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はてなキーワード: 卒業式とは

2007-05-29

学級崩壊じゃなくて授業崩壊

http://anond.hatelabo.jp/20070529210257

って言うのね。厳密には。なるほど。

で、私の中学時代というのは、昭和から平成に変わるあたりの時代。つまり1980年代後半。

学級崩壊」とか「授業崩壊」という言葉は当時無かったと思います。

単に「学校が荒れてる」と言われていました。

一部の学校では卒業式に警官が配備されたということがニュース報道されたり、そういう時代でした。

とにかく、よく言えば若者がすごく血気盛んだった時代。

当時は不良のことを「ツッパリ」って言ってましたっけ。男子氣志團みたいな格好、女子も桜塚やっくんみたいな格好をしてました。

暴走族、今で言う珍走団がすごくたくさんいてうるさかった時代でもありました。夜の駅前は暴走族の集会が開かれて危険なので気を付けるようにと言われてました。

それから、1970??80年代は不良文化も花盛り。なめぬこ流行ったり、尾崎豊の歌が流行ったり、ビーバップ・ハイスクールとか花のあすか組とか。

2007-05-16

新卒派遣に入った私の履歴

ちなみに、派遣といっても一般派遣じゃなくて特定派遣正社員)。

就職氷河期の終わりごろに情報処理系専門学校卒業し、ソフト開発を希望して入社。

本社が東京にあったため都内のホテルに前泊したのだけど、そこのミーティングルームで2,30人くらいがそれぞれどこの会社派遣されるか告げられた。大体3つくらいに分かれたかな。

そして、引越しを経て4月の第2週くらいから派遣先に出社。

初日にはそれぞれ「○○さんは△△課、□□さんと××さんは**課…」と割り振られる。

さぁ、自分は何だと思ったら「品質保証課」。製品の検査部門だって。へー…ソフト開発を希望して、それで採用されたからてっきりそういうところに行くと思ってたんだけど。

そういえば、入社前にこんなことを言われたんだっけ。

「そのうち」と。

卒業式と入社前の集まりが重なってしまい、後日支社へ出向いた時に私だけ(だったんだろうなぁ、後から思うと)出向先を教えてくれていた。こういう製品を作っていてこういう雰囲気の会社で、という説明の後「まぁ、○○さん(私)の希望はそのうち」

要するに頭数さえいれば専門が何かなんてどうでもいいみたい。

そこから数年後、派遣先でゴタゴタがあったらしく派遣会社を一つに絞るいう話となり、私は契約終了になりました。

今度は他社工場生産技術部門へ突っ込まれましたとさ。

先日「退職の相談を」と営業に連絡したらすぐさますっ飛んできて面談となりました。

「えーと今の仕事は…あ、専門とは違うのね」

その営業さんは私についての資料を今初めて読んで、この瞬間にやっとそのことについて気がついたみたいだった。

詳しくは持ち帰り検討って言われて2週間以上は経ったけど放置され中??。

退職願持参で再び話し合いするつもりです。

ちなみに、出勤のカレンダー派遣先に順ずるため、自社が休みじゃない日は強制的に有給を使わされます。つまり、休みの多い会社派遣されたら有給がどんどん減っていく。

そういうわけで、有給もほんのりしかないし、辞めてから本格的な転職活動をするつもり。

ちょこちょこ書類を送ったりはしてるんだけど、派遣じゃないかどうかだけはチェックしてるw

2007-05-01

佐藤君って

ジャナ専の卒業式に壇上で卒業証書を破り捨てて鼻息フンフン得意満面になったものの、

講師を含む参加者全員にアッサリと「どーでもいーや」とスルーされ、

こわばった笑みを必死に維持したまま顔面蒼白でこそこそ逃げ去っていった佐藤君?

http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20070430

2007-04-16

滋賀県出身の自分が卒業式で経験したこと

http://anond.hatelabo.jp/20070416183656

これはどこの地域でもあることだろうけど、学校行事・式典で国家を歌わない。

小学校卒業間近となったある日、教師達は口々に「歌いたくないなら歌うな」と言ったり、「私達(教師)は歌う事を強制されている」と被害者ぶった口調で言ったり。

卒業式では、「国家斉唱します」→「起立してください」→「国家斉唱」という流れだったから、歌おうという人は立たねばならなかった。

歌うために起立した人には当然冷たい視線が送られたわけですけども。

それ以前に、「歌いたくなければ立たなくていい」と教師に言われていたので、立つ生徒は皆無に等しかったのを覚えています。


自分のときは小渕が首相だったかな、なのでこのエントリーを書かれた方と同じ年代だと思うんですけど、

滋賀県の某市立小学校に在籍していた僕は君が代斉唱のときに愉快な経験をしていて。ちょっと書き込みたくなったので増田ぽちっとな

??????

――この方と同じように、僕の小学校でも卒業式のリハ前に、教師が君が代っつーか戦争歴史を語って、「歌いたくないなら歌うな」ということを言っていた。

5年生の時だったか、1時間ぐらい割いて学年集会としてそういう「平和教育」をした記憶がある。

ただし、「国家斉唱」するときは「起立してください」がその前になく、ずっと立ちっぱなしだったので、

国歌をうたわないという意思表示をするには「立たない」ではなくて「座る」ことをしなければならない。

これがクセモノで、「歌うために起立」すると目立ってしまうけど、「歌わないために座る」ということは、

立っている人の中に埋もれるということになるので、まったく目立たない。

というか目立つ目立たないはどうでもよく、当時純朴まっしぐらだった小学生たちは教師たちの言うことを頭のてっぺんから足のつま先まで信じ込んでしまった。

そして卒業式リハーサル。「国家斉唱」と言ってまず座ったのが全体の1割(ちなみにこのなかに僕も居た・笑)、そしてそれを見て

立っているのが恥ずかしいと思ってしまった残り9割の一部が、斉唱中にばたばたと座ってしまった。

結局、歌い終わるまでに3割ぐらいが着席して、かなり慌しく騒がしいリハーサルになった。

リハーサルが終わったあと、先生国歌斉唱について苦言を呈した。

国歌斉唱の途中で座るのはよくない。騒がしい。中途半端な気持ちや、みんなが座っているからといって座るのはよくない」

みたいな注意だったと思う。

中途半端な気持ち」。確かに座ったほぼ全員の人が「中途半端な気持ち」で座った、のだろう。

戦争の被害が??とか言われてしまって、悪いレッテルを貼られたらそりゃもう、歌う訳にはいかないし、何より教師にとっていい子であるために、僕は座ったんだ。

だけどもし、今その時に立ち返って教師に質問できるとしたら、子供がそんな「硬い意思」を持てるのだろうかと僕は反論したい。

子供がそんな強い意志を持っていいのか。子供に覚悟決めさせることが教師の、大人のすることなのか。

子供は未熟で、あやふやな存在だ。だから大人を見て育つ。その為に教師たちのいる学校にも行く。

大人の模範である教師に「君が代には血塗られた歴史が??」みたいなことを言われたら、誰でも不安になってしまうんじゃないだろうか。

不安という予感はあやふやで不確かで、つまり「中途半端」な気持ちだ。

ホームルームで僕は思った(もちろん↑みたいなかしこまった考え方じゃなくて、なんとなくもやもやとした気持ち悪さを感じていただけだが)。

中途半端な」存在押し込めた責任は、先生たちにあるんじゃないか、っていうことを。

結局、当日の国歌斉唱では誰も座らなかった。

そして僕が卒業するとき、そういうトラブルは起こらなかったということを覚えている。

広島人権教育について…広島県福山市民の僕が経験した事を踏まえて

むしろ僕個人の愚痴なわけだけれども、まずはこの記事を読んでから。

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/956179.html

広島県が「人権教育」で知られるなんて知らなかったものだから、広島県福山市在住の高校三年生の僕は上記の内容をより詳しく読みたくて、櫻井よしこ氏の「日本の危機」を購入したんですよ。

