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はてなキーワード: 重役出勤とは

2024-10-04

anond:20241004134445

ブコメ「朝8時集合で余裕もって7:30に行ったら一番最後で「重役出勤じゃんw」って言われたりするぞ。」のこういうことをいう奴らも他人時間を奪ってんだよなあ

2023-11-24

だめだイライラする

仕事勝手引退宣言して全部誰かに押しつけて自分は暇してる社長

全部押しつけられて四苦八苦してるナンバー2の俺

社長報酬は変わらず俺の1.5倍

毎日重役出勤会社に来て、俺の前で業務時間中にトースターパン焼いて朝飯食って新聞読んでYoutube見てくつろいでいる

今日電話で近くの老人友達ふるさと納税で買った卵を分け合う相談をでかい声でしている

なんだろう

俺は社長優雅隠居生活を支えるために働いてるのかな?

なんかもう嫌になってきた

でも逃げ出す先もない

人生つらい

2023-08-12

役職が上がると年収下がるのはバグじゃね

そもそも管理職って重役出勤できるような奴の役職プレーヤー監督じゃ残業代つけてやれよと思うんだぁが

2023-02-04

すずめの戸締まり12周目感想

シネプレとかは予告編長すぎてあんまりきじゃないから(たまに行くならいいけど)

小さい映画館通ってるけど、鬼滅に取られて上映数激減してて

あんまり良くないスクリーンで席も前列端っこ座っちゃって、最初ちょっと後悔してたんだよね

でもこれが幸いしたぜ!初めてのアングルで見るから新鮮だし、画質は下がった分作画の良さに気付くみたいな

最初の後戸の真水の質感とかすげーよ

これまで、遊園地戦までは正直見飽きててダレるところもあったけど、今回は最初から楽しめた


気付いたことなど

最初天気予報、よく雨降ってるし何かの伏線かと思ったけど、単にそこが九州って示すためか

すずめの部屋とかスナックの二階とか、何か初めて行く他人の家みたいな感じがする

生活感なんかなぁ

ダイジンいかけるとこ、多分地震の影響でコンクリちょっと崩れてんだよな

稔君、モニターフィギュア付けすぎだろう

チカの中学廃校、高2だから最短2年前、最長5年前で結構最近

東京行くだと糸、クレジットだとギザギザハートと三年目の浮気の間だからおしぼりとか氷でわちゃわちゃしてる辺りで流れたんだろうか

朝にはダイジン東京にいてミミズが出てくるの夕方から時間あるんだよな

浅草にいたし普通に観光してそう

東京からお茶の水の乗り換えで改札映るの、すずめが改札使ったんじゃなくて駅の風景描写かもしれん

フェリーで寝がえりうつおっさんとかスナックから店員帰宅するシーンみたいな

すずめは九州在住だからモバイルスイカ入れてないだろうし

芹沢参考書のとこ見てたけど閉じ師日誌とか散らかってるの普通に見てるよなぁ

というか、病院から帰った時片付いてるから芹沢が片づけた?

地震のあたり、背景モブがたまに静止してるが

作画コストというよりワチャワチャ動かしてそっちに注意がいっちゃうとかえって本筋わからなくなるからかも

そういや安彦良和インタビューで、若手でコンテ切ってた頃の富野モブに細かい芝居付けててアニメーターから嫌われてたみたいな話してた気がする

裸の銃を持つ男って映画で、背景に小ネタ仕込みまくってたけど集中して見ないとわからないってことでウケが悪くて、TV版にしたらヒットしたという逸話が…

あったと思い込んでたんだけど、今調べたらTV版に小ネタ仕込みまくってたけどウケなくて、劇場版にしたら大ヒットしたらしい。逆に覚えてたわ

ついでに、昔、裸の銃を持つ男ビデオ見たら、冒頭でイスラム系の悪役をボコボコにするシーンがあって、

911後だし観客向けのサービスだろうけど悪趣味すぎる、ってそこで見るのやめたんだよね

でも今思うと逆にそういう風潮を戯画化して皮肉ってたのかも…で、調べたら裸の銃を持つ男シリーズ最後90年代から911関係ないんだよね…じゃああれは何だったのか?



環さんがすずめと出会う回想、うちの子になろうのシーン出てくるから本当は覚えてたんじゃね?と思ったけど

あれ寝てるすずめが見てる夢か

草太と幼すずめとすずめが手を繋いでるビジュアル

こんなシーンなかっただろ、と思ったけど絵日記で書いてあったわ

後戸まで幼すずめを送る道中かな

最後のおかえりのとこ

冬服になってて、出会ったのが9月だから数か月後なんだよな

すずめが高2なので、最長で翌年の冬という可能性もあるけど

いずれにしても平日早朝に来てるわけだから多分就職はしてないし

そもそも東京から九州に移動して早朝散策するには、夜行バスとかで夜に移動するか一泊するかのどちらかだから色々しんどい

でもこの場合、草太が登校時間に合わせて来てるんだよな

意外とマメな男

すずめもこの後重役出勤か無断欠席すると考えられる

2022-12-04

50歳になってから「これからはお前の時代だ!!」って言われてもね・・・

世襲小規模企業副社長やってて、親が75歳で社長やってるけど、

なんのために働いてるのかわからない。

親が現役バリバリで働いてるならまだいいが、75歳にそんなことは望めるはずもなく。

本人も仕事にやる気があるわけでもないか仕事しない。

結果、仕事責任は俺が背負って、金と権力は親の懐へ。

年収800万で50人の社員生活を背負い、2人分の仕事量とプレッシャーに押しつぶされながら休日出勤当たり前で一日14時間働く。

その一方で親は毎日暇を潰しに出社し、牛丼食ってヤッホーニュース見て重役出勤重役退勤。年収1500万+会社から不動産賃料700万(←これは別に文句ないけど)。

「俺もも引退するから、これからはお前の時代だよ。」って親が言い出してからもうすぐ5年かな。

従業員をもう一人雇ったら赤字転落する程度のクソ会社なんだけど、そこんとこわかってるのかな。

さいころから親の顔色ばかりうかがって生きてきたけど、50近くになっても変わらない自分が情けない。

俺が倒れるのが先か、親が死ぬのが先か、

俺たちの明日はどっちだ!!!

