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2007-01-26

http://anond.hatelabo.jp/20070126042646

かつて私は、親に「わからないことがあったら人に聞く前に辞書を引け」と言われて育ったが、その大切さが最近よく理解できる。きっとこういう人たちはそういう育ち方をしなかったのだろう。愚かなことだ。

むしろ「わからないことがあったら何でも先生に聞きに来なさい」と教えられた覚えがある。結局、僕はそれをほとんど実行する事がなかった…いや、できなかったのだが。多分、何となく格好悪い気がしてだと思う。というか、今でもその感覚から抜け出せないでいる。

私は某ターミナル駅で接客の仕事をしている。駅員ではない。

駅という場所柄、私の仕事上の客ではない、単なる通りすがりの利用客から、道を尋ねられることがよくある。

しかし、それらは大抵、駅構内の地図や、天井からぶらさがっている案内板を見ればわかるものがほとんどだ。

私はそういう人間のことを特に腹立たしく思う。何故人に聞く前に自分で調べようと思わないのか。

中には、前売り券を握りしめて、近所にある大きな劇場の場所を聞く人もいる。前売り券まで持っているのだから、今日はその公演を見る予定は前から決まっていたはずだ。であれば、何故下調べをしておかないのか。

ところで、この駅には改札口が3つある。しかし、どれも大きな改札口であり、入り組んだところにポツンと改札口あるようなものでもない。「改札口が3つもある」というよりは、大きなターミナル駅であるにも関わらず「改札口が3つしかない」という考え方のほうが自然だと思っている。

ところが、これもよくあるケースなのだが、「ここ以外に改札ってあるの?」と聞いてくる人が多い。待ち合わせをしているんだろうが、では何故待ち合わせをするにも関わらず、どこの改札にするか具体的に指定できないのだろうか。田舎無人駅ではあるまいし、一つの駅に複数の改札があるのは常識の範疇といっても過言ではない。

  1. 自分の目的地の場所を把握できていない→出来たはずの下調べを怠っている
  2. 駅の案内表示や地図を見ようとしない

なぜこういった人はすぐ他人に頼ろうとするのか。駅員に聞くならともかく、私は駅を職場にしている人間で、こういう人の道案内は少なくとも私の仕事ではないし、中にはこういう人の相手をしている間に、私たちの営業上のロスをしていることもある。そもそも私たちにとっては迷惑この上ないものなのだが、それを知ってか知らずか、道を聞いてくる人が多すぎる。

日本識字率世界一だという文章をどこかで読んだが、これでは地図も案内板も役立たずだ。文字は読めても、読もうとしない。かつて私は、親に「わからないことがあったら人に聞く前に辞書を引け」と言われて育ったが、その大切さが最近よく理解できる。きっとこういう人たちはそういう育ち方をしなかったのだろう。愚かなことだ。

2007-01-25

亀田言葉づかいを直せば好感度が上がるのに

興毅「納豆」でフライ級食う…バッシング「気持ち分かります」

プロボクシング“浪速の闘拳”亀田興毅(20)=協栄=が24日、代名詞の「亀田とKOはセット」に、フライ級復帰で新たに「納豆」を加えた。関西テレビねつ造問題で風評被害に遭う納豆と、バッシングされた自身の境遇を重ねて、大好物のイメージ回復に名乗り。納豆食でパワーアップし、3階級制覇への第一歩となるフライ復帰戦(3月24日・両国国技館)でのKO勝ちを誓った。

離乳食から毎日納豆を食べ続けて20年の興毅が“納豆の気持ち”になった。納豆、悪者になってしまってかわいそうだと思います。おれもバッシングされたから気持ち分かります。納豆は文句言えないですからね…」とつぶやいた。

階級制覇を目指す興毅にとって納豆は大事なキーワードだ。18日にWBA世界ライトフライ級王座を返上し、3月のフライ級復帰戦に向け、納豆食で強化してフライ級に適した肉体に戻そうとしている。納豆では、やせないと思います。本当は、たんぱく質の多い納豆は、筋肉がついてパワーがつくんです。フライ級に戻ったからには一撃必殺のパンチ、それをやります」

公開スパーでは、2人のメキシコ人選手と4ラウンドを行った。すでに2日前からスパーリングを開始しているが、試合2か月前のスパーは異例だ。理由は「試したいことがいろいろあるから」で、試合まで6人のタイプメキシコパートナーを招へいして、150ラウンドの消化を目指す。未定の対戦相手について父の史郎トレーナー(41)は「まだ決まってないが、世界ランキングほとんどメキシコ人。それにメキシカンのアッパーは勉強になる」と話した。

3月のフライ級復帰戦のテーマは「亀田とKOはセット」の復活だ。本来のKOボクシングで実力を世間に再認識させたい興毅は「パワーをつけるには納豆フライ納豆セットです」と話した。

毎日の昼食の3パックにもう1パックをプラス「今度の試合は納豆界のためにも戦います」公約した興毅は「全日本納豆愛好会」の設立を宣言。「おれが会長になります。スポーツ界、芸能界納豆好きは会員になってほしいですね」とご機嫌だった。

原文

http://hochi.yomiuri.co.jp/sports/box/news/20070125-OHT1T00076.htm

はてな2chページビュー

たしかにほとんど同じくらいだね。波までいっしょ。

http://www.alexa.com/data/details/traffic_details?site0=hatena.ne.jp&site1=2ch.net&site2=&site3=&site4=&y=r&z=1&h=400&w=700&range=1y&size=Large&url=hatena.ne.jp

ここ1年ではてなが追いついてきたというか、2chが落ちてきたというか・・・。

ところで、alexaってツールバーで集計してるそうだけど、2ch用のブラウザはどうなるのかな。

何割の人が使ってるか知らないけど、よく使う人ほど使ってそうだからなぁ。

http://e-words.jp/w/Alexa.html

http://anond.hatelabo.jp/20070125033941

2007-01-24

隠蔽やごまかしや無知社民党に限らずであろうけど

絶滅寸前の社民党であるがゆえに

「誠意を示す」ということでしか存在価値をアピれないはずなのに

この体たらく

【阿部知子】阪神大震災についてトンデモ発言【秘書・池田】

さらにはこんな話。

社民党セクシュアルハラスメント裁判にご支援を


本当に何とかしたいなら、膿をだすことが必須だと思うんだけど

まぁ結局古い体質のまま沈殿していくのかね。

弱者救済」の御旗に甘えきったままで。


例の辻元清美とかも、震災救援のことよく言ってけど、

あの人ほとんど現場にいなかったし、

ひいては復興への取り組みなんかただ「便乗」してただけ。

何にも知らんといっていーじゃない?

阪神大震災から12年


おなじ党の議員があんな事言って

自分は震災をよく知っている云々言ってて

一体その整合性はどう考えるのかね?

現場で新聞配ってたというのなら

自衛隊や(当時の)政府の初動活動のことだってよく知ってるでしょ?

おまけにこんなこと書かれてるし

http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/9881/sinsai.htm

>18日

>辻元清美ピースボート現地入り。印刷機を持ち込み宣伝ビラを配布し始める。

>「生活に密着した情報をとどける」と銘打つが、内容は、ピースボートの宣伝や、被災した喫茶店主の

>「国は17日付で公庫の返済分をきっちり引き落としよった」や、韓国基督大学による韓国スープ炊き出しの話しなど。


甚だしい事実誤認があるけれど、

そもそも辻元の(事実を誇張した)震災ボラ自慢話がいけない。

もっと謙虚になって、「自分のしたことだけ」について語ってくれ。

でないと結果、善意で動いた多くの人間侮辱したことになるんでないの?

2007-01-23

あるある大辞典』と『マジック革命』に思うこと

 先程、何となくテレビを見ていたら『マジック革命』という番組がやっていた。あの街なかで看板からハンバーガーを取り出して食べちゃうマジックが有名なセロが出ている番組だ。

 その番組の中で、ゴルフ場舞台セロマジックをする場面があったのだが、これにモロにCGだと思われる映像の乱れ(画像のブレ、解像度が微妙に違う)が見受けられた。「これに対して視聴者はどう思っているんだろう?」僕が、テレビ番組を観てる最中にそう思ったときは、2ちゃんねるの実況板を覗くようにしている。大方の予想通り「どう見てもCGです。本当に(ry」との意見が目立つ。そんな中にも「CGとか言ってるやつキモい」「セロマジックCGと思わせるほどに凄い」との意見もある。

 あれが本当にCGかどうかは別として、僕はテレビ番組CGを使って視聴者を騙す様な作りは別に良いと思っていた。それは観る側にメディアリテラシーがある、と僕が思っていたからである。夕食を食べた後、緩〜い編成の垂れ流しテレビ番組を見ながら、「これはねーよw」「今のはさすがにCGってバレバレだなw」とか言いながら、お腹を休める。これが現在ゴールデン番組立ち位置だと僕は思っていた。

 先程から過去形を頻出させてるのは、現在改めて考え直さざるを得ない状況にあるからだ。それが、今巷を賑わせる『あるある大辞典』の問題だ。僕はほとんどあるある大辞典という番組を観なかったし、例え観たとしても「納豆やせるだ?有り得ねーだろw」とケチつけながら、ガキの使いが始まるまでの時間つぶしとして観ていただろう。

