はてなキーワード: 麦の穂とは
空は奇妙な色に霞んでいた。
夕焼けと青が混じり合ったような色だ。一体何でこんな色合いになるのかは僕には分からない。
それぐらい奇妙な色だった。
ところで、僕のことについて語ろうと思う。
いつのまにか、僕はこの世界に存在していて、そして、今もなお存在し続けている。
どれくらいの間、こうしているのかは分からない。
ともかくも、僕は今麦畑の中を進んでいた。
麦畑は、僕の身長よりも高い穂で埋め尽くされていて、とてもじゃないけれど遠くまでを見ることはできなかった。
だから、僕はその茎の一つ一つを掻き分けながら進まなければならなかったのだ。
そんな作業を、ずっと前から続けていた。
この世界では、時間なんてものは存在していないのとほとんど同じなのである。
そんな具合に僕が麦を掻き分ける作業を続けていると、どこか遠くから、ぱきぱき、ぱきぱき、という、聞き覚えのある音が聞こえてきていた。
その音は、どんどんと僕の方に近付いてくるようだった。
音は大きくなりつつあった。
僕には、一体この後何が起こるのかがはっきりと分かっていた。
彼女がこちらへと近付いているのだ、と僕は思う。これもまた、何度となく繰り返したことだった。
そして、その音は遂に間近へと迫った。
僕は、ゆっくりと視線を上げて、そこに存在している影の方を眺めた。
麦と麦の穂の間から、彼女は、いつも通りの笑顔を浮かべて、こちらを見下ろしていた。
いつも通りに、白いワンピースを着た少女だった。栗色をした長い髪が、ほとんど腰のところにまで達している。ブラウンの大きな瞳をしていた。
彼女は僕の方を暫く眺めていたのだけれど、その後、彼女は一方的に踵を返して、僕へと背を向けた。そして、僕から遠ざかる形で歩き始めた。
十分に僕が付いてこれるくらいの、それぐらいの歩調で、僕の視界を覆っている麦を倒しながら彼女は歩いていた。
その度、ぱきぱき、ぱきぱき、という音が断続的に響き渡っていた。
僕達はそれをずっと続けていた。
ずっとだ。
歩き続けていた。
ずっと歩き続けていた。
いつになれば、辿り着けるのだろう、と思う。
いつかはきっと、辿り着けるのだろうか、と思う。
でも、とにかく僕達は歩き続けている。
空は奇妙な色に染まっている。
茜色のようで、そうではなく、かといって青でもなく、茜と青の中間でもない――そういう色だった。
天頂は青なのだが、その周囲に赤が時折交じる、というパターンの色合いだった。
その空の下に、見渡すばかりの麦畑が広がっている。
――いや、正確に言うならば、僕はその麦畑を見渡すことはできないのだけれど。
ところで、この世界が一体何なのかについて敢えて僕は語るまいと思う。
何故なら、そもそも僕自身それをきちんと理解できていないし、それに、仮に理解できたとして、それは誰かに説明できるような代物ではないことくらい、僕にだって分かるからだ。
だから、この世界がどういう存在なのかについて語る代わりに、僕は僕自身のことについて語ろうと思う。
僕の身長はとても低い。
というか――そもそも僕にはほとんど何もできない。
僕には、できることの方が少ない。
僕には様々なものが欠けていた。
例えば、周囲に立ち込めているであろう、麦の香を嗅ぐこともできなかった。
僕は不完全なのだ。
僕は、この視界を埋め尽くしている麦の茎の間を、すり抜けるようにして歩いていた。
だから、度々僕は立ち止まることになった。目の前を塞いでいる麦の所為で、先に進むことができなかったのだ。
そんな折には、僕は方向を変えて、別のルートで進むことができるかを試すのだった。それを何度も続けていた。どれくらいの時間そうしていたのかは、分からない。元より、時間などあってないのと同じようなものだった。
だから、僕が自分の作業に没頭していた状態から目覚めたのは、ぱき、ぱき、という麦の茎の折れる音を聞いてからだった。
僕は、長い間その足音を見失っていた。
そして、その足音に追いつこうとしていた。
それほど長い時間ではなかったけれど、とにかく僕は一人ぼっちになっていた。この麦畑に足を踏み入れたのと、ほとんど時を同じくして僕達ははぐれたのであった。
そういうことだったので、麦の穂と穂の間の空間――そこからは奇妙な色の空が見える――から、彼女が顔を出した時、僕は正直なところほっとしていた。
そして、それは多分彼女の方でも同じだったのではないか、と思う。彼女は、笑みを浮かべていた。柔らかく目を細めて、僅かに口角を緩めていた。
彼女は、僕の前にまでやってくると、丁度、僕の眼前を塞いでいた麦の穂を、ぱきぱきと折ってくれた。
そうやって、彼女は僕の前の道を開いてくれた。