2022-11-14

新卒で入った会社勝手に割高アパート契約してた

20年も前の話だけど

どうしても就きたい職業たまたま友人の実家家業だったので、頼み込んで就職させてもらった

新卒地方価格で、手取り15万


実家から数百キロ離れ、勝手も知らない土地だったので

社長友達の親)が自宅兼会社から徒歩5分のアパート契約してくれたらしい

あなたのお隣が友達の弟の一人暮らしから安心よ、とのこと

ん?自宅からその距離で弟一人暮らし


蓋を開けてみたら

2LDK5.5万円

新卒が住むには贅沢すぎる


そしてそんな物件道楽弟(社員という名の重役出勤)に住まわせてる時点で気付くべきだった

家族に甘すぎる会社だった


というか、15万の給料で5.5万のアパートとかありえない

ボーナスも年一回0.5ヶ月

車も必要から貯金どころか毎月赤字


貯金崩してたけど生活できなくなったか

夢の仕事だったけど辞めたよ

数年後倒産したと聞いて

やっぱりなという気持ち

新卒カードもったいないことしたなと思った

仕事自体は楽しかったけどね

2022-06-27

塚越孝アナ10年後の振り返り(偲ぶ会もできていないと聞いたので)

ニッポン放送ラジオショッピング上記録ホルダーの塚ちゃんこと、塚越孝アナ

ちゃんが亡くなって10年が経ち、ラジオショッピングの売上がいまだに破られていない&いまだに偲ぶ会もできていないということで

様々な関係者に聞きいた話から、塚ちゃんお台場人生を振り返ってみる。(時系列あやふや

先に申し上げておくが、塚ちゃん関係者貶めるわけではない。

関係者それぞれの考えもあるし、内で思うべきこともあるだろう。

ただ、まさしく人間ドラマとはこのことだと言いたい。自分だったら番組化したいくらい。

そして、この人間ドラマから、亡くなってしまった塚ちゃんに朝から大変バカヤローと叫びたい。

2012年当時のフジテレビ視聴率三冠を逃しているにもかかわらず、三冠の亡霊に憑りつかれた状況だった。

外部から選択肢の2~3番手、にもかかわらず社内のプライドは1番手というギャップから

スポンサー代理店制作会社から出入り業者含めてギャップ顕在化し始めていた。

特に局内では右肩上がりインターネット関連の部署(旧デジコン局、当時はクリエイティブ事業局)だけになっていた。

FOD売り上げ規模は小さくても、右肩上がりということで株主総会でもクリ事の話をするくらいの状況だった。

そんな塚ちゃんアナウンス室にいた時からデジコン局のポッドキャスト番組に出ていた。

ちゃんがナビる落語番組appleから表彰されるくらいの規模で、若者向けデバイスアクティブシニアにもリーチできるということで

パトロンという仮面かぶった先進的なスポンサーには意外とウケが良かった。

(その時点でF1ターゲットフジでは異質だったが、地上波とのカニバリを避けられたし、

 逆にBSフジ親和性があって波を使わせてもらうこともあった)

ちゃんデスクはいつも本が山積みで、アナウンス室の中でとても目立っていた。

本の壁でパーテーションをするかのごとく、本をデスクに積みあげ、

本に隠れていろいろコソコソやっていて、アナウンス室の中でも浮いていた(しょうがない。。。)

ちゃんお台場に来たのは、ライブドア事件ニッポン放送フジテレビ利益を使えなくなってしまってことに起因する。

ここらへんはライブドア事件をググってほしい。

ニッポン放送本業以外の収益がなくなり、本社屋の建て替えもありバランスシート破綻寸前だった。

持株会社制に移行したこと理由に、ニッポン放送人件費の高い社員をまとめてフジ転籍させることとした。

そこでやってきたのが塚ちゃんだった。

実はニッポン放送は社屋の建て替え時に、スタジオフジデジコン局近く設けていたこともあり、

ちゃんアナウンス室よりも、現場フロアのほうが安心している感じだった。

フジにきた塚ちゃんニュース情報番組特集枠ナレをやったり、CSの自社枠紹介番組をやっていた。

ただ、ラジオノリなので、どうしてもテレビ周りの動きができなかった。

例えばラジオなら5秒無音で放送事故だけど、テレビは絵で訴えかけるシーンだったりする

でもそれがわからない、すべて説明し、相槌を入れ、常に話し続けないと気が済まない。

ちゃんだけではなく、ニッポン放送転入組の8割がテレビには合っていないと思われてた。

2割のプロデュース企画系の人は優秀だったけど、都市部から離れてアンテナが鈍ってきていた。

そんなこともあって、転入当初はニッポン放送での業務に近しい業務をしていた人たちも

3年目あたりから異動し始めた。そう、主に窓際への異動だ。会社看板ではない

本人たちはいつかは有楽町ニッポン放送)へ戻りたい/戻れるとよく言っていたそうだ。

ちゃんも同じだった。自分ラジオ人間なんだと。

ちゃんの思いは強く、日枝さんにも直談判していたそうな。

そんなところで、アナウンス室を出る内示が出たが、塚ちゃんは内示に反対し、

アナウンス室を出なければならないないら、少しでも出役が期待できるクリ事を希望し、

人事発表の時には異動先がクリ事に変わっていた。

2011年にクリ事に異動して、また塚ちゃんは悩んだんだと思う。

いままであんなに手厚かったフォロー配慮が一切なくなった。

クリ事としてはもう招聘出演者ではないので、手厚いフォローはしないということ。

それこそ、右肩上がりだけど規模の小さな事業部だからメイクさんも使えない。

ロケ現場でも、ゲストにはメイクさん使えるけど、塚ちゃんには使える費用が捻出できないとか。

さらに、功を焦る中途入社の年下上司からちゃんへの暴言の数々・・・

口では一兵卒から頑張ります!と挨拶しても、内心では塚ちゃんプライドはズタズタですよ。

1年クリ事にいて、自分の今の置かれた立場を認めなくなかったんだろうね。

その年も、日枝さんにも直談判していたそうな。それで今度こそニッポン放送に戻るんだと。

2012年6月25日(月)内示の直前まで周囲にそう話していたが、昼過ぎの内示では塚ちゃんの担務は何も変わらなかった。

内示の後の塚ちゃんの姿を見てる人/覚えている人はいなかった。

そして、内示の翌日2012年6月26日(火)に、デスクに塚ちゃん荷物があることを、誰も気に留めなかった。

いつもだったら重役出勤のはずなのに、朝から荷物があることがおかしいと誰も気づかなかった。

編集明けの早朝スタッフですらそうだった。内示も終わったか気持ち引き締めて当日午後の収録ために朝から出社してくれたんだと勘違いしていた。

そう、誰も塚ちゃん本心をわかっていなかった。

2012年6月26日(火)午後にポッドキャストの収録だったが、社内の収録現場に現れなかった。

今まで収録に連絡無しで来ないことはなかったので、いよいよザワザワしだした。

ところが、年下上司文句をまき散らすだけだった。

夜になり、荷物そのままでありながらも携帯電話が通じないことで、不審に思ったスタッフ部長級に相談し動き始めた。

部長級は社内への相談スタッフは塚ちゃんつながりの場所関係者たちへの連絡や訪問

そして、そのまま翌日2012年6月27日(水)になる。依然として行方知れずの中、午後になり、警備から発見の連絡となる。

なぜか現場確認部長級と現場スタッフだったらしい。

年下上司遺書の有無についてやたらと気にしていて、スタッフに何度も確認で詰め寄ったとか。

2012年6月26日(火)没となっているが、見つかったのは27日(水)

