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2009-11-29

かな書きの文章はなぜ「読みにくい」と言われるのか?

http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20091127#p1

ひとつ前の記事を非常に多くの方に読んでいただいたようです。まったく予想していなかったことなので、驚いております。とてもありがたいことです。

●時間厳守は遅刻する人に迷惑がかかるのでやめてください

この記事にたくさんの方がブックマークをしてくださり、またコメントを書いてくださりました。記事の内容についての様々なコメントもいただいたのですが、私が漢字をほとんど使わずに文章を書いていることについてのコメントもたくさんありました。

前回の記事からはだいぶ間が空いてしまったのですが、今日はそうしたかな書きについてのコメントを読んで考えたことを書いてみたいと思います。

●記事のブックマーク・ページ(1)

●記事のブックマーク・ページ(2)

●ブックマーク・ページのブックマーク・ページ

●ブックマーク・ページのブックマーク・ページのそのまたブックマーク・ページ

以上の4つのリンク先からブックマークコメント引用させてもらいます。

id:naoya_0708 [ネタ] そんな小さいこと気にせず堂々と遅刻して「へぇ、すんません」って言えばいい。そんなことよりこの人がなぜ平仮名なのか、のほうが気になるわ。

私がブログでかな書きを実践している理由については、これまで5つの記事で述べてきました。

1. 漢字について

2. 「学校という空間」をこそ問題にしよう

3. 表記が生成される場に立ち返ってみる

4. 国語廃止論序説

5. 「国語廃止論序説」への補足

5.の記事だけは、「漢字・かな混じり文」という日本語の《書き表し方》の問題にはほとんど触れておらず、主に《言語》の問題を論じています。日本で話されている様々な言語*1の中で日本語だけを「国語」として特権的に扱うことをやめましょうという提案を行っています。

ただ、この《言語》の問題と漢字・かな混じりの《表記》の問題の二つを、私は基本的に同じ論理で考えておりますので、興味のある方は、5.も併せて読んでいただけると幸いです。

上に挙げた5つの記事は、どれも長い文章なので、ここで簡単に私が漢字をなるべく使わないでブログを書いている理由を述べておきます。

それはできるだけ多くの人が文章を読んだり書いたりできたほうが望ましいと考えるからです。私は一方では読み書きができなくても何の不都合もなく生活できる社会理想的だと思っています。しかし、日本語の読み書きができないと様々な面で不利益を被ってしまうという日本社会の現状では、そうした人たちが読み書きを身に付けやすい環境を作っていくということも同時に行っていく必要が大きいでしょう。

また、私自身、文字で書かれた物を読み、また書くことによって、様々な良きものを今まで他人から受け取ってきたと思います。もちろん、私が本を読むことができるゆえに、かえって見落としたり見えなくなったりしていることはあるでしょう。だから、一方では、単純に「読み書きによって世界が広がり、見方が広がる」といって良いのか、ためらいも覚えます。少なくとも、「読み書きのできる人がそれをできない/しない人よりも広い世界と深い物の見方を持っている」などとは断じて言えないことははっきりしています。

とはいえ、私自身読み書きのできる者の一人である以上、読み書きのできない人に対して「読み書きなどできなくても良い」と言うわけにはいかないし、「読み書きしたいけれどできない」という人がいる状況を正してゆく責任を負っていると考えます。

そのためには二つの方法が考えられます。一つは、読み書きの教育を充実させること。もう一つは、読み書きを身に付けるためのハードルを低くすることです。

もちろん、一つ目の課題も大事ですが、とくに日本語の場合、二つ目の 「ハードルを低くする」ことの必要性は極めて大きいといわざるを得ません。私自信何度か書いてきたことでもあるのですが、ブックマークコメントでの次の Cunliffe さんの指摘は重要です。

id:Cunliffe 「読みにくい」とか「読めない」とか難癖つけてる人みると、どうしても幻の鯖の器にケチつけた海原雄山を思い出す。漢字かな混じり文を読みやすいと感じるのは、正規の国語教育受けた大人だけなんですねー。

日本語について一通りの読み書きができる人は、その習得に非常な時間と労力がかかるということを知らないわけではないでしょう。また、そうしてかけられた時間と労力の大部分が漢字学習に費やされていることも。

日本学校教育を6年なり、9年なり受けた人でないと、おびただしい数の漢字と熟語を覚えるのは極めて困難なはずです。

いうまでもないことだと思いますが、日本社会の住民のうち、日本学校教育を受けた、あるいは受けられる人はその一部に過ぎません。一般的に学校に通う年頃を外国で過ごした人もいれば、学校に通えなかった/通わなかった人、その中には年を取ってから読み書きを学ぼうとする人もいます。また、日本学校に通っても、漢字や熟語が十分に身に付かなかった人も大勢いるでしょう。

あべ・やすしさんの次の文章も併せて読んでください。

●漢字が排除するもの - hituziのブログじゃがー

 漢字は、文字表記として複雑すぎるために、様々な文字弱者を排除し、抑圧している。

 もちろん、漢字をなくせば文字弱者がいなくなるわけではもちろんない。だが、大きく改善することがたくさんある。

 私が「漢字という障害」という論文で指摘した漢字弱者は、非識字者や識字学習者、盲人、弱視者、ろう者中途失聴者、読字障害を持つ人、知的障害者日本語学習者です。

 そうした人たちが文字情報アクセスする権利を奪っているのが、いまある日本語表記に他なりません。漢字が障害となる度合いは、それぞれ異なっています。けれども、何らかの形で、漢字は障害として働いているのです。

こうして漢字が作り出している「文字弱者」の存在を指摘しますと、こう言われることがあります。すなわち、このブログを読みにくる人たちの中にそうした文字弱者が存在するのか、と。今までに何人の人からそういう意味ことは言われました。「わざわざ大多数の読者にとって読みにくいかな書きで書く必要が本当にあるのか?」と。

こういう考え方は、たとえば次のような発想と本質的に違わないと思います。

「この街では車椅子で歩いている人を見かけない。だから、わざわざ駅にエレベータを つけたり、スロープをつけたりする必要はないだろう。」

これは一見してひどい言い分だと分かるのではないでしょうか? 必要なエレベータスロープがないからこそ、車椅子で移動する人が街に出てこれないのかもしれない。「排除されている他者の存在が、私たちによる排除の結果として見えなくなっているのではないか?」という可能性を考えなければなりません。

同じことは読み書きについてもいえます。ひらがなでも書き表せることを漢字で書く ことで、漢字を知らない人を排除してしまっているのだろうし、その結果排除されている人の存在が見えなくなってしまっていることはあるでしょう*2。

だから、「今この場所にいる人」だけでなく、「今この場所にいない人」にも向けて、この場所をできるだけ開かれたものにしていく試みは重要だと思うのです。

さて、先日の記事でいただいたコメントで多かったのが、かな書きの文章が「読みにくい」「読む気がしない」といったものでした。この記事に限らず、私はこのブログでかな書きを始めてから記事を書くたびに同じことを何度も言われてきたのですが、こうした反応はとても興味深いものだと思ってきました。

「読まない」という選択肢もあるのに、なぜわざわざ読んだ上で「読みにくい」と書き込まずにはいられないのだろうか? また、「読みにくいので途中で読むのをやめた」というようなことをわざわざブックマークコメントで報告してくださる方もたくさんいます。私の記事のようなかな書きの文章ではなくても、途中まで読んでやめることなどしばしばあるだろうに、どうして私の記事にだけ、わざわざそれをお知らせしてくださるのだろうか?

前回の記事に関して付けられた200を超えるブックマークのうち、「読みにくい」「読む気がしない」といったコメントをざっと拾ってみたら、これだけありました(他にも別の表現で「読みにくい」ということを言っているコメントがたくさんありましたが、それはまたあとで触れます)。

id:elwoodblues [*あとで読む] 読みにくい

id:baumkuchen555 みんなよく読めるな

id:ezil [考え方][教育][society][education] よ み づ ら す ぎ る \こめんと を かならず みること

id:yosuken [あとで][大学][教育][社会] やっぱ読みにくいな

id: [ネタ] 昔のドラクエみたいな文章で読みづらいぜw

id:zoumurasan [あとで読む] ひらがな ばかりは つかれる

id:Harnoncourt http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E8%AA%AD%E3%81%BF%E3%81%AB%E3%81%8F%E3%81%84%E6%96%87%E7%AB%A0  アンサイクロペディアの「読みにくい文章」。私この人の文章大嫌い。目が滑りまくり

id:makiyamakoji とても よみに くいね

id:feita さすがによむきがおきないね。

id:suzuchu せっかくすごくいい事をいっているのに、読みにくい。漢字を使わない理由のほうも読ませていただいたけど、そっちはただの屁理屈に思えた。

id:hotomaru [教育] だめだ よむきにならない

id:kubodee ひらがなおおくてよめない。 それと たてよみ どこ?

id:kasuga-k [これはひどい] 興味のある題材だが読む気にならない…

id:change-of-pace [社会] たいとるにはきょうみをひかれたがぜんぶひらがなでよむきになれない

id:yatt 読み物 半分読んで止めた。読む気がくじけた。

id:puyop [これはひどい][ネタ][社会] 遅刻常連者を更生できない教師とご学友というレッテルが張られることかな?/それにしても、ひらがなでちょうぶんはよみにくいぞ

id:rs6000moe [カリカリモフモフ][キタコレ][あらあらうふふ] 読みにくいものは読みにくい。わざわざ読みにくく書く人間の不誠実さには頭が下がる。/↑お、恥の文化

id:feita ボクは読みにくいものは読みにくいので素直に言っただけですよ。それ以上の意味もそれ以下の意味も悪意も善意もない。ごめん悪意は多少ある。

お疲れ様でございます。

みなさん、自信たっぷりに私の文章が「読みにくい」ということをご指摘くださって います。

「読みにくいものは読みにくい」のだ、と。それはそうですよね。読みにくいものは 読みにくい、読みやすいものは読みやすい、美味しいものは美味しい、美しいものは美しい、ですよね。

