はてなキーワード: 麻痺とは
叩きではないのですが、
そもそも学術的にはイロモノの域を出ないリスニング学習の本を持ち上げたかと思えば、
その理論部分に問題があるという。
彼が何を書いているのか、最初さっぱり分かりませんでした。
反復学習の効果的側面は臨床データもたくさんありまして、リスニング学習は効果が
限定的だというのは1980年代からさまざまな論文で語られているんですけど。
それで、今度は単なる一症例、それも単なる脳卒中からの脳機能回復の体験談に過ぎない
「奇跡の脳」を山車にして、両者を比較すると言う、心療内科の世界からすると誤謬
としか言いようのない書評を書いておられます。
彼は、
「これははっきりと「No」と弾言させていただく。私にとって言葉は理解と表現の道具で
あっても、思考の道具では実はない。」
とまで言っていますが。
認知学で言うなら、言葉の理解と表現を行うのは、思考の「結果」であって、別物と
かそういう以前に、脳機能のうえで区別すらできないもののはずなんですが。
と言うより、言葉で理解していながら、「思考は言葉で行われる」という基本的過ぎる
主張に「NOと弾言」というのは、甚だおかしいです。意味が分からない。
さらに、
「同書で最も驚いたのは、左脳が麻痺した著者が見た世界が、いかに私が「考える」
時の状態に近いかだった。自己の境界と時の流れがなくなったその世界にこそ、
「マイワールド」なのである」
集中している時の脳活性は自己の境界線(自己的知養)が発現しないのは当たり前
です。言語野が確立していない胎児にいる状態でも記憶は残り、のちに言語化されて
記憶が再整理され、胎児中の記憶が蘇ることは学術的にも確認されていますが、
これ、本論とは一切関係ありませんよね。
「本書の価値は、実践の方にある。ハウツー本にとってより重要なのは、理論の
正しさではなく実践の効果である以上、本書はたとえ理論に納得できないとしても
価値がある。そしてその実践の効用が大きいことは、私自身を証拠として提示できる。
私も「耳勉強法」の実践者だったのだから」
その後も、彼独自のヨタ話が続きますけど、書評で出ている実戦方法と、この人が
「耳学習でかるたを覚えた」と言っていますが、文章記憶を行うのにリスニングが
適しているだけの話で、これを数式や化学式の暗記に応用しろと言われても無理
でしょう。彼が言っているのは、簡単に言えば言語を効率的に習熟するには
リスニングも必要であるという、ごく当たり前のことに過ぎません。
「有名な話しであり、またこの話が「人は見た目が9割」のベースにもなっている
のだが、むしろ私が驚くのは、聴覚が38%もあることだ。」
これも関係ない話ですよね。聴覚による情報摂取比率が脳科学的に高いからといって、
ここで取り上げたリスニング学習法が実践価値があるという意味にはならないです。
むしろ、現在の学習に関する研究では、視覚聴覚などの取り入れる配分をどうするか
というレシピのほうの調査が主で、学習障害が何故発生するかや、集中力との関係
といった分野が大変重視されるのですが、やはり本論とは何ら関係はない。
「ここで、今まで「耳勉強法」が今までそれほど活用されていなかったもう一つの
理由にたどりつく。それは「耳を使うのは非常時」という、耳のもう一つの特性だ。」
もはや、何を言っているんだか分かりません。
緊急時の情報優先が聴覚であるという学術論文は25年間のあいだで読んだことがない
ですね。危機対応能力を求められる職種の人は、嗅覚が鋭くなる傾向にあるという
調査報告がある程度で、聴覚が優先されるなどと言う話はまっとうな論文では
見たことがありません。
非常に不誠実で、不正確な書評で、脳科学や認知に関する基本的な理解が不足した、
問題の多すぎる論述ばかりで、読んでいるこちらが逆に驚いたぐらいです。
臨床データを読みこなせるようになってから書いてください、というわけではない
のですが、知らない、分からないことに対する論述の慎重さ、丁寧さ、誠実さと
いったところが欠けすぎていて、残念に思いました。
ある程度、そちらの方面では専門であるわたしから見ても、まったく無価値な議論
ばかりだな、という印象です。
