子が自閉症スペクトラムと診断された。
いわゆるアスペルガー症候群というやつだ。
2013年に診断の世界基準とされるDSMが改定された(DSM-5)ことで、アスペルガーは自閉症の一形態ということになっている。
診断と言っても、傾向があり可能性が相当に高いという話ではあるけど。
自閉症スペクトラムがその名の通り連続体(スペクトラム)なので個人差が大きく、
その上血液検査みたいなもので数値判定することもできず、症状が広範で明確に区別できないので診断も難しいと思われる。
今のところ知的障害はないように見える。
自閉症は他人と関わりを構築するのが苦手・或いはできないだけであって、知的障害を伴わないものがある。
幸いというか、数ヶ月前にあるきっかけで自分自身がアスペルガーではないかという疑いを持ち、
田舎であり心療内科の数がほとんどなく予約が取れないこと、主訴(実際に生活で困っていること)がないことから
心療内科にかかることもできなかったけど、思い当たることが多すぎて100%間違いないと確信している。
そしてその才能(アスペ)をいかんなんく発揮し自閉症スペクトラムについて無駄に広範な知識を手に入れ
診断がくだる前から知識武装がされていたこと・パートナーにその事実を伝えておいたことで
それで困難と感じていないのであれば障害ではなく個性と認識される。
その意味で高機能自閉症は「自閉症スペクトラム」であって、「自閉症スペクトラム障害」ではない。
いかに「障害」にしないか、がこれからもっとも重要なところだと思っている。
保育園も含めてどうこれから「介入」していくのかということを考えているときにふと気付いた。
本人を社会に順応させるのが目標ならば、家族は本人を取り巻く環境の一部であって、本人に合わせて介入される側だ。
ある程度知識を得たとしても、それは生半可なもので、臨床経験が豊富な人の意見に従う必要はあるだろう。
子供の教育に介入するのは、プライベートに土足で踏み込んで来るようなもの。
それなら我々が用意しておくのは雑巾(掃除道具)なんだろうなと。知識よりも心の準備の方が大切だなぁと思った。
未満児の段階で自閉症スペクトラムを診断される。
自分が同じように診断してもらえていたら、おそらく全然違う人生を歩んでいたんだろうなと思う。
障害を個性だと主張しても、やはり障害は障害なのだ、目が見えない人はどう頑張っても本を読めないように、
僕はどう頑張っても普通の人のように円滑な人間関係を築くことはできない。
努力で解決すべきか、諦めて他の道を探すかの選択をするときに、
「これは障害であり、自分には不利である」と分かっていたら、どれだけいい選択ができたことか。
姿勢が悪いのを物差しを背中に当てられて強制されるようなこともないだろうし、
(姿勢が悪いのもアスペあるあるらしい、おそらく同じ姿勢をとることがあまりなく自然に体幹が発達しないのだろうと推測)
時間の多くを長所を伸ばすことに当てられたらどれだけ良かっただろうか。
アスペルガーのもう一つの特徴は興味の局所性と集中であり、興味がないことはとことんできないということだ。
人との関係を構築する能力を失う代わりに得ているものがあるそうで、多くは数学的能力(論理的思考)か、言語的能力だそうだ。
自閉症スペクトラムの子供に調査を行ったアメリカの研究では、一人も自分の障害をなくしたいと思っている子はいなかったそうだ。
僕も同感だ。
障害が自分の能力の一部であり、危ういバランスの上にいることを自覚しているのだろう。
自閉症スペクトラムは遺伝性のものであるという強いエビデンスがあって、
自閉症の親から自閉症の子が生まれる確率は通常の50-100倍だそうだ。
そう、100%僕が悪い、と同時に、100%僕の親が悪い、と同時に・・・・遺伝とはそういうものだ。
妻には申し訳ないと思う。しかし生まれつき他人と違うというのは、メリットになりうる。
子にもそう思ってもらえるよう、色々模索して行きたい。
幸いと言っていいのか、僕も通ってきた道だ。
登山で延々藪漕ぎをするのはしんどいが、アスファルトで舗装されていても醍醐味がない。
ちょうどいい登山道を用意し、同時に登山道の作り方を教えて行けたらいいなと思う。
しかし楽観もできない。
知的障害がないとは言えないし、
これから発達が進むにつれて見えなかったものが見えてくるだろうし、
前途は多難だ。
ちなみに今のところ生活に何も困っていないが、特別児童扶養手当の申請はしておく。
困ってからではなく診断が出た段階で申請するのがベストだと思うし、
行政の用意してくれているセーフティネットには引っかかりやすくしておいた方がいい。
運よく検診で拾って貰えたのは本当によかった。