入退室ログの最終入構が25日(月)だったので、おそらくは25日(月)の夜にお亡くなりになっていたと思われる。

これが10年間の関係者調査のまとめです。

繰り返すが、塚ちゃん関係者貶めるわけではない。

関係者それぞれの考えもあるし、内で思うべきこともあるだろう。

ただ、毎年この時期になると、塚ちゃんハチャメチャな緩急つけた振り回し方が無性に恋しくなる。

しかしたら、今の日本を元気つけられたのかもしれないなぁと思い出してしまう。

ちゃんよ、2002年ニッポン放送を退局したときに、政治家にでもなってりゃよかったんだ。

話すことを生業としたいのは分かるが、自分一人だけで孤独な闘いを続けなくてもよかったんじゃないのか。

それこそリスナーと塚ちゃんの逆人生相談室をスイングしてもよかったじゃないか

残された人のことをどう思っているんだ?天国では横澤さんとどんな話をしているんだ?

ラジオのことはどう思っているんだ?今だったらyoutubeで話し放題できたんじゃないか

10年前のあの日も6月最後月曜日だった。

10年経っても大変だよ、塚ちゃん

合掌

2019-04-20

客先常駐を辞めて社内SEになった話。

概要

年収330万の客先常駐をやめて、年収520万の社内SEになりました!

年収200万弱ほどのアップです( *`ω´)

自己紹介

旧帝大大学院修士課程を修了。

新卒で他業界に進んでいたが2年経ってIT業界に未経験転職

客先常駐に捕まり年収300〜330万の安月給で数年働く。

転職時は30代前半。

IT業界通算3年以上5年未満。

※年齢など、ややぼかして書いてます

年収

25歳:450万

27歳:300万

現在:520

と推移。

客先常駐死すべし

客先常駐給与低いのにスキルはかなりのものを求められて、もううんざり

お客様的には60〜70万出してるから当たり前なのかもしれないけども。

中抜き酷すぎて20しか貰ってないっつーの!

ミスは決して許されない。

ミスしそうな案件は難癖つけて他部署に回す。

ミスしたら原因探求をしてなるべく他部署責任へと転化させる。

己の責任が取れる範囲仕事をする。

管轄外以外の仕事はしない。

こういう創造性に欠けた働き方が客先常駐です。

あと自社がクソ嫌いになる。

自分の単価の6〜7割は自社によりピンハネされ、自社のお偉いさんは定時退社が原則のゆるいお仕事

かたや我々常駐員は毎日残業ばかり。

特に社長重役出勤10時ごろに出社し、事務員小間使いのように使って悠々自適生活をする。

社長は何の価値も我々に提供せず、自室(会社の中に社長専用部屋がある)でゴロゴロするだけ。ゴロゴロしてるだけなのに一番高い給与をもらう。その高い給与は我々常駐員の単価からピンハネしたお金である

社内開発を全くしないのも腹がたつ。

社内開発の案件がたまに来るとなんとかして断ろうとする。社内開発は失敗のリスクがあるが、客先常駐なら失敗のリスクがないからだと思う。

成長を怠り客先常駐の甘い蜜に引っかかったクソ会社だね。今後何の進展もないか、もしくは衰退していく会社典型です。

転職した感想

毎日私服勤務!!

フレックス労働!!

周りがみんな優しい!!

フリーソフト勝手ダウンロードしても構わない!!

でも一番大きいのは

工数をつけなくてもいい!!!

工数つけるの本当に苦手で、特に時間がかかりすぎたタスクがあると現実逃避工数を変えてしまいがち。

でも今の会社工数をつけなくてもいい( ´ ▽ ` )楽園か、ここは!!

あとは社長がすごく忙しそうにしている。

転職した会社子会社で、社長親会社からの出向者。

おそらく親会社での仕事をいろいろこなしてるのかな?と思うんだけど、よく出張があるしとても大変そう。

重役出勤どころか私よりも早く出社(私は定時出社)し、私より遅く帰る。

前の尊敬できない社長はえらい違いだ。

客先常駐ノウハウは使える

客先常駐はクソだが、客先常駐時に培ったノウハウは使える。

まずプログラム構造であるため、改変に強い。

客先常駐部品ごとに担当者が変わるので、作業を分担できるように構造的なプログラムを組むのが普通だ。

大切なのはプログラム部品として見れるかどうかだ。

再利用がしやす部品という概念を持つことで、読みやすプログラム、柔軟性に富んだプログラムが出来上がる。

特に1部品1機能という概念が大切で、1部品複数機能を持たせるのは柔軟性に欠けたものとなってしまう。

この発想を客先常駐の中で得たため、転職先での私のプログラミング力はかなり上位にあるようだ。

転職成功秘訣

残念ながら転職成功秘訣などない。

ただ単に運が良かっただけである

私は退社してから6ヶ月ほど遊び呆けていた。前職がクソすぎて休息が欲しかったためである

7ヶ月目に転職活動を再開したが、再開して4日目に現職の企業求人があったのである。聞けば数年振りの求人らしい。

6ヶ月休息を取っていなければ現職の求人とは出会えなかったであろう。

それだけでなく、この企業よりも先に最終選考まで行った企業がある。

最終選考感触は悪くなく、教育係(世話役?)の方とも顔合わせがあったほどなのだが、一向に選考結果が届かない。

3日後、最終選考の結果が届き、残念ながら不採用理由給与希望に添えないため、と書かれていた。

もし、ここで合格していたらそこに進んでいて、現職には入っていなかったかもしれない。(実はこの時かなりの金欠でなるべく早く内定が欲しかったのである。)

他にも身バレ防止で詳しくは書かないが、数々の偶然が重なり、現職と出会えた。

一つでも歯車が合わなければ現職には出会えなかったし、無理やり歯車を合わせたりもした。

そして、現職に採用となったことに運が決め手だと思った理由が次である

私はある程度プログラミング能力は高いと思っている。

しかし、私が選考を通過した理由はこのプログラミング力ではないらしい。

しろ入社して分かったことだが、現職の方々はプログラミング能力には期待していなかったらしい。

私が選考を通った理由はおそらく、人柄と大学/大学院学部会社ニーズに沿っていたためだと思われる。

やはり会社によって採用ポイントは異なるのだろう。技術力を評価する会社もあれば、人柄を評価する会社もある。

人によってその会社が合う/合わないもあるだろう。私は現職の雰囲気結構あっていると思う。

運良く現職に出会え、給与アップができたのは自身能力ゆえではなく、やはり運だと思う。

2019-04-09

ワーママすごい

会社の育休明け女、バレバレサボり方しててうける。

バレてないと思ってるのか、怒られないからセーフと思ってるのか分かんないけど。

朝礼と打ち合わせのない日はリモート勤務してるんだけど、どう考えても席外してる。

全然チャット帰ってこないししょっちゅうオフラインになってる。

さすがに困って「急ぎなのでご連絡を頂けますか」って言うと「病院にいます」とか。

いや、何勝手に席外して外出してんだよwwwww

やましくないなら連絡してから行けばいいのに草wwwwwwww

打ち合わせがある日も朝無断で来ないか心配してたら、「昼休憩(12〜13時)の時間使って出勤しま〜す」とかいって重役出勤ハート強いっwwwww

おまえんちの最寄りから会社まで電車だけでも40分かかるじゃん?もしかして駅前に住んでるのかな?全速力で走って移動してるのかな?駅から会社までは瞬間移動かな?

