はてなキーワード: 三角比とは
幼い頃から、小説をいつか書きたいと強く願っていて、文章読本や小説講座的な本などを多数読み込んできたけれど、それらが小説に変わることはなかった。
好みの文体やストーリーパターンはわかってきたのだけれど、それらを何らかの社会、何らかの人間関係に落とし込んで書くことができなかったからだ。
つまり、社会の仕組みやわだかまりをどう描いていいかわからなかった、会話や気持ちの移り変わりをどう描いていいかわからなかったのだ。
文章読本などで、文章というガワの部分を学んだとしても、そこに盛り込むものがわからなかった。
ストーリーとして導きたい方向に、社会や人間関係を配置する方法がわからなかったのだ。
増田ではわりと、ブックマークをいただけたりする自分ではあるが、書く文章は常に一人称で、自分の思ったことをエッセイ的にまとめることしかできない。
これを、背景装置としての社会や人間と絡めて、ストーリーとしての段階を踏んで、人々を驚かせる素晴らしい結末につなげる小説として昇華させることができない。
それなりの人気を持つ雑文に仕上げるためのアイデアはたくさんあるのだ。それを、小説として具象化できないだけ。
いや、なんだろう、プログラム的に組み立てることができないといった気分。
そもそもが理系なので、プログラムもそれなりに組んだことがあるのだが、小説としての文章の組み方がわからない。
結末に向かう伏線を社会のどの部分に絡めて描写し、物語の展開をどのキャラクターの変容に仮託するか、みたいなものがよくわからない。
文体やレトリックのような基本文法はわかるのだが、社会や人間を相手にした「組み込み関数」みたいなものが何なのかが見えず、途方にくれてしまう感じだ。
というか、そもそもだが、こんなにダラダラ文章を書く私ではあるのだが、小説は一行たりとも書けたことがない。
だって、結論に至るアイデアが思いつけても、そこに向かう「これは書けるぞ!」というビジョンが見えないので。
この小説ならプログラム的に書けそう、ああなってこうなって結論に至りそう、みたいなものが、私の場合、小説に対して浮かんでこない。
そうそう、プログラムでもそうなんだが、もっと言うなら、数学の入試問題のように、とりあえず三角比を求めるとかベクトル計算するとか、
この「とりあえず○○を書いてみる。そのうち、ストーリーがつながってくる」みたいなのを知りたい。
とりあえず手を動かして、作り出す小説を何らかの方向に進める方法を、まずは身につけていけたらいい。
この文章だって思ったことをズラズラ書いているだけなのだ。ビジョンで書いてない。
って、あっ、それが小説を書く前のキャラクターシート、世界観作成シートみたいなものなのか。
あれも苦手なんだよな。好ましい感情を抱けるキャラクターを造形できないというか。
いや、自分以外のキャラクターが描けない。世界観も、今自分が感じるもの以外組み立てられないし。
結局のところ、私は自分のことしか書けない。自分のことならそれなりに書いて、それなりに注目される文章が書ける。
自分の考え方を、ある社会やある人間関係に落とし込んで、世の中にその素晴らしさを理解してほしいんだ。
「私の気持ち」じゃ他人に届かないんだ。客観性というか、作者でない「キャラクターの気持ち」として描写しないと、私ではない誰かに届くことは無いんだ。
だから、ここに書くような、一人称の雑文じゃダメなんだ。物語に仮託しなくちゃダメなんだ。
そういった点では、私は「物語」というものに、論文のようなものを感じているのかもしれない。
つまり、物語の人間関係や世界観という客観性のもとに、自分のアイデアに向かって組み立てた文章を、誰かに対して発露し、評価を得たいのだ。
いや、誰かに届けばいい。個人的なアイデアなり感情なりが、誰かに届けば、無意識的にでも届けば、それで十分なんだと思う。
…などと長々と書いてきて、結局は今回の文章も小説にはなりえなかったわけだけど、まあなんだか、そんな気持ちなのだ。
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1703062718/l50
5年くらい前はjcom規制がなかったので、科学的に間違ったレスは片っ端から論破していたのだが。
俺が書き込まなくなったら、無知と半可通でファンタジーじみた噂話しかしない空間になっちゃった。
SNSとか2ch(増田もか)で「断熱」語ってる奴って、びっくりするぐらい「ググらない」よな。
ググれば今どき情報が溢れてるのに、JIS規格の基本的な計算法すら知らないような奴らがデマを増幅させている。
断熱性能の計算なんて、一般的には微分や積分なんかも出てこない、小学校の算数なのに。
普段「三角比がわからないと大工にもなれない」云々語ってる奴らが、算数でわかる「断熱」が計算できないって???
