はてなキーワード: マイコンBASICマガジンとは
ゲームについてはかなりの「ガチ勢」であったらしく、『アフターバーナーII』はアーケードゲーム雑誌『ゲーメスト』のスコアランクに応募して全国2位になったこともあり、『マイコンBASICマガジン』で行っていた『F-ZERO』のタイムアタックも、ワールドレコードで2位まで取ったことがあるという[10]。
『ストリートファイターIII 3rd STRIKE』に至っては、勝つための練習時間を作るため、会社を辞めようかと迷った時期すらあったという[12]。さらに吉田曰く、AOUショーに『ストリートファイターEX』が出展された時、出張を利用してプレイしに行き、ザンギエフを使って57連勝したという。その後、近くにいたスタッフに「開発チームが戦いたいって言ってるのですが、お願いできますか?」と言われ、喜んで「もちろんです!」と答えた後に、真剣にプレイして開発者の3人に完勝した。それが原因で『ストリートファイターEX』のリリース版で「ザンギエフがめちゃくちゃ弱くなってた」という[10]。その後、『ストリートファイターEX2』の時にたまたま開発元であるアリカの関係者と会う機会があり、この話をしたところ「聞いたことありますよ!AOUショーでめちゃくちゃ連勝してる奴がいて、ザンギがおかしいって話で修正されたんです」と言われたという[10]。
ゲームは昔から好きだった。インベーダーブームを体験し、近所の駄菓子屋の筐体で遊び呆けたりした。
そのうち、コンピュータ(パソコン)でどうやらゲームができるらしいと知った。ちょうどマイコンBASICマガジンが創刊されたころだ。
アーケードゲームは少しづつ内容がレベルアップし始めた。ゼビウスが発売され、その神秘的な内容に痺れた。
そして、ゲームは百花繚乱の時代を迎えた。毎月のように新しいゲームが発売されて、俺は嬉々として紹介記事や攻略法を読み漁った。
この頃はまだその新しいゲームたちの名前をほとんどそらんじることができた。ゲームの内容が高度になっても、まだ俺の手の内にあった。
ゲームの出来を測るのに「攻略時間」が入り始めた。長くプレイできるほど良いというやつだ。それを競うようにゲームの必要時間が長くなり始めた。
ゲームだけに時間を割くのが難しくなった。その上、発売されるゲームの数は増える一方だ。
だんだんゲームは俺の手に収まらなくなってきた。一つのゲームを隅々まで遊び尽くすなんて真似は不可能になった。
最近のゲームはクリアするのに最低100時間かかるのが当たり前になったらしい。
メガドラミニのダライアスは例の勝手移植のものだと思うけど、商用ではなく個人で移植した物をメーカーが権利を買い取って販売する事は特例だろうし公には勝手移植のものだとは明言してないんだろうね。
「マイコンBASICマガジン」を発行する電波新聞社に、当時小学生が「PC-6001でゼビウス(もどき)を作った」とプログラムを「投稿」してきた。それはオリジナルのゼビウスとは全然内容の異なるものではあったが、PC-6001でリアルタイムでまともに「遊べる」シューティングゲームを作る事など絶対不可能と誰もが考えていただけにBASICマガジン編集部は大騒ぎとなり「これは是非とも商業販売するべきでは」との意見で一致しマイコンソフト(電波新聞社のブランド)制作としてオリジナルのnamcoの版権を取得するべく、また「監修」として実際に遠藤雅伸氏(ゼビウス開発者)にも、その「投稿作品」をみてもらったという。遠藤氏は「ゲームの完成度としては兎も角、『ゼビウス』という名前で出す事は許可できない」と一度は断ったものの、マイコンソフト側の「ゼビウスとしてでは無く、「タイニー(版)」ではどうか」という提案を承諾し、その投稿作品は「タイニーゼビウス」という名前でマイコンソフト制オリジナルゲームとして発売される事になった。1983年から84年にかけてのお話である。
http://anond.hatelabo.jp/20140722143610
ブコメにも幾つか挙がってるけど、神童・元増田に対して「お勉強ができる」
特に数学の素養があったなら、高校の数学なんぞは適当に済ませて
アマチュア無線の免許を取るなり、プログラミングを始めるといった
元増田の年齢は知らんが、四半世紀前なら「マイコンBASICマガジン」等のプログラミング投稿雑誌があったし、
そういう世界では、小中学生でも大人と同じ土俵に上がれたから、
飛び級で大学に入って腫れもの扱いされるよりよっぽどスリリングな体験ができただろう。
現代ならGoogleプログラミングコンテスト? ロボカップ等のロボットコンテスト?