人権教育の柱は、”差別・選別をしない”です。結果として先生はいつも生徒と同じ目の高さにいなければいけない。ですから、普通にあるような授業の始め方”起立、礼”さえもありません。”はい、静かにして” ”席について”と何となく始まり”ここまで”と何となく終わるんです。

 朝礼でも”前へならえ” ”気をつけ” ”休め”は軍国主義だとしてやりません。うちの子は”回れ右”もできないんです」

僕が小学五??六年生の頃だから、五・六年前になるのかな。僕の通っていた小学校では、「起立、礼」の廃止はありませんでした。

ただ、特筆すべきは給食のとき。

小学校給食では、日直やら当番やらが「いただきます」の音頭を取るのはどこの小学校でもあることだと思うのですが……

僕の学年、いや、学級ではその「いただきます」の合掌を担任が意図的にやめなさいと言うのです。

先生の言い分は、宗教的に「いただきます」で手を合わせることが出来ない人だっているでしょう?と、いうもの。

他にも何か言っていたような気がするけど、思い出せない。

では、どうやって食事開始の音頭をとるのか。

1.日直が教卓の前に立ち、教室を見回す。

2.「(配られるべき給食は)みんなありますか?」と問う。

3.皆に給食がいきわたっている事を確認する。

4.「では食べてください」と言う。

僕の学級ではこれが日常だったのです。

---+---+---

公立学校学力低下で、県内外の私学や国立大学付属校への進学を志望する親や子供も多いのです。ところが人権教育絶対の教師は、これが気に入らない。先生は”なぜ私学か” ”なぜ県外か”と苛めるのです。

 私の娘も、六年生の時、クラスで一人だけ私学を志望し、先生だけでなく、クラス会や児童からも責められ、一週間食事もできない程になりました」

そういえば僕の担任教諭も飛びぬけた子が嫌いだったなーと思う。

井の中の蛙だけれども、僕は小学生の頃、学習塾に通いクラスの中で一、二を争う成績を修めていたんです。

それでもって県下では最高レベル中学校広島大学附属福山中学への進学を志していました。

小学五・六年生と言えば、反抗したいお年頃。

僕も例外ならず、他の生徒とつるんで教師に迷惑をかけていたわけです。

で、僕の担任教諭は、「僕」が教師に迷惑をかける理由を、「僕が国立大附属を志望しているから、塾通いでストレスが溜まるから」と言い切ったのです。

その当時の僕でもさすがにおかしいと思いました。

他にも私学や国立大附属を志していたクラスメイトはいましたが、僕だけに矛先を向けたのです。

その事が理由かどうかは知りませんが、僕が給食を残そうとすると、担任教諭はそれを阻止し、「食べるまで離さない」と言い、昼休憩の間僕をずっとイスに縛りつけたり(残している生徒は他にもいたが)、放課後僕だけを教室に残し、「どうしてこんなことをするの?(どうして私達に迷惑をかけるの?)」と被害者面で聞いてきたり。

結局、国立大附属には合格できませんでしたけどね。

---+---+---

そういえば、僕が小学六年生の頃の日本首相森喜朗でしたっけ。

森元首相があの有名な「神の国」発言をして間もない頃。

音楽室に六年生だけを集めて、六年生の担任教師二人とプラスアルファの教師が、僕らにこんな質問を投げかけた。

「一番大切なものって何だと思う?」

さぁ、みなさんも一緒に考えて見てください。

「森首相?」

クラスの誰かが言った、しかし答えはNO。

天皇?」

日教組YESというわけがない。

…教師達の提示した答えは「自分自身」。

その当時アホだった僕は「なるほどー」と思ったりした。

---+---+---

これはどこの地域でもあることだろうけど、学校行事・式典で国家を歌わない。

小学校卒業間近となったある日、教師達は口々に「歌いたくないなら歌うな」と言ったり、「私達(教師)は歌う事を強制されている」と被害者ぶった口調で言ったり。

卒業式では、「国家斉唱します」→「起立してください」→「国家斉唱」という流れだったから、歌おうという人は立たねばならなかった。

歌うために起立した人には当然冷たい視線が送られたわけですけども。

それ以前に、「歌いたくなければ立たなくていい」と教師に言われていたので、立つ生徒は皆無に等しかったのを覚えています。

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長々と書いてきたわけですが、他県の教育現場はどうなのでしょうか。

案外広島県と変わらなかったりして。

2007-03-25

引退

楽しく、笑顔で、この世界を離れようと思った。

そして、そのとおりになった。表向きは。

家に帰ってから、一人で晩酌しながら、泣いた。

悲しいのでもない。嬉しいのでもない。

どういうわけか、自然に涙が出てきた。

思い出が蘇って、抑えられなかった。

学生時代、卒業式で涙する人の気持ちが理解できなかった。

今、初めてその気持ちが分かった。

さようなら。 ありがとう

2007-03-23

伝える側の傲慢

今日卒業式があったのだけれど、

総代が卒業証書を受け取るときとか、偉い人が祝辞を言っているときとか、

無粋にもテレビカメラ新聞社カメラがずいずいと視界を移動しているのにはウンザリした。

薄暗い屋内で行われる式のため、撮影には光量の大きいライト卒業生の顔を照らす。眩しい。

「知る権利だ」などとほざいて傲慢な取材をする彼らは、取材を受ける現場人間の気持ちを考えていない。

2007-03-22

生徒の自主性(笑)

君が代歌いたくない奴は歌わなくてもいいし、

歌わなかったからって罰することないんじゃないの?

と思ってる私でも、納得いかないことがある。

卒業式は生徒の自主性を尊重するべきだ。生徒の気持ちを無視して君が代押し付けるのはよくない。』

という論調で君が代斉唱に反対する先生たちに問いたい。

生徒会主導で在校生とはお別れ会やって、教師や親には謝恩会お礼言ってるんだから、

卒業式なんて証書くれたらいいのよ。君が代も校歌も蛍の光も歌いたくないし、

校長の聞き古した長い話も、地元の偉いさんの選挙活動も興味がないわけですよ。もっとスマートにやろうよ。」

というのが生徒の総意だったとしたら尊重してくれるんですか?