そんで会社ついて「今日は○○でランチしてきました〜」って。

すごーい!あのお店って、ファストフード店並みに調理早いんだね!君はすごい早食いできるフレンズなんだね〜っっ!!!

午前中もずっとオフラインになってたけど仕事に集中できてたみたいでなによりだね〜っ!

午前中家でだらだらして、ゆっくりランチ外食しながら会社に来て、素知らぬ顔で定時退社してるだけに見えるけど、きっと俺の勘違いなんだよね〜っ?

会議では発言もなくフェイスブック見てるみたいだし、タイムカードも、ワーママになると気が向いた時に切ればいいみたい!良いな〜っ!

いや〜っ最近のワーママって、すごい!

時短って、ほぼほぼ不労収入のことだったとはな〜!

俺もうびっくりしてこれ間違って人事にメール送信しちゃいそう!

2018-02-26

anond:20180226024538

あー…まあ周りの目とかあるもんね。

遅く行ったら重役出勤とか言われちゃうんでしょ?

2017-06-23

https://anond.hatelabo.jp/20170622120617

特定派遣だったけど、席が用意されてないのはマジで来る。

挙句の果てに席をコロコロと変えられるから朝来たら重役出勤してくる派遣社員担当みたいなやつを待って、立ってなきゃいけない。

そんでもって、派遣社員は30分前に来てないといけないとか言われるからメチャクチャに怒り狂ったら本社に戻されて、本社から始末書かかされるはめになったか始末書書くぐらいならやめますといってやめていまニート

2011-12-07

http://anond.hatelabo.jp/20111207115030

うそ

強いてやるなら「昼頃から重役出勤できないようではシャチク!」っていわんとw

こっちなら無茶だけど一応筋は通ってる

2011-08-06

http://anond.hatelabo.jp/20110806001650

私はそのサイト担当者でも、担当者上司でも先輩でもない。クライアントが、担当ディレクターが、OKを出したものに口を挟む権限はなかった。強い憤りをこらえるしかなかった。

自己愛っぽく「しょうがなかった、自分は正しかった」って言ってるように見えるけど、間違ってるよ。そのダメ会社ルールとしては正しいのかもしれないけど、成長したいデザイナーディレクターの行動としては間違ってる。憤りをこらえる必要はないし権限という垣根なんてそもそもないんだよ。自分でそう思っちゃってるだけで。

あえて言うなら、権限がないのは自分がそれを逸脱しようとしないから。鶏と卵なんだよ。権限を超えて何か言ってくる奴ややってくる奴には「じゃあやらせてみよう」ってなるけど、それをしなかったら勝手に向こうからやらせてくれるようになんてならないんだよ。やっちゃうからやれるようになるんだよ。やらなきゃやれないままなんだよ。そして気がついたらいつの間にか重役出勤定時退社のディレクターなっちゃったりするぞ。

逆に考えろ、今はチャンスなんだよ。ちゃんとダメだって声を上げるんだよ。お前の仕事ウェブクライアントの役に立つことだろう? クライアントピンチなんだからちゃんと助けてあげようぜ。どういうふうにダメか、どういうふうにビジネス上のネガティブインパクトがあるか説明しろ。なんだったら、お前ら今までわかってなかったのか! と詰ってもいい。頑張れよ。クライアント助けてあげようよ。

以上元同業者から今はクライアント側に行った人間としての気持ち。全体的に言いたいことはわかるぜ。

で、書いてから思ったけど、もしかしてうそ企業クライアントじゃないのかな? クライアントじゃなければさすがにどうにもならんよな。というかどうにかする義理もないというか。

ウェブ業界人材が余っていて人材が不足している

ある企業サイト作成に関わっていた。サイト真剣に向き合いながら、一度決めたことをひっくり返すようなことは言わない、よいクライアントだった。

作成に関わったので贔屓目もあるかも知れないが、よくできたサイトだった。好みの違いはあっても、誰に見せても「合格」をもらえるデザインだったと思う。

作ってから何度か改修があり、若干テイストが変わることもあったが、一貫して企業サイトとして恥ずかしくないデザインだった。改修のたび、担当ディレクターデザイナー愛情を持って頑張っているんだな、と思っていた。

そのサイトのトップがまた改修した。

ダサい配色、適当グラデーション + 角丸 + ドロップシャドウ、カーニングが調整されていない文字……。

素人のようなデザインだった。

これでクライアントのOKが出たことに驚いた。と同時に、それを提出したディレクターが許せなかった。それ以上に、これでデザイナーとして報酬を受け取っている存在がいることが許せなかった。どうしてこうなったのかと問い詰めたかったが、私はそのサイト担当者でも、担当者上司でも先輩でもない。クライアントが、担当ディレクターが、OKを出したものに口を挟む権限はなかった。強い憤りをこらえるしかなかった。

社内にもデザイナーはいるが、そのサイトデザイン作成したときからずっと外部の人間担当していた。今まで担当していたデザイナー会社を辞めていた。本当に、よいデザインをするデザイナーだった。

弊社にはデザイナーが少ない。ディレクターも少ない。頭数はいる。稼動が空いているデザイナーはいる。重役出勤・定時退社のディレクターもいる。噂で聞いたところ「こんな会社なら絶対に辞めない」らしい。なにも考えずにミスばかりして仕事を増やすディレクターもいる。その一方で、スキルが高いのに仕事を詰め込まれて昼飯も取れず休日仕事をしているディレクターがいる。人材は常に不足していて、案件は特定の人に偏る。偏りを減らすべく、社内勉強会は定期的に行っている。スキルには多少の差がある。しかし、意識には愕然とするほどの差がある。