最近とにかく忙しい。弱小メディアお抱えのWEB屋というか便利屋なんだけど、いま本業のサイト製作以外に、100万ユーザー抱えるサイトのサポート業務と某大学のサイトの更新業務とモバイルサイト作成と、他に中小の糞サイト(競馬とか出会いとか)運営を数件一人でやってる。これに「申し込みフォーム作って」とか「イラスト描いてくれ」ってのが月に何度かくる。このところはずっと4時間睡眠とれればいいほう。まあもっともっと働いてる人はいるんだろうけど。
いや、俺はなんで働いてるんだろうねっていうね。起きてる時間の80%以上をくだらない、人を不幸にする、がんばっても技術も向上しないしセンスも養われず深く考えることもなく体も頭も麻痺していくだけの底辺労働に費やして、好きな人と過ごしたり好きな音楽を聴いたり好きな本を読んだり勉強したり演奏したり作品を作ったりできる時間はほんの一つまみだけ。奴隷だよ。資本主義の。こういうこと考えてるといつも思うんだけど、僕が今まで行ったことのない場所はたくさんあってその場所へは行こうと思えば行けるはずで、その場所には見たことのない風景があって食べたことのないものがあって人見知りの俺だけどそれでも人生において大切な出会いが待っているかもしれなくて、その人たちの頭の中というか心が持っている世界のひとつひとつを自分のそれと溶け合わせることができたかもしれなくて、なのにたぶんこの先も将来にわたってそういう場所の大半には行くことはなくて、そういう風に考えたら振り返った自分の人生が穴だらけというか本当はあったはずのものが欠落した不当な空白に支配されているようにしか思えなくて、こんな俺の人生って、時間って、いったい何なの?とか思っている間にも時間は過ぎていて、8歳下の妹も大学受験とか言ってるし小さかった従弟も卒業論文がどうとかブログに書いてたり、何よりいつの間にか俺も20代後半になってたりして「うわあ、『本来あったはず』と思ってたものなんて本当は最初からなくて、だから空白なんていうものもなくて、それ以外の残りかすみたいなものの集合体こそが俺の人生のすべてなんだぁ。ちょっと引くわ」とか思って本当にぞくぞくするくらいなのに、この生活をあと何十年も続けるなんてどういうことなの?理解の範疇を超えてる。ほんとになんなの?好きな人と好きなものに囲まれて好きなことをするのってどうして不可能なの?どうしよう涙出てきた。つらい。
あと関係ないけど、最近びっくりしたときに「うわっ」とか「やべっ」とかのかわりに「ニャンダル!」って言う癖がついてしまった。理由がまったく思いつかない……。
難しい問題。確かに精神的な事に関しては、個人個人で異なり、人によっては病院は向かないと思う。
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俺は仕事が忙しくて適応障害になりかけた。その際に心療内科に行った。
その時の経験を後で振り返ると、病院に行った事はマイナスにしかならなかった。とにかく症状が一向に良くならない。
でも俺は治したかった。はやいとこ会社に復帰しなきゃ、本気で治さなきゃ、と俺は奮起した。病院からもらった薬をキッパリやめ、自分が精神的にまともになった時はどんな時か、追い込まれた時はどんな時かを思い出し、自分自身をしっかり見つめ、そして治した。
上の記述は、個人により心の構造は違うので、あくまで俺のケースとして考えて欲しい。
とにかく俺は自力で治した。
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ちなみに、花粉症が流行り始めた時期、去年のアレルギーの薬が残ってたな、と間違えて適応障害治療時の薬を飲んでしまった。
その時はこんな感じになってしまった。
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しばらく、気持ちがフワフワ。
薬が切れた。
ものすごい欝になった。
知り合いの女性に「大丈夫ですか?」と事あるごとに聞かれた。事情を話すと「薬って怖いんですねー!」と怖がられた。
...
欝の人間にアレが襲い掛かってきた時、果たしてまともに対処できるのだろうか?