 しかしこの問題で浮き彫りになったのは、あるある大辞典情報を信用している人が結構居た、ということである。それでまた、ねつ造をしていたことに対して「怒っている」人が居るってな始末である。近頃の炎上ブームに乗っかって、ただ単にお祭り騒ぎがしたくてあるあるを批判している人も大勢いるとは思うが、あれだけスーパーから納豆がなくなる事態が起きたってことは、そういう人も少なからず居るのである。

 さてここでセロの話に戻る。僕が今思うことは、あるある大辞典情報を鵜呑みにしてしまう層の人々が、「マジック革命」を観たらどのような反応をするのだろう。ひいては(セロマジックCGで加工されていたと仮定して)セロマジックCGだったと週刊誌が報じた場合、どのような反応をするのだろう。この場合ややこしいのは、「マジック番組CGを使ってはいけない」というルール存在しないことだ。しかし、CGを使うということは、加工前の映像を撮影しなくてはならないので、出演者(セロマジックに驚く役者)もマジックに共犯的に加担している。これをやらせと呼べるかどうかは限りなくグレーである。

 しかしこの風潮だと「やらせだ!騙された!」という論調が通ってしまいそうな気がしてならない。

 あるある問題で、関西テレビが謝罪番組を放送した。ここでの「放送局の信頼を裏切る行為。視聴者、関係者の皆様。誠に申し訳ございませんでした」との発言が引っかかる。僕は、まず前提として「放送局への信頼なんて1ナノも持ってね〜よ!」というスタンスである。だからこそ、CGを使ったマジック番組も鼻で笑って観られるし、エセ科学ねつ造情報番組時間つぶし程度に観られるのだ。

 しかし頭っから信用してしまう人もいるんだな、ということ知り、更にこれからテレビ番組は面白いものを作ることが難しくなってきたな、と思う。なぜなら面白いもの作りには、作り手と受け取り手にリテラシーが備わっていることが条件だと僕は思うからだ。

Re: なんで増田はこんなに性差を....

>それほどまでに日常で感じさせられますか?

>なんかこうそれほどまでに日常において女であることを意識するのですか?

>男はこういうことほとんど意識しないのだと思うけど、女は女であることを何度も意識しなければならない構造になっておるのでしょうか。

知らなかったんですか。ぽかーん。

2007-01-22

[]やっぱり漫画は面白い

やらなくてはいけないことがあるときほど逃避に走りやすいもので、近場のブックオフに行ってきた。私は男にしては少女漫画を読むことが多いが、そういえば最近は新人漁りをやってなかったなと思って、とりあえず花ゆめコミックスの棚でひたすら新人の初単行本を読んできた。新人といっても私が読んだことのなかった人という意味だけど。

はちみつの花 木内たつや
ベタベタな展開。2ch少女漫画お約束スレのいい見本になりそう。かといって一箇所を除けばそれが悪い方向に転がっているわけではないと思う。
マドモワゼルバタフライ 小椋アカネ
細かい点を気にしなければそれなりに読める。2巻のほうが面白い。週刊少年マガジンで「涼風」の人がやってた特攻隊読み切り漫画を思い出した。
カラクリオデット 1 (1) 鈴木ジュリエッタ
1巻時点では特にそれほどとも思わなかったけど、2巻を読むとじわじわとくる。面白くなりそう。
君とスキャンダル 古都和子
ぶっ飛んだ設定。私には完全にだめ。1話の最後までも読めなかった。憧れのアイドルの日常を知って「こんなの○○じゃない」というヒロインドン引き。おそらくは自分の過ちに気づいてお互いの距離が近づくんだろうがそこまで我慢できなかった。
ブルーラムン 有木涼
時間がなくてほとんど絵を追うだけ。多分じっくり読めばそれなりにいい話なんだろうと思う。
となりのメガネ君。 ふじもとゆうき
2ページ目にして予感めいたものを感じ、1話終了前の見開きで確信に変わる。これは面白い。男の子の純朴さ、女の子の真っ直ぐさが非常に爽快。おまけにメガネ! すべての登場人物を無条件に応援したくなる。
あぁ愛しの番長さま 1 (1) 藤方まゆ
これまた面白い。最初は絵が気になったが2話目以降は許容範囲ヒロインの性格などフルーツバスケットを思い起こさせる。透と夾のドタバタみたいな感じ。
ミサイルハッピー! 桐谷実紀
これまたぶっ飛んだ設定。1話分だけは何とか目を通したがそれ以上進められなかった。巻末の読みきりは何とか読める。
知らない国の物語 川瀬夏菜
まあ普通少女漫画。可もなく不可もなく。巻末の読みきりに見られるフェチ心(?)はよい。
幻影奇譚 いなだ詩穂
ゴーストハント」描いてる人だよな、白泉社デビューしたのか、と手に取る。怖い。夜には読めない。暖房の効いた店内のはずなのに背筋に寒気がした。巻末読みきりも含めミステリーの雰囲気がすばらしい。

とかく「となりのメガネ君。」が面白かった。ついで「あぁ愛しの番長さま」。ゴーストハントアニメの面白さ(磨きをかけたオープニングにギャグシリアスの絶妙な配合)に反して特に興味のなかったコミック俄然読みたくなってきた。自分の中で期待の新人といえば葉鳥ビスコ草川為で止まっていたのが(二人ともとっくに新人ではないわな)新しい面々を開拓できてよかった。

2007-01-21

揉め事の元凶人

いろいろな集団や集まりを見ていると

 揉め事の元凶となった人が、その元凶の言動について「一切の非を認めない」がゆえに、事が炎上している・・・という場合が多い。

 元凶の人は、一切の非を認めないまま、批判をしてくる相手に対して如何なる手段を持ってしても打ち破ろうとする。まさに手段を選ばないことが多い。

 なぜだかそういう人物には、「強迫神経症」・「強迫観念の強い人」が多い。

 人間ほとんどあらゆる人が「自分は、とりあえず、善」だと思っている。そしてその思いは・・・「強迫の人」の思考回路にかかると、「自分は絶対に善、自分の行為は全て善、でなくてはならない」となってしまうのだ。「??でなくてはならない」が「強迫の人」の特有な特徴。

 そうなのだ。

 他人に対しての「最初の誤解や悪意」がどんなに小さかったとしても・・・それが「強迫の人」の言動だった場合には、揉め事になる。炎上する。

 逆に考えると。

 揉め事があったとして、その当人だったとして・・・

 「自分には間違ったところは一切無い。しかし、自分の或る行動を批判してくる人がいるので、そしてそいつは徹底的に打ちのめされなければならない。なぜならば、一切悪くない私を批判しているのだから」と考えているとしたら・・・

 …だとしたら、自分が「強迫の人」で「誤った認識をしている」のかもしれないのだ。

 「強迫の人」に該当しやすい人は、注意だ。

 「強迫の人」には、次のような面がある。

  ・表面上の言葉遣い「だけ」が丁寧なときがある

    →言葉遣いによる「自分の人格は立派であるべき」という強迫観念

  ・世間や日常の物事や出来事などに対する意見や主張を、記事やブログで長々と書くことが多い

    →自分以外の人や物事に対して「こうでなければならない」と思っていることが多い

     →「自分以外の人や者の、存在の意義や在り方」への強迫観念

 ブログの長文や、第三者に向けた主張がかった文言など、が発端になって揉め事が起こった場合・・・これらのことが当てはまりやすく、「強迫の人」である可能性も高くなる。

 気を付けましょう。(本来持っている性分なので気を付けることはできないでしょうけれども)

 私?…私ですか?

