2009-11-28

ああ。第三の自分

「第三の目」なんていう言葉があります。

二つの目で見れないものを見る、感じる、そんなときに使われる言葉です。

僕の「第三の自分」ってのは、「自分を客観視してる自分」という意味です。

第二の自分でもいいんですw

いずれにしろ、僕の隣にはもう一人の僕がいます。

多分、「もう一人」のほうがホントの自分なのかもしれない。

何かをやってるとき、それを客観視してる自分がいる感覚

「あ、今俺まずい空気にした。。」

「オレ、作り笑いだw」

上みたいな経験をしたことある人は少なからずいるはず。

ま、それです。

たんぱくにそう感じるだけならいいんですけど、僕の場合、そいつが足を引っ張ることがあるんです。

ケース1:号泣

あるとき、泊まり込みでプログラム書いてることがありました。

その時期は学校レポート週に9本提出とか、過酷なときで、でもプログラムもさっさとつくらなきゃいけない雰囲気で

さらに、サークル研究と発表もあって、メンタル的にもキツキツセカセカでした。

レポは友人頼みで知識もつかず、もちろん成績にも響きました。

それでも、早く作れよ。学校なんかいってる場合じゃねえだろ。

学校なんて意味ねえだろ。

てなこと言われ、言い返しきれず、かちゃかちゃやってました。

そんなことが2週間くらい続き、あることがキッカケで爆発しました。

ちょっと暴れたあと、先輩が励ましてくれました。

それで号泣しました。久しぶりに号泣しました。

でも、僕のとなりには第三の自分がいます。

冷静に自分を見ています。

あんなにつらくて、爆発していた感情でさえ、ピタッととめることは可能でした。

それでも行動する自分は半ば演技に近いな、と感じました。

第三の自分の存在が、行動する自分自己欺瞞的だと感じさせてきました。

ケース2:焦燥

これは端的。

ミーティングで発言数が少ないと、「周りに微妙な奴だと思われていないかな?」

なんて思っちゃいます。

すると、焦っちゃって変な発言になったり、話を理解できなかったり、、

悪循環に陥ります。

いずれのケースにおいてもいえることは、

集中力を欠いてしまうことが結構問題だな、と思います。

自分が今、こんなことして、周りがこんな風に思ってることが気になり、

周りを意識して行動しようとするのは、対症療法的で、本質的な行動にはなっていないのです。

無論、自分ポジション意識するのは大事かもしれないけど、

それと周りの人からの評価を気にすることは別だと思います。

自己中心的なのかどうかってことです。

一つのことにガーッと集中してうちこんじゃうような人になりたい。

考えることもそう。雑念が入るとヌルイ思考でとどまります。

文章かくのもそう。

このハチャメチャな文章を書いてる僕はテレビ見ながらだし。

そもそもきれいな文章を書こうとはしていないし。

さて、今日ブログアウトプットすることをはじめよう!

と思い立って記事を書いてみただけ。

これをだれがよんで誰がどう評価するか知らないけど、

読んだ人には申し訳ないな。

数年後、自分で読んだらどう思うんだろうか。

練習でした。

おやすみなさい。

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