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ちなみに俺の友達で欝で精神病棟に入って出てきた人間がいるが、薬が切れた時は最低8時間は連絡が取れない。
何してたと聞くと、部屋の隅で悪い事ばかり考えていた、と必ず言う。
ならやめりゃいいのに、と思うかも知れないが、こいつは「ならやめろ」が出来ない(だから欝になったんだ、と俺は思っている)。精神科のセンセイの言う事が100%正しい。薬が切れても次の時間まで部屋の中でガクブルしながら耐えないといけない、という。
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心療内科はアタリ・ハズレが大きいのもある(これは「大病院」ならどの科でも一緒だろうけれど)。
俺は外科ではかなり評判の高い某記念病院に行ったが、間違いなくハズレだった。ネットでも評判が悪かったので、ちゃんと調べてから行けば良かったと思う。
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あと、病気になる過程というのはとても複雑だ。
俺の場合は、仕事が忙しかったのと、外注先の人間に「お前の健康なんぞ知った事か、こっちは金を払ってるんだから42度の熱だろうが何だろうが、出社して仕事しろ」などと言われたりしたショック、誰にも頼れない閉塞感が原因だったので、傷が癒えれば何とかなった。
俺の友達の場合も職場の上司の理不尽な言動に心が壊れて行ったのだが、その傷を癒そうと、午前1時に仕事が終わった後は必ず漫画喫茶で漫画を読んだりアニメDVDを見たりした。それでも限界がきて壊れてしまった。
そのせいで、そいつは漫画もアニメも大嫌いになった。俺をオタの世界に引きずり込んだくせに。
俺の場合、心を癒すのは、上司の言動を忘れる事だった。漫画喫茶で刃牙とドラゴンボール全巻を借りて、一気読み。頭の中は漫画の世界を再生する事でいっぱいになり、いつのまにか漫画が心を支配して、上司の言動など吹っ飛んでいた。嘘みたいだが、それ以降、心は快方に向かった。
友人はしかし、漫画がトラウマの1つになっているので、同じ手段は使えなかった。
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つまり、他の人で利いたからと言って自分も利くかというと、それは全く持ってない。
貴方が病院で快方するかも知れないし、快方しないかも知れない。が、一旦病気になってしまったからには、自分を見つめなおして、病気の事を徹底的に調べるしかない。
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よくミクシイのプロフィールなどで書いてあること。
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「楽しいことが大好き」
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俺はこれが大嫌いだ。
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楽しいことが大好きなのは、誰でもそうであって、何も言ってないのと等価である。
別の観点から見れば、その人にとって何が楽しいかというのは人それぞれなのに、「楽しいことが好き」だけでは
その人が何を楽しいと感じるかについて何ら情報を与えていないことになる。
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こういう事を書くのは大概馬鹿な女性と相場が決まっていたが、近頃は男性でさえこういうことを書く奴がいる。
一体何を考えているのだろうか?
そもそも、プロフィールなのだから、他の人と差別化できる部分を書くべきであって、「楽しいこと大好き」なんぞ、
自己紹介でもなんでもない。あえて言うならば、「自分馬鹿です。思考停止しちゃってるどうしようもない馬鹿なんです」
という自己紹介にはなっているけどな。
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なぜこんな馬鹿なことをあえて書くのだろう。知的障害者ならばともかく、脳科学・精神医学的には正常であろう多くの若者が
こういう事を書いているという事実。これは厳粛に受け止めないといけない。自分の言っていることが中身のない馬鹿丸出しの発言
だということを自覚できないくらい脳が麻痺してしまっているのだから、脳科学・精神医学的には正常であっても、脳機能は著しく
異常を来していると言わざるを得ない。
「女子高生スコアラー列伝」というWeb漫画がある。無断転載していいものか解らないので名前だけ伝えておく。一見登場人物の素行は面白く破天荒だが、登場人物のほとんどには実在のスコアラーが元として存在するらしく、こうしたシューティングゲームに偏執的な愛情を注ぐスコアラーさんを擬して面白おかしく描いた、絵こそ荒いが見てて楽しいよく出来た漫画である。