「不誠実」とまで言われました。自分にとって読みにくい文章を書く書き手は「不誠実」ですか? さぞかし良いご身分なのでしょう。

上のようなコメントはいつも頂いているので、もう慣れっこなのですが、今回目を引いたのは fromdusktildawnさんのコメントです。

id:fromdusktildawn この文章を少し読んだだけですごい疲労が襲ってきたんだけど、ブコメをみたら、ちゃんと読んでる人が沢山いておどろき。この程度のストレスに耐えられないとは、オレの脳も老いたか。

この人のコメントは、私が今まで頂いたたくさんの 「読みにくい」というコメントの 中でも、例外的なものです。それは「オレ」というご本人個人にとって「読みにくい」とおっしゃっている点でです。

なお、かな書きの文章が読みにくいはたぶん fromdusktildawn さんの脳味噌が老いたからではないと思います。ちょっとした慣れの問題ですよ(これはあとで説明します)。少なくともとりわけ年を取ってから漢字学習する手間と苦労を考えたら、すでに漢字・かな混じり文の読み書きを習得した人がかな書きの文章に慣れるのは簡単なものです。漢字を使って文章を書き表さなければならない何か合理的な理由があるならまだしも、そんなものは、あとで述べるように、漢字を学んだ人にとってのちょっとした「慣れ」以外にないのは明らかです。

ともかく、私のかな書きの記事に「読みにくい」とコメントする人たちの中で、「自分にとっては読みにくい」という言い方をする人はほとんどいません。つまり、読みにくさの原因が読み手である自分自身にではなく、一方的に書かれた文章の側にあるのだという確信があるのでしょう。だからこそ「私にとってはあなたの文章は読みにくい」ではなく、単に「読みにくい」という言い方ができる。まさに「読みにくいものは読みにくいのだ」というわけです。

そして、「読みにくさ」の原因が読み手自身にではなく、書かれた文章の側にあるという確信を支えている条件とは、「この文章は私以外の多くの人にとっても読みにくいものであるはずだ」という思い込みに他なりません*3。「みんなも読みにくく感じるはずだ」と思うからこそ(多くの人が「読みにくい」と感じているのは事実でしょうけど)、遠慮はばかりなく、自信を持って、ただ「読みにくい」と言える。

つまり、「私にとって」と言わずに、ただ「読みにくい」とだけ言えるのは、多数者によりかかるという姿勢を取る限りにおいてです。かな書きの文章に対し、ただ「かな書きである」という理由で「読みにくい」という評価を下せるのは、それが「一般的に」――というのはとりも直さず「多数者にとって」ということですが――「読みやすい」と信じられている書き方から外れているからに過ぎません。

こうした自らが多数者であることに寄りかかった、いわば権威を笠に着た発想は、次のような表現をとって現れることもしばしばです。

id:Yagokoro [これはひどい] 日本語すぎて読めない。

日本語すぎて読めない」だそうです。だいたい私にとっては、自分が書いたりしゃべったりする言葉が結果的に「日本語」に分類されるかどうかなど知ったこっちゃないのですが、この人はご親切にも(余計なお世話ですが) 私の文章を「日本語」とみなした上で、その「日本語」の名の下に「酷い」と断じるわけです。この、「自分は『日本語』の名の下に他人の言葉を評価できる/しても良い」といわんばかりの思い上がりご立派もんだと思います。

書き言葉であるか話し言葉であるかに関わらず、他人の表現を「日本語としておかしい(間違っている)」とか、反対に「日本語お上手ですね」とか評価を下すことに無頓着な人はよく見かけますけど、こういう人たちは一体何様のつもりなのでしょうか?

なるほど、あなたは他人の言葉を「日本語」とみなすかみなさないかについて権限をお持ちだ、と。そして、あなたがそれを「日本語」とみなすとき、あなたはそれを一方的に評価できる特権をお持ちだ、と。すなわち、相手があなたたちの「標準」と考える「日本語」に一方的に合わせるのが当然だ、と。そう考えているのでしょう。本当に結構なご身分ですわね。

すでに述べたように、私は自分言葉が栄えある「日本語」という位置付けを与えていただこうがそうでなかろうが構いやしないのですが、光栄なことに「日本語」という分類に含めてくださるのだとしても、その「日本語」には様々な書き表し方が考えられますし、実際行われています。書き手がどういう読み手を想定するかに よって、「日本語」は、漢字かな混じり文で書かれることもあれば、かな書きで書かれることもあるでしょう。あるいは、ローマ字で書かれることもあれば、ハングルで表記されることもあるでしょう。点字で書かれることもあります。私は先に述べたような、またリンクした記事で述べてきた理由から、かな書きを選んでおります*4。

たとえば、ひらがなや漢字を知らないけれどもアルファベットには馴染んだ日本語話者同士が、アルファベット表記の日本語でやりとりする場合があります。おそらく、そういった場合には、第三者が横から口を挟んで「君たちの日本語は読みにくい」などとは言わないでしょう。では、なぜ私のかな書きの文章が一部の人を苛立たせ、「読みにくい」「読む気がおきない」といったコメントを誘ってしまうのか?

その理由の一つには、私が漢字かな混じり表記でも書けるのに、あえてかな書き文章を書いていることがあるでしょう。つまり、「わざわざ意図的に読みにくい(と漢字かな混じり文に馴染んだ人には感じられる) かな書きで書いてやがる」という反発があるのではないかと思います。

しかし、そこには 「日本語で書かれた文章である以上、自分たち大多数の読み手にとって読みやすい漢字かな混じり表記で書かれるのが当然だ」という前提が――屈託なしに「読みにくい」というコメントを書き込む人はあんまり自覚していないのでしょうが――あるのではないでしょうか? 普段日本語の読み書きにさほど不自由を感じずに済んでいる人は、「日本語で書かれた文章である以上、自分にとって読みやすいのは当たり前だ」と思ってしまいがちなのでしょう。だから、「日本語」で書かれているにも関わらず、「日本語」の「普通」の読み手である自分たちにとって「読みやすさ」の点で配慮されていないと感じられる文章には苛立たずにはいられない。

繰り返しになりますが、そうして苛ついたときに、屈託なくただ「読みにくい」とはばかりなく言ってのけることができるのは、多数者としての権威を笠に着ることによってです。そのことに私が気付くことができたのは、はてなブックマーカーの皆様方から「読みにくい」というコメントを度々もらったおかげです。私自身別の場面では、同じように多数者の権威権力を笠に着た物言いを無自覚なまましているのかもしれません。

次に引用するのは、コーリィー・フォードという人が1949年に書いたコラムです*5。あえて、かな書きに直して引用します。

 このごろ建物階段は、昔より勾配がきつくなったように思う。蹴込みが高くなったのか、段数が多いのか、何かそんなことに違いない。

 たぶん、一階から二階までの距離が年々伸びているせいだろう。そういえば、階段を二段ずつ上るのもめっきり難しくなった。いまでは一段 ずつ上るのが精一杯だ。

 もうひとつ気になるのは、近頃の活字の細かさである。両手で新聞を広げると、新聞がぐんぐん遠くへ離れていくので、目をすがめて読まねばならない。

 つい先日、公衆電話の料金箱の上に書いてある番号を読もうと後ずさりしているうちに、気がついたら、ボックスから体が半分外にはみ出していた。この歳でメガネなんて考えるだけで馬鹿馬鹿しいが、とにかく新聞ニュースを知りたくても、誰かに読んで聞かせてもらうしかなくて、それではどうも物足りない。最近の傾向なのか、みんながひどく小声でしゃべるので、よく聞き取れないのだ。

 何もかもが昔より遠くなった。私の家から駅までの距離も倍ぐらいに増えたし、これまでになかった丘が中間にできたようだ。……

(訳者注:原文ではかな書きで引用されている)

見ての通り、この文章はは、耳が遠くなり、また足が弱くなった年寄りの、いわば「自己中心的な」視点から書かれたジョークです。これが滑稽に感じられ、ジョークとして受け取られるのは、普通年寄り自己中心的な視点から物を言うことが許されていないからです。

文字を読むのに苦労するのは「活字が細かすぎるから」ではなく、彼・彼女が「年を取って老眼になったから」とされる。また、話し声を聞き取るのに苦労するのは「みんながひどく小声でしゃべるから」ではなく、本人が「年を取って耳が遠くなったから」と される。

だから、普通年寄りは遠慮がちに「私にとっては新聞の文字は細かすぎて読めない」と言わざるを得ない。

同じことは文章の表記についてもいえるはずです。漢字かな混じり文に慣れた多数者は、自分たちが多数者であるからこそ、自信たっぷりに大声で「この文章は読みにくい」と言える。しかし、その一方で漢字かな混じりの文が読めない、あるいは読みにくい人が、大声ではばかりなくただ「読みにくい」と言うのは難しいでしょう。彼ら・彼女らは遠慮がちに「私は読めない/読みにくい」という言い方をするか、あるいは遠慮して「読めない/読みにくい」ということを言わないか、どちらか でしょう。