 私のブログの記事は、短いです。「誰々がどうした何をした」ということにはあまり興味が無いので、そういう記事を書く事もまったくありません。

 …その点では、助かっているようです。

代理質問依頼

はてなポイントほとんど持っていないので

ここに質問書いたら誰かが質問してくれないかなと思って書いてみます。

○質問

東武東上線によく乗るのですが

春になるとあーあー言いながら車両の間を行き来する男性をよく見かけます。

なぜ彼は春になると車両を行き来する必要があるのでしょうか。

○回答に対するコメントは3種類のうちからテキトーに選んでください

1「東武東上線の彼について聞いているので他の人の話は結構です」

2「知らないのなら答えないでください」

3「私は彼が病気だとは思っていません」

代わりに質問した人が飽きたら回答終了してもらってかまいません。

宜しくお願いいたします。

いいかげん「ヤりたい」と「付き合いたい」を分けて考えようよ。

いいかげん「ヤりたい」と「付き合いたい」を分けて考えようよ。混同するから性欲と恋愛感情に見境なくなるわけで、すなわち悲劇的な結果を生む土壌となる。

「付き合えばヤれる」と考え、一挙両得だと思ってるのかもしれないが、それは三方一両損なだけだ。

昭和時代ならいざ知らず、いまどき「ヤりたい」と「結婚したい」を同一視する男はほとんど居ないだろう。セックスアピールのある女とヤりたい、結婚するなら明るくて優しくて云々。求めるものが違いすぎる。

それと同じように、「ヤりたい」と「付き合いたい」も別個の感覚のはずだ。恋愛はセックスのフリーパス権ではないし、セックスと恋愛は不可分ではない。勃起恋愛感情の証左やシンボルではない、ただの生理現象だ。

「ヤりたい」を遂行するのに最適な手法が「付き合う」なんだと思ってるのなら、あとでかく。

それでも私が「親密フラグ」をコントロールしたい二つの理由

一晩寝て見直したけど、『それでも「親密フラグ」をコントロールすべき二つの理由』から、タイトル変更。

「べき」とか言っちゃってすんません。

自分語りナシに恋愛話は成立しないってことなんだろうな。個人的経験なんだから。

-

『部屋に入るな→じゃああなたとは友達にならない』に納得できないトラバに。

つまり、親密フラグを3時間くらいかけてたてまくったあげく、朝までセックスをするだけの余裕は十分にあった。

それでも私達は「じゃあちょっとついでに乗っとくか」みたいなセックスはしなかったし、今でも普通の友人だ。

そして、その状況と同じことになっても、世の中のほとんどの男女はセックスしないと私は信じたい。

http://anond.hatelabo.jp/20070118224317 の「親密フラグ」について。

世の中の男性みんな「親密フラグを立てたら必ず性的行為に及ぶ」とは、私も思わない。

それでも、「性的な関係を望まないなら「親密なスペース」を守った方がよい」と考える理由は二つある。

その理由を述べる前に、「親密なスペースを許しあう関係」を「私自身が」どう考えているかを述べておきたい。
 親密なスペースでのやり取りが如何に甘美ですばらしいものかは、ちょっと表現のしようがない。理屈と感情だけでなく、カラダを含めて自分と他者を感じることができるのは、性的行為以外にあまりないだろう(音楽ダンスでかなり似たトランスに入ることもあるけれど)。筒井翁が言うとおり、セックスはまさに「書くものではなくするもの」である。それに到る「親密なスペースでのやり取り」もやはり、描写するよりも個々人の記憶に尋ねていただいたほうがいいと思う。私はその過程を全面的にgood imageでとらえている。なぜこれをわざわざ表明するかといえば、この性的行為及びそれに到る親密なスペースのやり取りをどうとらえているかによって、意見は大きく分かれるであろうと思うからだ。
 性的行為及びそれに到る親密なスペースでのやりとりの「甘美な瞬間」を求め、何もかもを打ち捨てる人の存在を、私は羨望もこめて肯定する。
 ただ、現代社会においてそれをすることと引き換えにどれだけの代償を払わねばならないかということは、それこそ世界中文学映画が教えてくれているし、テレビをつければ日々ワイドショーが事細かに説明してくれる。
 私はそれらを「本能と文化的解釈の衝突」ととらえている。
 私はチキンなので、せっかくの甘美な「親密な関係」を楽しむ上で、自分の人生では出来ればそういう文化的事故にあうのは避けたいな、と思っているというのがベースにある。安全保障的な発想、というのは、私の考え方の特徴なのであろう。

1.相手が「二人きりになったら襲う男かどうか」を見分ける自信がない。

たしかにほとんどはしないで終るだろうが、男に全くその気がなかったとは思わない方がよい。男はちょっとした事でムラっとくる。ただ、それは普通表に出さないし、当然手も出さないだけだ。(中略)

ただ、性欲旺盛な二十歳頃・深夜・頭脳労働による疲れ・達成感によるナチュラルハイは理性を弱める。ちょっと事故が起こればたちまち手を出しかねん。まあ、拒否されて我にかえって落ち込むのがおちだろうが。

「親密フラグ」

せっかく築いてきた人間関係の中で「あなたがそんな人だとは思わなかった」なんて台詞を吐かなきゃならん状況というのは、男にとっても女にとっても不幸だと思う。良好な人間関係を築いてきたにもかかわらず、上記のような事故が起これば、女だけでなく男だって結構へこむと思うのだ。

部屋にあがりさえしなければ、触りさえしなければ、事故的に仕掛けられた「親密フラグ」の駆け引きに乗りさえしなければ、そこにいるその男をそのまま、その男が見せたいとおりのままで、人間関係を続けることができる。「二人きりになったら襲う男かどうか」なんて、男だって事が起こる直前までわかるわけがないと思うのだ。

中には、割合は少ないだろうが「とにかく一打」という男だっている。こういう男はぱっと見ではホントにわからない。結構長い付き合いでも、同級生とか職場の同僚程度だとホントにわからない(それでわかるようでは打てないらしい/そういう奴は打つこと自体が実はmissing piece探しだったりと無意識人生掛けてることが結構多いので、タカをくくってるとホントにあっという間に打たれる)。偶発的にであっても性的関係に移行してしまった時の自分への破壊力(2.を参照)を思うと、「自意識過剰な女」と嘲笑されることぐらい、全くかまわないと思うのだ。

2.「親密なスペース」を侵害されて、取り乱さずにいられる自信がない。

「親密なスペース」を侵害されたら、人は多かれ少なかれアンコントロールになってしまうだろうと思うのだ。

「親密なスペース」を侵害しあえば、どうしたって感情の開放を伴う。さらに偶発的に性的関係を持ってしまったりしたら、(少なくとも一定期間は)人間的に尊敬とか信頼とかいうことに全く関係なく、寝てもさめてもそいつの顔がちらついたり、「好きなんかじゃない、ただ寝ただけよ」とか誰に言うでもない言い訳したくなったり、嫉妬心独占欲に苛まれて夜中に「今すぐ来て!」とかメールしたくなったり、いきなり鍋いっぱいのカレーを煮込みたくなったり、満たされない気持ちと人類補完計画について増田に語りかけたくなったり、タバコの煙が立ち昇っていくのを見つめながら急に田舎の話を始めたくなったりして、まあ自分の「面白いけど恥ずかしいところ」がだだ漏れになることが容易に予測される。性的関係に至らない「親密フラグ」の段階であっても、そういう傾向は顕著になる。私は、女って言うか人間って、そういうもんだという認識がある。

「肉体>精神」の判断基準も、精神個体差や気分の差があって定量的記述還元できないけれど肉体はある程度それができるので、肉体の社会コントロールが達成できれば、精神はたとえどんな状態に陥っても必然的に肉体という外枠からはみ出ることができない、というフールプルーフな安全保障の発想だと思う。

http://anond.hatelabo.jp/20070120092449

「毅然と親密なスペースを守れ」という意見の本質は、まさにこの文章に代弁してもらっていると言ってもいい。

でも、そういう不安定な自分も含めて、誰かと分かり合いたいんじゃん(出来ればセックスなしで)

もちろん、そういう人を私は止めない。

ただ、そういう不安定な状態の自分が引き起こした様々なことは、もちろん自分で引き受けないといけない。

私自身は、友達とそういうアンコントロールなやり取りすること自体の必要性を感じないし、もし男友達とそれをやり始めたら、(出来ればセックスなしで)を守る自信がぜんぜんない。

私は「友情」((ここでは「性的関係を伴わないが、お互いに尊重しあい、信頼で結ばれている人間関係」とする。昼ごはんを一緒に、ぐらいの人は含まない))の元に「missing piece探し」をやろうとは思わないのだ。恋人と結ぶ親密な関係は、友情に比べたら「missing piece探し」に近いものがあるかもしれないが、それだって何もかもをかぶせすぎたら、大切な人をつぶしてしまうかもしれない。誰も、自分にはなれないのだから。

自分にあるのと同様に、相手にも人生がある。自分はできるだけ自分で探した方が、平静の心に到りやすいのではないか、と、これは個人的な見解であるけれども。

友情に「親密フラグ」はいらない&「missing piece探し」はひとりでやったほうがいい

missing piece探し」と「親密な関係」と「友情」。これらすべては一緒に行う必要はないし、一緒に行わない方が、平静の心に到りやすいものと私は考える。「友情」という豊かな人間関係のための安全保障として、「親密フラグ」のコントロール力を磨く事は有用なのではないか。
友情に「親密フラグ」はいらないし、「missing piece探し」は"出来るだけ"自分ひとりでやったほうがいい。これが、私の結論である。

追記(1/22) [自分トラバ]しばらくして落ち着いて読み返してみたが。

これは女子に対する親の説教だな。

大人になったら恋愛にセックスはつきものなの。恋愛(=セックス)が絡んだら男の子だけじゃなく「自分も」コントロール効かなくなるってことを自覚しなさい。王子様はいないんだから、寂しいのは自分で何とかしなさい。悪いこと言わないから恋愛(=セックス)するのは一人にしておきなさい。友達って言いたいなら「親密フラグ」立てちゃダメ。わかった?