本屋に行ったら、PhotoshopHTMLの棚の前で二人組みの女が話していた。

「floatってなに? あんまり使わないほうがいいんだよね?」「clearfixっていうのを使えばいいらしいよ」

10日で出来るのって絶対無理だよねー」「無理無理ー」

デザインセンスほしいなー」「まだ25でしょ? 大丈夫だよー。なんか本見て適当にさー」

――ウェブ業界に興味がある人は充分だ。充分に足りているんだ。上司・先輩は、連日仕事の合間を縫って正社員派遣社員面接を行っている。絶え間なく応募は来るが、採用にいたる人は少ない。頭数はいるが、人はいない。ウェブがそういう業界なのか、それともそういう社会なのか。それとも会社のなにかがうまくいっていないのか。今日風呂に入りながら社内勉強会ですることを考え、移動の合間にマネジメントの本を読む。

2007-12-09

メンヘラ下の人事評価

12月。ウチの会社は人事評価の時期だ。

他部署との関連、何より本人の納得性の問題もあり、部下の評価には毎度頭を悩ませている。

今期はその悩みが例年より強い。うちの部署にメンヘラが来たからだ。

彼はここ数年鬱病を患っており、1年のうち3から4ヶ月出社しないなんてザラ。

しかも基本的には無断欠勤。

鬱病になったきっかけがウチの会社デスマーチであるためか、

会社はクビにはしないで未だ雇用し続けているのだ。

その彼がウチの部署にやってきた。

彼は技術面については非常に能力が高い。

また、そこへのプライドも非常に高い。

会社にちゃんと来てもらった上で高い能力をきちんと出させる」

これをなしとげるのは上司である私の仕事だろう。

その能力を活かせる仕事を振ってモチベーションの向上をはかり、

鬱対策として昼食を一緒に取るなど彼の話を聞く時間をほぼ毎日もうけた。

そのおかげもあってか、毎日重役出勤ではあるがなんと彼は今期まだ1日しか休んでいない。

半年近く休んでいた前期に比べれば大幅改善だ。

とはいえ、彼にはやはり問題が大いにある。

彼はいろんな人に多大な迷惑をかけているのだ。

彼は会社プロジェクト病気になったためか非常に被害者意識が強い。

「おめー、どう考えても加害者だろ」

という局面であっても、その被害者意識は変わらない。

こんなことがあった。

うちの部署でつくった新商品について他部署へ教育する必要があり、

その講師を彼に依頼してみた。

新しい仕事を経験させることで、

病気以来打ち止めになっている彼の評価をあげることができると考えたから。

だが、数日間の教育のうち彼が講義をした日は1日もなかった。

講義のある日はいつも講義が終わったあたりの出社だった。

彼が突然来なくなる可能性も想定し、

「まずはウチの中から教育からはじめよう」と言う形にして

バックアップ体制を部署内で取っていたので

教育自体は問題なく終了はしている。

たしかに問題なく終了はした。

ただし、その私を含めたバックアップをしてくれた人たちに対して、

彼は一言のお礼も一言の謝罪もしなかった。

それにも拘わらず相変わらず被害者意識

むしろバックアップしてくれた人に対して敵意を感じているようにさえ見える。

自分より知らないくせに勝手講義しやがって、と。

私はすぐにこの時点で彼に注意することができなかった。

彼が会社に来なくなるのは結構トリガーがはっきりしている。

「何か傷つくことを言われたとき」に会社に来なくなるのだ。

私のところに来る前も、当時の上司に傷つくことを言われたからだった。

それをおそれていたため、結局評価面談の時期まで来てしまった。

さすがに今回は言わなければならない。

1年間遅刻はともかくとして欠勤はなくなるところにまで持って行けた。

技術については部署内でも要として力を発揮できるところにまで持って行けた。

休まれると困るので評価面談ではあえて指摘しないというのもできるかもしれない。

しかし、他のメンバーに不満を与える、結果的に会社に損失を与えるわけにも行かない。

私は彼に伝えなければならない。

お前の意識は常に被害者だが加害者になっている局面もあると、

そこをバックアップしてくれているメンバーにきちんと感謝の気持ちを伝えろと、

人は感情で動く、そこをうまくやるのが組織として動くと言うことだと。

彼はわかってくれるだろうか。

それとも会社にまた来なくなってしまうのだろうか。

2007-02-01

はてな匿名ダイアリー自然状態ですね

http://anond.hatelabo.jp/20070131154754

の書き主です。TB先をDisったつもりが、私がエサになるなんて、ヒィ~。なんていうか万人の万人に対する闘争というか、自ブログでこれやっちゃってたら泣いてるし。なんだけどここではdisるなり電波飛ばすなりがお作法のようなので、迷うことなく電波飛ばしてやる。

 とり合えず志望校先に書いとく、上智大学の神学部神学科。志望動機は端的に言うと神学とラテン語両方勉強できるから。

 長くなるけど以下に志望したまでのいきさつというかグダグダと、前に書いたエントリについて書きます。

 まず先のエントリを書いたのは、向こうの書き主がうじうじしてたのでdisりたくなったから、あと受験生って立場から見てどんな大学であれ大学入ってる人がうらやましかったから、あと遊んでる子が気になるとか三流私大がなんだって自分も思ったことあるしょうのないこと気にしてるから当てこすってやろうと思ったの、ってこれなんて反省文。なのに当てこすり部分きつくして書いたもんだから(タイトル含めて)、TBもらうは、ブクマコメこんなにもらったことないというか手厳しいコメもらうとやっぱ凹むね、匿名でも。というか、TBくれた人みたいに素直に書けばよかったわけね、ほんと私は素直ではとってもない。

 あとリアル学歴云々の話がタブーであるのもよくわかった。というかTB先の人の不満というかその大元になるもに私‘も’3年曝され続けたわけですがといまさら被害者面かよ!といわれるのイヤだし、そういう後ろ向きなもの持ったままでいるのいやなので全部はいちゃう。

 にしてもたくさんTBいっぺんにもらったことないのでちょっと困惑する。

http://anond.hatelabo.jp/20070131162229

http://anond.hatelabo.jp/20070131170249

 まずはこのお二方のTBから、先に書いたように私の志望大学上智大学の神学部神学科です。試験英語世界史、現代国語のペーパテストに加えて学科での学習の適性を計る小論文面接です。あと、願書出すために司祭(神父様なり牧師様)の推薦状が必要です。受験資格キリスト教徒である必要はありませんが、その場合でも在学校の教員の推薦状がいるようです。(できれば学部、学科の教育内容について熟知してる方が望ましいと書いてありましたが、願書に)

 偏差値の方ですが各予備校ボーダーを確認すると、40後半から50前半です。例年合格最低点は学科試験の50パーセント程度です。いちよう上記の理由があって(受験者が限られる)偏差値が低いものと心得ています。

 あと、、高校二年生のときにオープンキャンパスの際ではありませんがキャンパスの方は見学しました。身近にOBが幾人かいましたのでその人たちからも大学の雰囲気などについて伺ってはいます。

 大学での講義の内容については、大学シラバス担当教官ホームページなりブログについては一通り目をとうしました。さらに大学、学科名でググって、在学生ホームページも3っほど読んでみました(というか二つはブログ)。