そうやって彼ら・彼女らに遠慮を強いているのは誰か? それは漢字かな混じり文だけが「まとも」な「日本語」だという常識を作り上げてきた私たち多数者でしょう。

石川准さんの言葉を借りると、多数者は、自分が「配慮されている」ことを都合良く忘れる一方で、少数者への配慮を「特別な配慮」とみなしがちです。石川さんの文章を、今度はかな書きでは読みにくいという一部の人たちに「特別に配慮」して、元の文章のまま引用します。

 もっとわかりやすく言い直すために「配慮の平等」について説明する。

 多くの人は「健常者は配慮を必要としない人、障害者は特別な配慮を必要とする人」と考えている。しかし、「健常者は配慮されている人、障害者は配慮されていない人」というようには言えないだろうか。

 たとえば、駅の階段エレベーターを比較してみる。階段は当然あるべきものであるのに対して、一般にはエレベーター車椅子の人や足の悪い人のための特別な配慮と思われている。だが階段がなければ誰も上の階には上がれない。とすれば、エレベーターを配慮と呼ぶなら階段も配慮と呼ばなければならないし、階段を当然あるべきものとするならばエレベータも当然あるべきものとしなければフェアではない。実際、高層ビルではエレベータはだれにとっても必須であり、あるのが当たり前のものである。それを特別な配慮と思う人はだれひとりいない。と同時に、停電かなにかでエレベータの止まった高層ビルの上層階に取り残された人はだれしも一瞬にして移動障害者となる*6。

あえてかな書きで文章を書くことが漢字の読めない人への「特別な配慮」だとするなら、漢字かな混じりで文章を書くことも、そのほうが「読みやすい」という人への 「特別な配慮」といわなければなりません。反対に、漢字かな混じりで文章を書くことが読み手にとっての「当たり前の配慮」だと考えるならば、漢字の読み書きに困難を抱える人に配慮するのも「当たり前の配慮」です。

要するに私が言いたいのは、漢字の読み書きができるからといって偉そうにするんじゃないよ、ということです。

その上で、この文章を読まれている方に、かな書きで書くことをおすすめしたいと思います。

私は前の記事で次のように書きました。

 さて、明らかに不合理でくだらないということが分かりきったルールを守るということは、権力に屈服するということです。権力に屈服するということは、おそらく多くの人にとってみじめなものでしょう。そうしたみじめさを感じずに生きて行きたいものですね。そして、権力と戦わずにみじめさから逃れるためには、自分権力に屈服しているという事実、不合理なルールに従っているという事実を忘れなければなりません。つまり、実際は不合理なルールに従っているにも関わらず、そのルールが「合理的な理由がある」ものだと思い込めば良いわけです。

これは別の文脈で述べたことですが、実は書いているときに漢字の問題なども念頭に置いていました。

漢字の読み書きにあまり不自由しなくなった人は、そのためにおびただしい時間と手間をかけてきたはずです。また、「あまり不自由しなくなった」とはいっても、それでも実際のところ結構不自由しているでしょ?手書きで文字を書くときに漢字の書き方を思い出せなかったり、パソコンで書くときだって同音異義語があるときにどの文字に変換すべきか分からなかったり。難しい漢字や熟語が使われている文章は、読むのだって大変だし。こうして漢字のせいで余計に辞書を引く手間がかかる。漢字を知らないと恥ずかしいと思わせられたりもする。

そうやってこれまで苦労してきたし、今も日々苦労しているから、その自分の苦労を否定したくないという気持ちになるのは、ある意味自然なことではあります。自分の苦労に「意味がある」と思うために、漢字を使うことに「合理的な理由がある」思い込もうとする気持ちもわからないではありません。

id:chakimar 漢字って素晴らしい。それに気づかせてくれたすばらしい日記

id:te2u こういう発想はなかったな。守って当然と思っていた。/このエントリをみて、漢字が出来てよかったしみじみ思う。

id:qp365 日本語はひらがなとカタカナだけじゃ駄目なことが良く分かる。悪いけど面倒で全部読めなかった

id:zeri やっぱ漢字があると読みやすさが全然違う んだなあと再確認

ところが残念なことに、というか幸いなことに、漢字を使わなければならないという合理的な理由はたぶん存在しません。

たとえば、「日本語同音異義語がたくさんあるから、かな書きでは意味が通らない文章になる」ということを言う人がいます。

しかし、これは物事の順序を取り違えた議論で、「漢字を使うから、同音異義語がたくさんできてしまうのだ」というべきだし、同音異義語を避ける工夫をすれば良いことでしょう。そもそも、同音異義語はどんな言語でもあるのだし、多少それがあっても、文脈で判断できるように書き方を工夫することは簡単です。

実際、話し言葉では、そうやって文脈から判断できる範囲で同音異義語を使ったり、また文脈から分かりずらい同音異義語の使用を避けたりといった工夫はなされているわけです。もちろん、話し言葉では、イントネーションを始めとしてかな書きでは書き表せない情報を含んでいるので、単純には比較できないのですけれども。しかし、わかりにくい同音異義語が多すぎるのが問題だというのなら、新しい言葉を少しずつ作っていけば良いだけの話です。

他によくある誤解はは、漢字表意文字なのでビジュアル的に把握しやすいというものです。たとえば、次のようなコメントもそうした誤解に基づいているのでしょう。

id:koisuru_otouto 漢字って絵文字と同じだから "かな"だけの文章を読み解き辛いのは自分もだしわかるんだけど

ちょっと考えればわかることですが、漢字がかなやアルファベットと比べて特別にわかりやすいということはありません。「漢字は一目でその意味を把握しやすい」と言う人は多いですが、そういう人はアルファベットだったらどうなのかということを少し考えてみると良いでしょう。アルファベットだって同じなのです。

英語を読むのに慣れた人は、たとえば "guitar"という文字の連なりを見たときに、一目でその意味を把握しているでしょう。一方、"kltjautr"といった文字の連なり――これは いま私がでたらめにキーボードを打って作った文字列です――を見ても、ひとまとまりの物と認識することはできないはずです。

つまり、漢字を読むのに慣れた人が、たとえば「雪」という漢字や「弦楽器」といった熟語の意味を一目で把握できるのも、それとまったく同じことであって、単に「見慣れているから」に過ぎません。アルファベットであれ、ひらがなであれ、文字を読むのに適応しやすい体をもった人にとっては、見慣れた単語や連語を、文字単位ではなく、ひとまとまりの語句として認識することは簡単なはずです。

要はちょっとした「慣れ」の問題であって、「漢字そのものの特徴ゆえに、漢字で書かれた文章は読みやすい」という俗説は全くの誤りです。「漢字で書かれた文章は読みやすい」と感じるとしたら、それは単にあなたがそれに「慣れているから」に過ぎません。

(続き)

2009-11-28

ああ。第三の自分

「第三の目」なんていう言葉があります。

二つの目で見れないものを見る、感じる、そんなときに使われる言葉です。

僕の「第三の自分」ってのは、「自分を客観視してる自分」という意味です。

第二の自分でもいいんですw

いずれにしろ、僕の隣にはもう一人の僕がいます。

多分、「もう一人」のほうがホントの自分なのかもしれない。

何かをやってるとき、それを客観視してる自分がいる感覚

「あ、今俺まずい空気にした。。」

「オレ、作り笑いだw」

上みたいな経験をしたことある人は少なからずいるはず。

ま、それです。

たんぱくにそう感じるだけならいいんですけど、僕の場合、そいつが足を引っ張ることがあるんです。

ケース1:号泣

あるとき、泊まり込みでプログラム書いてることがありました。

その時期は学校レポート週に9本提出とか、過酷なときで、でもプログラムもさっさとつくらなきゃいけない雰囲気で

さらに、サークル研究と発表もあって、メンタル的にもキツキツセカセカでした。

レポは友人頼みで知識もつかず、もちろん成績にも響きました。

それでも、早く作れよ。学校なんかいってる場合じゃねえだろ。

学校なんて意味ねえだろ。

てなこと言われ、言い返しきれず、かちゃかちゃやってました。

そんなことが2週間くらい続き、あることがキッカケで爆発しました。

ちょっと暴れたあと、先輩が励ましてくれました。

それで号泣しました。久しぶりに号泣しました。

でも、僕のとなりには第三の自分がいます。

冷静に自分を見ています。

あんなにつらくて、爆発していた感情でさえ、ピタッととめることは可能でした。

それでも行動する自分は半ば演技に近いな、と感じました。

第三の自分の存在が、行動する自分自己欺瞞的だと感じさせてきました。

ケース2:焦燥

これは端的。

ミーティングで発言数が少ないと、「周りに微妙な奴だと思われていないかな?」

なんて思っちゃいます。

すると、焦っちゃって変な発言になったり、話を理解できなかったり、、

悪循環に陥ります。

いずれのケースにおいてもいえることは、

集中力を欠いてしまうことが結構問題だな、と思います。

自分が今、こんなことして、周りがこんな風に思ってることが気になり、

周りを意識して行動しようとするのは、対症療法的で、本質的な行動にはなっていないのです。

無論、自分ポジション意識するのは大事かもしれないけど、

それと周りの人からの評価を気にすることは別だと思います。

自己中心的なのかどうかってことです。

一つのことにガーッと集中してうちこんじゃうような人になりたい。

考えることもそう。雑念が入るとヌルイ思考でとどまります。

文章かくのもそう。

このハチャメチャな文章を書いてる僕はテレビ見ながらだし。

そもそもきれいな文章を書こうとはしていないし。

さて、今日ブログアウトプットすることをはじめよう!