僕は、素直に感謝しながら、続けざまに道を作ってくれている彼女の後ろに、付いていった。
ずっと昔からこんなことを続けていた。
麦畑に入ったのは、それほど前のことではない。
本当に大した時間ではない、それこそ、一粒の露が乾く程度の時間でしかない。
それでも、僕達はどこにも行けない存在だった。
歩いているけれど、歩いてなどいないのだ。
僕達は不完全だった。
彼女もそうだった。
僕達は。
でも、いつかは、僕達はこの麦畑を抜けることができる。
その確信は常にあった。
僕達は別の世界に渡ることができるのだ。
彼女も、僕も、そう信じていた。
空は奇妙な色に霞んでいた
仄かな光の粒子が空中に幾つも漂っていて、そしてその影響で、単純なグラデーションではない、まだらっぽい模様の色彩が空を埋めていた。それは茜色であり、オレンジっぽくもあり、黄色っぽくもあり、同時にごく薄い青色のようでもあった。僕はそんな空を見上げていた。
そして視線を下ろす。
僕の目の前には、たくさんの麦の穂が立ちふさがっている。
その所為で、僕はまともに正面を見渡すことすらできない。
というか、僕の周囲は現在麦の穂によって完全に閉ざされていた。左右も、背後も、全て、時折風に揺れる麦によって、塞がれている。僕の身長はとても低いのだ。
僕は、とりあえずその麦の穂をかき分けながらに歩こうとする。
でも、実際にはそんなことをする必要は無かった。
ぱきぱき、ぱきぱき、という、麦を折って誰かが歩いている気配が、どんどん近付きつつあった。
僕は、直前まで取ろうとしていた行動を止める。
しばらく、その麦の折れる音は続いて、やがて、僕の頭上に、一人の女の子が顔を出していた。
彼女は、光の加減で琥珀色に見える瞳で、僕のことを見ていた。僕が、彼女の方を見返していると、彼女は一度微笑んだ。
それから、彼女は僕が歩きやすいように、僕の正面を塞いでいた麦の茎を、根本の辺りで折ってくれた。
それで視界が開ける。
彼女が、ここまで歩いてきた分は、麦が倒れているお陰で割と視界を確保することができていた。
彼女は僕の方を暫く眺めていて、それから、何も言わずに、自分が来た方向へと振り返った。
そして、歩き始める。
ゆっくりとした足取りだった。
僕はそれに着いて行く。
きっと、辺りには麦の匂いが満ちわたっているに違いなかった。
でも、僕にはそれを感じることはできない。
風や、匂いを感じる為の器官が、僕には備わっていない。
そしてまた、彼女も。
でも、ひとまず僕は彼女のことを追うことはできていた。
僕が付いてきていることを、彼女は時折振り返って確かめていた。とりあえず、この麦の野を抜けるまでは、そうしてくれるのはとても有り難かった。
僕は空を見上げていた。
突き上げるような空だった。蒼穹は、視界の辺境付近から僅かに青くなり始めていて、そして天頂に至ると群青色に近い色を帯びていた。僕は、そのグラデーションを眺めながらに、麦の穂の匂いを感じた(実際には僕に匂いを感じる機能はない)気がした。
視線を下ろす。
僕の目の前には、ずらりと並んだ、麦の穂の茎が見える。それは、視界の限りにひしめいていて、とてもではないけれど、その向こう側に何があるのかを見渡すことができないほどである。
つまるところ、僕の身長はとても低い。
僕は、その中で一歩を踏み出した。
柔らかな土壌を踏みしめて――立ちふさがる麦の丈を、掻き分ける形ですり抜けて――そのまま、前へと進もうとしていた。これは、言うまでもないけどちょっとした重労働で、いつになればこの麦の野を踏み越えることができるのかは、全く分からないくらいだった。
しかし、僕はそれほど経たない内に立ち止まっていた。
僕の前に、ふと、立ち塞がる影が見えたのだ。
それは、先程から僕の視界を塞いでいる麦とは、まったく別の、白色をした透き通るような柱であって――つまるところ、それは少女の足だった。
僕は、視界を上向きにし、そしてそこで僕の方を見下ろしている、少女の笑みを見つけることになる。うっかり、迷子になってしまったとばかり思っていたけれど、少女は僕の歩いている位置をきちんと把握してくれていたようだった。
少女が、軽く僕に視線を残すようにした後で、僕に背中を向けた。それから、先ほどの僕と同じように一歩を踏み出した。
僕のそれとは比べ物にならないほど、力強く、そして、移動する距離も大きい一歩である。
それは、僕の眼前を覆っていた麦をぱきぱきと折って、そして、僕の視界を少し広くしてくれるものだった。
僕は、そんな少女の歩みを見つめながら、少しの間立ち尽くしていた。彼女は僕の前を先導して、そして、幾分その麦の野を、僕にとって歩きやすい地形に変えてくれる試みに、努めてくれているようだった。