自分は自称シューターだった。元は格ゲーマーだったが、シューティングゲームも子供の頃やってたしちらっと店頭で見たスーパープレイから、興味があったのでやり始めたという感じだった。といっても、所謂スコアラーではなく、とにかくゲームのクリアを目指してプレイを続けるクリアラー。スコアに対しては、ああいう風にプレイできると楽しいんだろうなと思いつつ、「攻略に有利になりさえすればいい」「パターンが難しい、解らない、作れない」「BGMと進行が密着してるのに、処理落ちでズレる」と無興味のつもりだった。最近は環境の都合で2週間に1回程度しかゲーセンに行けていないが、その都合も関係ないほどにゲーセンに行きたいという気持ちが失せてきた。こと格ゲーに対しては読み合いで勝つことに限界が来ているという弱い考えが頭に出始め、シューティングゲームはそもそもやってて楽しいとさえ思えなくなってきた。学業すっぽかしてひたすらゲームをやっていた過去があるにも関わらず、自分はいつまで経っても下手である。まあ、そのすっぽかし方も一日中一つのゲームに張り付くといったものではないので、本当に上手い人からは中途半端に思われるかもしれないが。
最近、『斑鳩』というゲームをやった。2万円以上するゲーム機本体ごと購入してプレイを始めた。自分にとってはそれほどに惚れ込んでいたはずのゲームだった。このゲームはやろうと思えばとことん安全にも進めるゲームだが、やはり楽しむにはルールとパターンに添って得点稼ぎにこだわる必要がある。最初こそ楽しめていたものの、一般的に広まっている(自分が影響を受けた)プレイ動画のパターンはあまりに難しすぎるため、一部を端折って妥協をしていくが、ステージが進みパターンが複雑化していくにつれ、その妥協パターンでも凡ミスを起こしリセットというルーチンワークを繰り返す自分がみじめになっていく。開き直って、簡単なモードで残機は最大、稼ぎもしないという遊び方をすると全く面白くなく、さらにみじめになる。不安を抱えながらプレイするのが楽しくなく、続かなくなってくる。本当に好きなのはこのゲームなんだとさえ思って夢見たはずのゲームが、自分にとってそれほどのものではないという、理想と現実の差を感じ、同時に、スコアを稼ぐこと=ゲームを真剣に楽しむことの難しさを意識するようになった。
先に書いた「女子高生スコアラー列伝」で間接的に、blogなどで直接的に、ゲームの上級プレイヤーの背景を追っていくうちに、上手い人と自分の間にどのような差があるのか、大体結論は出た。腕前の問題もあるが、何より自分は上手い人に比べてゲームが好きではないのだ。確かに好きなはずだけど、それは大したことなかった。実際に足を突っ込んでみると、立てるぐらい浅い沼を、見た目から深い、底なしじゃないかと自分でも思い込んでいただけ。だからこそ、深いやりこみが時間をかけていてもできないし、スキルもついていかないんだと思う。スポーツ選手がおそらくそうであるように、上手い人達はゲームが本当に楽しいから続けており、それが腕前そのものやスコアに現れる。同じゲームを楽しむ者として彼らは圧倒的に上手であることに異論は無い。それとは対称的に幼少時からゲームが感覚的に好きだったはずの自分がゲームを真剣に愛していないことにギャップがあり、価値観の否定を繰り返し、思い悩んでは憂鬱になり、自然とゲームから足が遠のくようになった。
「好き」ならば上手くなれるといった単純な問題ではないことはわかっている。国数理英社五科目が全て好きな人などそうそういないし、器用な人は何をやっても器用にこなすとのことだし、ゲームが上手い人はキチガイの域に達してるって話はよく聞く。その上で、「好き」「楽しい」という感覚が、生まれた頃から今現在まで麻痺を続けている結果が、今の自分が無能を成している原因の一つなのだろうか。人間じゃないと評されるべきのは彼らじゃなくて自分なのかも・・・ゲームのみでなく、広範に興味と技能を持つ彼らを見て、好きではないとあらゆるものを忌避してきた自分の狭さと浅さに、戦慄する。
この文章は鬱病真っ只中で社会からドロップアウト済みで明日を不安に思いながら暮らす身分がひどく不安定な心境で書いたもので、単にゲームが上手い人たちに対して、ろくに「努力」もしてないヘタレゲーマーが、妬み僻みで愚痴ったものにしかなってない気もする。夢を追って挫折した人達は、このような憂鬱を抱えながら今を生きてるのだろうか。これも一つの人間の生き方として多数派である「挫折」の過程の一つだろうか。
別に恋人じゃなくてもいいんだけどさ。
友達やなんや、周りに親しい人がいなくて辛いというのは、どうなんだろうか?と思った。それはつまり、周りに親しい人がいることが「当たり前」のことであって、その当たり前が実現できないから「辛い」っていうことだろ。
でも、恋人や友達や、周りに親しい人がいるのって本当に「当たり前」なんだろうかね?確かにいれば、楽しいこともあったりするし、寂しくなかったりはするけどさ。“辛い”って言えるほどのことなんだろうか?辛いっていうのは、例えば、両目が見えないとか、全身麻痺だとか、そういうことを言うんじゃないのだろうか?
