言葉とはなんだろうか。
私は言葉とは服のようなものだと思っている。それを着る人の第一印象を決める。服に着られるとも言うように、身の丈にあった、あるいはその人の個性にあったスタイルがある。それを楽しむ人もいれば、実用的な使い方しかしない人もいる自由がある。挙げればキリがないが、これだけの、しかも重要な点で重なるのは、この2つが人を人たらしめる大きな特徴だからではないだろうか。
そう考えるからこそ、言葉を縛る文化にはほとほと嫌気がさす。「正しい日本語を使いましょう」、なんて傲慢な言葉だろうか。
少し話がそれるが、私は社会人だ。今年2年目の若手社員である。うちの会社は基本的に服装に特に規定はなく、制服もないので、まあ、男性は大概スーツで女性はオフィスカジュアルという人が多い。ただ寒冷地で冬場は冷え込むので、オフィスカジュアルというよりはカジュアルにかなりよった服装になっている。だからといって服装について女性たちが「ちょっと今日の服装ラフすぎるんじゃない?」などと管理職に言われているところは目にしたことがない。私自身も服装については特に指摘されたことはない。それはなぜか。よほどの奇抜な服装でなければ職務に支障はないからだ。当たり前のことだろう。今時ネクタイの柄が派手すぎるとかスカートが短いとか、外回りに行くわけでもないのに言う人はいない。個人の自由だ。規定の制服であれば着崩せば問題はあるかもしれないが、それも勤務中だけであってプライベートでは何を着ようが文句を言われる筋合いはないし、言う方がおかしい。これも当然のことだ。
先ほど、服装について職場で指摘されたことは特にない、と言った。一度もない。この一年と二ヶ月で。なのに言葉については数え切れないほどある。直接的ではなくとも、咎めるように遠回しに言われたものも合わせれば結構な回数だ。私の言葉の使い方に著しく難がある?ここまでの文章が恐らくそうではないという証明になっていれば何よりだ。直近の例で行くと、全然、という言葉だ(しかもこの指摘は、一応プライベートであるはずの飲み会中になされた)。肯定的な全然は一応は一般的に誤用とされている。つまり、「全然大丈夫」のような用例である。しかし、はっきり言ってしまうとこれは誤用とは言い切れない。現代の人々が「誤用である」としただけで、夏目漱石も肯定的な全然の表現を使っているし、それ以前にもその表現は散見される。あなたたちに、夏目漱石もその表現を使っている、という暴力的表現を覆すだけの論拠が提示できるのか?
というか、人は何をもってして「正しい言葉」なんてものを判断するのか?もし「正しい」という単語を「その時代の多くの人々が使う用法で用いられていること」と定義するのなら、方言は大概間違った言葉だろう。それでいいと思っているのなら正しいという言葉を揺るぎなく使い続ければいい。でも私はこの風潮が、本当に本当に嫌いだ。正しいという言葉の傲慢さ。マナーという点では同じなのに、なぜ言葉を縛ることは服装を縛るよりも圧倒的な正義だと考える人が多いのだろう。言葉そのものが保守的であるという側面はあるにせよ、それを指摘することそのものを「正しい」と疑わない感性こそ、私は「正しくない」と思う。平安時代から行われてきた先輩方からのありがたいご助言とご指導ご鞭撻に、今さらやめろと言ったって仕方がないかもしれないけれど。ファッションの多様性がなんとなく認められるようになってきたように思う現在、せめて「正しい」ではなくて「適切な」という形容を使う程度には、現代人にも繊細で適切な言語感覚を持ってもらえないものかと思う。