいか執拗に確かめるくせに、2回目以降は自分がいくために一生懸命だ。でもそこがとても可愛らしく、愛おしい。私のことを、若くて肌がきれいだとか、胸の形とか乳首の色をいつも褒めてくれる。時々デジカメで変な写真を撮るけどまあご愛嬌だ。
でも、こんな関係、いつまでも続けてていいわけじゃない。私だって、結婚したいし、子供も欲しい。いつまでも部長の部下でいるわけでもない。部長の、まあいわば愛人になって、ちょっとしたシンデレラになることを夢見ている私は、でも、いつ12時の鐘が鳴るのか、いつも心配している。そしてその不安が大きいからこそ、部長との関係がとても甘美なものになる。
私の人生を歪めるパラドックスの中にいるのは十分わかっているのだけど、止められない。本当は、自分で12時の鐘を鳴らさなければいけないのだともわかっているのだけど。