2007-03-19

卒業式シーズン。

街中ですれ違う、着飾って連れ立って歩く女たちの顔面が一様に不自由なのは何故だろう。

マトモなのはその頃、男に車でどこかへ連れ去られているに違いない。

2007-03-17

いいかげん宗教弾圧はやめたほうがいい

http://anond.hatelabo.jp/20070315211335

http://anond.hatelabo.jp/20070317102842

 神に祈るのをやめてほしい。とくに、一神教は考えを改めるべきだと思う。一神教がお互いの神を否定しあうから戦争がおきる。

無神論共産主義国や多神教の国だって戦争してるだろ。

ソ連中国とか国家神道大日本帝国とかヒンズー教のインドとか。

にもかかわらず、一神教のせいで戦争になるかのように言うのは偏見

そうやってあなたみたいに宗教を攻撃したがる人がいるから争いが起こるんでは?

 宗教法人なんてみとめなくても、精神の自由さえみとめておけば十分。心の中でそれを信じていればいい。洗脳で集団をつくる行為を、法的に保護する必要は無い。

宗教活動でも政治活動でも法人格があったほうがやりやすい。

信教の自由だけでなく、結社の自由だって憲法で認められてる。

税金の優遇は宗教法人が安いというより営利企業から高くとりすぎなんだよ。法人税なんか廃止したほうがいい。

皆が常識的に理解している程度の科学とは折り合いをつけろ。いつまでも古い考えをひきずって、何を頓珍漢な寝言を言うか。予言とかバカじゃねーの。

そもそも常識なんて多数派の思い込みにすぎないだろ。それと折り合いをつけるべきということなら、世界では一神教が多数派なんだから、あなたこそ一神教と折り合いをつけるべきなんじゃないの?

それに古い=頓珍漢というのも単純化しすぎ。科学理論だってながい年月検証を耐え抜いてきたものほど頑健でしょ。文化だって長い間続いてるのには何らかのメリットがあるからこそ。

 夜の闇を恐れたり、自然災害メカニズムがまったくわからなかった時代なら、それらに対する不安を解消するために、とにかく作り話で回答を作るのもわかるが、先人たちが積み上げてきた科学知識がある現代において、神の怒りが云々などというのは科学に対して失礼千万だ。

だからといって科学が万能だとは科学者ですら思ってないでしょ。科学知識を理解できる人ばかりでもないし。それなら作り話で不安解消できるならそれでいいだろ。

 たとえヒトが単性生殖したとしても、超常現象として崇めるのは間違っている。科学的事例として取り入れるだけだ。

何をあがめようが個人の自由だろ。鰯の頭でもスプーン曲げでもすごいと思うなら素直に感動すればよろしい。

 神はいない。それだけのことです。心の中で何かを信じるのは自由です。でも、団体に所属したり、集団で儀式を行ったりするのはやめましょう。宗教を問わず一般化したような行事はいいけど、特定宗教に限定した儀式はやめましょう。他宗教を排他した行為はすべて辞めましょう。教会施設には他宗教の神も祭って誰もが出入り自由にしましょう。

集会結社の自由ぐらい認めろよ。企業だって政党だって学校だって団体作ったり儀式したりするだろ。特定政党だけ特定企業だけで儀式をしたら駄目なら党大会入社式卒業式もできないだろ。それに宗教施設に限らず部外者立入禁止なのはよくある事。犯罪の被害にあったら君が責任取れるの?

2007-03-15

情緒欠如

http://anond.hatelabo.jp/20070315141026

私もそういう子供だったが。

年齢を重ねれば重ねるほど共感する部分が増えて何か思うようになる。

目の前の事実に泣いたり悲しんだりしてるわけではない。

自分の身に起きた別れとかそんな手近なものを

目の前のことに重ね合わせて悲しんだりしてるのだ。

あとは。

人に聞いた話でなるほど、と思ったものだが

生きてるものが「この人は死んだのだ!」と強制認識するためにする儀式である、と。

そうでないと、死んだことを忘れてしまうとか、

情が深すぎる人なら、死んだことを受け入れられないとか、

引きずるでしょう。

それを断ち切るための強制儀式

卒業式とかもそうね。

結婚式もそうね。

あれだけの派手でばかばかしい儀式に耐えられる結婚かこれは?

ってことでしょう。

どうでもいい結婚ならそんな面倒なこと途中で辞めるし。

葬儀にて

子供(たしか小学 3,4年のころ)叔父の葬儀に強制出席.

面識がなく,ろくに話をしたこともない人の葬儀

何故参列しなければならないのかと疑問を抱きつつ…

その時は通夜には出ず,告別式のみ参加.

初めて参加して周りの大人たちは皆,同じ神妙そうな顔をしているが

故人とって一体何の関係があるんだろうと余計なことを考えていた.

坊主が最後の締めのつもりなのか,(語呂的に)「喝ッ」のようなことを

大声で叫んだのを聞いて,思わず噴出してしまった私.笑いを堪えるの必死な私.

その時,その坊主のただの自己満足だろうと思われる最後の締めもそうだが

故人にとって葬儀に一体なんの意味があるのだろうか?と思った.

車での帰宅中,親にその疑問をぶつけてみる.

お金を掛けて(こんな無意味そうな)葬式をする必要があるのか?と

親「お金の問題じゃないのよ.気持ちの問題なのよ」

私「気持ちの問題なら,お金掛けてやらなくてもいいんじゃないの?

心の中で亡くなった人のことを思っていれば.」

親「・・・」

--

高校の時,飼っていた犬が死んで「あっ,止まった」と思った.

可愛がってたつもりだったが,死んだことに対してではなく

そんな感情しか抱かない自分に対してショックだった.

--

そんなこんなで私も大人になり,先日,最初に書いた叔父の妻,

つまり叔母が亡くなった.子供の頃の疑問を未だに抱きつつ…

この疑問の答えを見つけようと葬儀に出席.

今回は通夜にも出席.

狭い会場を見渡してみる.(叔父・叔母夫婦は貧乏な方だったが)

当人たちが食べたこともないような高価そうな果物

見たこともないような高価そうな花が大量に並べられている.

告別式はともかく,通夜には故人のかなり身近な人が集まるものと

思っていたが,どうやら間違いだったようだ.

悲しみを隠す為とは到底思えない酒の飲みっぷりと愚痴を言い

挙句の果てには酔い潰れていびきをかいて寝ている男.

ただの世間話をしている女.結局徹夜したのは自分だけだった.

そして告別式

式の途中,居眠りしている坊主木魚の棒で坊主の頭を思い切り叩きたい)

叔母の子供であり私の母のパートとしての勤務先の店の店長

叔母とは全く面識のないはずなのに何故か現れるという不思議

式と火葬は終了.

皆何事もなかったかのように貰う物だけ貰って帰っていく.

葬儀業者も終わった途端さっさと手際よく片づけを始める.

これらを見ていると葬式は故人の為に行われるものではなく,ただ世間体の問題.

亡くなった人の意志ではなく周囲の人の都合により行われるものである気がする.

