2013-10-13

幻想世界

 麦の群れが風に揺れている。

 僕はその中に佇んでいた。僕の近くにはもう一人少女がいて、彼女はぱきぱきと、麦の穂の折れる音を立てながらに歩いていた。僕はじっと立ち止まっていて、その音を特に聞くでもなく聞いていた。風が吹くとざわざわという麦のこすれ合う音が響いていた。僕は、何となく一歩を踏み出して彼女が今歩いている辺りへと近付こうとした。その時、彼女の歩き回る音が不意に止まった。

 僕もまた立ち止まった。

 風が吹いていて、やはりざわざわという音は鳴り止まなかった。それから、またぱき、ぱき、という茎の折れる音が響き始めた。僕は目を瞠るように立ち尽くしていた。音は、徐々に僕の方へと近付いてきつつあった。

 そんな風に待ち続けていた僕の頭上に、そっと彼女が顔を出した。彼女の目と僕の目とが合うと、彼女はにっこりと微笑んでいた。そして、僕に対して背を向けて、再びあてもなく歩を踏み出していた。

 僕は、ゆっくりとした足取りでその背中を追うことにした。彼女が歩く度に聞こえる麦の音を頼りに、歩き出していた。


 僕達は失われた存在なのだ、と思う。

 そして、僕達は、本当にはここにいない存在なのだ、とも思う。僕達は、本当には存在してなどいないのだ。僕達は、本当の意味では存在することのできない存在なのだ。生まれながらにして失われていたのだ。

 なんでそんなことになってしまったのか、と思う。でも、考えても無駄なことは分かっていた。僕達は間違った存在で、嘘で、偽りで、そして、これからも決して本当の意味存在を許されることのない存在なのだ、と僕はずっと前から知っていた。そして、少女もまたそのことを知っていた。

 何でなのだろう、と思う。

 でも、僕達には、自分自身のことを救うことはできないのだ、とも思った。だから、今は、偽りでも、間違いでも――嘘でも――とにかく一歩を前に踏み出すしかないのだと、僕はそう感じた。だから、僕は彼女の背を追った。彼女の長い栗色の髪が、風に揺れて舞い上がるのが見えた。彼女の耳の辺りが露わになった。僕は、僕には匂いを感知する機能なんて無かったけれど、確かに麦の香る豊かな匂いを感じることができた気がした。

 僕は歩き続けていた。

 本当には一歩も歩くことなどできやしないのに、僕は歩いていた。

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