2013-12-11

幻想世界にて

 麦の穂が風に揺れていた。

 大気は温かな色合いを帯びていた。空は霞んで見えた。でも空気は透き通っていて、僕は空を眺めながらに、もし僕に口というものがあったのなら、溜息の一つでも吐いているところだった。

 そして、彼女は、僕よりも十歩ほど先を歩いていた。

 彼女は振り返らない。麦が折れて擦れ合う、ざわ、ざわという音だけが彼女の足取りを僕に伝えていた。僕の背は低すぎて、辺りに茂った麦のせいで、彼女のことを音で捉えるしかないのだ。

 でも、彼女の足はどうやら停まったようだった。

 そのまま、彼女の足取りは暫く静止していた。僕は、その沈黙に若干戸惑いを覚えながら、同じく立ち止まって、彼女が歩き出すのを待っていた。

 やがて、彼女は再び歩き始める。でも、今度は先程とは方向が違って、どんどんと僕の方へと近付いてくる様子だった。

 僕は空を見上げる。そして、そこに漂っている小さな雲の塊を見つめた。

 そんな風にしていると、麦と麦の間を掻き分けるようにして、彼女が僕の方へと顔を出した。

 彼女は僕を見つけると、にっこりと微笑んだ。そして、「行こう」と一言だけ僕に声を掛ける。

 僕は頷く。

 僕は言葉を発することができない。だから、頷くしかないのだ。

 辺りに立ち込めているであろう麦の匂いを、嗅ぐことさえできない。

 彼女は自身の笑みを、まるで光を発する生物が描く軌跡のように僕の視界に残して、再び正面へと向き直り、そして、ゆっくりとした足取りで、僕を先導するように歩いて行った。

 僕は、心の中で、そっと一つ微笑みを浮かべた。

 僕達はどこにも行けないのだ。それは分かり切っていた。

 でも、僕は心の中で笑ってみせた。

 僕達は上手く存在することすらできない。全ては、失われていたし、やがて、その失われていたことすら、失われてしまうだろう。

 それでも、僕は彼女の足取りを追った。


 ざあ、という風が一つ吹いた。

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