植物状態に陥ってしまった人が,当人の意志ではなく身内の意志で生かされるように…

葬式は感慨も思いでもない学校卒業式を思わせる.

親に見せる為に行われるのが卒業式.でなければ練習など必要ない.

思ってもいない事を言わされ,国家と校歌を歌わされる.

当事者がこの世を去っているという点がそれとは異なるが…

本当に故人のことを思うなら,葬儀の為のお金(それ以外のでもいいが)で

生きている間にどこかへ旅行に連れて行ってあげたり,

美味しいものを食べに連れて行ってあげる等してあげた方が

亡くなった方にとってどれだけ嬉しいことだろうか.それをしないのは何故か.

自分にとってはその方が何倍も嬉しいのだが…

そもそも葬儀を行われても既に死んでいる故に嬉しいと思うこともできない.

そして墓が作られる.墓にも一体何の意味があるのか?

私の中で墓とは「生きた証」ではなく「存在した証」である.

何世紀も後に自分の子孫にあたる子にその親が

「あなたの先祖にあたる人が居て今のあなたが居るのよ」

という私の嫌いなお説教の為だけのものだ.

墓石の名前を削ったり,適当に名前を刻み込んだとしても

同じ苗字を持つ別の家計墓石と交換しても

その遠い子孫にあたる子供にとってはたいした問題ではない.

墓とは「写真」のようなものだ.私が他人の写真に自分の名前と

撮った日などを書き込んで,見つかりにくい場所に丁寧にしまっておけば

何世紀か後にそれは自分になる(そうする必要性はないが)そんなものだ.

本当の「生きた証」というのは,そのような物理的・視覚的なものではなく,

その人が思ったことや考えたこと等,思索の後を残しておくことだと思っている.

葬儀などあげてくれるな!!」「墓など作ってくれるな!!」

遺書を残しておくべきか・・・

異邦人

卒業式の朝

別れても、また会えるような関係を築いてきたじゃないか。

卒業しても、また会えるし遊べるし話せるさ。

そう思える友達が、いっぱい……とは言わないまでも何人か出来たじゃないか。

限られた時間の中で、ちゃんと未来に続く財産を作れたんだから、大学生活は成功したんだよ。

何も出来ずに4年間を過ごす人に比べ、きちんと4年でやるべきことをやった自信を持てるさ。

だから悲しく思う必要なんかない。

だから全然悲しく思う必要なんか、ないんだよ。

そう言い聞かせて卒業式に行ってこようか。

2007-03-12

手紙なら、出しても大丈夫だよ!

http://anond.hatelabo.jp/20070311235707

手紙(案)その2

○○くんへ

この◇◇◇◇で○○くんと知り合って、仲良くなれて、楽しい思い出がたくさんできました。
♯年間、どうもありがとう。
たくさん迷惑をかけてしまってごめんね。

○○くんの試験も、体調も、家族のことも、新しい恋愛も、うまくいくように願っています。

試験が終わったらまたみんなで飲もうね!

卒業式、晴れるといいな。

昨日書いた手紙を酷評されたので、書き直してみたけど、

手紙を渡すこと自体が問題なのかなぁ。

明日になったらまた書き直す(渡すこと自体断念する?)予感…

http://anond.hatelabo.jp/20070311004749

http://anond.hatelabo.jp/20070311004026

http://anond.hatelabo.jp/20070311003557

この人またどうせトラバ脈絡とかお構いなしに自分の書いた記事消すだろうから、保守全文クリップ

-------

大丈夫だよ余計な心配しなくても。

キモイと思ったら中身を読まずに捨てることができるから、手紙の場合は。

だから安心して出しなよ。

俺は実際、素手で触れることなく廃棄したこともある。だってキモイじゃん。なにが仕込んであるかわかんないじゃん。

2007-03-11

手紙(案)その2

○○くんへ

この◇◇◇◇で○○くんと知り合って、仲良くなれて、楽しい思い出がたくさんできました。
♯年間、どうもありがとう。
たくさん迷惑をかけてしまってごめんね。

○○くんの試験も、体調も、家族のことも、新しい恋愛も、うまくいくように願っています。

試験が終わったらまたみんなで飲もうね!

卒業式、晴れるといいな。

昨日書いた手紙を酷評されたので、書き直してみたけど、

手紙を渡すこと自体が問題なのかなぁ。

明日になったらまた書き直す(渡すこと自体断念する?)予感…

http://anond.hatelabo.jp/20070311004749

http://anond.hatelabo.jp/20070311004026

http://anond.hatelabo.jp/20070311003557

2007-02-25

ホールの暗闇に星がでるのをまっている

三年に進級してすぐ、父が亡くなった。我が家には借金があり、そしてまだ小学六年生の弟がいたこともあって進学を希望していた進路については変更を余儀なくされた。母親は進学しても構わないと言ってくれたが、経済状態を冷静に考えれば現実的な選択ではないのは明らかで、それがわかってしまうと、勉強は落ちついたらできるさと、自分にはそう嘯くよりなかった。

当時、高卒就職率はあまりいい状態ではなかったが、自分は運よく警備関係仕事に就くことができた。そこではほとんど休みなく働いた。日勤、夜勤限界まで仕事をいれた。それだけでは飽き足らず、時間が空いたときは知人の伝でスケジュールの融通がきくアルバイトをしていた。この時期から、自分は空疎になっていった。辛いことも楽しいこともなく、好きだった天体観測もやめていた。ときおり、実家で埃をかぶっているであろう父の形見の天体望遠鏡のことを思い出したが、それ以外は何も考えず口を半開きにして喘ぎながらひたすら働き、仕送りをしていた。

ある日、そんな生活を見かねた友人が女性を紹介してくれた。彼女でもつくれば気が紛れると考えたのだろう。その女性は一般的にみて、それなり以上に可愛いらしい容姿をしていたと思う。性格についてはよくわからない。なにせ自分ときたらろくに興味もわかず生返事ばかりしていたのだから。結局、交際ははじまらなかった。つまらない男だと憤激されても仕方のない態度を自分はとっていた。友人が苦笑いで済ましてくれたのは奇跡的だったが、それとは別に気がかりなこともあった。彼女と付き合いたい、いや、女性関係したいと思えなかったことだ。欲望がわかなくなっていた。

自分に交際相手がいないと、うっかり口を滑らせてしまったことがあって、それを知った職場の先輩から風俗へ一緒に行こうと誘われた。自分はそういう行為に嫌悪感があったが、とても断りきれる雰囲気ではなく行かざるを得なくなってしまった。繁華街路地裏にあるその店で、何か靄の中にいるようなぼんやりとした心持ちで先輩のくゆらす紫煙に誘われるがまま女性を指名してから、惚けたように硬直していた。いくつか場面が途切れ、次の瞬間、気がつけばあられもない姿の女性が目の前にいて、自分も服を脱いでいた。厚ぼったい唇が印象的な女性だった。彼女サービスしてもらったが、何をどうしようと自分のものは反応しなかった。次第に吐き気がこみ上げてきた。たまらなくなって、なぜか申し訳なさそうな顔をしている女性を置き去りにして逃げるように店から出た。その日から勃起しなくなった。