それで「べき」とか言ったのね。ひとり納得。

2007-01-20

[]

力士が生まれて初めて異性とまぐわうことになって、さっそく憧れのオッパイに挑戦するのだけど、普段揉んでる自分のそれとほとんど感触が変わンないので興ざめしたというショートショートを書こうとしたのだけれど、朝青龍千秋楽を待たずに優勝したのでやめる。乳腺とは一体、うごごごご……。

「親密フラグ

Re: http://anond.hatelabo.jp/20070118224317 の「親密フラグ」について。

そして、その状況と同じことになっても、世の中のほとんどの男女はセックスしないと私は信じたい。

たしかにほとんどはしないで終るだろうが、男に全くその気がなかったとは思わない方がよい。男はちょっとした事でムラっとくる。ただ、それは普通表に出さないし、当然手も出さないだけだ。

多くの場合、その状況を楽しむ。テレビグラビア、道行く人の中。それは手が出せない、知らない、知られないと言う安心感の基における話だ。もう一つの場合は手が出せるという状況だ。恋人のかわいい笑顔、色っぽいしぐさ。

しかし手を出せる状況でありながら人として手を出すべきでない状況では楽しめない、と言うか不快だ。自分にへこむ事もある。まあ、大した事ではないが。

ただ、性欲旺盛な二十歳頃・深夜・頭脳労働による疲れ・達成感によるナチュラルハイは理性を弱める。ちょっと事故が起こればたちまち手を出しかねん。まあ、拒否されて我にかえって落ち込むのがおちだろうが。

ちなみに、誤解があるといけないので書いておくが、この時ムラっとくるのは「親密フラグ」によらない。主に視覚による。だから親密フラグが立ってる時間より視界に入ってる時間の方が、確率と言う意味で大事かも知れない。

Re: 『部屋に入るな→じゃああなたとは友達にならない』に納得できない

恋愛において親密フラグ重要だが、親密フラグが立つと恋愛につながるわけではない。

思うに、親密フラグの立っている時間や回数は親密度とつながるが、恋愛か友情かはフラグが立つまでの過程が大事だろう。

親密フラグが立つ前に「女」を感じていれば恋愛にいくだろうが、尊敬だとか仕事仲間だとか人としての面をつよく感じていれば友情フラグが立つのではないだろうか?つまり、親密フラグに友情としての強さを感じるのだ。

ちなみに、女はより親密フラグを求めるのかも知れない。男は友人だからといってあまり手をつないだり組んだりはしないが、女は普通にやってる気がする。あと、団塊の世代以前はより求める気がする。握手したがる人、肩をたたく人、組みたがる人。仕事の相手として求める人もいる。顔を突き合わせなければ、呑みにでもいかなければ信用できない等々。

たしかに「親密フラグ」と「性的関係」が結び付かないのは未熟かも知れない。

テリトリーに入った同性と敵対し、異性と子孫繁栄をはかる。たしかに成熟している。動物として。

不二家問題について

不二家の問題は食品の衛生の問題と言うよりは、メディアリテラシーの問題の様相を呈してきた。つまり「これだけボロクソに叩かれるほどの問題なのか?」ということだ。

今回の賞味期限切れ材料の使用問題や、蛾の混入問題などは、そりゃあ善か悪かで言えば悪であろう。だが、食中毒すらほとんど出していない(過去食中毒が出たことがあるが、それは今回の問題と関係ない)、ましてや死者など全く出ていない現状、不二家をぶっ潰せの勢いで過剰報道を繰り返すマスメディアには強い危惧を覚える。この問題が報じられるとすれば、

という情報付属されていないと、最低限の客観性すら担保されていないと私は思う。まあこれでも不充分だけど。

マスコミ「お前は横断歩道を赤で渡った!」

おれ「い、いや、でも車は来ていなかったですし……」

マスコミ「お前は道路交通法に違反している! お前のような奴がいるから自動車事故はなくならないのだ!」

おれ「いや、でも、他の人も渡ってますし……」

マスコミ「そんなのは金にならないから報道しない! 視聴者はお前が叩かれ、ボロボロになり、首をくくるところを楽しみに待っているんだ! 我々は視聴者が望むものを報道しているのだ!」

おれ「そ、そんなぁ……(高橋陽一風)」

ひとつの微罪(だかなんだかは私は詳しくないので判らんが)を見つけると、針の穴を広げるように一転突破で叩きまくり、しかも客観性がないというのはもはや報道ではなく、単なるプロパガンダに過ぎない。その昔「年金未納者叩き」というのがマスメディア流行ったことがあるけれど、あの問題はその後どうなったのだろう? 政治家を何人も辞任に追い込み、国政を混乱させてまで報じるほどの問題だったのか。それほどの問題だったのならばなぜ今は報じられていないのか。不二家の問題はひとつの企業を潰し、大量の失業者を発生させかねないという社会リスクを負ってまで報じるほどの問題なのか。

最も問題なのはこういう低レベルな報道の姿勢ではなく、報道のあり方を巡る送り手・受け手の意識の問題にあるだろう。受け手は「食品の衛生を巡る諸処の議論……」云々よりも、「不二家悪魔の企業だ! 諸君、奴らを石持て追え!」の方が判りやすいし、何よりも面白い。送り手の中にはもっと突っ込んでこの問題を取り上げたい人もいるだろうが、「金にならない」という理由で次元の低い方法を選択せざるを得ない。このような負のスパイラルの中で、報道の客観性は失われ、報道局はプロパガンダ機関と化していく。

こういう時に大事なのがNHKのような特定のスポンサーを持たない企業であるのだけれど、どうもNHK報道姿勢も民放とどっこいどっこいのようで、これは情けないとしか言いようがない。NHKのような機関が積極的に報道のレベルを上げていかないと、いつまで経っても負のスパイラルは終わらず、視聴者の自己満足が満たされるだけで問題の本質は何も変わらない。くだんの「秋山問題」でもそうだったけれど、いつになったらこんな地点を脱却できるのか、道のりは遥か遠いと言わざるを得ないだろう。私に出来ることはこうやって少数の読者に問題意識を投げかけるぐらい。無力を感じる。

トピックツリーの実装

その欠点を補えるシステムを考えてみた。ヒントははてなグループにあった。そう、いまやほとんどの人が忘れているであろうtopictree機能である。

http://anond.hatelabo.jp/20070117005453

ごく初期にトピックツリーつけようよ(http://anond.hatelabo.jp/20060925102326)って提案したけどスルーされた。

今検索したらもう1人書いてる人がいるね。

http://anond.hatelabo.jp/keyword/%E3%83%88%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%84%E3%83%AA%E3%83%BC

http://anond.hatelabo.jp/20070118224317 の「親密フラグ」について。

まず書いておくが別に私はパーソナルスペースについて無知なわけでも否定したいわけでもない。

むやみに男性になつく女はアホかと思うし、それで襲われたとしても(力にものいわせた男性が悪いのは当然としても)「あなたにも原因はあるよね」くらいは思うだろう。

だからと言ってヘテロセクシャルの場合の異性間友情、あるいはホモセクシャルな場合の同性間友情を否定したいわけでもない。

私はそれでも、親密フラグ理論 には納得がいかない。

なぜなら、なぜ「親密フラグ」が立つとされるパーソナルスペース内に存在していても「家族」とはセックスしないで、「男女」なら友情が成立せずセックスすることにつながるのかという記述がないからだ。

恋愛文化のドグマについて語るのであれば、そもそもそれ以前のタブーについても考えるべきではないだろうか。

私は別に人類学社会学を専門に習ったわけでもないので、ここから先の記述がおかしい場合は申し訳ないがどなたか訂正していただけると助かります。

さて。

人間同士のセックスについての基本的なタブーといえば、やはりインセスト近親相姦タブーを第一にあげるべきだと思う。。

http://anond.hatelabo.jp/20070118224317では「家族はセックスしない」というのを当たり前の前提としていえるが、セックスだけを考えたら血のつながりなどたいした問題じゃない。

例えば私(生物学的には女性)には弟がいる。

私にも彼氏がいるし、弟には嫁と息子がいる。お互い仲がよく、いままでセックスをしようなどという話題は一度ものぼったことなどない。

でも私と弟はある特定の状況下に入ればおそらく9割以上の確率でセックスするだろう。

それは例えばこうだ。

私や弟の家族、友達がそろってどこかに閉じ込められている。

そして私と弟だけが別室に呼ばれて、見知らぬ人間がむごたらしく殺されるのを見る。

この状況で「あなたたちがここでセックスすれば家族は助けてあげますよ?」と言われたら?