と思い立って記事を書いてみただけ。

これをだれがよんで誰がどう評価するか知らないけど、

読んだ人には申し訳ないな。

数年後、自分で読んだらどう思うんだろうか。

練習でした。

おやすみなさい。

2009-10-28

http://anond.hatelabo.jp/20091027234852

じつは肉体関係そのものを汚い不潔なものだと思ってるんじゃないのかね。

2chなんかだと、結婚してる妊婦に関する記事で「妊婦って『自分中出しセックスしました』ってアピールしてるわけだろ?」とかの書き込みも出てくるので、そう言う人も少なからずいると思う。そういう人は肉体関係そのものに嫌悪を抱いているんだろうと考えれば理解できる。

女性貞操観念を求める男性は

自らも純潔を守る信念の持ち主なんだろうな。

これは俺も思考が理解できないが。『”いわゆる純愛エロゲー”が好きな処女厨』というのが存在する。

(「下級生2 たまき」でググってみればよく分かる)

純愛エロゲだと、告白したその勢いで、とか数日後に体の関係持ったりするわけで、

そういうエロゲが好きな連中が「ヒロイン処女じゃないのはけしからん」と言うのはどうにも納得がいかない。

『男女問わず、初めて体を重ねた相手と添い遂げるべき』という思考の持ち主なのか、

もしくは単に『俺以外の男に股を開いたことがあるのはけしからん』という自己中心的な人物なのか?

2009-10-24

http://anond.hatelabo.jp/20091024003516

自分のことばっか考えてるのは親の方だろ。子供の立場なんて完全に無視だろ。子供に「僕は何で産まれたの?」って訊かれたら、ごまかさずに「私が利用するためだよ」って答えられるか?

あと年金なんてのは人工的に作られたねずみ講システムだぞ。老後の備えは貯金で十分だろ。未来人間は発言権が無いのをいいことに、都合のいいルール勝手に作ったんだよ。暴力装置を背景にな。「お前の年金誰が払うんだ」って、発言の意味分かってるか?それは「奴隷がいなくなったらどうするんだ」という極めて自己中心的な考え方だぞ。そんな事にも気付かない鈍感な人間があまりに多すぎるんだよ。

何もわかって無い人間は俺か、あんたらか、一体どちらかよく考えろ。

そして何度も言うが、ごまかすな。

2009-10-22

http://anond.hatelabo.jp/20091022141906

自己中心的理想像があるんだろうな。結婚式に。

結婚式だけ特別だってんならまだマシだけど、そこでそれだけ拘るような性格だと、何事も似たようなノリなんじゃないかなあ。

そこんとこはわかんないけど。

突き放すような言い方して申し訳ないけど、俺なら結婚したくないタイプ女性かなという気がする。

2009-09-14

どうすればいいんだ。

理解できないタイプ人間が気持ち悪い。

リアルタイムで流れてくるチャット吐き気がする。

でも俺はそれを理解しようとは思わない。

ただ「こいつらがいなくなればどんなに快適か」と思う。

嫌いな奴にはオーラ全開で威嚇する

それに気づいて俺のことを嫌ってくれたならそれでいい

むしろそれに気づいたお前は比較的「空気が読める」ってヤツだ。よかったな。

でも俺はその後も嫌味たっぷりに絡むよ

お前がもっと俺のこと嫌いになるようにな!

ダメな奴は、ネット愚痴ったって絶対伝わらないから直接言うしかない。

でも直接言ったらやれDQNだのやれ自重しろだの言うんだろ?

世の中どうなってんだよ!

面と向かって「おめーは空気読めてねぇ」って言える覚悟がないなら

どんなに正しくて、どんなに偉そうなこと言っても戯言の領域を超えないんだ

それができねぇならずっとネット愚痴ってればいい。匿名で。

名前出したらそれは「愚痴」じゃなくて「宣戦布告」だからな。

俺が自己中心的なのは知ってる

我慢できない、動かない、能力もないのも知ってる

だから口八丁だけで生きてくしかない。

この歳になって気がついた。

それでも一緒にいてくれる人がいるっていうのは、どんなに幸せか。

「おまえは間違ってる」と言ってくれる人がどんなに少ないことか。

歳をとればとるほどに。

「おまえがおかしい」「キチガイだ」「死ね」と言ってくれる人が減っていく

早いうちに治さなければならなかったことも、気づかないまま歳を取る。

10代で気づかなかったことは、20、30、40、50。ずっと治らずに死んでいく。

俺はそんなの嫌だから。

クソみたいに周りに当たり散らして、俺にも帰ってくるようにすれば

俺のクソみたいな性格も治るだろ?

だから俺はギャーギャー言ってんだよ。

クソッタレ

「ありがとう」って言える人間になるにはどうすればいいんだよ。

2009-09-13

http://anond.hatelabo.jp/20090913165922

  • 変化する事を極度に毛嫌いする。
  • 一般的なマナー違反を指摘すると「うるさい」の一言で行動を正さない。
  • 基本的に自己中心的、その為何か提案しても「おめぇ自己中だ」の一言。
  • 何も考えていない。それ故いい歳した大人が行き当たりばったりの行動。
  • 筋を通した正論に対し「てめぇとは何もかも合わない」と逆切れ

とある没落都市出身者の悪い部分一例。こんな正確のヤツばかりだから県内随一の栄えた都市が、今や貧困に悩み周囲(の都市)から毛嫌いされる没落都市になった・・・。

単純な価値観の違いかも知れないが、残念ながら両親と知人の一部がこれに当てはまり、何か問題点を指摘する毎に「生意気な」「オマエとはソリが合わない」と顰蹙を買っている。

ボロ糞に批判を受け、私の認識が間違ってるのか、私が傲慢なのか、もう良く分からなくなってきてる・・・。

・・・不況の影響で仕事を辞め実家に戻った為、特に両親からの非常識な行動(一例としては俗に言うクチャラー)を日々耐えて、今までに無いストレスを感じて日々を過ごしている。

また、知人からは親しき仲だったにも関わらず上京して働き出してから「よそ者」扱いするようになり、新しい文化・情報を発信する悪しき存在と扱われているようだ・・・。

もう色々と嫌だ。実家暮らしだと生活費を抑えられ気楽に暮らせるものと思ったが、思わぬところに問題が潜んでいた・・・。

仕事を見つけて、早くまた一人暮しに戻って両親・没落都市の知人との関係を切りたいorz

2009-09-12

誰かを選ぶということは他のすべてを棄てること

恋人を作るということはその一人以外の人をすべて棄てるということである。

浮気は悪だという道徳は裏を返せば、伴侶以外のすべての人を拒絶しなければいけないということである。

貞操観念とは実は非常に自己中心的で身勝手論理である。

自分たちだけ幸福になるために、他のすべての人たちを差別しようという号令に他ならない。

売春不倫、不道徳だとされている恋愛によってしか救済されない人々も多数いるのである。

なぜ売春が蔑まれるか、

他に愛されないもの同士、愛し合っていないもの同士、

最も不幸な形態恋愛だからである。

しかし最低限のセーフティネットとして機能していることも事実であり、

救済されている人は多いのである。

純潔や清廉とは言いかえれば排他性・自己中心性・差別性なのである。

2009-09-07

とある人物とTwitterでFollower同士で、

最初はそいつのことをどうとも思ってなかったんだけど、postの内容からそいつはどうもネトウヨらしいってことがわかる。

(ただ本人は自分ネトウヨとは違う!って思ってそうだが)

気になりだしたのはそいつがTwitterでもフォローし合ってるリアル友人と喧嘩したころから。

なんていうか、かなりの自己中心的な奴だなーと言う感想

(その件は大方リアル友人が悪いんだけど、一方的に罵倒するのはどうなのかなと)


ネトウヨっぷりがどんどん強くなって行ったのは北朝鮮ミサイル打ったあたり。

それからpost内容がかなりの保守思考に走っていった。

正直見ていてきもいし、変な信者もいるみたいだった。


まあどうでもいいことと言えばいいんだけど、なんか自分の考えてることがすべてだ!と本気で思っていてなんか怖い

気にしなければいいんだけど、ネトウヨってこんな奴らばっかりなのかな?

だとすれば、ネトウヨって社会に出てない奴らばっかりなんだろうか?

そいつは自衛隊に行きたいらしい。でもこんな性格でやってけるのかな?