それ以降、性について考えるようになったが、すると決まって父のことを思い出す。星の見方を教えてくれた父。大きな背中の頼れる父。いいことばかり反芻している。彼は父ではあったが、男ではなかったなどと呟いてみた。父から性の匂いを感じたことがないのだ。両親がセックスしているさまを想像することができない。次いで不意に弟の顔が想起され、呆然と呟いた。

童貞を捨てる前に父親になった。

働き詰めの日々は三年ほどで終わりを告げた。突然、布団からでるのがいやになった。聞きたくもない叫びが耳朶にこびりついてはなれない。満員電車押し込められるのがおそろしくなった。ひとと視線をあわせられなくなった。外出すればアスファルトは液状化し、足下から自分の身体を呑みこんでいく。精神の平衡を失っていた。

医者にかかり薬をもらった。それを摂取し部屋で惰眠を貪っていた。そうでない、やる気にあふれたときは横になって部屋の白い壁にできたシミの数を一日中勘定していた。それよりも少し調子のいいときは、友人の手を借りて自作したパソコンを起動してネットの世界に耽溺していた。ネットは身体にいい、刺激的で煌びやかな負け犬牢獄だった。屑であること、それこそが通貨だった。すべてが反転している。頭の悪いやつ、虐げられて死にかけのやつ、女に黙殺された間抜け、男を殺したいのろま、醜悪なオタク、そういうやつらが屯していた。ここには持つものなど誰もいない。そう思った。しかし、それが誤りだと気がつくのにそれほど時間は要らなかった。

ネット上をしばらく観察していると、それぞれの不能者集団を代表するようなヒーロー存在することが見て取れた。英雄たちは狂気の論理を組み上げて理不尽な現実を切り刻もうと躍起になっていた。すっかり不能になっていた自分もその熱に冒されフィーバーしながら奇声をあげていたが、それも長くは続かなかった。自分と彼らの違いを痛感させられたからだ。彼らは何よりも己を大切にしていた。傷つかないように牙を剥き他人を八つ裂きにし、あるいは通り魔にあいながら自己を確認している。彼らには何かがあった。守らなければならない何かが。自分には何もなかった。すべてがどうでもよくなった一番の不能者だった。彼らへの興味は急速に萎え、そこから離れた。

部屋に閉じこもり、ずっと泣いて暮らした。このあたりのことはあまり憶えていない。

時間の感覚がなくなるまで悲嘆に暮れ、いよいよ金銭的に逼迫してきたので仕事に復帰した。頭蓋に詰まった空白がひどく重くなることがあったがどうにかそれを誤魔化しながら現在に至るまで騙し騙し生きてきた。ああ。実感というものがまるでない。あれからどれくらい経ったのだろう。体調を崩してから記憶力が悪くなった。呂律がまわらないこともある。いやなことはとくに忘れやすい。しかし、そのおかげで生きていられるのかもしれない。強調された現在だけが自分の中にある。来月、弟が高校卒業するという連絡があった。卒業式には休暇を取って出席するつもりだ。弟は自分の母校に通っている。ならばあのホールで式をするのだろう。

自分の高校時代のことを思い出そうとして失敗した。当時の記憶の大半が彼方へとんでいた。唯一憶えているのは自分の卒業式最中、一瞬ホールの照明が落ちて天井を見上げたときのことだ。一面に星空が広がればいいのにと切望し、空想した。でもあたりは真っ暗で、それはまるで自分の先行きを暗示しているようだった。

2007-02-01

はてな匿名ダイアリー自然状態ですね

http://anond.hatelabo.jp/20070131154754

の書き主です。TB先をDisったつもりが、私がエサになるなんて、ヒィ~。なんていうか万人の万人に対する闘争というか、自ブログでこれやっちゃってたら泣いてるし。なんだけどここではdisるなり電波飛ばすなりがお作法のようなので、迷うことなく電波飛ばしてやる。

 とり合えず志望校先に書いとく、上智大学の神学部神学科。志望動機は端的に言うと神学とラテン語両方勉強できるから。

 長くなるけど以下に志望したまでのいきさつというかグダグダと、前に書いたエントリについて書きます。

 まず先のエントリを書いたのは、向こうの書き主がうじうじしてたのでdisりたくなったから、あと受験生って立場から見てどんな大学であれ大学入ってる人がうらやましかったから、あと遊んでる子が気になるとか三流私大がなんだって自分も思ったことあるしょうのないこと気にしてるから当てこすってやろうと思ったの、ってこれなんて反省文。なのに当てこすり部分きつくして書いたもんだから(タイトル含めて)、TBもらうは、ブクマコメこんなにもらったことないというか手厳しいコメもらうとやっぱ凹むね、匿名でも。というか、TBくれた人みたいに素直に書けばよかったわけね、ほんと私は素直ではとってもない。

 あとリアル学歴云々の話がタブーであるのもよくわかった。というかTB先の人の不満というかその大元になるもに私‘も’3年曝され続けたわけですがといまさら被害者面かよ!といわれるのイヤだし、そういう後ろ向きなもの持ったままでいるのいやなので全部はいちゃう。

 にしてもたくさんTBいっぺんにもらったことないのでちょっと困惑する。

http://anond.hatelabo.jp/20070131162229

http://anond.hatelabo.jp/20070131170249

 まずはこのお二方のTBから、先に書いたように私の志望大学上智大学の神学部神学科です。試験英語世界史、現代国語のペーパテストに加えて学科での学習の適性を計る小論文面接です。あと、願書出すために司祭(神父様なり牧師様)の推薦状が必要です。受験資格キリスト教徒である必要はありませんが、その場合でも在学校の教員の推薦状がいるようです。(できれば学部、学科の教育内容について熟知してる方が望ましいと書いてありましたが、願書に)

 偏差値の方ですが各予備校ボーダーを確認すると、40後半から50前半です。例年合格最低点は学科試験の50パーセント程度です。いちよう上記の理由があって(受験者が限られる)偏差値が低いものと心得ています。

 あと、、高校二年生のときにオープンキャンパスの際ではありませんがキャンパスの方は見学しました。身近にOBが幾人かいましたのでその人たちからも大学の雰囲気などについて伺ってはいます。

 大学での講義の内容については、大学シラバス担当教官ホームページなりブログについては一通り目をとうしました。さらに大学、学科名でググって、在学生ホームページも3っほど読んでみました(というか二つはブログ)。

 予備知識については、ミッション系の学校での倫理の時間と課外活動でカトリック研究会に所属していましたし、昨年洗礼を受ける際にも勉強しましたので十分備えているつもりです。無論、一次の学科試験が終わればそのあと神父様に紹介していただいた書籍も読んでいくつもりでが。

 大学に入学後にはキリスト教倫理学日本での教会およびミッション系の学校での教育活動について学びたいと思っています。また、宗教科教員の免許習得を目指したいと思います。