 予備知識については、ミッション系の学校での倫理の時間と課外活動でカトリック研究会に所属していましたし、昨年洗礼を受ける際にも勉強しましたので十分備えているつもりです。無論、一次の学科試験が終わればそのあと神父様に紹介していただいた書籍も読んでいくつもりでが。

 大学に入学後にはキリスト教倫理学日本での教会およびミッション系の学校での教育活動について学びたいと思っています。また、宗教科教員の免許習得を目指したいと思います。

 とここまで書けばOK?・・・・・・・・・・・・・・・・これじゃつまんないでしょ?あれだけきつい事書いたのに。

 これ一般の人向けの説明、予備校のチューターとかあんまし親しくない友人にはこの説明で押し通してる。正直神学部志望と言うだけで驚かれるから、無論上に書いたコトには一字一句ウソはありあません。宗教科の教員免許はとるつもりだし、日本において教会が関わってる教育活動は私が学びたいことの一つであるし、キリスト教倫理学は信者の一人としてカトリックの考え方もっと深く学びたいと思ったから。でも、上に書いたことはやりたいことの一部でしかありません。

 http://anond.hatelabo.jp/20070131174254

言葉に甘えて書かしてもらいます。自分の志望動機きちんと全部話をした相手は父親と母親あと推薦書書いてくれた神父さまの3人だけです今のところ、あとは二次の面接試験官にできる限りのことを伝えようと思います。

 というかキー打つのに少し疲れた。ごめんなさい書きかけだけどいったんうpする。あと誤解されてるのいやだから先に書くけど、私地方在住だし、Fランだの地方の中堅国立大なんて気にしてません、でも自分の選択にうじうじして割り切れてない人はどんな人だろうと嫌いです。

お昼早めに食べたので書き足します。長くなる気がするので読みにくいかも・・・・。

 まず、神学部を志望するまでになったいきさつというか、自分語りうざいって人は時間の無駄なので読まないようにね。

 上にも書いたように私は中学受験してミッション系の中高一貫校に入りました。中学受験は自分自身で決めたものでなく、母親に強く勧められて決めた物です。塾に通い始めたのは小学校5年生の三学期から、受験する子たちに比べとても遅かったと思います。もともとは、塾の進学コースでなくて補習コースからでした。小学校の算数のテストで酷い点を取ったのがきっかけです。確か比だとか単位換算?だったかな確か。でも点数はよく覚えてる、たぶん相当怒られたからだと思う。65点だった。塾行くの初めはすごく嫌だった。たったの週三回、学校終わってから8時ぐらいまでだったけど。でも、国語は得意いだった。基本的に本読むの好きだったから。6年生の5月ごろの学力テストでかなりいい点数を取って、上のクラスに上がらないかと塾の講師に薦められた。母親セールストーク真に受けたのと、たぶんその時褒められたのが相当うれしかったんだと思う、私も承諾して上のクラスに上がることになった。それから週三だった授業が週5、学校終わってからと土曜日は朝から、日曜日も私、算数と理科電気だとかの物理分野苦手だったので補習があった。きつい時あったけど、そんなにイヤではなかったと思う、今思い返してみても。ちっさいころから母親私の教育に入れ込んでた気がする。夏休みドリルとか、なかなか進まないですごく怒られたりだとかした記憶があるから、すごく嫌だった。そういうことあっての反動だと思うけど、夏以降も成績上がっていって期待されたり褒められたりするのが当時はとてもうれしかったんだと思う。秋ごろの試験で今までは考えられなかったような学校合格が見えてきて挑戦するかどうか決めないといけなくなった結局滑り止め含めて挑戦校も受けることになった。結局受けたところは全部受かった。挑戦校は受験したあと正直落ちたと思ってた。算数ぜんぜんできなかったから。合格発表のときはすごくドキドキしたし、自分の受験番号が掲示されてるのはとてもうれしかった。

 春になって、新しい制服に袖通して、晴れやかな気分で入学した。でもすぐに勉強ついていけなくなった。特に厳しかった英語と算数同様に苦手だった数学、正直できない勉強を教室で受け続ける苦痛はすごく分かってるつもりです。一年生の時から落ちこぼれですから。でも、それ以外の科目は基本的に社会であろうが理科であろうが大好きだったからそれに対しては不満持たなかった。でもほんと泣きそうだった。あの時学年でアルファベットとか負の数の入った計算学校に入る前にきちんとやってなかったの私ぐらいだと思う。意識の高い家とかだったら、入学後も勉強しないといけないのわかってるから、家で教えたり、早い人は中一から塾行ってたりするし。私結局中学一年の二学期に数学英語アカ点食らうとかすさまじいことして、落ちこぼれがこれで確定・・・・・三者面談だよいきなり、入学して一年目で、挙句英語担当外国人教師に親子ともども死ぬほど流暢な日本語で1時間近く説教されるし。大きなお世話かも知れないけど自分の娘、息子の勉強の面倒見れない人はこいう学校に入れない方がいいと思う。得るものたくさんあったし、これから書くけど勉強面では親子ともども苦労すると思うから。

 そんなこんなだったけど、三学期はがんばったのと数学先生のお情けがあったのでアカ点は免れて進級できました。2年生から本格的にクラブ活動だとか委員会活動できるようになったので、もうほんと逃げるように打ち込みました。勉強の方は試験前のできる子のノートコピー一夜漬け、平常点のある教科は稼げるだけ稼いでおくとか、あと数学とかは、はなっからアカ点救済の追試を見越してまったくやらなかったり。追試は本試とまったく同じ問題なので前日に丸暗記したし。こいうの学んだのはクラブの先輩だと委員会の先輩、中高一貫なので似たような人はどこかにいるわけで、だれそれ先生はこういった傾向の問題ばっかり出すとか、甘いから何点最悪取ってればアカはでないだとか、以下略。正直補講だとか補習のある先生テストで悪い点取ったら、委員会とかクラブに支障出るので必要悪だとも思うけど、だけどこのつけ払うために浪人するはめになったけど。友達づきあいも比較的楽しくできたと思うし、親友と呼べる子は少なくとも5人はいる。この子たちには学校の間だけじゃなくて卒業して浪人してる時も心配してメールくれたり、手紙くれたり、はてはお守りまで贈ってくれたりしてほんと感謝してる。

 色々得たし楽しかったんだけど、私中学卒業して同じ高校に行くかどうかはかなりなやんだ。学校勉強に正直付いていける気がしなかったから。ここでもネックになったのが英語数学中学三年生ごろから数学高校の内容になってたし、英検の準二級全員で受けさせられたし、ほんと私一人だけ落ちるんじゃないかと心配した。それにクラブのほうも高校生と一緒に練習するようになったんだけど、高校クラブの顧問が最悪のことに私の数学担当の教師だったの、ほんといちいちいやみ言ってくるしクラブ中三でやめちゃった。あと、公立の高校進学しようかと悩んでて親に行ったら当然止められるし、挙句そこそこのレベル高校ですら受かるわけないって言われた。うん、なんか前にTB送った人と似てる気がするからなんか突っかかりたくなったんだと思う。なんかすごいそのころイライラしてて友達とも仲悪くなった。というよりも、クラブやめないように説得してくれたり、苦手な勉強手伝ってあげるだとかの気遣いがすごく負担に感じられたから、今思えばすごく身勝手