2009-09-01

http://anond.hatelabo.jp/20090829225031

相手のために何かして「あげた」時、相手がそれを感謝するのは、その行為が相手にとって労力を必要とすることだからだよな

オタクにとってアニメを見る行為は息を吸うのと一緒。そんなことしても感謝されるはずがない

もし相手の興味を引きたかったなら、自分が面白いと思うもの以外は数話で捨てて、残ったものだけを見てその感想を話し合えればよかったと思うよ。

  

しかし、自分にとってはなんでもないことが他人にとっては労苦を伴うということに理解のない、自己中心的精神はそれはそれで問題なんだけどね

2009-08-20

処女厨問題

以下は完全なステレオタイプであるが、気をつけなければ簡単に定着してしまう。

2009-08-14

加筆+2

http://anond.hatelabo.jp/20090814131804

布団にくるまって腐ってた所を友人に怒られてようやく少し目が覚めた。

色々言われたけどブックマークにも指摘があった自己中心的というか自己愛的な部分があると言われた。

それが無自覚であるのが始末に負えないね…気持ち悪い。

後は自虐止めろって。自分でだめって言ってたらだめなままだし、非モテって言ったら非モテなままだって。

これは長年の思考の癖がなせる物なので完治するのは非常に難しいけどどうにかしよう。

このままで終わりたくないし。

この一連の文章は「私」が特定されたせいもあって関係者にも知れ渡ったはず。好きな人本人も見たんじゃないかな。

なおさら嫌われたと思うけど、これは書いてしまった私の罪だし弁解のしようもない。

消さずに晒し上げておくから好きなだけ嘲笑してください。人に狂ったこんなアホが居たって。

今回はこんな結末で終わってしまったけど、この経験は何処かで生きていて欲しいと思う。

次なんて無いんだろうけど・・・。

>好きな人が別の人と付き合っちゃったら即おしまいって考えるのはなんで?上手く行かなくて別れる事もあるだろうに

別れること期待とか反則ですよ。しあわせになって欲しいじゃないですか。別の人が相手でも。好きな人ならなおさらそう思う。

>そいつオレのFriendsにいるわw

どうみても決定的な情報です。本当にありがとうございました

言い回しは長年の癖。多分治らない

漢字変換はATOKさんに聞いて

あぁ、明日明後日コミケに行きます。

やっぱり欲望には勝てません。

2009-07-31

http://anond.hatelabo.jp/20090730235954

個人的なイメージだが、オバサンと、必ずしも美人とはいえない若い女性は、被害者意識が強すぎると思う。

また、この女性のように自己中心的なところも多々見受けられる。

若い美人が同じことをしても同じように見えないだけですよ。

2009-07-24

なんでそんなに童貞が恥ずかしいのか分からない。人間最初は童貞だし。

学生のうちに将来や相手の人生の事も考えないで、好奇心と性欲に駆られてセックスする事をすばらしいとは思わない。

セックス自己責任が取れる社会人になるまでは、分不相応な行為だと思う。と昔から考えてた。

社会人になったらなったで、自己中心的な目線が広がって、相手の家族やその背景とか、

自分自身の家族の気持ちとかが分かるようになってきたから、やっぱり軽率な事は出来ないな。って考えるようになった。

結婚する気はないけど好きだからセックスする

なんてのは相手を安く買い叩いてるし、自分も安売りしてる行為だと思う。

大人になって、真剣に相手を選んで交際していれば、童貞を捨てる年齢はそんなに若くはないと思う。

と思ったけどそれでも童貞捨てられない人がいるからなのかな

ふふふ

2009-07-10

理解できない

自分意見の違う他人に対して「理解できない」ということについて。

A「理解できない、もっと説明してほしい」という訴えの場合。

B「自分には理解ができないからこれで終わりましょう」という場合。

C「あなたは私が理解できないことを言っているので良くない」という場合。

「理解できない!」は往々にして罵倒ニュアンスになっているけれども、

アンタがわからないだけだろ、何が問題なんだ。

Cはむしろそこで理解する努力を放棄しているように見える。

もしくはひどく自己中心的な考え方か。

2009-07-07

THE END OF EVANGELION」の感想集 2

http://anond.hatelabo.jp/20090707100038 の続き

 弐拾六話では全ての人とあっさり和解でき、すんなり受け入れられた。
しかし世の中そんなに甘くないというか、実はそれこそが自己中心的世界
と言える。もっとリアルに描いてみよう、というのが26話ではないかと。

 何故なら「本質的に解り合うことのできない他者が存在する」というこ
と、他者を認識するとはそもそもそうしたことである筈だったから。庵野
氏の構図で言う幻想世界の内部において、シンジはどうしてもそのことを
容認できず、他者を理解できないまま、自分を理解するよう他者に縋り続
けた。補完計画が完成し、群体から単体に還元され、全てを包含レイに
抱擁された時点で、彼はやっとそのことに気付いた。
 ラストアスカを殺そうとしたのは、アスカが正に他者であることを、
彼が遂に知ってしまったから。でも結局殺せないし、前のようにエヴァの
胎内に逃げることもできない。そこは既に第弐拾六話の月面と同様に、後
戻りの聞かない場所、補完が導いた現実世界。・・・

 なんと、エヴァと融合し全てのヒトを包含した神が、人一人殺せず、孤
独に耐えかねて泣いているんです。
 私はここに最高のユーモアカタルシスを感じました。こんなに見事な
ラストは、これまで観たことも読んだことも恐らく無かったです。(^-^)
宮村優子さんのラジオ発言とか最近目にするようになった彼女の雑誌のコメント
を見ると、宮村さんは今回の劇場版をお気に召さなかったのかなとも思います。
自分でも「なかなかのモノが出来た、俺の選択って凄いぜ。フフン」と庵野監督
が思ってたのに、いざ、脚本を渡したら宮村嬢からの冷たい反応。それにショッ
クを受けてああいったラストにしたのかな(^^;?
無責任な憶測ですけど
 あのラストシーンは,シンジが選んだこの世界が決して「気持ちのいい世
界」ではないことを辛辣に描いていました。しかし同時に,そこには絶望だけ
でなく,わずかな希望もあることをも示していたと思います。


 希望アスカの手,シンジの涙。 
                  そして,『会いたい』という気持ち。
 ラストシーン絶望的。シンジはほんの少しだけ変わった。もうひとり、ほ
んの少しだけ変わったひとがいるみたい。でも、その「ほんの少し」への一歩
のなんて遠いこと。2人は、まだ変わっていないみたいに見える。だけど、絶
望は希望の裏返し。これからどうするか、それは、私たちに委ねられたのかも
しれない。
  ひとつだけ考えられるのは、シンジ物理世界に戻ろうと決意したのをアスカ
  も知っていて、そんなシンジとだったら一緒にいても良いかな、って思ったの
  かも知れない。
  でも、砂浜で再び自分の首を絞めてる彼を観て「ああ…やっぱり何も変わって
  ないんだな…」と思っちゃったとか。
 寂しいことを言ってしまえば、アスカにとって、自分のために泣いてくれた人
を身近で感じたのは初めての体験だったのかもしれません。初めてで慣れてない
から、「気持ち悪い」のかも。
庵野監督は最後までアスカの扱いに困ってしまったようですね。その苦悩がラス
トシーンにも出てしまったのでしょうか。「おまえがいるから滅茶苦茶になっち
ゃったんだ~!」ってね。でもその存在を消せない(笑)
 嫌悪も一つのコミュニケーション。心の壁は現実そのもの。
 そして、今までと同じ、自我と、人を代表とする非我との戦いがつづく。
 何度もそれを確認しながら、幸せにも不幸にもなれるラストだったと思います。

 ラストシーンアスカ。第1話のレイと同じ場所に包帯を巻き、首を絞められな
がらもシンジの頬をなでる。
 これって、つまりアスカの中の“母性”を表してるのかな、と思いました。綾波
レイは「母」のメタファーそのものと言っていいでしょう。そして、シンジの側に
横たわっているアスカレイと同じ姿であることは、彼女もやはりシンジを優しく
包み込む“母性”を内に秘めていることを意味しているように思えます。その後の、
シンジの頬に触れる行為も。

 しかし、彼女最後の言葉は「気持ち悪い」。シンジを拒絶する言葉です。これ
は“14歳の女の子”として、「私はあんたの母親になる気なんて、今のところ、
さらさら無いわよ」と言ってるんじゃないでしょうか。「あんたが何を求めてるの
か分かんないけど、受け止めてあげる気なんてないわよ。余裕もないしね」と。ま
あ、あのシンジ-自分を傷つけるかもしれない他人を殺すこともできないで、ただ
しゃくりあげている-を受け止めることなど、14歳の少女に過ぎない、もちろん
自身それなりに問題を抱えているアスカに、できるわけないでしょう。たとえ“母
性”を持っているにしても。むしろ、一方的に求める方が酷です。(さらに、相変
わらず求めるだけっていうのも、また問題だ)。

 しかし、将来的には彼らがどう成長し、変化するかは分かりません。そういう意
味では、もう多くの方が感想に書いてますが、「これから」を感じさせてくれるラ
ストシーンではありました。もう語られることのない物語の続きの中で、彼らは彼
らなりに成長していくのでしょう。
不快感(=気持ち悪い)」というのは、赤ん坊が最初に感じる感覚だということを聞いた
記憶があります(←記憶あやふや)。そうでなくとも、「気持ちがよくない」という感
覚は、まぁ、「夢」だとか「望んだ世界」ではなく、「現実」を示唆しているのかな、
とも深読みしましたが・・・深読みしすぎかな?
 シンジアスカは、それこそお互い誰でもよかったんだと思います。憎む相手も
愛する相手も。でも、自分を互いに真正面からぶつけ合った過去が、二人には出来
てしまった。互いに、相手に対する憎しみも、相手が欲しいという気持ちも、相手
を拒絶する言葉も告げてしまうほど、互いの気持ちを相手にぶつけた。そして、そ
の憎しみも欲求も、おそらく今後の彼ら自身の心を強く拘束していくでしょう。
 ラストシーンで、くびを絞め、瞳を動かし、頬をなぜ、涙を流し、気持ち悪いと
つぶやいた二人は、それこそ、愛よりも深い、憎しみもかなわない、たとえ離れて
も、ひととき忘れても、もう互いの心の一部そのものにまで結びついたように見え
ました。

 One more final:   I need you.
 