 とここまで書けばOK?・・・・・・・・・・・・・・・・これじゃつまんないでしょ?あれだけきつい事書いたのに。

 これ一般の人向けの説明、予備校のチューターとかあんまし親しくない友人にはこの説明で押し通してる。正直神学部志望と言うだけで驚かれるから、無論上に書いたコトには一字一句ウソはありあません。宗教科の教員免許はとるつもりだし、日本において教会が関わってる教育活動は私が学びたいことの一つであるし、キリスト教倫理学は信者の一人としてカトリックの考え方もっと深く学びたいと思ったから。でも、上に書いたことはやりたいことの一部でしかありません。

 http://anond.hatelabo.jp/20070131174254

言葉に甘えて書かしてもらいます。自分の志望動機きちんと全部話をした相手は父親と母親あと推薦書書いてくれた神父さまの3人だけです今のところ、あとは二次の面接試験官にできる限りのことを伝えようと思います。

 というかキー打つのに少し疲れた。ごめんなさい書きかけだけどいったんうpする。あと誤解されてるのいやだから先に書くけど、私地方在住だし、Fランだの地方の中堅国立大なんて気にしてません、でも自分の選択にうじうじして割り切れてない人はどんな人だろうと嫌いです。

お昼早めに食べたので書き足します。長くなる気がするので読みにくいかも・・・・。

 まず、神学部を志望するまでになったいきさつというか、自分語りうざいって人は時間の無駄なので読まないようにね。

 上にも書いたように私は中学受験してミッション系の中高一貫校に入りました。中学受験は自分自身で決めたものでなく、母親に強く勧められて決めた物です。塾に通い始めたのは小学校5年生の三学期から、受験する子たちに比べとても遅かったと思います。もともとは、塾の進学コースでなくて補習コースからでした。小学校の算数のテストで酷い点を取ったのがきっかけです。確か比だとか単位換算?だったかな確か。でも点数はよく覚えてる、たぶん相当怒られたからだと思う。65点だった。塾行くの初めはすごく嫌だった。たったの週三回、学校終わってから8時ぐらいまでだったけど。でも、国語は得意いだった。基本的に本読むの好きだったから。6年生の5月ごろの学力テストでかなりいい点数を取って、上のクラスに上がらないかと塾の講師に薦められた。母親セールストーク真に受けたのと、たぶんその時褒められたのが相当うれしかったんだと思う、私も承諾して上のクラスに上がることになった。それから週三だった授業が週5、学校終わってからと土曜日は朝から、日曜日も私、算数と理科電気だとかの物理分野苦手だったので補習があった。きつい時あったけど、そんなにイヤではなかったと思う、今思い返してみても。ちっさいころから母親私の教育に入れ込んでた気がする。夏休みドリルとか、なかなか進まないですごく怒られたりだとかした記憶があるから、すごく嫌だった。そういうことあっての反動だと思うけど、夏以降も成績上がっていって期待されたり褒められたりするのが当時はとてもうれしかったんだと思う。秋ごろの試験で今までは考えられなかったような学校合格が見えてきて挑戦するかどうか決めないといけなくなった結局滑り止め含めて挑戦校も受けることになった。結局受けたところは全部受かった。挑戦校は受験したあと正直落ちたと思ってた。算数ぜんぜんできなかったから。合格発表のときはすごくドキドキしたし、自分の受験番号が掲示されてるのはとてもうれしかった。

 春になって、新しい制服に袖通して、晴れやかな気分で入学した。でもすぐに勉強ついていけなくなった。特に厳しかった英語と算数同様に苦手だった数学、正直できない勉強を教室で受け続ける苦痛はすごく分かってるつもりです。一年生の時から落ちこぼれですから。でも、それ以外の科目は基本的に社会であろうが理科であろうが大好きだったからそれに対しては不満持たなかった。でもほんと泣きそうだった。あの時学年でアルファベットとか負の数の入った計算学校に入る前にきちんとやってなかったの私ぐらいだと思う。意識の高い家とかだったら、入学後も勉強しないといけないのわかってるから、家で教えたり、早い人は中一から塾行ってたりするし。私結局中学一年の二学期に数学英語アカ点食らうとかすさまじいことして、落ちこぼれがこれで確定・・・・・三者面談だよいきなり、入学して一年目で、挙句英語担当外国人教師に親子ともども死ぬほど流暢な日本語で1時間近く説教されるし。大きなお世話かも知れないけど自分の娘、息子の勉強の面倒見れない人はこいう学校に入れない方がいいと思う。得るものたくさんあったし、これから書くけど勉強面では親子ともども苦労すると思うから。

 そんなこんなだったけど、三学期はがんばったのと数学先生のお情けがあったのでアカ点は免れて進級できました。2年生から本格的にクラブ活動だとか委員会活動できるようになったので、もうほんと逃げるように打ち込みました。勉強の方は試験前のできる子のノートコピー一夜漬け、平常点のある教科は稼げるだけ稼いでおくとか、あと数学とかは、はなっからアカ点救済の追試を見越してまったくやらなかったり。追試は本試とまったく同じ問題なので前日に丸暗記したし。こいうの学んだのはクラブの先輩だと委員会の先輩、中高一貫なので似たような人はどこかにいるわけで、だれそれ先生はこういった傾向の問題ばっかり出すとか、甘いから何点最悪取ってればアカはでないだとか、以下略。正直補講だとか補習のある先生テストで悪い点取ったら、委員会とかクラブに支障出るので必要悪だとも思うけど、だけどこのつけ払うために浪人するはめになったけど。友達づきあいも比較的楽しくできたと思うし、親友と呼べる子は少なくとも5人はいる。この子たちには学校の間だけじゃなくて卒業して浪人してる時も心配してメールくれたり、手紙くれたり、はてはお守りまで贈ってくれたりしてほんと感謝してる。

 色々得たし楽しかったんだけど、私中学卒業して同じ高校に行くかどうかはかなりなやんだ。学校勉強に正直付いていける気がしなかったから。ここでもネックになったのが英語数学中学三年生ごろから数学高校の内容になってたし、英検の準二級全員で受けさせられたし、ほんと私一人だけ落ちるんじゃないかと心配した。それにクラブのほうも高校生と一緒に練習するようになったんだけど、高校クラブの顧問が最悪のことに私の数学担当の教師だったの、ほんといちいちいやみ言ってくるしクラブ中三でやめちゃった。あと、公立の高校進学しようかと悩んでて親に行ったら当然止められるし、挙句そこそこのレベル高校ですら受かるわけないって言われた。うん、なんか前にTB送った人と似てる気がするからなんか突っかかりたくなったんだと思う。なんかすごいそのころイライラしてて友達とも仲悪くなった。というよりも、クラブやめないように説得してくれたり、苦手な勉強手伝ってあげるだとかの気遣いがすごく負担に感じられたから、今思えばすごく身勝手