 心理的な負担がたたって、拒食症気味になるは不眠、貧血リスカはしなかったけど、内科で自律神経失調症って診断されてお薬もらう、でも病人扱いされるのイヤだったし薬いっさい飲まなかった。学校休むこと多くなって母親と延々喧嘩した。喧嘩するのイヤで、遅刻上等というか重役出勤して、保健室入りびたり、おしゃべりしたり本読んだり、保健室の本読み飽きたら、図書室こっそり行って本読ましてもらったりした。図書委員で司書さんにかわいがってもらっていたので、あと好きな科目の授業だけでることはあった。でもその授業に出るとその後の授業にも必然的にでないといけなくなるのでなるだけいやな数学英語の授業サボれるような時に教室行くようにしてた。当時は体の状態ほんと悪かったのもあるけど病弱で押し通してた。でこのプチ不登校というかメンヘルというかは、中三の一学期おしまい。担任と父親と校長面談して高校に進学することになった。夏休み英語数学の補講つきだったけど。中三はこのまま終わった。数学の時間は一番前の窓辺だったけど授業一切聴いてなかったし、英語は授業中いろんな子にあてる先生だったけど、私には一切当てることなかった。まあなんです、自堕落の生活はそれはそれですごく苦しいです。精神的にきつい人は無理する必要ないと思うし、そういう人に向けての「がんばれ」は善意からのものであるのはわかるけどほんときついし、ただ相手を追い込むだけなのは身をもって体験した。やめよう、ねほんと自分で自分で追い込んでるワケだし、そっとしてあげるのがいいと思う、個人的には。

 高校に入って気分一新、クラスもたまたまメンバーががらっと変ったので勉強の方も立て直して結句がんばった。高一のときは成績真ん中ぐらい。相変らず数学の点数は悪かったけどね。だってIAまともにできてないの??Bなんてできるわけがない。三角関数とか言われても三角比からわかりません、下手すると因数分解もやばひぃ。でもまあ、そこそこがんばった。でそこそこ勉強やろうって子達とも友達になってこのまま高2、高3と勉強すればよかったんだけど、よりにもよって文化祭の委員に巻き込まれ、こういうイベントというか企画して実行するのってすごく好きだから入れ込んじゃってほぼ高2のときの気力やら何やらを吸い取られ、そのあとすぐに修学旅行あって遊びほうけて、高三春先の模試でみんな頭が受験生になってるのにボーっとしてて気づいてたら最後の模試の成績表が手元にあってE判定にわれに返って、勉強始めたら年明けすぐにセンター試験卒業式で二次試験不合格でなんか終わってしまってた。高校まではこんな感じ。

 で自分の将来について考え始めたのは、中学3年生の時のグダグダから、なんかやったらめったら本読んだんだけど、どの本から影響を受けただとかは当然はっきりはわかんないし、父親にしろ母親にしろと喧嘩するたびに将来どうするんだって言葉を投げつけられたりしながら考えてるのもあるのではっきりは自分でもやっぱしわかんない。なので、自分が意識できてる原因だとかきっかけだとかしかかけない。

 今でももっているのだけど私の志望は国際政治勉強したい、これは基本的には変ってない。これがどうして神学部志望になるかは自分でも少し不思議に思うけど、自分の進路確認するためにも長くなると思うけど書いていきます。

 影響を与えた本というか、色々悩んでた時期に図書室にあったマーガレット・サッチャー自伝を読んだのがある意味国際政治勉強してみたいと思ったきっかけだと思います。ほんとはもっとあるとも思うのですが、少なくとも当時の私はサッチャー生き方にかなり心動かされた。あと家の父親が学校勉強はできる必要ないけど、本と新聞だけはよく読んどけ、あとは好きに遊んでろ、って言っていたのも下地になっているとは思います。中学受験の頃から社会科はとても好きでしたし、中学校に入ってからも基本的に得意科目だったし、好きでした。あと、カトリック研究会に入ったのも社会化の先生が国際化の世の中だしわざわざミッション系の学校に通っているのだし、キリスト教のこと勉強するのもいいのじゃないのかと授業中に紹介されたのがきっかけだったし、当時はクリスチャンになるなんて思ってもいなかった。カルチャースタディーぐらいのつもりだったのに。

 中三ぐらいからなんとなく国際的な仕事となんか勘違いしてつんつんしてる子が抱きそうなゆるい願望から始まったわけですが、一度これと思ったら結構こだわってしまうタイプなので、図書室の政治だとかあと関係ありそうな新書だとかはその当時かなり読みました。

 当時読んだ中で心に残っているのは、アルビントフラーの「第三の波」と「戦争と平和」がかなりよかった。あと父親の書斎にもぐって文芸春秋バックナンバー読んだり、あと小室直樹とかいわゆるオヤジビジネスマンが読みそうな本をかなりがりがりと読んで、父親に生意気だとか結婚できなくなるとか、ガキがグダグダぬかすなとか言われてむくれる。全共闘崩れで心情左翼でそのくせ、根が女性蔑視だし、オヤジだし封建的だと反発して、日曜の朝だとかにやってる報道番組のたびに父親と喧嘩するようになる。朝まで生テレビならぬ、朝から生焼け討論。この当時母親あきれかえって口出しせず、弟は朝から難しい話すんなって愚痴ってました。小さな政府安全保障上の懸案の解決になぜか固執してた。当然ながら小泉首相は支持してた。ついでだから書くけど、安倍政権は支持してない。

 父親とのdisりっこもあったんだけど、当時読んだ文言春秋北朝鮮問題について扱った記事が引き金になって、安全保障論とか本格的に勉強したくなる。たしか、この記事「希望の国のエクソダス」とか巻末で連載されてた頃の記事だと思う。確かミサイル開発、核開発、麻薬だとか拉致についても書いてあったと思う。(調べたら1998年の記事みたい、読んだのはたぶん2001年ごろ)