「我こそは神童でござい」などと踏ん反り返る暇があったら、年齢無差別のバトルに飛び込んで
コテンパンに打ちのめされてきたらいいのだ。
…以上は、元増田と同じく
親バカ上等。
たくさんのブックマークと期待コメントありがとうございました。続きを書いていきます。
※これは連載です。初めての方は下記から見てください。
衰退していくIT業界に向けて、30半ばシステムエンジニアが昔の思い出を語るよ 0001
兄貴のFM-7で、初めはゲームばかりやっていたのだが、しばらくすると「信長の野望」には裏技が存在する事を知ってしまった。裏技を使い、稼いだ金に物を言わせて増兵をしまくり、簡単にクリアできるようになってしまった僕。(ど忘れしたのでどんなのか調べたら、『いったん年貢率を0にしてから収穫前に上げることで米収入が上がり、その米を元手に富国強兵を行うといったテクニック』らしい。)
その頃やっていた他のゲームは、ハイドライド、ウィザードリィ、ザ・ブラックオニキス、デゼニランド、ポートピア連続殺人事件など。自分で買ったゲームがほとんど無いので記憶は薄いのだが、みんなテープ媒体だったように思う。
一方、兄貴はというと、なにやら熱心に毎月雑誌を買って、どこかへ投稿しようと試みているようだ。当然、それとなくその雑誌も読んでみる事となる。それが僕と「マイコンBASICマガジン」、そしてプログラム言語との出会いだった。目の前にある機械がゲーム専用機ではなく、自分の思い通りに動かせるのか、と気付いた時の驚きと快感。今も忘れられない。
前述の通り、その当時のマイコンは、電源を入れるとROMから「BASICモード」がいきなり立ち上がるのだけど、この状態から自力で何かを動かしたい場合、BASICと言われるプログラム言語を実行することにより、色々出来るようになる。
マイコンBASICマガジン(長いので以降「ベーマガ」)は、主にBASICのソースコードが掲載されている専門雑誌だ。基本的に、雑誌の構成は読者からの投稿で成り立っており、自ら投稿したBASICのソースコードがベーマガに掲載されるかどうかが、その当時マイコン小僧たち最大の憧れであり、ステータスだった。
ご他聞に漏れず、ベーマガを読み始めてから僕はBASICの虜となってしまい、今までやっていたゲームの頻度は自然と減り、BASICへ時間を割くようになった。
今思えば、兄貴は本気でBASICプログラムを投稿し、掲載される気満々だったので、かなりの難しいコードを書いていたんだと思う。結局、彼の思いが果たせたのかは分からない。掲載されたコードを見せてもらった事が無いし、それなりに競争率が高かったので多分ダメだったんだろうと思う。
一方、僕といえば、ベーマガで面白そうなゲームのソースを見つけては、一生懸命コードを入力し、誰かが作ったゲームをやることに専念していた。しばらくの間、記憶する媒体がテープレコーダーしか無かった為、目の前にある「ベーマガ」のゲームがやりたければ、一字一句間違えずにソースコードを打ち込まなければならず、何回も何回も間違えながら入力していた記憶がある。テキストエディタなんてものがそもそもなかったので、ただ入力するだけでもかなりの難作業だった。
そのうち入力しているだけでは我慢できなくなり、なんとなくBASICというものが理解出来て来たので、自力でゲームと言うものを作ってみる。しかし、「作る」と言っても一切の独創性はなく、ベーマガに載っていたゲームのアイデアをほとんど流用していた。
一番初めに作ったのは、縦スクロール型のスキー風障害物除けゲームだった気がする。僕みたいな初心者がこれを選ぶのには理由があって、RND(乱数発生関数)とPRINT(画面表示)だけ知っていれば縦スクロール自体はターミナルが勝手にやってくれる為、後は壁の判定処理を入れるだけでよい。特に難しい事を考えなくてもある程度作れるからだ。
当時、知っている命令語のレパートリーは極めて少なかったし、現在のwebのように、簡単な方法で調べる手立ても無かった。綴りや文法が分からない命令はいちいち調べるのが面倒くさいので、とにかく使わない方針で押し通していた。
ロジックも見よう見まねで無理やりひねり出してたものだから、乱数が過激に発生して、スキーのゲレンデが右側から大きくはみ出して表示がぐちゃぐちゃになったり、両側の壁に隙間が出来てプレイヤーがそこをすり抜けてしまったり。しかし、こういう試行錯誤の中で、ロジックの作り方や、エラー処理と言うものを知った。
立体迷路とか、横スクロールのゲームとか、ベーマガで輝いていたあのゲームを自力で作りたかったけど、その当時はそこまでのレベルに達することは出来なかった。
ブクマを燃料として書き続けます。