 もう一つの終局もすべてのおしまいではありません。英語のタイトルは『私はあ
なたが必要である』でした。
 そして、皆に等しく、同じ戦いが、始まり、続きます。
 でも生きてさえいれば、幸せになるチャンスはどこにだってあります。だって生
きてるんですから。

 愛よりも深く。
 夏の映画は誰も他人を受けいれられなかった二人が、とにかくも深く結びついて、
そこから再び、同じ戦いが始まる、終局であっても、何も解決していない、ラスト
でした。
シンジ内面に問いかける声も、もはや静かなレイの後ろ姿ではなく、アスカの
赤裸々な罵倒へと変化しました。「お願いですから、もう電話してこないで下さ
い。」「よりを戻すつもりは更々ないの。」「その、やっぱり、友達以上に思え
ないの。」「ハッキリ云って迷惑なの。」「これ以上付きまとわないで下さい。」
これらのセリフ作品の展開からは伺うことができない以上、庵野監督自身の人
生から引用してきたものと解釈されます(もちろん脚色を加えているでしょうけ
れど)。つまり、劇場版におけるアスカは、これまで庵野監督を傷つけてきた
「5人の女性」のような「他者」を象徴する役割を与えられるようになったのだ
というのが僕の理解です。
 そうすれば、ラストシンジアスカの首を絞めかけたり、アスカがその後で
「気持ち悪い」と言ったりする寒々しい展開も、すんなりと納得できるのです。
現実の他者は、お互い決して期待通りの反応をしてくれない存在ですから。
 オタク依存を打破するために作ったアニメが、逆にオタク依存の代表になっ
 てしまった苦い皮肉。昨日某アニメショップで見かけた会話。

 「これ買えば」(とシンジ君が表紙のアニメディアニュータイプを指さす少女)
 「えーいゃぁー」(と汚いものでも見るかのように嫌悪する少女B)

 彼女らの心の中にはカヲル君しかいないらしい。作品全体のテーマを見ようとせ
 ず、自分のお気に入りのパーツを使って幻想エヴァを作り上げて固執する。虚
 構からも逃げ続けている。自分以外のエヴァはいらないのだ。そして、そのこと
 を指摘されると過剰に反応し激怒する。「ぱふ」の一部読者はひどいものだ。無
 論、綾波アスカの一部ファンにも言える。
 そういう意味で、庵野さんが「気持ち悪い」と言わざるを得なかったのは良く分
 かる。だから実写を入れてこれでもかこれでもかというぐらいに観客に語りかけ
 た。でもそれは届かない。最も病んでいる人間、庵野さんが最も一言言いたい人
 間は嫌悪する現実ファンタジーに変えて消し去ってしまうのだ。
シンジくんの首締めはちょっと??な気もしましたが
アスカシンジの頬を撫でて「気持ち悪い」は、
頬を撫でるシーン拒否、否定の感情からではなかったと思ったので
集合体としての生命の海から浮上して「こ」の世界の「ここ」にいる
「こ」の自分を認識し他の存在シンジ認識し
「気持ち悪い」ことも沢山あるけど「ここ」に自分と他人が存在
することを知覚認識して噛みしめていると感じました。

いやぁすっかりアスカが主役でしたね。
ここまでアスカ映画になってくれるとは
嬉しい誤算でしたってのはアスカ者の偏見でしょうが。

      とでも思わなきゃやってらんないよなぁ。
かくして、シンちゃんはアスカちゃんのドレイとなり、
一生、幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。
                                                       <終劇>
       自分は性的嫌悪感からくる言葉だと思ってるんですけどネ。
       DEATHの新作カットの「ミサトやバカシンジの使ったお
       湯なんて~」の頃には、もうシンジ君が自分の事を性的対象
       して見てる事に気づいていたのでは?このぐらいのお年頃の
       と女性ってそういうのたまらなく嫌だと思うのですがどうで
       しょう?
シンジアスカを殺そうとするが思い止まる。アスカに優しい言葉を期待する
"ファン=シンジ"だが"虚構=アスカ"は"気持ち悪い"と突き放す。

そういうことか?ヒゲメガネよ。
それと映画アスカシンジを否定したのは
(自分の勝手解釈ですが・・)
「シンジアスカの事を、好きで求めているのではないのを、
アスカは気付いていた。なので、コーヒーメーカーに激突させ、
最後に’気持ち悪い’とまで言った」
好きで求めていない、というのは、恋愛感情のみ、でなく、
シンジは弱い自分を何とか持ちこたえさせる拠り所に「強く
見えるアスカ」にすがっていたふうに見えたからです。
アスカにしてみればそんなおかんのような役、あまり嬉しく
ない気が・・・。
 また、最後の台詞「気持チワルイ・・・」ですが、ラストシーンでのアスカ
の様子を見てみると、腕と頭部と目に包帯およびガーゼが当てられており、
これは第壱話においてストレッチャーに乗せられてシンジ君の前に初登場
した綾波レイそっくりの状態で、加えてあの目線から察するに、アスカの
中には、彼女自身の魂や人格に加えて、レイの魂が入り込んでいるのだと
私は感じました。

 いわば、アスカとしてはトラウマを刺激するモノとして忌み嫌っていた
レイの魂が自分の内面において(シンジへの想い故に)融合しつつある
ことについて現在のところ「ケンカカレー」(歳バレ?)の状態にある、
ということで「気持チワルイ・・・」という言葉に繋がったのだと私は考えた
のですが、みなさんはどう思いますか。
あのラストシーンは実はハッピーエンドである。
あの砂浜のシーンは補完直後のシーンではない。
実はその前にシンジアスカを見つけ、傷の手当をし、ミサトの墓を作ると
いう一連のシーンがあったのである。
しかしアスカは何も話さない、何も反応しない病室アスカの状態に戻ってし
まっていた。(偽りの復活)
そんなアスカを不憫におもったシンジは思い余った挙げ句、彼女の首に手を
のばす。
しかしその時、今まで何も反応しなかったアスカの腕が動き、シンジの頬を
撫ぜる。
嬉しさのあまり、涙を落とすシンジ。
更にアスカは言う。
「(あんたバカー、何泣いているのよ)気持ち悪い(わねえ)」

そうあのシーンは「クララが歩いた」パターン感動的なラストシーンなの
である。
しかし観客の期待を裏切る事ばかりを要求された監督は素直に感動的なシー
ンを作る事ができずにあのような解りにくい形にしてしまったのである。
だが安心したまえ、ビデオ・LD収録時には完全版として失われたカット台詞が収録され、誰の目にもハッピーエンドである事が解るに違いない。
(笑)
シンジ監督アスカ・観客に置き換えると、あのラストシーンは
また違った見方が出来ますね。
現実から遊離してしまっている観客を不憫に思った監督真心アスカが無反応だったら悲惨ですね。
それより、もし「気持ちいい」と言われたらどーする(笑)
 シンジ・観客、 アスカ監督ではどうでしょうか?

 シンジ「わーん。こんなEVAはいらないよぉ~。
     謎もあまり解明されてないし~
     そこで気絶してないで、もう一回EVA作り直してよ~」
 アスカ「(まだやれっての?)気持ち悪い....」
1:呼吸困難になった為の気持ち悪い
  えー、シンちゃんに首をギュッとね!(爆)された惣流ちゃんですけど意識
  の無い状態で首を思いっきり絞められては血のめぐりも悪くなり気分が悪く
  なったという、低血圧で良く立ち眩みしてる女の子意見がありました(苦笑)
2:あのセリフみやむーちゃんのアドリブ説
  庵野監督に捧げるアドリブ説(黒い説ですわねぇ(苦笑))という人若干名
3:怪我のために気分が悪い説
  右手の謎の治療跡で判ると思いますが怪我してる場合気分が悪くなるもんです
  (経験者談)
4:2日目説
  ・・・・・・(^^;)・・・・・・
5:観劇してる人へのメッセージ説
  ・・・・・・
 「きもちわるい」。
 他人の体温が気持ち悪いことって、ないですか?
 でも、その嫌悪感を、人は「愛情」で中和させる。
 けれどそれは「無理をしている」のかもしれない。
 本当は、人なんて、生まれてこない方が良かったのかもしれない。

 だけれど、生きている。
 それでも、生きている。
 生きていなければならない。
 
 決して理解できない「他人」の隣で、それでも「一人ではなく」生きている。
 エヴァみたいな「黙示録もの」のラストって、和解・融合、善悪何れかによ
る統一、純粋な荒廃、・・・みたいな一元的な世界の出現で終わるのが相場じゃ
ないですか。これは魅力的だけど、弱点があります。つまり、解り難いんです。
 具体的にどんな世界になるのかが想像できない。私達の周りにあるのは、一
元的把握が通用しない、それこそ「他者」が存在する世界です。争いの無い平
和な世界、とあっさり書くことはできるけれども、そこがどんなところなのか、
人或いは人々が何を考えて生きるのか、よく考えると理解できない。
 放映版の受け入れ難さって、ラストのそういう典型的ユートピアが、観る側
の想像力を麻痺させたせいがあると思うんですよね。

 映画版は、そうした典型から脱したところが凄いと思います。シンジとゼー
レの意思に従って、一元的な新世界を一度は成就しておきながら、シンジの成
長というモチーフを重ねて「その先」を開いてしまった。この点に限れば、黙
示録を越えちゃってますよね。そうして出来上がった「他者の居る新世界」に
は、シンジがその成長の代償として手に入れた、純粋で人間的な憎悪や悩みや
悲しみがあり、観る側として非常に素直に感応できる。これがユーモアやカタ
ルシスでなくて何であろうかと。そしてまたそうした世界を、アスカの最後の
台詞一つで完成したところがまた見事なんですよね。
インパクトのある、出来るだけ短い、どうとでもとれる演出、ということで
ああなったんではないでしょうか。鏡のように、見たいものが見える、見た
くないものが見える、うがった人にはうがった見方が見えるラストシーンだ
と感じてます。
最後にアスカが包帯をしている意味は、
「アスカ自身が女になった」
「シンジにとってアスカが女になった」
という二つの意味を同時に持っていると思います。
「気持ちわる」という言葉には、リアリティを持たす効果と、
触れあいによって「産むことが可能な存在となった」=妊娠イメージを出す効果、
それに、存在が個に分かれていることの実感(喜びも悲しみも)が
表現されていたように捉えられました。
 最後のシーンについてはアダムとイブというよりアジア系神話 洪水で生き残った
兄妹の話(日本のイザナギイザナミの話でもこういう始まりのものもあります)
の方を連想しました。