話が反れたが、なんていうか、日本のネットは、ものを知らない奴らが一番無駄に(妄想が)冗舌ってのがほんとうにどんどん役に立たない空間になる原因だよな。
何に必要なのですか
沢山の可能性というのか、能力が未知の子供達の脳の発達に必要なんじゃ?
これからどの道に進むのか分からない子供達の行く末に必要になるかもしれない、
若しくは、今はまだ開花していないが、何らかの学問を進める事でその道(例えば数学や物理)で
開花するかもしれない子供達の為に、高等教育に到達する前の準備として、
んー、言葉にしようとすると長たらしくなってめんどくさい。
多くの人達は、三角比とか三角関数とか、微積分なんて卒業したら使わないよ。
(俺は仕事で少々使ったけど、学問の範囲から言ったらそれは微々たるものだと思う。)
だからと言って学ばなくて良いものかといったら、そうではないと思うよ。
色んな人が可能性を持ってい居て、誰が数学に関心が有るとか、数学の方面で伸びるとか、誰にも分からないだろうし。
それに、脳みその発達の為にも色々な事を勉強する事で脳に刺激を与えることになって、発達が促進されるとか言われてなかったっけ。
同じ事ばかりやってても脳の発達は促進されないような事を言われてたと思う。
筋力トレーニングも同じようなもので、毎回同じようなトレーニングばかりしていると、
筋肉に対する刺激が少なくて、発達しにくくなるから違うメニューを取り入れるとか。
家の子は将来音楽家になりますから数学は不要です、という親がいたとしたら、その通りにさせてみたい。
理系の人だと思ってたけどそうじゃないのかな?
単元が分かれているし、教える学年さえ違うし、まあ混同するほうがおかしい。
それを横から「数学的に見れば同じなんだが!バーカ!」と言うことに何の意味があるんです?
それで今回の議論がどのように進展したんですか?
「本質的に同じ」やなくてさあ。
たとえば学習指導要領に対して「三角関数は不要だから削除しろ」って言ったときに
「じゃあ三角関数と本質的に同じものなので三角比も削除しますね」とはならんやん。
そのくらいはわかるやろ?
つまり三角関数を用途に応じて簡略化・最適化したのが三角比やってことちゃうん。
あるいは三角関数自体がある種の「体系」を用途に応じて簡略化・最適化したものなんやろうけど。
藤巻議員の三角関数不要論に、頭悪すぎるクソリプが飛び交ってるのに悪寒を覚えた。
https://twitter.com/search?q=%E4%B8%89%E8%A7%92%E6%AF%94%20%E4%B8%89%E8%A7%92%E9%96%A2%E6%95%B0
三角比と三角関数は本質的に同じものであり、区別する意味が全く無い。
同じものであるから、「混同」もクソもない。むしろ「混同」しない方法を教えて欲しい。
三角比と三角関数が別物だとか言ってるバカは、典型的には以下のような不思議な世界観を持っているらしい。
しっかり勉強されていたなら、測量に使う三角比を、電波・音波等波を表す三角関数と間違うことなどあり得ません。見苦しい言い訳、最低ですね。
(https://twitter.com/kissan39/status/1528360355323228160)
自分で参考書を書いてみれば分かりますが、数学の検定教科書はおそろしく完成度が高いです。そのことを具体的な実感をともなって理解できれば、あなたの学力は入試レベルなど優に超えています。
数学の本の出来は、理論の構成で決まります。数学の理論の構成とは、かんたんに言えば定義や定理をどう配置するかと言うことです。どのトピックを載せるか、ある定理を述べるために事前にどのような概念を定義しておく必要があるのか、その定理を証明するために事前にどのような命題を示しておく必要があるのか。トピックの選定が的確で、理論の道筋が明快であるほど、数学書の完成度は高いです。たとえば、余弦定理は重要ですから当然載せます。余弦定理を述べるには三角比を定義する必要があります(鋭角だけではなく鈍角に対しても)。そして、証明には通常、三平方の定理と有名な等式