このような類の限界状況を考えれば、行為としてのセックスに、不可能はあまりない。

目の前で二人、三人、と殺されていけば自らを狂信的異性愛原理主義者だと言っている人でも、同性とでも家族とでもセックスする方を選ぶことが多いだろう。

肉体的にセクシャルな関係、など所詮その程度のものなのだ。

そもそもインセスト近親相姦タブーや制度としてのエクソガミー(外婚)が存在するのは、我々人間が血のつながりなど関係なく、手近な人間とセックスできてしまうからだ。

原始社会においては乱婚が当然だったし、社会によっては未だにエクソガミーを禁止していないところもあり、そこでは近親婚が当たり前のように行われている。

それでも現代日本に住む私達は家族とは普通セックスなどしない。

ヘテロセクシャルな例で言うならば、娘にべったりされた父親は「親密フラグ立ちまくりたまったものじゃない」はずなのに、裸で一緒に風呂に入ってもセックスしないのだ。

なぜなら私達は、そのようなタブーや制度を『お互いが暗黙のうちに受け入れているものと信頼して』家族という集団を形成しているからだ。

ちなみに私は一度だけ、男性の友人の布団が敷かれたままのワンルームマンションに、終電がなくなるのを承知の上で、ひざ上のスカートで入っていったことがある。

なぜなら「翌日提出の卒論PC以外で受け付けないっていうんや!」と泣きつかれたからだ。

終電がなくなるまでにパソコンを運び込むことに気をとられていて、洋服のことなんてまるで考えが及ばなかった。

お互い顔をつきあわせて「こんな文字、手書きじゃ教授だって読めないよ!」と叫んだり、私のすぐ横でパソコンの画面を覗き込んでは「打ち間違えとるで」「うっさい!!」とか大騒ぎを繰り返し、半分に折り重ねた布団を横にしたまま、作業は3時間ほどで終わった。

つまり、親密フラグを3時間くらいかけてたてまくったあげく、朝までセックスをするだけの余裕は十分にあった。

それでも私達は「じゃあちょっとついでに乗っとくか」みたいなセックスはしなかったし、今でも普通の友人だ。

そして、その状況と同じことになっても、世の中のほとんどの男女はセックスしないと私は信じたい。

「親密フラグ」のコントロールは確かに大事だと思う。

でも、「親密フラグ」のコントロールができる人間にのみ、性的欲望の対象となりうる関係性での友情を得ることができると考えるのは、信頼を前提とした社会に生息する人間としては、原始的な欲望を優先させるものの見方にわりと近いような気がしてならない。

肉体の距離を第一の判断基準として、精神を劣後させるような記述は、相手が一人の人間である以前に物体だという考え方をとる人間が増えていることのような気がして、あまりにも哀しい。

私達人間は、ある概念を共有しているという信頼関係の上で社会を築いているのに。

はてなチルドレン

わざわざ人を区分けして、「なんとか文化圏」とか「なんとか派」とか言ってる人、全然関係ないところから急に「まとめてみた」とか記事を書く人って、結局自己がしっかりと確立してないんだと思う。

たいていそういう分類をしたがる人は、自分が属するグループを優れてるほうにする。あるいは「こんな低レベルな争いには自分は加わらない」ことを「まとめ」というメタ視点に立つことで気取っている。他者と区別することでしか自分を認識することができない。他者を見下すことでしか自分の存在意義を見出せない。そもそも、大声で叫んで誰かに話を聞いてもらわないと、自分がここにいるのかどうかすら不安になる。

そういう「おこちゃま」には確かにインターネットブログって福音だ。特にはてなは、はてブという、ブックマークされる側にはブクマ数、ブックマークする側にはお気に入り登録の数という、自尊心を刺激する仕組みが整っているので、承認欲求を満たしたい人が寄ってくるのだろう。

いまどきほとんどはてな周辺でしか聞かれない「ネットリンクで成り立ってて、便利な情報を繋げるのが目的」という話(それを大上段に振りかざす論調)も、結局は自分がリンクする・されることで、「ほらボクこんなに便利なリソースを作ったんだよ!」と誉められたいというのが第一の理由なんじゃないかね。

ブログは書けば書くほど自己不安が高まり、攻撃的になる」という研究もある。リンクが大事だと思うのって、WWW思想を知ることによってではなくて、それがどんどん自尊心を満たすための手段として重要度が増してくるからじゃないのか。

2007-01-19

付き合うって具体的にどういうことなのか未だに謎

「話しているととても楽しいんだけど、彼氏としては見れない」の話とか でも、正直、おれはそいつを女としてみれなかったの話とかを見て思い出したんだけど、 今では準ひきこもりの僕にも中学生のときには彼女がいたのね。

別のクラスの子で、もともとほとんど接点はなかったんだけど、 たぶん委員会か何かが一緒だったんじゃないかと思う。 委員会は学期ごとの交代制で、 委員を辞めてからのことだったと記憶してるのだけど、 私と付き合わないかと言われて了解した。 だけど具体的に何をすればいいのかわからないから、何もしなかった。

これが同じクラスだったら毎日顔を合わせるんだからいいのだけど、 別の階の別のクラスなわけで、まず会わない。 エロゲー的には下校するところを待っているのが正解だったのかな。 当時はそんな知識もないから、本当に何もしなかった。 1年経って別れたけど、 それまでの期間で1回挨拶をしただけだったと思う。

最後に好きなのか嫌いなのかどうなんだと詰め寄られて、 好きとか嫌いとかよくわからない、と答えたという話。

俺が一人で書きまくってた頃と

ほとんど書かなくなった今と、どっちが増田面白いかっていうと

ちょっとまだわかんないや。でも今のほうが面白いかな。

ブクマコメでひとつひとつ突っ込んでいくのが楽しい

アニメの第二期主題歌

歌詞の意味がわからなくても良い曲は良いと思うんだけど

洋楽聞くときなんて歌詞の意味ほとんど気にしてないし)、

ただ、あの曲で使われてる言葉の語感が悪いと思う。

そーうかんかん、そーうあがれ、そーうかくご、かんたんだ

そらーううーおあーああー。

おあーとかううーとかそーうかんかん、とかボーカルの声と相まって

聞いてて突き抜ける感じがなくて、もやもや感が心に残る。

そしてそのもやもや感をイライラ転嫁させる最後のそうかんかーん。

それでもこの曲単体で聴いたらそれなりに聞ける場合もあるかもしれないけど、

ロボットアニメOPとしてはやっぱり合わないよなー・・・。

こう燃え上がれとかザザンザーザザンとかガガガガガガとか、

そこまで極端でなくてもいいけど。

痴漢する男としない男の割合が知りたい

小5の頃、遠くの塾まで通う途中、ホームで若いお兄さんに時間を聞かれたので答えた。

そのお兄さんは電車が来ると隣に座って新聞を広げ、私の脚を触りだした。

目の前の座席に幼児を連れた家族連れがいて私は恥ずかしさに席を立った。

なんだかよくわからなかったけれど、私が恥ずかしいと思ったのだ。

それ以来、何度も何度も本当に数え切れないくらい痴漢にあった。

触るだけじゃない、触らせられることも多い。

外国人労働者が背中で勝手射精していたこともあった。恥ずかしくて泣きたかった。

電車だけじゃない。

女子3人と道を歩いていると、向かいから自転車に乗ってきた少年に胸を鷲掴みにされた。

夏フェスなどでTシャツジーンズで群集にいるとTシャツの中に手をつっこまれ触られる。

友人とプールにいってスライダーを降りていったら、

途中で待ち構えていた男に抱きつかれて触られまくりながら水中へ落下した。

そんなような経験が山ほどあるが、女子の間で口に出せば自慢ととられる。

痴漢ニュースを見ると、「ほらこういう奴だよ死ね死ね死ね死ね八つ裂きにしてしまえ」と

罵詈雑言が止まらないため、父親に咎められる。

父親はとても真面目な今でいうオタ系技術者で、痴漢など考えも及ばない(と私は信じている)

「世の中の男はほとんどまともで、痴漢は一部の異常者だ」という。

おまけに「冤罪とかもあるから逮捕されても真実はどうかわからない」とまでいう。

「私はたくさんひどい目にあった」というと、「気にしすぎだ」という。意味がわからない。

一度、父親と同じ電車に乗って離れて座っているときに痴漢にあった。

立ち上がって父親に小声で、「隣の人がおかしい」というと、父親はその男に近づいていった。

その男は駅についた瞬間ダッシュで逃げ出した。

父親は困った顔をしていたが、それ以降も「ほんの一部の異常者だ」という。

言っておくが、私は典型的な腐女子で化粧っけがなく太っていてカーゴパンツをよく履いている。

ひとつも色気がない。なのに触られる。わけがわからない。

隙があるからだといわれることもある。隙ってなんですか。

大声を上げて捕まえればって?

ただでさえ隠れるように生きてるんです。

「こんなブスが痴漢とか騒いで・・・・・・」って思われるくらいなら死んだほうがマシ。

毛嫌いはしないが、心の底で男が信じられない。みんなどうせどっかで痴漢してるんだろう?