それとも、世の中の人の大多数は、そういう周りを親しい人達に囲まれていることが「当たり前」なんだろうか?
にわかに信じ難い。
私も165cm55kgは太ってないと思うよ。痩せてもいない「普通」だよね。
ただ、本当に体重論議っていうのは人によって感じ方がバラバラで、ファッションに命かけてるギャル系の子なんかは「165cmで50kg超えるなんてありえない」「160cmなら45kg以下じゃなきゃ恥ずかしくて外歩けない」って思ってしまう子もいる。なぜなら周りがみんなそうだから、そういう風に感覚が麻痺してしまう。
あと、見た目のスマートさというのは体重じゃなくてスタイルや筋肉のつき方に大きく左右されるし、体重だけで語るのは馬鹿らしいといつも思う。自分の着たい服を見苦しくなく着こなすことができているかが大事なのであって、体重は本当にたった1つの目安にすぎない。
軌道にあげる衛星の場合、パトリオットでは打ち落とせない。というか、打ち落とす必要もなければ、日本にはその気もない。打ち落とそうとしているのは日本に落下してくるかもしれないブースターと、可能性がゼロではないミサイル。
で、衛星なんだけど、衛星本体を核爆弾にしておけばオケ。日本上空を上昇中に爆発させればいい。電離層中で発生した電磁パルスが、脆弱なコンピュータ網を一斉麻痺させる。日本オワタ。
ぐだぐだ論争されているが、マジ基地に見えても北朝鮮を擁護するやつらが居るってのは、ドンだけこの国がよい国かってのを改めて実感させる。北朝鮮で日本を擁護しているやつってどのくらい居るの?
先日、Amazon.ukで注文してた攻殻機動隊のDVDボックスがやっと届きました。
早速MacBookで見ると、音楽のテンポ早かったり、声優さんの声が高いような気がします。
それで、ググってみるとPAL早回しという現象があることが分かりました。
WindowsではPAL TruSpeed機能のあるWinDVDなら再生できると分かったけど、mac関係の情報は見つけられませんでした。
それで、vlcならうまく再生できるかと思って何回か聞き比べてたら、だんだん耳が麻痺してきて、たしかに最初にOPを見た時は違和感があったんですが、今ではあんまり感じません。
MacBookで再生してもPAL早回しという現象は起こるんでしょうか。
起こるとしたら、解決法はありませんか。
もう自分の耳が信じられません。
非常に設計部門の立場が弱いのですよ。
なんでですかね?
資材は製品を運んでこない。なんででしょう?指示の通りに指示された場所に指示された物を運ぶのがあなた方の仕事じゃないですか?なんで設計が倉庫から品物を探して運び出して自分で梱包を解いて作業しなくちゃならないのです?
設計は設計で、審査も承認も無しに協力会社や外注に仕様を投げるんですよ。まぁ、それも偽装請負だったり多重派遣だったりするわけですが。
品質に関しては何のチェック機能も働いていないですね。
一応、職印は押されてますが、ノーチェックです。ただのスタンプラリー。今ISO9001の審査をやったら確実に剥奪間違いなしです。
作業に取りかかってからの仕様変更や間違い発見が多すぎます。そこで恥ずかしいと全く感じていないのがおかしいと思いませんか?
不思議なのは何故かデスマーチになるのが設計のみ、というのがよくわかりません。他の部分は要期が長くなる事はあれども、短くなる事は無いのに、何故か、設計・製作・試験期間だけが納期短縮を求められます。それは何故なのでしょう?例えば北海道から沖縄へ移動する時、営業が「3秒で行け」と言ったら実行が可能なのでしょうか?