が必要になります(これも三平方の定理のcorollaryです)。さらに三平方の定理を示すには、ふつうは三角形の相似を使用します。この道筋をいかに最適化できるかに、著者の力量が現れます。もちろん、余弦定理を要領良く示すために他の定理に至る過程が鈍臭くなってはいけません。全体の最適化を考えなければいけないのです。
証明の最適化を図るには、定義から再考しなければいけません。同じ概念であっても、それを特徴づける性質が複数あるなら、どれを定義として採用しても良いですが、それによって効率は違って来るからです。たとえば、ベクトルの内積は
のどちらを定義としても良いですが、後者の場合は別の座標(たとえば、45°回転した座標など)で考えたときに値が同じになるのか疑問が残ります。前者は座標の取り方によらずに定義できています。
この場合はどちらを採用してもそれほど変わりはありませんが、指数関数などは定義の仕方で必要な議論の量はまるで変わってきます。多くの教科書では、自然対数の底
e = lim (1 + 1/n)n -- (☆)
を定義し、そのべき乗として指数関数exを定義します。もちろん結果だけ知っていれば、微分方程式
df/dx = f
を満たすf(x)で、f(0) = 1となる関数としても指数関数を定義することはできます。しかし、このようなfが存在することを、(☆)を使わずに示すのは高校レベルを遥かに超えます。そのようなfが一意的であることも明らかではありません。
以上のようなことを考えるだけでも相当大変ですが、これに加えて検定教科書では、直感的な理解を損ねないことも考慮しなければなりません。高校生が読んで理解できなければならないからです。理論の整合性・効率と教育的配慮の間でバランスを取るという難しいことを、数学の専門家たちが苦心して行い、作成されたのが検定教科書です。このような本は他の参考書にはありません。場当たり的に問題の解き方を解説するだけの本とは格が違います。
数学の検定教科書は極めて洗練されています。教科書の理論構成を把握し、その流れや証明手法に合理性や必然性を見出だせる水準まで理解できれば、入試などは余裕で通過できます。
そもそもサンデルの主張は尊厳の回復であってどのような立場であれ他人からの承認、敬意を得られる社会を目指すべきということであって、経済的に機会の平等/結果の平等を測ることではないからなあ。
機会の平等は機会があるんだから努力しろよという能力主義的な言説に繋がるし、結果の平等に関しても労せずして結果を得られる層に向けられる目が敬意などではあり得ないことは例えば日本で生活保護者に向けられている目がどのようなものか思い出せば問題があるのは自明だろう。
平たくいうと差がつくのはしゃーないけどお互い敬意を払えるといいよねって主張なんだよ。
ちょっと前に話題になったツイートで現ハーバードの研究員が学生時代に大工のおっさんから話しかけられて三角比の大切さを説かれたみたいな話あったじゃん。
コミュニティカレッジの充実だとかを通してインテリのみならずあらゆる労働者に教養があって互いに敬意を払われ、例えば「あいつはバカだから肉体労働をしている」などと見下されることがない、そういうものを目指してる。
たとえば、連立方程式や三角比などを使えば誰でも機械的に解ける問題を、つるかめ算や補助線などを使って小学校範囲内の知識で解くことが「賢い」とされるようだ。
大学入試に関しても、入試評論家とでも言うべき何の役に立ってるのかよく分からない人たちがいて、大学入試が易化すると学力低下がどうのこうのと嘆いている。
他にも、たとえばホワイトカラーの職業の入社面接で「自分を動物に喩えるなら」みたいなトンチの応酬が行われていて、それで合否が決まるのなんか、先進国では日本くらいのものだろう。
もちろんこれには何の科学的根拠も無い。
学校の入試ではそれまでの課程の勉強の習熟度を計る問題を出すべきだし、企業の採用においては応募者のスキルや経験や入社後の配属の希望などを問うべきだ。
こんなことは常識で考えれば誰でも分かりそうなものだが、いい年をした大人の多くが「地頭信仰」を持っている。
本当に異常なことだと思う。