 アスカの気持ち悪いのセリフですが考えによっては色々とれるセリフですね。
私はシンジと一線を引くセリフと取りました。
(ここから他人としてスタートとして2人の関係はどうなるかという・・・)
この最後はFANが自分たちで考える宿題だと思えました
最後のアスカも女っぷりがよかった!きっと、あれがアスカのやさしさじゃないの
かな?と思った。急にわかったようなアスカになったら余計かなしいもん。
とっても、ハッピーエンドだったと思います。映画みたあと結構すがすがしかった。

気持ち悪い,はよかった。絶望とそれでも幻想を構築しなくてはならないという
意志が感じられ・・・るか? 絶望だけか? 慰めてもらいたいのか?
立派に完結していたと私は感じましたし、救いもあったと思います。
ラストセリフは、生々しい接触も含めてアスカシンジを受け入れ始める、
という言葉ではないのか、と思うのですが。
少なくとも、突き放されて終わったとは感じませんでした。
私、あのシーンは本編に絡まないと思ってます。
庵野のファンに対する愚痴だと思ってます。
ファンによって傷つき首を絞められた「エヴァ」から、
おおよそ倒錯しているファンの一番多いアスカの声で、
ファンに対して文句を言ったんだと思います。 
創世記によればエデンの園では人も含めてすべての生き物は裸で(つまり自分自身
をすべて晒して)いても恥ずかしいとは考えなかった。ところがアダムエヴァが
禁断の知恵の木の実を食べた途端に裸でいることに気づいて恥ずかしくなり、身体
を覆って隠した。このことが神の怒りに触れ、2人はエデンを追放された。
・・・ラストシーンの2人はやはり楽園を追われたアダムエヴァなのですね。
自分の殻(ATフィールド?)を壊すことができなかった(あるいは自分の殻に閉じ
こもって出ることができなかった)シンジアスカだけは結局補完されることなく、
荒廃した世界に取り残された・・。それでもアスカシンジを拒絶するかもしれな
い・・と。
この映画を、人間の内面の描写をメインとして考えると、まさしく、私の好きな
ジャンルに入るんですよね。いっかい、救っておいて、最後にもう一回、落とし
ちゃうっていう。(笑)でも、最後は、あれでよかったと思います。だって、簡
単にシンジが、他人を認め、世界も、そんなシンジを喜んで、迎え入れるで終わ
ってたら(テレビの終わり方かな?これは。)、面白さ半減だと思います。そこ
で、アスカに気持ち悪いといわれて、自分の選んだ世界の厳しさというものを示
して、終わった方が、なんか、心に重ーくのこるじゃないですか!(だから、
ONE MORE FINAL なんだとおもいます。)

  補完中にシンジアスカと、ものすごい勢いで傷つけあいます。
彼は最後には彼女の首に、手をかけるのです。
そこまで他人というのは自分にとって厄介なものなんです。
理解不能ですからね。

  それでも、シンジは「融合」ではなく「他者との並存」を選びました。

  「共生」だとか「相互理解」とか美辞麗句に彩られた根拠なんて、
これっぽっちも示されないのに。
根拠があるのだとしたら、寂しさゆえの「I need you」くらいなものです。
単体になってしまったら永遠に孤独ですからね。
(この辺、あまり自信無いな。二回目を見たほうがいいかな?)

  目の覚めた彼は、隣で寝ているアスカの首を、再び絞めにかかります。
そりゃ、あたりまえです。
自らの選択とはいえ、自分を苦しめる元凶が、
現実に厳然と、そこにいるわけですから。
ほっとくと、こっちが殺されるかもしれませんし。
「他人がいる」─────本当に深刻です。この問題は。

  なぜか生きていたアスカが、そんなシンジの頬に手をやって、
彼に「他者のいいところ」をちょっち認識させます。
苦しみとともに、ヨロコビもまた確実にあるのです。
シンジの手から、力が抜けて、その後のアスカの一言で
「終わらない夏の物語」の幕が引けます。
 アスカの「キモチワルイ」発言は、相当ショックだったのですが、
彼女らしい発言だなとも思います。少なくとも、病院のベッドで
息だけしてる状態で生きている彼女より、ずっといいです。
 「詩編 The End of Evangelion」では、アスカの言葉は、
「あんたなんかに殺されてやるもんですか」が入っていますが・・。
 現実は、そうそう、都合のいいようにはならないんだという事に
通じている気もします。
私が思ったのは、アスカはショックで植物人間状態がある程度つづいており、
(目がサカナだった)シンジはいっそ楽にしてあげようとしたと見えたのです
が。包帯をきれいに巻いてあるところを見るとシンジが悩むに十分な時間はあ
ったのでしょう。(だからエントリープラグから気が付いたらあの場面、てい
う訳ではない。)そしたらもう動かないはずのアスカの手が動いたので、嬉し
くて涙が出た。ついでに「気持ち悪い」という正常なアスカがはくセリフが出
て、アスカが完全復活したという、無条件ハッピーエンドだと迷いもなく思っ
たのですが。
あの最後のアスカ首しめられシ-ンですが、そのあと
のアスカセリフが最後の最後に観客を現実に引き戻すオチ
みたいにかんじました。首しめ、まえふり?みたいな(笑)

 TVシリーズを見る限り、アスカシンジに対して14歳の少女らしい「嫌いだ
けど好き」という心理を抱いているようです(まぁ25話で助けられなかったこと
がしばらくもめる原因にはなるでしょうが)。それゆえに、シンジ腑抜けさに我
慢がならないのでしょうか。ただ、その心理とは別にエヴァパイロットとしての
ライバル意識も強烈ですから、非常に言動もわかりづらくなるのでしょう。

 シンジの方は、ミサトさんレイアスカもいいという宙ぶらりん状態ですが、
考えてみれば男ならたいていは心理的二股、三股は当たり前です。しかし、この中
で本当に可能性があるのはアスカだけなのですから(ミサトは年上過ぎ、レイは・
・・実の所は母、ユイですから)、将来的になんとか努力するでしょう。そのため
に現世に戻ったのですから。

 で、最初のコミュニケーションが首締めと「気持ちわるい」。一種ダークな感じ
もしますが、「他人とのコミュニケーションが最初からうまくいってたまるか」と
いうことであれば、先がどうなるかは・・・
 しかし、あのラスト必然とはいえ悲しい物がありましたね。
アダムにとってイブとは所詮他人であり、殺意を抱く対象であ
り、自分を傷つける存在なわけですから。
しかし、やはり最後はきついです。安易な現実礼賛はもっと嫌ですけれども
あそこにはやはり意地の悪さは感ぜずにはいられません。
少数派なのかもしれませんが、肯定否定はともかく「私の趣味としては嫌だ」
というのだけは間違いないです。こんな人もいるということで、一応、存在
を認めていただけるとありがたいです。
やはり、あれは監督からのメッセージと取るべきではないかと。
月に斜線が入っているように、もうこの「エヴァ」は終ったんだ、
もう人の作品に自分の考えに目くじら立てて攻めるのはやめてくれ、
見る側と自分は「他人」なんだ、そこまで立ち入らないでくれ、攻めないでくれ、
こっちにしたら「気持ち悪い」んだ、
エヴァ庵野の首を絞めるのはもうやめてくれ・・・
そういう事だと私は感じました。いつまでも他人に依存されると気持ち悪いって
事だと・・・そういう意味の、監督の「エヴァは終ったんだ!」という宣言
ではないだろうか。
私はあのラストシーンは
「自分に棘があることも、相手が針を持つことも、
全てを承知した上で敢えて一歩前に進む事が出来るようになった
シンジ君」に成長した、と言う風に考えています。

「気持ち悪う。」の台詞に関しては、あそこから人類の新しい
時代が始まる的な雰囲気(オーケストラが聞こえてきそうな、
とでも申しましょうか。)の中で、劇の中の世界ではこれは
現実なんだ、と言う目的で入れたのではないでしょうか。
(日常性を出したと言った方がいいかもしれません。)
まあ、いわゆるハリウッド的な大円団では無いよ。ってとこですか。
私はいい出来だったと思ってます。
 アスカは「気持ち悪い」よりもその前に差し出した手の方が重要だと思います。
敗北の象徴である同じ右手だというのがヒントでしょう。
 シンジが心象世界ラストシーンアスカを求めて首を締める
シーンはレイプメタファーじゃないかという意見がありました。
確かにそう解釈するとあのラストも非常に理解しやすくなるんで
すよね。
そしてラスト台詞ですが、私はシンジだけでなく、世界の全て(自分も)
に対して感じたメッセージだと感じました。生きていくには気持ち悪い世
界だけど、やっぱり死ぬのは嫌だ、と。そもそもアスカシンジを好きだ
とは思ってなかったのでショックではありませんでしたが、手も触れず、
目も動かさなくてあの台詞だったら、やっぱつらかったかな(^^;)。ともかく、
我が儘を貫き通した監督に拍手!
やっぱシンジアスカの首を絞めたのは、ATフィールドの象徴で
しょうな。人は生まれながらにして、他人を拒絶すると