 心理的な負担がたたって、拒食症気味になるは不眠、貧血リスカはしなかったけど、内科で自律神経失調症って診断されてお薬もらう、でも病人扱いされるのイヤだったし薬いっさい飲まなかった。学校休むこと多くなって母親と延々喧嘩した。喧嘩するのイヤで、遅刻上等というか重役出勤して、保健室入りびたり、おしゃべりしたり本読んだり、保健室の本読み飽きたら、図書室こっそり行って本読ましてもらったりした。図書委員で司書さんにかわいがってもらっていたので、あと好きな科目の授業だけでることはあった。でもその授業に出るとその後の授業にも必然的にでないといけなくなるのでなるだけいやな数学英語の授業サボれるような時に教室行くようにしてた。当時は体の状態ほんと悪かったのもあるけど病弱で押し通してた。でこのプチ不登校というかメンヘルというかは、中三の一学期おしまい。担任と父親と校長面談して高校に進学することになった。夏休み英語数学の補講つきだったけど。中三はこのまま終わった。数学の時間は一番前の窓辺だったけど授業一切聴いてなかったし、英語は授業中いろんな子にあてる先生だったけど、私には一切当てることなかった。まあなんです、自堕落の生活はそれはそれですごく苦しいです。精神的にきつい人は無理する必要ないと思うし、そういう人に向けての「がんばれ」は善意からのものであるのはわかるけどほんときついし、ただ相手を追い込むだけなのは身をもって体験した。やめよう、ねほんと自分で自分で追い込んでるワケだし、そっとしてあげるのがいいと思う、個人的には。

 高校に入って気分一新、クラスもたまたまメンバーががらっと変ったので勉強の方も立て直して結句がんばった。高一のときは成績真ん中ぐらい。相変らず数学の点数は悪かったけどね。だってIAまともにできてないの??Bなんてできるわけがない。三角関数とか言われても三角比からわかりません、下手すると因数分解もやばひぃ。でもまあ、そこそこがんばった。でそこそこ勉強やろうって子達とも友達になってこのまま高2、高3と勉強すればよかったんだけど、よりにもよって文化祭の委員に巻き込まれ、こういうイベントというか企画して実行するのってすごく好きだから入れ込んじゃってほぼ高2のときの気力やら何やらを吸い取られ、そのあとすぐに修学旅行あって遊びほうけて、高三春先の模試でみんな頭が受験生になってるのにボーっとしてて気づいてたら最後の模試の成績表が手元にあってE判定にわれに返って、勉強始めたら年明けすぐにセンター試験卒業式で二次試験不合格でなんか終わってしまってた。高校まではこんな感じ。

 で自分の将来について考え始めたのは、中学3年生の時のグダグダから、なんかやったらめったら本読んだんだけど、どの本から影響を受けただとかは当然はっきりはわかんないし、父親にしろ母親にしろと喧嘩するたびに将来どうするんだって言葉を投げつけられたりしながら考えてるのもあるのではっきりは自分でもやっぱしわかんない。なので、自分が意識できてる原因だとかきっかけだとかしかかけない。

 今でももっているのだけど私の志望は国際政治勉強したい、これは基本的には変ってない。これがどうして神学部志望になるかは自分でも少し不思議に思うけど、自分の進路確認するためにも長くなると思うけど書いていきます。

 影響を与えた本というか、色々悩んでた時期に図書室にあったマーガレット・サッチャー自伝を読んだのがある意味国際政治勉強してみたいと思ったきっかけだと思います。ほんとはもっとあるとも思うのですが、少なくとも当時の私はサッチャー生き方にかなり心動かされた。あと家の父親が学校勉強はできる必要ないけど、本と新聞だけはよく読んどけ、あとは好きに遊んでろ、って言っていたのも下地になっているとは思います。中学受験の頃から社会科はとても好きでしたし、中学校に入ってからも基本的に得意科目だったし、好きでした。あと、カトリック研究会に入ったのも社会化の先生が国際化の世の中だしわざわざミッション系の学校に通っているのだし、キリスト教のこと勉強するのもいいのじゃないのかと授業中に紹介されたのがきっかけだったし、当時はクリスチャンになるなんて思ってもいなかった。カルチャースタディーぐらいのつもりだったのに。

 中三ぐらいからなんとなく国際的な仕事となんか勘違いしてつんつんしてる子が抱きそうなゆるい願望から始まったわけですが、一度これと思ったら結構こだわってしまうタイプなので、図書室の政治だとかあと関係ありそうな新書だとかはその当時かなり読みました。

 当時読んだ中で心に残っているのは、アルビントフラーの「第三の波」と「戦争と平和」がかなりよかった。あと父親の書斎にもぐって文芸春秋バックナンバー読んだり、あと小室直樹とかいわゆるオヤジビジネスマンが読みそうな本をかなりがりがりと読んで、父親に生意気だとか結婚できなくなるとか、ガキがグダグダぬかすなとか言われてむくれる。全共闘崩れで心情左翼でそのくせ、根が女性蔑視だし、オヤジだし封建的だと反発して、日曜の朝だとかにやってる報道番組のたびに父親と喧嘩するようになる。朝まで生テレビならぬ、朝から生焼け討論。この当時母親あきれかえって口出しせず、弟は朝から難しい話すんなって愚痴ってました。小さな政府安全保障上の懸案の解決になぜか固執してた。当然ながら小泉首相は支持してた。ついでだから書くけど、安倍政権は支持してない。

 父親とのdisりっこもあったんだけど、当時読んだ文言春秋北朝鮮問題について扱った記事が引き金になって、安全保障論とか本格的に勉強したくなる。たしか、この記事「希望の国のエクソダス」とか巻末で連載されてた頃の記事だと思う。確かミサイル開発、核開発、麻薬だとか拉致についても書いてあったと思う。(調べたら1998年の記事みたい、読んだのはたぶん2001年ごろ)

 あと、2001年は私にとって大きな年だと思ってる。その年の4月に小泉政権になって、9月にはワールドトレードセンタービルはなくなってたし。12月には不審船事件もあった。かなり短絡的だあったことは今から思えばそうだけど、当時何度も何度も繰り返しハリウッドのそれこそCGじゃないかと思うような映像見せ付けられて、そのすぐ後に日本国籍不明とは言え外国船に実弾を打ち込む有様見せられて危機感を抱かない方がどうかしてると思う。で当時の私は防衛庁国家二種試験を受けて、安全保障についてかかわりのある仕事につこうと考えるようになった。当時から、防衛庁防衛省になると思ってたし、外交分野でも安全保障に関する必要性は増すと思ってた。なので、それを扱える人材の受容も増すとまで考えてた。その頃からネット使い始めてたので、検索して安全保障論できそうな大学探して志望校にしてた。きちっと決まったのが高二の時、国立大と私立一校ずつ当然両方とも受けます。第二志望と第三志望ですから。なのでこの時点ではまったく神学とかは考えに入ってすらいなかった。後すごいたまたまなんだけど、TBくれた人のTB先の江畑健介さんは知ってます、書籍も二冊ほど手元にあった気が・・・・・頭の上がチャーミングな方ですよね。

 そんなこんななんだけど、人より志望校早くに決まってたはずなのに上で書いたように学園生活をまんぴつしすぎて、現役の時は不合格でした。センターボーダーマイナス40点だったと思う。