中にはしない人も少しいるんだろうけど(うちの父親みたいに)

9割する人、1割しない人くらい? 誰か統計出してよ。

それから、痴漢をする男は年寄りだろうが若かろうが、同じ目をしているよ。

2007-01-18

端的に言ってululun を書いた者ですが

[これはululun]を書いた者ですが(騙りの可能性も考慮せよ)。

いろいろな反応があって面白い。考えをまとめるためにまとめる。あとid:pal-9999補足記事書いてるようだ

 

同性愛者は生物学的に欠陥だと思うが

遺伝子を残す覇気の無いホモサピエンスは滅びるぜ。

生物学的には、ヘテロであるid:pal-9999セフレ関係持った人>>>>>>>>>>>>>>>>ゲイレズ=人食い人種

その公理だとレイプ魔最強。あるいは、いい歳した童貞処女生きる価値のないクズ生物

そもそも生物学的な優劣は問題にしてないので取り上げる意味もないのだが、思考の対象を明確にするためにもピックアップした。Googleでわざわざ「-送料」とか付けるようなものだろうか。

 

非モテだかの人の反応

それなんてエロゲ?」

自分の部屋に女性があがってきて友達だよね信じてるとか言われて泊まっていくというのは

キモオタ非モテにとってはファンタジーでしかない。

なるほど。無理に挑発して悪かったと思ってます。ごめんなさい。気にしないでもらえると嬉しい。

 

O-Lab +Ossan Laboratory+ - はてな匿名ダイアリーで他人をdisるのは正直どうなんかね。

他人のidはきれいにくっつけてdisってるのに、

自分だけは匿名ダイアリーから書くっていう

卑怯さ加減が正直どうなんだろうと。

それを卑怯というなら、ウェブ上に限らず芸名や実名で活動してる個人や、名前のついた団体相手に、実名出さずにネット上で批判するのも卑怯という論法になる。オフラインの個人いわく「(ネット上の)あいつらは、使い捨て可能な名前があるだけで、顔も名前も経歴も曝してる我々と互角のつもりで居やがる」。

匿名論争に関してはこういう考えなので、はてなIDでしかidentifiedされてない人間が、はてなIDすら出さない人間を卑怯だというのは目くそ鼻くそかと。

はてな使ってるってことは、

はてダも使えるんだろうと思うんだがねぇ。

それくらいは好きにさせてくれ。あと言及するときはトラックバックしてくれるといいと思うんだがねぇ。

 

2007年01月18日 cubed-l セキュリティ 危機管理としてはid:pal-9999の方がまとも/色恋沙汰の面倒さも含めれば1対1は避ける方が楽と思う

ああ、1対1に思考が縛られすぎてた。なるほど。「危機管理としてはid:pal-9999の方がまとも」というのも同意だが、主に機会損失のほうを考えてるので。

2007年01月18日 betelgeuse 危機管理, 男と女 「私の知人であり友人であるその男は、私を絶対に押し倒さず、無力な状態でも性的なイタズラ行動はしない」と断言できるのなら、それはそれでいいんじゃないの。そう断言できる材料がどこにあるのかは知らない。

なんで1と0で考えるのかわからない。相手、状況、関係、気分などによっていくらでも判断は変わる。どっちかひとつ選んだら恒久的にそれしか選ばせないのはなぜ?

 

2007年01月18日 Lhankor_Mhy 恋愛, 考え中 なんつーか、揚げ足取りに見える。言葉の端を捉えすぎてるのか?まあ、id:pal-9999が高く足を挙げすぎたのかもしれんが。

揚げ足取りに見えるのは、小刻みに引用し小刻みに反論してるからじゃないかな。あと茶化してるところとか。どう見えるかは知らないけど、それなりの主張はしたつもりですよ。

 

2007年01月18日 Masao_hate 男と女 何コレ?あなたのユートピア妄想押し付けないでくれる?あなたの性別はなにか知らんけど(文体から想像するに女性だけど)、これは酷い男性差別ですね。

その発言をid:pal-9999リダイレクトしたい。

というかid:pal-9999へならまだしも、当該記事が男性差別といわれる意味がわからない。「男性を誤解してる」ならまだわかるんだけどそうでもないし。

 

2007年01月18日 Marco11 うるるんとは別種だろ。チンコ頭はガキなだけだろ。ガキなだけじゃなかったら友達と一緒に潰しに行くよ。ガキなだけだろ?

[これはひどい]がもっともよく似合うものなんだろう、と考えたときid:ululunが浮かんだだけで他意はないです。

 

2007年01月18日 isnotit あ??あ!palさんあんなエントリー書くからバカフェミゲイにたかられる(はてな的)仕事以外でゲイと二人っきりは勘弁。自意識過剰でなくてマナーレイプするゲイもいるだろうしな(こう書くとまたバカが騒ぐかなw

あまりにも中身のない独り言なのでどうしようか迷ったけど挙げておく。自意識過剰でなくてマナーで。

えー、バカフェミとわざわざ接頭辞バカを付けてるとこ見ると、まともに話ができない人なのは一目瞭然なので要点だけ抽出するとたぶんこう。「id:pal-9999さんの発言はそれほど異端でもないが馬鹿を寄せ付ける何らかの魅力は具えている」あるいは「id:pal-9999さんの発言に反駁する輩はバカフェミゲイだろう。そうでない普通の人なら自然と納得する。誰だって納得する。俺もそうする」といったところか。目の前に具体的な事象があってもわざわざその大枠を考えないと何も言えない人なんだろうか。安全側の人というか。

これを読み解くには暗黙の文脈が必要だと思ったのでid:isnotitの過去のブックマーク見たら、どうやらレッテル遊びが好きなだけの人畜無害妖精さんっぽい。ネット右翼でもid:dasmでもなんでもいいけど。なんだ。

 

 

さて、冒頭にも書いたid:pal-9999の補足記事について。

犯罪白書」にあるような警察自体に届けられた強姦件数は、大体、年2000件程度。

立件される強姦では、通り魔的な犯罪引用者注被害者の知人ではない男性による犯罪)が多いのだが、それでも、日本全体では、年に1400件程度起こっているにすぎない。

これは法的に強姦と認められた件数。ただ、何年度のデータかはわからない。それほど古いデータではないだろうと思う。

福島氏は、山岡一信氏の「犯罪行動形態IV-性犯罪」(1965.1966)のデータから、性犯罪被害者の三分の二が未成年者である事と小西調査のデータ、性被害者の年齢分布を考え合わせて、日本女性が生涯で強姦の被害にあう確率を2.5%と算出している。

40年前は「性犯罪被害者の三分の二が未成年者」だったのかもしれないが、じゃあ今はどうなんだろうと疑問に思った。40年前なら、田舎だとまだ夜這いも残ってただろうし(要確認)。

山岡一信のデータと小西調査のデータがよく相関してるので、そこから現代の値を推測しているようだが、詳細不明なので2.5%の妥当性は判断できない。

こうした数値から考えた場合、デートレイプを含めた場合には、日本で、強姦被害にあっている女性は、年に2万人程度となるわけである。

犯罪白書では、年に2000件しか強姦が起こってないとするが、レイプの定義を広げた場合に(デートレイプなどに含まれる「女性との合意のない不快なセックス」という所まで、強姦の定義を広げた場合に)は、年に2万件の強姦が起こっているになるため、日本女性は、実際に考えられているほどには安全ではないのである。

なんで2万人なんて数字が出てきたのかわからない。

「強姦未遂」に関しては、おそらく年20万件程度発生しているのではないかという現状を考えれば

だんだん数字の信憑性が低くなってきた。まあ、数値は枕なのでこれくらいで。

 

僕以外の日本男性の名誉のために言っておくと、昨今の日本男性というのは、ものすごくおとなしくて、非攻撃的なのが現状だ。

犯罪発生率、強姦件数ともに、諸外国に比べて、極めて低く、女性にとっては、日本男性というのは非常に、安全だといえる部類である。

ただし、それでも、上記の小西調査の調査結果は、女性が未だに性被害の危険性に、かなりの割合でさらされていることを意味している。生涯でレイプされる確率2.5%という数値は、かなり危険な数値と言わざるをえない。

2.5%かどうかはともかく、絶対安全とは言えないのは同意。

これらのデータと合わせて、自分の経験かも言わせてもらうが、女性が見知らぬ人にレイプされたという事は、自分の周りではほとんどない。

ただ、いわゆる「デートレイプ」であったり、「親しい友人だと思って安心して家にあげたらヤられちゃいました/ヤられそうになった」なんて話は、それなりに聞く。珍しい話というわけではない。

この、感覚というか、周囲から聞こえる話もだいたい同じ。

高校生のとき「このまえ好きでもない男とやったよ。すげえ気持ち悪かった」とか「自動車教習所ナンパ?されて、最初はごはんだけって言ってたのに、ドライブして夜景見に行こうって言われて、危うくレイプされかけた」とかも聞いた。

それでも、

男性に友情を求める女性にとっては、日本男性というのは、諸外国男性に比べれば、ずっと、やりやすいとは、言えるだろう。

ただ、現状、まだ、性被害の件数を考えれば、まだ、そういうのは早いと僕は考えているのである。

とは思わない。無条件にそうするのは、たしかに危険だ。それでも、本人が承知した上で、そういう行動を取るのは勝手にすればいいだろう。

「あの人はたしかに男だけど、あの人だけは例外だから」なんて無垢なあるいは考えなしの考えを述べるなら、先述の本でも見せて、正しい知識を与えればいい。同様の理由で、「男は絶対危険だ!」なんて説くのなら、やっぱり、絶対と言い切ってしまうには抵抗があるので、否定したくなる。