最後の総合試験でテスターがテストをする前に「この仕様おかしくありませんか?」と返してくる事が多々あります。そこに至るまでの審査と承認は何をやっているのでしょう?テスターに仕様をチェックされるとは恥ずかしくありませんか?
QA(品質保証部)は設計がご機嫌取りをしないと製品受け取りませんからね。
ビジネスですよ?何で設計がご機嫌取りしなくちゃならんのです?
得体の知れないドキュメントやチェックシートが多すぎます。そんなんで品質が保てるのなら誰も苦労はしません。
受け取っても、試験は設計が行った総合試験のなぞり。意味ありますか?QA独自の試験はやらないのですか?
だいたい、QAを通って出荷したのなら、品質保証はQAに属するものだと思うのですよ。QAが保証したから出荷されたのでしょ?なのに、発送後のトラブルは、お客様の伝言ゲームと化して設計に丸投げなのは何故なのです?
開発も問題外です。
作りやすいように、設計を変えてしまい、保守・運用の事を横にらみして考えるスーパーSEが存在しません。おかげで、保守・運用が非常に大変です。トラブルシューティングは出来ない、同じ意味のデータをあちらこちらに記載しなくてはならない、しかも、何故か、10進表記だったり16進表記だったり。
開発者のぼやきにおどろきましたよ。
「そんなめんどくさい事やらせるなよ」
機械やプログラムは同じ作業を何度でも短時間で出来ますが、人間は間違うし時間かかるんですよ?あなたのそのめんどくさがりが後々の保守・運用を大変にして品質を下げている事に気が付きませんか?
こんなんで品質向上なんて出来ると思いますか?
全体として品質を上げようとする仕組みが麻痺してまわってないのに、設計の末端だけに品質の責任を負わせようとするのはおかしいと思いませんか?
設計の腰の低さにいい気になって会社全体が設計を士農工商のうち、穢多・非人のような扱いをして、品質を上げろ、とは滑稽だと思いませんか?誰が品質を上げようとするのですか?手を抜くだけですよ。
はやく気付かないと、大事故が起こりますよ。
まぁ、既に某電力会社とかで起きていますがね。そのうち人命が失われますよ?
幼少時から抱えていた腰痛が悪化し毎日、起きている間中、寝ていても起きてしまうぐらい痛い。
原因もはっきりとわからず痛み止めを飲んでただ寝て過ごすしかない。
痛いだけじゃなくしびれもひどくて両手ともに半分麻痺してしまって
タイプしてもミスばかり、食事も気がつくとボロボロこぼしている。
三十路なのに勤めも辞めざるを得なかった。
こんな姿を見て弟は「あんた、生きてる意味あんの」といった。
母は「そういうこと聞くの嫌。我慢しなさいよ」と。
福祉に相談しても正式な診断が下りないとダメらしく、
ご家族にご理解をしていただきましょうと言われたのみ。
働けなくなってしまうとこんな惨めな生活しかない。
親が死んだら死ぬしかないって本当だ。
こんなに痛い日々なんて親が死ななくても早く死にたい。
http://anond.hatelabo.jp/20090217163745
元増田です。レスありがとうございます。やっぱり被害妄想だったのかな…。僕が考え過ぎで、そう思われるレベルの話なのかもしれない。
いくつか補足する。(後だしといわれるのかもしれないが)
以前似たようなPJを抱えていた同僚(彼は正社員)が心を患って辞めたとき、ぎりぎりまで頑張ってしまい、1か月前に退職希望を出したのだが、そのとき、そういう場合は引き継ぎのことを考えて、3か月前には申し出るようにと周囲の人間に通達があったので、契約更新の3か月前に申告した。
それから、一応最後まで業務は果たした、と自分では思う。ただ、契約上休日出勤した際の代休は取らせてもらえなくて数年契約していたのだが、引き継ぎ後にある程度担当する業務が減ってきたとき、今までの代休を取るようにさらに上の上司に言われて休暇を取ろうとしたところ(休暇といっても、2連休を3連休にするとかで、長い休暇ではない)、「休みたがる社会人の屑」と問題の上役に言われ、特に問題がない時もいろいろ用事を作って(社内のシステムを見直せとか)、逆に休日出勤をするよう指示されたので、最後の2ヶ月はあまり休みもなかった。