 あと、2001年は私にとって大きな年だと思ってる。その年の4月に小泉政権になって、9月にはワールドトレードセンタービルはなくなってたし。12月には不審船事件もあった。かなり短絡的だあったことは今から思えばそうだけど、当時何度も何度も繰り返しハリウッドのそれこそCGじゃないかと思うような映像見せ付けられて、そのすぐ後に日本国籍不明とは言え外国船に実弾を打ち込む有様見せられて危機感を抱かない方がどうかしてると思う。で当時の私は防衛庁国家二種試験を受けて、安全保障についてかかわりのある仕事につこうと考えるようになった。当時から、防衛庁防衛省になると思ってたし、外交分野でも安全保障に関する必要性は増すと思ってた。なので、それを扱える人材の受容も増すとまで考えてた。その頃からネット使い始めてたので、検索して安全保障論できそうな大学探して志望校にしてた。きちっと決まったのが高二の時、国立大と私立一校ずつ当然両方とも受けます。第二志望と第三志望ですから。なのでこの時点ではまったく神学とかは考えに入ってすらいなかった。後すごいたまたまなんだけど、TBくれた人のTB先の江畑健介さんは知ってます、書籍も二冊ほど手元にあった気が・・・・・頭の上がチャーミングな方ですよね。

 そんなこんななんだけど、人より志望校早くに決まってたはずなのに上で書いたように学園生活をまんぴつしすぎて、現役の時は不合格でした。センターボーダーマイナス40点だったと思う。

 で当時はホンと凹んだのと父親に口ばっかし達者だし、考えに偏りがあるから反省しろといわれていたのですが、ほんと反省できました。同じ大学の後期試験を受けたのですが、志望動機などについての面接があったのですが、面接官は3人、一人は英語での面接担当、後でググッたりして調べたら、英語の授業の教官で結構右より、英語帝国主義論?みたいのこといってた気がする。とり合えずアメリカに媚媚するのが嫌いな人。もう一人は国際政治学が専門、残念なんだけど調べてもどなただかがいまだにわかんない。質疑応答主にした人だったのだけど、東アジアの地域安全保障について将来貢献したいしそのためにこの大学勉強したいといったらいたく気に入ってくれた気がする。そんでもってもう一人が一年次の導入の講義担当教官国際関係学国際法が主な研究領域かな?というかこの人によりにもよって大学面接で噛み付いてしまったんです。ほんと、センターの成績たいしてよくないから点数稼がないといけないのに、NGOだとかNPO、ようするに国境無き医師団のような活動についてはどのように考えるかと聴かれて、その役割過大評価する必要はない的なことをいってしまって、前の二人の面接官とは4,5回内容についてどんどん突っ込んだ質問が出てそれに答えって感じでうまくいってたのに、その質問いついては私が一回答えてそれでおしまい。一瞬にして部屋の空気が凍りついたというか、すごく不機嫌そうでした三人目の教官、なんか残り二人の教官のアチャーという空気も感じられ、いたたまれなくなったのか、少しの沈黙のあと、真ん中の教官におずおずとこれで終了ですといわれて退出しました。

 そのあと、校舎出て携帯取り出して即カトリック研究会で面倒見てもらってた神父様に電話して洗礼受けたいってなきながら電話してた。何というか懺悔ってこういうことを言うんだなというか、父親にも言われてたし自分でも少し先鋭化しすぎてたのもわかってたけど、自分の根拠のないプライドと自信はここで崩壊。ほんと帰りの電車で周りドン引きするのかまわずおお泣きしてました。情けないやら、悔しいやら、後悔やらほんとなんかよくわかんない感情。で上に間違って昨年と書いてたけどもう年越してるから一昨年です。なんか今までちゃんとしてこなかったことやらに反省して、他人に頼っちゃダメだとこの期に及んでまだ我をはって、周り止めるのかまわず自宅浪人した。うん、馬鹿なのわかってる。自分でも。

 まだ、一浪の時は自分で自分の責任で周りに頼らずがんばんないとなんてこだわってた。ほんと死ぬ気でやった。そこでわかったのは自分は自分の習慣なり感情なり欲望を完全に意志によってコントロールほど強くないってこと、正直自分自身をマネージメントできるのは一握りの人間だけだし、ほんとの意味で賢い人はこういうことできるんだろうな。あと、自分がいかに多くのもに頼らざるえないかも身にしみてわかった。家族にしろ気を使ってくれたし、教会に行くようになったけどそこの人たちにも励まされたし、友達にも心配してもらったし。自分で何か一人でやりきったというのは、ある年齢ぐらいまではそれでいいし自身を持つためにも必要だと思うけど、大人になるには捨てないといけないものだと思う。やれるだけやって大学受けて落ちた時は頭真っ白、センター英語いまいちの点数しか取れなかったのが敗因といえば敗因ですが、言い訳にはならないと思う。一発勝負なのははなっから分かってたワケだし、テンパってぐずぐずになるのはやっぱし演習が足ってなかったわけだし。

 で、正直地元国立試験終わってから出願できる大学考えてたんだけど、父親にもう一年やれその代わり予備校にも行って最善尽くせって言われた。ほんと贅沢だと思う。心配かけてるし。すぐに予備校に入るしたくして、昨年できてなかった数学といまだに苦手意識のあった英語がんばった。成績も一浪の時に比べたら少ししかあがってないけど、やることはやってきた。というか試験もうすぐだからこういうことは合格してから書けとか言われそうですね。というかあとは第一志望に受かれば万事OKなわけですが、上智の神学科に志望変った理由を書いてもう終わりにします。というかほんと長いね。相当フラストレーションたまってるんだ、わたし。

 神学部に志望が変った理由を端的に述べると、2001年にもってた危機感というかそういうものが変質したからだと思う。当時は隣の危ない国のことがかなり気になっていたけど正直それは些細な問題でもっとまずい物というか大変なことが起きそうだなと、予備校行きつつも読書はしてきてつもりだしなるだけいろんなところにアンテナ張ってきたつもりなのだけど、正直言うとまだぜんぜんはっきりしないでもなんかとってもまずい気がする。これじゃほんとただの電波だよな。なんか色んな人が色んな場所から変化が起きる起きるというけど言ってる当人たちもなんかよくいまいち分かってないみたいだし、そのなんだかよく分からない変化に対して自分の価値観だとか行動規範を固めたいのが一点。

 もう一つはキリスト教自他が宗教改革というかたちで大きく変化したけど‘その変化’自体を知りたいというか、いろいろアプローチの仕方は考えてみてるけど、たぶんこの先起こる大きな変化と同じぐらい大きな変化であると思っているので、そのとき生きてた人たちがどうやって考えて行動してたか知りたいから。

 なんだか長々と書いてて本題の部分が短いしあいまいでごめんなさい。

 でもう少し、前のエントリーはきつい当てこすりにしても、正直過去を後悔してぐずぐず言うのはあまり建設的ではないと思う。そんなことしてたら私後悔しっぱなしで持たなくなるし、やれることをやれるだけ、他人に頼りながら少しずつでもやるしかないと思う。

 長くなったけどこれでおしまい。かける機会をもらえたことに感謝。時間少なくなってるのでこれで切り上げます。読んで下さってありがとうございます。

 

 

 

 

 

 
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