はじめに断っておくことは、これはまぎれもない生存バイアスである。
話の一つくらいで聞いてほしい。
自分がいじめられた原因は、不良グループの一員のプライドを傷つけたことだった。
いじめと言えば見た目や行動が特徴的な人間が受けるものだと高をくくっていたので、まさか自分がこんな目に遭うだなんて想像すらしていなかった。
不良グループの前でそいつに「パンを買ってこい」と言われたことを「いやだね」と断ったのがきっかけだ。そいつはその場で他のメンバーからかなりバカにされたのだろう。
翌日そいつは二人組で自分のところに来て、再び「パンを買ってこい」と言った。
再びそれを断ると、二人は机の両脇に立ち突然脇腹を一発殴ってきた。全力ではないことは分かったが、鈍い痛みが走った。
その日以降同じようなことが毎日毎日、何回も何回も繰り返されるようになった。
その内理由もなく殴ってくるようになり、暴力も少しずつエスカレートしていった。
それは、立ち向かうこと=反撃することだと思っていたということだ。
しかしそれを続けていく上で、そのことが間違っているかもしれないと考えるようになった。
なぜなら、それを続ければ続けるほど、自分も仲間も傷が増えていく一方だったからだ。
それに例え相手に傷を負わすことが出来ても、報復は何倍にもなって自分に返ってきた。
結局自分の行動は、相手に報復の正当性を与えてしまっていたのだ。
これではいじめがなくなるわけがない。むしろエスカレートして当然だったのだろう。
いじめに耐えられなくなり中高一貫校を高2で中退するまでの3年間、自分は多くの深い傷を負うことになった。
その後は友人とも音信不通になり、全く新しい環境で一から再スタートすることになった。
両親が熱心にハマる宗教に頼らざるを得なかったが、今になってみればそれがなければとうに命を捨てていただろう。
それから20年が経ち、今では結婚もして子供を授かることが出来た。
守るべき家族ができて、ようやくあの頃の自分と真正面から向かい合うことができてわかったことがある。
立ち向かうということは、しっかりと対話で解決することだったのだ。
いじめる人間の心理も、反撃する心理ももとを正せば相手を裁こうとする気持ちだ。
しかし、本来その場にいる誰にだって誰かを裁く権利はないはずなのだ。それは当然親にも先生にも与えられていない。日本ではそれこそ民事と刑事しか持ち得ない権利だ。
それなのに誰かが誰かを裁こうとする。だからそこに善悪が生じてしまい、どちらかの暴力が容認されてしまう。
教師がいじめを後押ししてしまう典型的なパターンと言ってもいいし、実際に自分が担任に相談したときも善悪を問われるばかりで自分すら責められかねない勢いだった。
そうしてわかったことは、少なくともいじめに対して是非を裁こうとする人間の話には耳を傾けてはいけないということだ。
どちらかが良くてどちらかが悪いだなんて簡単に結論付ける人間を、たとえ自分の味方になってくれたとしても信用してはいけない。
一緒に状況を考え、問題を紐解き解決を冷静に考えてくれる人間が必要なのだ。
お互いがお互いを裁くことが許されないのであれば、残された道は和解か決別以外にはない。
さらに、どちらかがどちらかに攻撃を加えることをどれだけ正当性があっても許してはいけない。
なぜなら、いじめが残すもっとも良くないものは、他でもない当事者に対する傷痕だからだ。
そうして付けられた傷痕は、小さなものなら完治できても、大きなものは一生をかけて付き合わなくてはならなくなる。
だからいじめられる境遇にあったら、どれだけ傷を負わないようにできるかを一番に考えてほしい。逃げることが時に心の傷になることだってある。
その時その時の状況で、どれが一番傷を負わないで済むかを選択することが大切なのだ。
ただ、勘違いしてほしくないことは、傷痕があることが必ずしも不幸とは限らないということだ。
その傷痕が原因で自分の臨むものが手に入らなくなってしまうかもしれない。でも、自分の臨むものが手に入ることと、自分が幸福になることとは必ずしも一致するものでもないのだ。
自分はこの大きな傷痕のおかげで、得られた沢山の幸せを実感出来ている。
それを今掘り下げるつもりはないが、なにより、もうそこに傷痕がある以上なくすことはできないのだから、それを嘆いて生きるより受け入れて得られるものに目を向けたほうがよいのだ。
最後に一つ、あの時逃げ出したことは正解だと思っている。
なぜなら、いじめは少しずつ、でも確実に体力と精神力を奪うものだからだ。時に周囲の対応にだって大きく奪われることさえある。
もしこの二つが消耗している時にどれだけ時間をかけて悩んでも、それによってポジティブな結論が導かれることはないだろう。
疲れていたり無理をしていると感じるようなことがあれば、そのときは何よりも休息が必要だ。
傷を負わないように、負った傷を癒せるように選択をしていけばよいのだ。
この想いが、あの時の彼になにもしてやれなかった自分に届いてくれることを願う。