  

http://anond.hatelabo.jp/20090707022553

 WoW欠点がないわけじゃないが、それでも当時「DiabloとかWC3とかSCとか作った会社MMO作るとこうなるのか」と色々感心した記憶がある。特にEQFF11でげんなりさせられた部分からストレスとなる部分をかなりとっぱらったゲームなので、FF11ストレスと思ってない人からはコメント欄のような反論が出るのは無理はない。

 WoW攻略については外人日本人とは別の意味で情け無用。raidと呼ばれる10人/25人で攻略するダンジョンの場合、ボスがどんな攻撃をしてきて自分職業だとどうすればいいのかを事前にWikiムービーで理解しておくのはわりと必須。最近だとその前のraidダンジョンクリアしてるかどうかチェックすることも多い。

 それを理解していないでポカをやらかすとパーティリーダーからパーティ追い出されることもある。まあこのへんはEQもこんな感じだったんだろうけど。

 で、こういう風習があるからといってみなピリピリして装備を整え戦略を整えているかというとそうではなくショボイ装備でraidにやってきてあっさり死に

「死んじゃったぜlol

 と笑ってパーティを追い出されてもぜんぜん懲りない人もいる。

 その辺色々な意味自己中心的というか元増田が書いている村八を恐れるようにレベルアップするのではなく、「俺が強くなりたいから色々調べるし装備も集めるんだよ」という雰囲気がゲームに漂っている気がする。

 あとネトゲなのでキチガイみたいな人やアイテムかっぱらって逃げる人も当然いるがそういう人はゲームキャラ名で公式Forumに晒されるし晒す方もゲームキャラ名で晒す。俺もid:pal-9999同様昔のFFしか知らないが、したらばや2chなどの匿名掲示板キャラ名晒しが発生するというのはどうにもいやな印象が強かったよ。

2009-06-27

http://anond.hatelabo.jp/20090627004908

なんつーか非常に自己中心的だよね。自分の身勝手な願望を事実であるかのように

思い込み、それに反することを全て「相手が悪い」と断じてはばからないタイプの男でしょ。

意に反することをありのままに受容できずに、現実をねじまげ、曲解し、自分に都合のいい

ストーリー脳内自己補完して斜め上に突っ走るタイプ

2009-06-20

http://anond.hatelabo.jp/20090619222055

妻が子供に興味がない事、自己中心的性格である事も含め

すべて受け入れて愛している!と豪語する夫です。

我侭で自由気ままな猫みたいな部分がいいんだそうです。

ノロケではないですごめんなさい。

夫婦仲は非常に良いので悩ましいのです・・・。

2009-06-19

http://anond.hatelabo.jp/20090619131925

そういうときは、非常に自己中心的で短絡的な人物を想定してみると大抵分かるよ。

  • ちょっとした風邪で休んだ人間を見れば、楽しやがって!俺だって休みたいのに!気に食わない!
  • 感染力の強いインフルエンザに罹った人間に対しては、迷惑だ!来るな!寄るな!家でおとなしくしてろ!

こういった感情が吐露されるときは、そのときの気分だけで、個々の言動間の矛盾なんてものはそもそも問題にならない。大体、同一人物が同一の事象に対して言ったわけでもないしな。各自違うものを見ててんでばらばらに好き勝手言っただけだ。それを繋ぎ合わせて矛盾を見つけてしまうのは、受け手の中の問題だ。

2009-06-10

http://anond.hatelabo.jp/20090605210305

性犯罪者は、現実というものをよくわかっていないからこそ犯罪に走るというケースがよくあるんじゃないかな。

そもそも、自分妄想リアル勘違いしていて、実際のリアルというものをよくわかっていないから、脳内ではキレイなものを思い浮かべていて、いざ実行して現実に直面したら、あまりの生々しさに絶望とかありそう。

こういう危ない人は、性に関するものであろうとそうでなかろうと、もともと自分の思い描いたことなら現実化されるべきだと思っている、極めて自己中心的性格だから、二次だろうが三次だろうが、妄想を膨らませるための補強材料でしかないという点で関係ないと思う。

連続レイプ犯は、自分脳内シチュを再現しようと思っていて、でも実行に移したら上手く再現できなかったので、今度こそ自分の考えてた通りに再現しようと思って犯行を繰り返すし、奈良の女児誘拐事件も、幼女なら自分の思い通りにできると思ったら拒否られて、リアル幼女に裏切られたことに腹を立てて殺したって話だったと思う。

2009-05-07

流れていくと気分が良い

そうだよ、そうしてスルーして、スルーされれば平和になるんだ。

もう外聞にかまけていてはいけないんだ、俺も

でも自我を持つことは自ずと自己中心的思考を持つ事になる

だれだよ、自己中と罵る様に仕向けたアホは

2009-05-06

http://anond.hatelabo.jp/20090505184745

え~、

ここに示された症例のとおり、

喫煙しているとニコチン中毒になったり肺の病気の可能性を増やすだけでなく、

頭の回転が悪くなって、

手段と目的の区別がつかなくなり、

自己中心的になります。

この方の場合は同じ論理展開で、

アルコール、その他の薬物、盗、ギャンブルセックス露出暴力など、

他のいろんな依存症正当化していく恐れがあります。

 

まあ、

これらに溺れれば、

普通大学生なら知り合えなかった人たちとコミュニケーションが取れるようになるのは確かなのですが。

http://anond.hatelabo.jp/20090506000425

大学生では仕方ない。

親のすねかじりの分際で虐待されてる彼女抱えて駆け落ち。

更にパチンコ屋の店員になるなんて、親不孝すぎる。

貴方に取っては自己中心的な行いだったかも知れない。

でも結果的に彼女は救われたんだよ。

二十歳過ぎまで親に性的虐待されていて、キャバ嬢イメクラ嬢と職を変え、

最終的にはソープ嬢をしている人を知っている。

16のうちに人の暖かみを知れば、その人のように人生自暴自棄にはならない。

もう一度言う。

彼女は救われたんだよ。

2009-05-05

http://anond.hatelabo.jp/20090504163059

1、まずは、物理的に立ちはだかられて逃げれなかったというのもあります。

10数人にすぐに囲まれました。宗教法人ではないともいわれました。


2、みなさんがおっしゃる甘さだと思うのですが「国」に対する信用が

当時はありました。

(これは、大学という権威に対するものも含みます。予備校生ですから。)

①変な団体に活動の許認可は与えないだろう。法人格なども。

警察交番近くで活動を許可するくらいだから害はないだろう。(伝統宗教なみか?など)

という認識です。また、これはコミュニティに対する信用だったのかもしれません。

道行く人は多いわけですから、まさか昼間から詐欺的行為は働かないだろうという認識でした。

これは幻想でしたね。学校建設許可まで与えてしまうのですから。


3、あとは人に対する信用です(田舎でしか通用しないですが)。

これはある意味生き方というか人間に対する挑戦ですね。

そうあるべきという。

神を語って悪いことをする人はないだろう。

大の大人大学生予備校生に悪いことはしないだろう。

そうあるべき、そう信じるべきだ。という当時の付き合い方ですね。

リスク高いですけど。結構礼儀なども重んじてたんでしょうね。

甘さというより、何か強いポリシーでしょう。

残念ながら、彼らの考えは、「学生学校いくな+借金してでも布教献金しろ」

という想定外思想でしたが。

良心を利用するとは思わない。

自身の親族の一人の若年での他界や、友人の父などの病気がありましたが、

そういうものを治せるという弱みに付け込まれたかもしれません。

もちろん信じていたわけではないですが。そういう心の部分をたくみ

ついてきます。

4、言いくるめ

今年は勉強だから無理だ。

→今しかない。入るだけ入っておくべきだ。

など。いろいろ数限りなく。(詳細省く)

親の承諾がいる

結婚就職受験も親と決めるのか?だから受からないのではないか?

など。

これは、若いので、甘さを露呈。軟禁されるとどうにもならない。


人間デリケートな部分、良心善意というを

利用して陥れることを許しているのが日本の現状ですよね。

だから今、不信の社会です。

冷笑的な無関心、モラルハザードが各所で起きていますが、

戦後反動から日本人が振舞うべき括弧たるポリシーを失ってるかもです。

モラル基準としてカルト宗教しかない、たんなる自己中心的な振る舞いしかない

というのであれば、早晩、国(という幻想なのですが、みなさんによると)

破綻してくると思います。(みなさんみたいなしっかりした人が多く安心しましたが)

着実に個人が一人一人破綻してきているわけですから(笑)

(こういう青臭いことは本来口にすべきことでなく、文にして強調する

こと自体カルトと似ているとも感じますがw。微妙な問題ですね。)


多少、論理が飛躍してるかもしれませんが、一人でも被害者が減れば。

コメントにある通り、かかわってしまえば、こちらが悪いということになります。

そして、団体は糾弾されることなく、自由意志に基づいたものだろ。

…と、一生個人の信用の負債となります。

団体は豪奢な生活、VIP扱いされても個人の信用(履歴)

は回復することはありません。美術館などで

かかわる時は十分気をつけてください。

伊藤若冲ブログも以前ありましたが、

あれも館長の辻さんの見出し作家です。残念ながら

美術館も完成度が高く、太鼓グラミーのはずです。)

若さゆえの甘さと弱さと馬鹿さの反省として書きました。

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