「私はあの人を友達だと思ってる」なんて言うなら、そして、にも拘わらず相手からコクられたりレイプされかけたりしたんなら、友達だと思ってたのはその子だけだった、という話に過ぎない。小学校では友達だったのに、中学に上がったとたん僕をいじめ始めた、なんていう話と構造的には大差ないように思う。小学校での友達なんて信用するな、と小学生に対して言えるだろうか。人間関係なんだから、常にある程度のリスクは負わなきゃならないと思う。あとは許容できるのはどれくらいか、という閾値の話だろうか。

 

最後に。

女性男性が、同性と同じような友情を育むというのは、正直、リスクが高いと言わざるを得ない。

そのリスクベネフィットの計算は、たぶん、誰もが自分基準で考えるんだと思う。性欲強い人は「女相手に友情なんて無理」と考えるだろうし、バイセクシャルなら「性欲があろうがなかろうが友情は可能だよ」と考えるだろう(そうでも考えないと原理的に友達できないんじゃないだろうか)。女は男に比べて異性に欲情することが少ないので「男女の友情もあるだろう」と漠然と考え、男性恐怖の気がある女は「男には近寄りたくもない」と考える。

対象を男に限っても、「自分の性欲をコントロールできない」とまで考えてる人も居れば、きちんと抑制できると思う人も居て、そもそも女に性的興味を持たないゲイも居る。じゃあ、男女間の友情というのも、マッチング次第で充分発生しうるんじゃないだろうか。

残された問題は、女から見て、その男は、男女(というか自分と相手)間の友情を成立させうるのかどうか、どれくらい危険か、それらをどうやって判断するかか。これは暇なときにでも考えよう。

これが今回の自分なりの結論。自分はまったくそう思っていないのに、性欲強い人が声高に「男女の友情なんて無理」なんて言うもんだから反発したのかなと自己分析。ということはつまり「男女の友情なんて不可能」派の人は、基本的になんと言われようとid:pal-9999のほうを信用してしまうんだろう。

男女はともかく、私とid:pal-9999とのあいだに友情は成立しうるんだろうか。

一度親友に告白して大失敗をしたことがある。

一緒に酒を飲んでいて物凄くリアクションがいいし、楽しそうだし、実際に「○○と話してると楽しい」と言ってたし、あちこちデートに誘っても一度も断られなかったし、家にも遊びに来るというので満を持して告白したら、

「○○のことは友人として好きなんだけど……」

という定型の断り文句が帰ってきた。

「話しているととても楽しいんだけど、彼氏としては見れない」

と言われた俺は、「話していると楽しい」=恋人としての最大の要素だと当時思っていたわけで、自分の何が悪いのかが全くわからずパニックになった。その後もしばらく腐れ縁のような形でたまにご飯を食べたりしていたが、もう今は交流はない。

その後女の友達と色々話すにつれて、「女性は一般的に男を自分にとって恋愛対象であるか否か、ひと目で見抜く。話していて楽しいかどうか、性格が合うか合わないかはほとんど関係ない。性格が全然合わなくても、話していてつまらなくても、相手が恋愛対象のカテゴリに入るならば恋人になれるし、逆もまた然り。一旦どちらかにカテゴライズされたら、もうカテゴリの移動は出来ない、云々」というようなことを聞き、俺は再度パニックになった。なんだそりゃ!? しかし色々な女と話していると、どうもそれが真実のようだ。俺は恋愛に対する考え方を変えた。

恋愛ロジックでするものではない。「性格が合うから」「趣味が一緒だから」そんなロジックを積み重ねても、本能的な直感の前ではそんな戯言は吹けば飛ぶようなもので、恋愛とはもっとエモーショナルなものなのだ。ドーキンスだったか誰かが「人が恋をするのは遺伝子のせいだ」という胡散臭い説を唱えていたが、確かにそうなのかもしれない。それまでの俺はロジック恋愛をしていた。「この子は可愛いとは思わないけれど、自分とこの部分が一緒だから一緒にいるべきなんだ」という思い込みを恋愛と勘違いしていた。こんなんで彼女が出来るわけはない。それ以来、恋愛に対してもっと直感を大事にすることを心がけた。自分が可愛いと思うか、セックスしたいと思うか、一緒にいたいと思うかをまず考えることにした。

そんなこんなで俺にも可愛い彼女が出来て、先月婚約をした。趣味は一緒だが、二人でそれを楽しんだことはないし、はっきり言って性格も合わない。ずぼらで楽観的な俺と、神経質で落ち込みやすい彼女。だが、一緒にいてこの上なく楽しいし、心から彼女を愛している。ロジックではない部分で我々は繋がっているのだと思うと、たまらなく彼女のことがいとおしくなる。これが恋愛なのだと、20代も半ばを過ぎてからようやく理解できた。

旅行フィンランドに行こうと思っている。これも直感だ。

2006-12-17

AKIBA FUTURE -オタサイト秋葉原

はじめに

秋葉原現在もっとも注目される街の一つである。IT・ハイテク技術聖地として、あるいは現在国が推進するソフトウェアコンテンツの見本市として、またはサブカルチャー文化が生まれる一観光地として、政府である『官』やソフトウェアハードウェアを生産する『企業』、そして秋葉原を目指す『個人』の視線がそこに集中し、ひとつのムーブメントを作り出している。

この記事は、秋葉原歴史については軽く触れる程度にとどめ、主に90年代後半??今後の秋葉原について参照し、今後秋葉原がどういった発展を遂げるかについて将来像を探るものとする。

1 電脳都市秋葉原誕生

電気屋街としての秋葉原歴史は、終戦直後に作られた露天市までさかのぼれる。戦前秋葉原にも山際電気現在ヤマギワ電気の前身)なども存在はしたが、当時電気屋の主流であった「電気材料卸商」(電化した工場設備に必要な部品を販売する商店)の中心的な場所ではなかった。戦後焼け野原になった秋葉原で近隣の電機工業専門学校(現東京電機大学)の学生ラジオを組み立て販売するというアルバイトをしたところ、これが大繁盛。その結果、他の露天商も品物を真空管などラジオ部品の販売に転向、その上電気に詳しい露天商の参入もあり、120軒あった露店のうち約50軒が電器商という、まさに電気屋街の前身ともいえる様相を見せた。

この初期の秋葉原の発展について、近くに工学専門の学校があったという地理的要因のほかに、交通の便のよさというのが上げられるだろう。終戦直後にできた闇市で活況を見せたのは、上野新橋渋谷など国鉄の乗降客の多い駅の周辺にできたものだった。秋葉原国鉄都電が通るアクセスのよさは、そういった「人の流れの結節点」となって、秋葉原に人を留める要因になったと思われる。

その後、GHQにより道路拡張工事を行うため、露天撤廃令が施行され、露天商は国鉄秋葉原駅ガード下で営業をはじめることになる。これを秋葉原電気屋街の原型とし、以後日本高度経済成長とともに、電気屋街は拡大していくことになる。この成長を支えたのは家電だった。人々は豊かな生活を追い求めるため、「三種の神器テレビ冷蔵庫洗濯機)」に代表される電化製品を求め、家電が安い秋葉原に足を運んだ。しかしその人の流れは昭和50年代後半で終わることになる。家庭に普及した自動車郊外型の家電チェーン店に向かうといったライフスタイルが定着し、それまで主要客層だった家族層が秋葉原に足を向けなくなる。また、昭和60年代のAVブームと高級家電のブームの反動による家電不況などもあり、秋葉原は新規顧客層の開拓と、それに伴う主力商品のシフトを図ることになる――「情報家電」。昭和にはマイコンとよばれ、現在パソコンと呼ばれるマルチメディア機材である。平成6年、電気街の売上においてPC関連商品が家電商品を上回って、名実ともに秋葉原電脳街となるのである。

2 オタク層の流入??趣都の誕生

秋葉原の主力製品となった情報家電は、アニメゲームを愛好するオタクたちと親和性が高い。アニメを見るためのTV、エアチェックする為のレコーダー、ゲームだけでなく、ファンとの交流を図るコミュニケーション・ツールとしてのPC――しかしそれだけが、秋葉原を「オタク聖地」としたのではないと、建築学者である森川嘉一郎は言う。

秋葉原に点在する「まんだらけ」や「海洋堂」、「ゲーマーズ」などの同人誌アニメグッズ、ガレージキットフィギュア)専門店はそれまで秋葉原になかったものであり、それらは秋葉原移転するまで吉祥寺渋谷新宿などに点在して存在していた。しかしそんな専門店が97年以降秋葉原に集中するようになった原因を、森川は『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』において、(株)海洋堂宮脇修一専務のインタビューをヒントにこう記している――アニメ新世紀エヴァンゲリオン』のヒットと、それに付随したサブカルチャー・ブームにより未曾有のバブルに沸いたサブカルチャーショップが、その勢いに乗り秋葉原への出店を促したのだと。確かにこの時期、東京ビッグサイトで行われたコミックマーケットの入場者数が25万人(95夏 90年からこの人数が横ばい)から35万人(96夏)、40万人(97夏)へと急激に膨張するなど(ちなみにこの後入場者数は横ばいになる)、この時期サブカルチャー文化への大幅な人口流入があったという見方もできるだろう。しかし、アニメマンガ界隈において、エヴァ以降現在に至るまで、エヴァと比肩し得るヒット作は生まれていないのが現状である。しかしサブカルチャー産業は萎むことなく、拡大し続けているのが現実である。エヴァ現象によってサブカルチャー文化に入ってきた人びとは何を飽きずに摂取し、そこにとどまり続けているのか。まずこのことを明らかにしてから、秋葉原の現状について考えてみたい。

