「第三の目」なんていう言葉があります。
二つの目で見れないものを見る、感じる、そんなときに使われる言葉です。
僕の「第三の自分」ってのは、「自分を客観視してる自分」という意味です。
第二の自分でもいいんですw
いずれにしろ、僕の隣にはもう一人の僕がいます。
多分、「もう一人」のほうがホントの自分なのかもしれない。
「あ、今俺まずい空気にした。。」
「オレ、作り笑いだw」
上みたいな経験をしたことある人は少なからずいるはず。
ま、それです。
たんぱくにそう感じるだけならいいんですけど、僕の場合、そいつが足を引っ張ることがあるんです。
ケース1:号泣
あるとき、泊まり込みでプログラム書いてることがありました。
その時期は学校もレポート週に9本提出とか、過酷なときで、でもプログラムもさっさとつくらなきゃいけない雰囲気で
さらに、サークルの研究と発表もあって、メンタル的にもキツキツセカセカでした。
レポは友人頼みで知識もつかず、もちろん成績にも響きました。
それでも、早く作れよ。学校なんかいってる場合じゃねえだろ。
てなこと言われ、言い返しきれず、かちゃかちゃやってました。
そんなことが2週間くらい続き、あることがキッカケで爆発しました。
ちょっと暴れたあと、先輩が励ましてくれました。
でも、僕のとなりには第三の自分がいます。
冷静に自分を見ています。
あんなにつらくて、爆発していた感情でさえ、ピタッととめることは可能でした。
それでも行動する自分は半ば演技に近いな、と感じました。
第三の自分の存在が、行動する自分は自己欺瞞的だと感じさせてきました。
ケース2:焦燥
これは端的。
ミーティングで発言数が少ないと、「周りに微妙な奴だと思われていないかな?」
なんて思っちゃいます。
すると、焦っちゃって変な発言になったり、話を理解できなかったり、、
悪循環に陥ります。
いずれのケースにおいてもいえることは、
集中力を欠いてしまうことが結構問題だな、と思います。
自分が今、こんなことして、周りがこんな風に思ってることが気になり、
周りを意識して行動しようとするのは、対症療法的で、本質的な行動にはなっていないのです。
それと周りの人からの評価を気にすることは別だと思います。
自己中心的なのかどうかってことです。
一つのことにガーッと集中してうちこんじゃうような人になりたい。
考えることもそう。雑念が入るとヌルイ思考でとどまります。
文章かくのもそう。
このハチャメチャな文章を書いてる僕はテレビ見ながらだし。
そもそもきれいな文章を書こうとはしていないし。
と思い立って記事を書いてみただけ。
これをだれがよんで誰がどう評価するか知らないけど、
読んだ人には申し訳ないな。
数年後、自分で読んだらどう思うんだろうか。
練習でした。
おやすみなさい。