ふと少女が立ち止まって、僕が付いてきているかを、その平たくなった地形をきちんと進んでいるのかを、確かめていた。
先程よりも、少し歩きやすくなった前方の視野を確認しながら、僕は少女に続く形で歩みを再開する。
少女が微笑んで、そして、再び僕の視界を広げる一歩を踏み出す。
僕は、その姿を後ろで眺めながら、少女のゆったりとした足取りに、どうにかして付いていこうとしていた。
そして、僕は再度、空を見上げてみた。
群青色の蒼穹がそこにはあった。そして、漂う雲。
でも、その色づいた空の表面を見て取ることは、僕にだってできていた。
僕は正面を向き直る。
そこに待っている少女の方へと向けて、更に一歩を踏み出していた。
麦の穂が風に揺れていた。
大気は温かな色合いを帯びていた。空は霞んで見えた。でも空気は透き通っていて、僕は空を眺めながらに、もし僕に口というものがあったのなら、溜息の一つでも吐いているところだった。
そして、彼女は、僕よりも十歩ほど先を歩いていた。
彼女は振り返らない。麦が折れて擦れ合う、ざわ、ざわという音だけが彼女の足取りを僕に伝えていた。僕の背は低すぎて、辺りに茂った麦のせいで、彼女のことを音で捉えるしかないのだ。
でも、彼女の足はどうやら停まったようだった。
そのまま、彼女の足取りは暫く静止していた。僕は、その沈黙に若干戸惑いを覚えながら、同じく立ち止まって、彼女が歩き出すのを待っていた。
やがて、彼女は再び歩き始める。でも、今度は先程とは方向が違って、どんどんと僕の方へと近付いてくる様子だった。
僕は空を見上げる。そして、そこに漂っている小さな雲の塊を見つめた。
そんな風にしていると、麦と麦の間を掻き分けるようにして、彼女が僕の方へと顔を出した。
彼女は僕を見つけると、にっこりと微笑んだ。そして、「行こう」と一言だけ僕に声を掛ける。
僕は頷く。
辺りに立ち込めているであろう麦の匂いを、嗅ぐことさえできない。
彼女は自身の笑みを、まるで光を発する生物が描く軌跡のように僕の視界に残して、再び正面へと向き直り、そして、ゆっくりとした足取りで、僕を先導するように歩いて行った。
僕は、心の中で、そっと一つ微笑みを浮かべた。
僕達はどこにも行けないのだ。それは分かり切っていた。
でも、僕は心の中で笑ってみせた。
僕達は上手く存在することすらできない。全ては、失われていたし、やがて、その失われていたことすら、失われてしまうだろう。
それでも、僕は彼女の足取りを追った。
ざあ、という風が一つ吹いた。
麦の群れが風に揺れている。
僕はその中に佇んでいた。僕の近くにはもう一人少女がいて、彼女はぱきぱきと、麦の穂の折れる音を立てながらに歩いていた。僕はじっと立ち止まっていて、その音を特に聞くでもなく聞いていた。風が吹くとざわざわという麦のこすれ合う音が響いていた。僕は、何となく一歩を踏み出して彼女が今歩いている辺りへと近付こうとした。その時、彼女の歩き回る音が不意に止まった。
僕もまた立ち止まった。
風が吹いていて、やはりざわざわという音は鳴り止まなかった。それから、またぱき、ぱき、という茎の折れる音が響き始めた。僕は目を瞠るように立ち尽くしていた。音は、徐々に僕の方へと近付いてきつつあった。
そんな風に待ち続けていた僕の頭上に、そっと彼女が顔を出した。彼女の目と僕の目とが合うと、彼女はにっこりと微笑んでいた。そして、僕に対して背を向けて、再びあてもなく歩を踏み出していた。
僕は、ゆっくりとした足取りでその背中を追うことにした。彼女が歩く度に聞こえる麦の音を頼りに、歩き出していた。
そして、僕達は、本当にはここにいない存在なのだ、とも思う。僕達は、本当には存在してなどいないのだ。僕達は、本当の意味では存在することのできない存在なのだ。生まれながらにして失われていたのだ。
なんでそんなことになってしまったのか、と思う。でも、考えても無駄なことは分かっていた。僕達は間違った存在で、嘘で、偽りで、そして、これからも決して本当の意味で存在を許されることのない存在なのだ、と僕はずっと前から知っていた。そして、少女もまたそのことを知っていた。
何でなのだろう、と思う。
でも、僕達には、自分自身のことを救うことはできないのだ、とも思った。だから、今は、偽りでも、間違いでも――嘘でも――とにかく一歩を前に踏み出すしかないのだと、僕はそう感じた。だから、僕は彼女の背を追った。彼女の長い栗色の髪が、風に揺れて舞い上がるのが見えた。彼女の耳の辺りが露わになった。僕は、僕には匂いを感知する機能なんて無かったけれど、確かに麦の香る豊かな匂いを感じることができた気がした。
僕は歩き続けていた。
本当には一歩も歩くことなどできやしないのに、僕は歩いていた。