 で当時はホンと凹んだのと父親に口ばっかし達者だし、考えに偏りがあるから反省しろといわれていたのですが、ほんと反省できました。同じ大学の後期試験を受けたのですが、志望動機などについての面接があったのですが、面接官は3人、一人は英語での面接担当、後でググッたりして調べたら、英語の授業の教官で結構右より、英語帝国主義論?みたいのこといってた気がする。とり合えずアメリカに媚媚するのが嫌いな人。もう一人は国際政治学が専門、残念なんだけど調べてもどなただかがいまだにわかんない。質疑応答主にした人だったのだけど、東アジアの地域安全保障について将来貢献したいしそのためにこの大学勉強したいといったらいたく気に入ってくれた気がする。そんでもってもう一人が一年次の導入の講義担当教官国際関係学国際法が主な研究領域かな?というかこの人によりにもよって大学面接で噛み付いてしまったんです。ほんと、センターの成績たいしてよくないから点数稼がないといけないのに、NGOだとかNPO、ようするに国境無き医師団のような活動についてはどのように考えるかと聴かれて、その役割過大評価する必要はない的なことをいってしまって、前の二人の面接官とは4,5回内容についてどんどん突っ込んだ質問が出てそれに答えって感じでうまくいってたのに、その質問いついては私が一回答えてそれでおしまい。一瞬にして部屋の空気が凍りついたというか、すごく不機嫌そうでした三人目の教官、なんか残り二人の教官のアチャーという空気も感じられ、いたたまれなくなったのか、少しの沈黙のあと、真ん中の教官におずおずとこれで終了ですといわれて退出しました。

 そのあと、校舎出て携帯取り出して即カトリック研究会で面倒見てもらってた神父様に電話して洗礼受けたいってなきながら電話してた。何というか懺悔ってこういうことを言うんだなというか、父親にも言われてたし自分でも少し先鋭化しすぎてたのもわかってたけど、自分の根拠のないプライドと自信はここで崩壊。ほんと帰りの電車で周りドン引きするのかまわずおお泣きしてました。情けないやら、悔しいやら、後悔やらほんとなんかよくわかんない感情。で上に間違って昨年と書いてたけどもう年越してるから一昨年です。なんか今までちゃんとしてこなかったことやらに反省して、他人に頼っちゃダメだとこの期に及んでまだ我をはって、周り止めるのかまわず自宅浪人した。うん、馬鹿なのわかってる。自分でも。

 まだ、一浪の時は自分で自分の責任で周りに頼らずがんばんないとなんてこだわってた。ほんと死ぬ気でやった。そこでわかったのは自分は自分の習慣なり感情なり欲望を完全に意志によってコントロールほど強くないってこと、正直自分自身をマネージメントできるのは一握りの人間だけだし、ほんとの意味で賢い人はこういうことできるんだろうな。あと、自分がいかに多くのもに頼らざるえないかも身にしみてわかった。家族にしろ気を使ってくれたし、教会に行くようになったけどそこの人たちにも励まされたし、友達にも心配してもらったし。自分で何か一人でやりきったというのは、ある年齢ぐらいまではそれでいいし自身を持つためにも必要だと思うけど、大人になるには捨てないといけないものだと思う。やれるだけやって大学受けて落ちた時は頭真っ白、センター英語いまいちの点数しか取れなかったのが敗因といえば敗因ですが、言い訳にはならないと思う。一発勝負なのははなっから分かってたワケだし、テンパってぐずぐずになるのはやっぱし演習が足ってなかったわけだし。

 で、正直地元国立試験終わってから出願できる大学考えてたんだけど、父親にもう一年やれその代わり予備校にも行って最善尽くせって言われた。ほんと贅沢だと思う。心配かけてるし。すぐに予備校に入るしたくして、昨年できてなかった数学といまだに苦手意識のあった英語がんばった。成績も一浪の時に比べたら少ししかあがってないけど、やることはやってきた。というか試験もうすぐだからこういうことは合格してから書けとか言われそうですね。というかあとは第一志望に受かれば万事OKなわけですが、上智の神学科に志望変った理由を書いてもう終わりにします。というかほんと長いね。相当フラストレーションたまってるんだ、わたし。

 神学部に志望が変った理由を端的に述べると、2001年にもってた危機感というかそういうものが変質したからだと思う。当時は隣の危ない国のことがかなり気になっていたけど正直それは些細な問題でもっとまずい物というか大変なことが起きそうだなと、予備校行きつつも読書はしてきてつもりだしなるだけいろんなところにアンテナ張ってきたつもりなのだけど、正直言うとまだぜんぜんはっきりしないでもなんかとってもまずい気がする。これじゃほんとただの電波だよな。なんか色んな人が色んな場所から変化が起きる起きるというけど言ってる当人たちもなんかよくいまいち分かってないみたいだし、そのなんだかよく分からない変化に対して自分の価値観だとか行動規範を固めたいのが一点。

 もう一つはキリスト教自他が宗教改革というかたちで大きく変化したけど‘その変化’自体を知りたいというか、いろいろアプローチの仕方は考えてみてるけど、たぶんこの先起こる大きな変化と同じぐらい大きな変化であると思っているので、そのとき生きてた人たちがどうやって考えて行動してたか知りたいから。

 なんだか長々と書いてて本題の部分が短いしあいまいでごめんなさい。

 でもう少し、前のエントリーはきつい当てこすりにしても、正直過去を後悔してぐずぐず言うのはあまり建設的ではないと思う。そんなことしてたら私後悔しっぱなしで持たなくなるし、やれることをやれるだけ、他人に頼りながら少しずつでもやるしかないと思う。

 長くなったけどこれでおしまい。かける機会をもらえたことに感謝。時間少なくなってるのでこれで切り上げます。読んで下さってありがとうございます。

 

 

 

 

 

2006-09-24

大学グリークラブに入部した

10年以上も前になるが、高校卒業式君が代をありったけの声でフルコーラス歌い上げた。決して音は外さず至って真面目に、オペラ歌手バリトンばりで朗々と歌い上げる独唱状態。保護者在校生は何事かという感じでざわつきはじめるし、同級生は爆笑するやら苦笑いやら努めて無視いや他人のフリをするのに必死かというような感じで、教師は教師でおろおろするやら顔をしかめるやら泣いてるのか怒っているのか分からん混乱状態だし、来賓のPTA会長だか市会議員だか代議士の代理とかの周囲は「一体どういう事だこれは」という感じで対応に困っているそれはもう面白アトモスフィアフィールド形成で痛快だった。言葉は悪いかもしれないが、結果としては明らかに「テロ行為」に等しかったと思う。その代償として卒業アルバムの寄せ書きには誰一人書いても書かしてももらえなかったんだけど。特に女子は「せっかくの式をぶち壊しやがって」という悪意で充ち満ちていたっけ。

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1108018.html

http://www.sankei-kansai.com/01_syakai/sya032703.htm

http://fsokuvip.blog101.fc2.com/blog-entry-546.html

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