想像上の存在だったら良かったんだが、大袈裟にはしていないし妄想でもない。去年僕はもっといろいろ暴言を吐かれたのだが、そのころはもう麻痺していてどれが暴言だかよくわからなくなっていた。社会人の屑もそうだし、生きている価値がないとか、そんなことをよく言われていた。
上役の査定には多分響いたんだろう。それは本当に申し訳ないとしかいいようがない。特に、後で知ったように他にも同時期に辞める人間がいるとは当時は知らなかったので、確かにそれだけいっぺんに辞めたら、上司の査定には大きく響いたと思う。年度末だしね。
あの頃辞めたらしいひとたちとは接点がなかったので、同じことをされていたのかどうかは知らない。今でも連絡を取っている親しい元同僚が辞めたいと言っていたが、もし本当に辞めることになったら、彼の状態には気をつけておきたいとは思う。同じことをされていたら愚痴だけでも聞けるように。
日本経済新聞 2009.2.11 大機小機
米国を震源とする金融経済危機が急速に世界のあらゆる国々を襲っている。
最初は米国のサブプライムローン証券化商品の値下がりによる金融機関の巨額損失問題として軽く考えていたが、欧米の金融機関の自己資本不足から急激な信用収縮が起こり、金融市場の機能が麻痺して深刻な経済危機へと発展したのである。
米国が膨大な物資を輸入し、貿易赤字を垂れ流して世界経済を引っ張ってきた二十世紀型の成長モデルは見直さざるを得ないであろう。一方、基軸通貨の米国は冷戦構造の崩壊による資本主義経済の爆発的広がりを受けて始まったグローバルな経済成長に対し巨額な経常収支の赤字を通じて成長通貨ドルを世界に供給してきた。
結果的に米国は世界の中央銀行としての役割を果たしてきたわけで、冷戦終了後の旧共産圏の国々やそれに続く発展途上国の経済が順調に離陸し、再び共産主義や全体主義に戻る国がほとんど出なかったことにつながった。そうでなければ、世界中に北朝鮮やキューバのような国が今も多く存在していたかもしれないのである。
もちろん、本来、住宅を買う能力のない人にまで持ち家を買わせるサブプライムローンや、値上がりした住宅を担保に追加貸し出しを行って過剰消費をさせるホームエクイティローンなど、バブルをあおるような金融機関の経営は変わらざるを得ない。当然、米国人のライフスタイルも収入以上に消費する貯蓄率マイナスの生活から、収入の範囲で消費する貯蓄率プラスの生活へと変わるであろう。
そうなると、米国の経常収支の赤字は大きく減少するが、同時に世界経済の成長は大きく減速し、日本や中国をはじめ、対米輸出依存度の大きい国の経済は大きな打撃をうける。世界の総需要はいったん縮小したら、経済危機を克服した後も危機前の水準へすんなり戻るのは難しい。企業経営者も劇的に落ちた需要が元に戻ることを前提に経営する事は出来ない。
米ドル以外に世界通貨としての役割を果たすことのできる通貨が見当たらないなか、米国が節度ある国際収支国になったら一体誰が世界経済の成長のために成長通貨を供給するかと言う深刻な問題も頭に入れておくべきである。
数年たったら猛烈なドル不足時代を迎えてドル高が進んでいるという可能性もあるのである。
(枯山水)
正確に言うと「不特定多数相手に売春するのがいけない理由」である。
売春自体は悪くない。
不特定多数にやるより特定の人にやった方がやり方としては賢い、と言いたい。
不特定多数相手の売春の代償は特定個人との売春(結婚)ができなくなることであり、
だからこそ風俗嬢やAV嬢はその補填として高給を得られるのである。
若い間、せいぜい35歳ぐらいまでしかできない。そのあとは襤褸雑巾の如く捨てられるだけである。
好きでもない男、もてない男、きもい男ともセックスしなければいけない。
特定個人相手の売春の特徴・・
正当な理由がなければ契約は解除できない。
年をとってもそばにいてくれる人がいる。
愛する人と結婚できれば、愛する人に抱かれる喜びを永続的に享受できる。
金の代わりに「愛」という対価を、セックスと引き換えに受け取っているということである。