3 社会最適化されたオタク??個のオタクから公のオタク

批評家東浩紀によれば90年代以降、アニメ物語よりもそこに登場するキャラクターや設定などの断片を愛好するオタクが増えたと、著書『動物化するポストモダン』で述べている。東浩紀によれば「オタクたちは、物語メッセージなどほとんど関係なしに、作品の背後にある情報だけを淡々と消費している」と指摘し、そのことを「キャラ萌え」している(この言葉はやや古くなった感があるが、そのことについては触れないでおく)と表現した。1960年生まれのライターである竹熊健太郎氏も、「オタクとは何か? What is OTAKU? | Web草思」において、まず自身の立場を「(アニメ作品などにおいて)トータルで作品は見るべきだという思いがどうしても強い。」と表明し、「もちろん心の深いところでは、キャラ萌えのような感情はあるんですけどね」としながらも、かれらについて「でもそれを外部に表明するのは、自分はバカですと言ってるのと同じで、とてもできないわけですよ。」と違和感を語っている。しかし、その中で竹熊はこうも語っている。曰く、キャラ萌えという衝動は「アニメブームの頃、中高生ミーハー女子が「シャア素敵??」って黄色い声をあげていたのと同じ」であると。

東はオタクの嗜好が変わった原因を大きな物語の凋落に求め、結果大きな物語に付随する「小さな物語アニメにおけるキャラクターロボットなどの一要素)」を単独で摂取するようなオタクが現れた、と前述した著書で述べている。このことについて東はインターネットの世界を例に挙げてうまく説明しており、少々長くなるがここに引用したい。「すべてのウェブページを規定するような隠れた大きな物語存在しない。(中略)インターネットにはむしろ、一方には符号化された情報の集積があり、他方にはユーザーの読み込みに応じて作られた個々のウェブページがある、という別種の二層構造がある。この二層構造が近代のツリー・モデルと大きく異なるのは、そこで、表層に現れた見せかけ(個々のユーザーが目にするページ)を決定する審級が、深層にではなく表層に、つまり、隠れた情報そのものではなく読み込むユーザーの側にあるという点である。」「ポストモダンデータベース型世界では、表層は深層だけでは決定されず、その読み込み次第でいくらでも異なった表情を現す。」

この件について森川も同じくインターネットを紐解き、インターネットにおける「地縁血縁に因らない趣味や関心の共通性に基づいたコミュニティコミュニティ・オブ・インタレスト」が、秋葉原の構造の変化を促した、と記している。つまり、「パソコンを好む人は、アニメの絵柄のようなキャラクター好み、そうしたキャラクターが登場するアニメゲームガレージキットも愛好する傾向がある」というオタク趣味の構造が、現在秋葉原を形成したのだと。しかし私は、この変化を趣味の変化や世代の変化ととらえるのではなく、技術進化趣味の構造の変化をもたらしたのだ、と主張したい。

オタクについて、まずかれらについて、サブカルチャー文化を愛好するものたちだと捉えよう。サブカルチャー文化はメインカルチャーにたいするカウンターである為、自ずとその文化を愛好するものはマイノリティとなる。そしてマイノリティである為、常に外部から奇異の視線に晒され(宮崎勤事件を参照されたい)、それに対抗するためオタクたちは様々な我流の理論武装を施し、それによって更にオタクオタクとして、孤立、タコツボ化を極めた(こういった空気は、ガイナックスの元社長である岡田斗司夫が記した『オタク学入門』(太田出版)を参照されたい)。そしてオタクはまた、サブカルチャーの知識を深めるための仲間を必要とし、オタク仲間に出会える場所を強固に求めた。漫画家篠房六郎氏は、かれ自身にとっての同志が集う場所であった武蔵野美術大学漫画研究会について、「かつてはクラスの隅っこにいた痛々しい孤独連中が、自分と同じものの見方を持っている人がいると知って、救われる場所がここだった。」と表現している。

しかし技術の発展が、限られていた場所を無数に生み出すことになる――具体的に言うと、ネットに生まれた「コミュニティ・オブ・インタレスト」である。

秋葉原が「趣都」となった97年以降、PCインターネット整備網、そして文化は急激に発展し、一般家庭に普及していった。オタク情報家電親和性は「2 オタク層の流入??趣都の誕生」の冒頭で述べた通りであり、また、Windows95以前もニフティサーブパソ通などで、一部のオタクBBSを通じて他のオタクとのコミュニケーションを図っていた。その後インターネット人口が拡大するにつれ、オタクたちはかつて無い数の「同志」と出会うことになる。現実世界では「距離」によって出会えなかった人々と、モニター越しに交流することができ、どんなにニッチ趣味でも「仲間」を見つけることができるようになったのだ。

「仲間」と「コミュニティ・オブ・インタレスト」を形成できるというのは、前述したような「我流の理論武装」をする必要がなくなったことを現す。なぜなら形成したコミュニティを安定維持するため、構成員の視線は外部より内部に向かうからだ。よって仲間同士、理解しやすく、されやすくするため、お互いにとって理解しやすいものを求めるようになり、その為表層と呼ばれているデータベースを、お互いのコミュニケーションにおいて重要視して使用するようになった。「巫女」や「ツンデレ」など、キャラクターの要素をあたかも服装の組み合わせによる着こなしように消費し、コミュニケーションのための文法とするオタク。作品から好みの要素切り離して楽しむことができるからこそ、エヴァンゲリオン以降ヒット作に恵まれなくとも、オタクたちはサブカルチャー文化を愛好し続けることができたのだ。

4 個の聖地秋葉原??インタラクティブ都市としての発展

秋葉原の今を見つめるブログとして、アキバbloghttp://www.akibablog.net/)というサイトがある。このサイトは毎日秋葉原の店先をチェックして、物品の販売価格のほかに、店員が作る個性的なPOPを“ネタ”として紹介することをメインコンテンツにしている。このサイトを眺めていて目に付くのは、店が掲げるPOPに書きこまれた“ネタ”はマスメディアが流布したイメージよりも、インターネットから生まれたジャーゴンである場合が圧倒的に多いということだ。普通の店なら「○○という番組で紹介された??」という文句を掲げるはずのものが、ここではネットジャーゴンを絡めて、連帯感を出して売られている。また、匿名掲示板群である2ちゃんねるから生まれたキャラクターグッズを売るショップもあり(因みに同じ2ちゃんねるで話題になったのまネコFlashとそのキャラクターがAVEX資本で商品化されたときには非難が集まり、秋葉原発のグッズショップにはなんら実害を及ぼさなかったこの対比は興味深い)、現在秋葉原オタク文化というマスではなく、ネットというマスに向けて情報を発信していると言えよう。話題になったドラマ「電車男」も、触れ込みは「オタク発」ではなく「ネット発」とうたわれていたのも思い出させるし、そもそも秋葉原名物となったメイドも、(始まりこそあるアニメコスプレ喫茶として生まれたものの)オタクたちが共有イメージとして持っていた「メイド」を現実化したものであり、特定のアニメ作品というマスメディアから生まれたものではないことも記しておこう。

高度成長時代、メーカーにとって秋葉原とは、特例的な値引きを許し、かつ消費者の反応をフィードバックさせるための実験場であり、社員の技術者が新製品とともに、専門知識を備えた販売員として小売店へと配備された場所だった。今秋葉原では同じように、ネットから生まれた文化を貪欲に取り込みそれを街の貌とする実験場になっている。インターネットの発展により、個の集合体があたかもマスコミュニケーションのように総体として機能し始めた現在。「趣味の構造が場所を変えた」都市に加え、「既存のマスメディアだけでなく、個々が生んだネットメディアと交流をとる」最先端の都市として、現在秋葉原は評価されるべきだろう。

参考文献

「週間大衆:昭和54年8月9日号」焼跡のバラック問屋街を『世界のアキハバラ』に高めたガンコ一徹

http://www.shimura-musen.co.jp/home_2/kiji_02.htm

秋葉原歴史

http://www.akiba.or.jp/history/index.html

オタクとは何か? What is OTAKU? | Web草思

http://web.soshisha.com/archives/otaku/index.php

伊藤計劃:第弐位相 - 学園祭の話

http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20061029#p1

秋葉原におけるメイド喫茶コスプレ喫茶歴史

http://sotokanda.net/his_cafe.html

註:ちなみにメイド喫茶が爆発的に増えたのは、私の記憶によればドラマ「電車男」以降のはずである。

コミックマーケット30’s ファイル 発行:(有)コミケット 発行人:米沢嘉博

カーニヴァル化する社会 講談社 著者:鈴木謙介

動物化するポストモダン 講談社 著者:東浩紀

趣都の誕生 萌える都市アキハバラ 幻冬舎 著者:森川嘉一郎

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