それは、オタク・童貞的なこじらせた身勝手な恋愛感・世界観を全面肯定している様に感じたから。
あの花に出てくるキャラクターはどれも魅力的だし、青春群雄劇的な展開で流れる様に話を進める様とか、秘密基地とかの誰もが懐かしさを感じるファクターを入れてきたりとか、OP&EDテーマの曲は物語と凄くマッチしてたし、メンマは最終的には成仏してしまう事を物語前半から定時して、安易なハッピーエンドが無い事を示唆しながら、与えられたシチュエーションではベストと思える終わり方を提示していたと思う。
見ていて面白かったし、感動もしたけど、何でかラストは入り込めなかった。
それは、最後、みんなが独白するシーンが小舞台みたいな急展開で、そこで感情移入が少し途切れてしまったせいかな?とも思っていたのだけど、物語が終わってから色々考える内にそれだけじゃないなー、と言えてきた。
まだ考えがまとまりきってはいないので、チラ裏だけど、書いてみようと思う。
みんながメンマの死を負い目をきっかけにトラウマを抱え、疎遠になってしまう。
それを、メンマの黄泉帰りをきっかけにトラウマを解消し、関係性を再構築する、と言う物語。
もちろん、他の要素もいっぱいあるけど、話を分かりやすくする上でそう言う仮定の下に話を進めたい。
各々が抱えたトラウマを、ストーリーを通して、徐々に視聴者に提示するなんてのは非常に上手だった。
このストーリーの過程で、ポケモンを探したり、花火を上げたり、めんまのためにメンバーは色々行動を起こす。
ただ、めんま以外の超平和バスターズの面々は、極論をすれば、常に"めんまのため"より"自分のため"が上に来ていたと言う描写になっている。
しかも、それをメンバー同士で隠しているから、いつまで立っても昔の様に信頼感を築けない。
結局、それではダメだと言うのに気付いたのが最終話で、自分をさらけ出す独白につながる。
ただ、この独白の段と言うのがちょっと納得いかなくて、この時のみんなの行動って、結局、"めんまのため"に何かした訳じゃなくて、"自分のため"なんだと思う。
懺悔って、相手のためを思ってする事じゃない。
こう考えていくと、"自分よりメンマのためを思って行動した"と言う描写が最後まで描かれていない事に気付いて、驚愕してしまった。
これ、何かで見た事あるって考えたら、ヲタクとか童貞こじらせた人の恋愛感・世界観に似てるなーと思った。
具体的には問題を解決するのに、"自分が努力する"と、"自分の努力を無条件に受け止めてくれる人がいる"の二つの要素で解決が付く、っていう価値観みたいなの
例えば、恋愛をする際に自己承認欲求が強すぎて、自分のコンプレックスを全て相手にさらけ出して、それを全て受け止めてくれる、みたいなのが恋愛だと夢を見てしまう。
付き合いたてとかちょっと仲良くなっただけなのに、コンプレックス丸出しの痛い長文メールなんかを送った事無いだろうか?
僕は良くそういった事をやって、ある時は相手が上手くスルーしてくれたし、ある時はそれをきっかけに疎遠になったりもした。
付き合いたてとか、そもそもそこまでの信頼感が無い時にコンプレックスを剥き出しにされるのは、相手に取って負担も大きいし、そもそもそれを受け止める義理も無い。
それを受け止めてくれるのが"好き"って事でしょう?って言うのは恋愛に幻想を抱き過ぎだと思う。
もちろん、恋愛に限らず、人との関係性の中で自分を全くさらけ出さないのなんてのはつまらないけど、それは相手と重ねた時とか相手を大事にする事で、信頼感を築いて、それを担保に少しづつ自分を出していく事じゃないかと思う。
もちろん、所謂リア充と言われる共感力が人並みに働く人はこう言うのを無意識に行えるんだけど、ヲタク・童貞的恋愛を拗らせた人はこれが全く出来ない。
相手のために何が出来るのか?これを言ったら迷惑だろうかと言う視点のリアルさが欠けてるし、欠けてる事にも気づけていない。
あの花に戻って考えた時、幼少期を一緒に過ごした仲であると言う点でメンマとみんなの信頼感の描写がある訳だけど、これは与えられた物であって、努力とか工夫をして築き上げた物じゃないよね。
あの花の話は超平和バスターズの繋がりがメインであるけれども、それを得るための他者への気遣いだとか努力とかが全く無くて、努力した点って言うのは偽りの無い自分をそのままさらけだす努力、っていう自分のための内向きの努力しか描かれていない。
じんたんの"人の事を常に考えて行動して、自分を抑圧してしまう"キャラクターに付いての描写も、実は殆ど無かったと思う。
勿論、幼少期のじんたんはリーダー格で、先頭に立ってみんなを引っ張ったり、みんなの面倒を見たりしていたんだと思う。
ただ、これらはたまたま何かのきっかけでリーダー的な立場に立った人が、みんなが望むリーダー的行動を何となく取ってたに過ぎず、やっぱり努力や工夫をして得た物じゃない。。
これは、立場を失った高校生じんたんが結局、他者のために何も出来ないし、自分の抱えている問題(不登校)すら解決出来てない事より明らかだと思う。
敢えて挙げるなら、あなるがラブホに行った疑惑の時にじんたんが立ち上がったシーンはそうだけど、何というかあれは主人公補正みたいな、まぁ主人公だったら、あぁするよね、と言うのが大きくて、アレだけで、じんたんが仲間のために努力している、と言う描写だとするのはちょっと無理があると思う。
何か色々散漫になってしまったので、繰り返すと、結局、自分のトラウマを包み隠さず独白する(自分の枠の中だけで他者を意識せず努力する)→トラウマを受け止めてくれて大円団、と言うのがイマイチだと思うのだ。
努力が常に内向きにしか向かって無くてお手軽・身勝手過ぎるし、受け止めてくれる他者への視点が欠如している。
エンディングでじんたんが高校に通う描写が出てくるけど、これだって結局、不登校と言う自分の問題を解決したにしか過ぎない。
彼らが、自分自身のためだけで無くて他人のために何か生み出した事と言えば、メンマ家のトラウマを花火によって解消した事だろうか?あれは動機はどうあれ評価出来ると思うけど。
もちろん、主人公達は高校生なのだから、他者への視点が不器用でしかるべきなんだと思うけど、視聴者のオッサン達が感動しちゃうなら、もうちょっと考えた方が良いんじゃないかな?と思った物で。
逆に言えば、最初からメンマがトラウマを受け止めてくれたら、メンバーが努力する描写が無いから、花火を上げる段になっても自分のトラウマを表に出せない→それじゃ解決にならない→やっぱり自分に正直にならなきゃいけない、と1段、下の状態からみんなをstartさせる事で、超平和バスターズの面々の努力を表現している点は上手いなーと思った。。