「愛」だけでなく「金」も対価として貰えるでこの上ない至福。
好きでもない男、金を出さなければセックスできないもてない男に金と引き換えに強姦されるより、はるかに幸せである。
年をとれば必ず衰える性的価値のみならず、永続的に威力を発揮する人間的魅力や職業的技能を磨く動機を持ち安い。
金と引き換えにセックスをさせることは、男に責任を取らせないということを意味する。
風俗嬢やAV嬢はセックスさせていることに対して金をもらっているよりは、
どちらかというとセックスさせて「責任を放棄される」ことの補填として金をもらっている、と見た方がいい。
結婚にしても風俗やAVと同じく年が若ければ若いほど有利に立てる。
風俗やAVで働くのであればその時間を結婚相手を見つけるのに充当した方が賢い。
不特定多数相手の売春をすればするほど結婚という「より有利な売春」から遠のくのである。
これが売春が悪とされる所以である。
つくづく何を書けばいいか分からん。というか書いてる場合じゃない。そんな場合じゃないんだ。でも何かしなくちゃいけない気がする。そうそれは勉強のはずなんだ。するべきなのはテストに備えての勉強のはずなんだ。でもちっとも手をつけられない。どうしてか。かったるいからだ。めんどくさい。やってどうなるんだと思う。したって意味がないんじゃないか。単位を取って進級してそれでどうするってんだ。特に目標はなく惰性で進学しようとしているだけだ。それでどうする。何事か成し遂げたいことでもあるのか。しいて言えば楽をしたい。オタク趣味に興じていたい。できるならそれだけ突き詰めていきたい。でもそうしたい理由もかっちょ悪いもんだ。なるべく他人との接触をとらずに現実から目をそむけていたい。他人との直接的な接触を避けて生きてくことなどできないだろうし、完全に排してしまうことにも恐怖が募る。少しくらいは接点を持っていたいとも思う。だけどあまりべたべたとは嫌だし長い時間を共にするのも避けたい。空気を保ちきれない。会話していなくちゃいけないというのはつらい。しないでいてもなんともないってこともあるのだろうが、信じられない。前にそんな状況を味わった気もするけれど一時的なもんだ。長いこと一緒にいたせいでそういう嫌悪感が麻痺していただけじゃないかと思う。だって寝て起きたらまた気まずさに心痛める他者との接触になるのだから。一時的なことなのだ。常に一緒に居続けることによって思考と感覚が雑になっているだけなのだ。というかこんなことを書きたいわけではない。書いてる場合じゃない。どうすれば勉強に積極的に向かえるかということを模索したいのだ。ついネットをしてしまう。英語なんぞ見たくもない。数学の演習を解く気にもなれない。でもやっておかないと今週のテスト地獄に対応できない。でもつい「勉強なんていやいややるもんではない、きちんとした理由を見出してこそ打ち込むべきだ」と自らを正当化しようとしてしまう。そのせいでこんな下らん現実逃避文を書いてしまうのだ。非常によろしくない。勉強をしたくないがしなくてはいけない状況に追い込まれたとき、いつもこんな風にして悩み解決のためという名目で何の意味もなく読み返す気にもなれない文を書いてしまう。いつからこんな癖がついてしまったのか。文章を書くようになってましになっている部分なんてあるのだろうか。客観的に自分を見つめられるようになるとかいうがそりゃまた個人差があるだろう。そんな気はしていない。というか内に向かう気質がさらに育まれている気がしてならない。それはまだ数をこなせていないからなのだろうか。わからない。もっと自分のようなやつがたくさんいるとわかれば安心するのだろう。だがそれではただ安堵を得るだけ得て何もしない自分が再び現れてくるだけではないか。それではいかんのだ。せめて少しずつ進歩していきたいからこそこうして書いているのだ。だがこのままだとある程度の文量を打ち込んだらわずかな達成感を胸に対して勉強もしていないのに明日を迎えてしまいそうだ。だが実際いま自分の中には達成感に似た充足感がにじみ出つつある。これでよいのだろうか。そんなことは分からない。いやよくない。とにかく眼前には来年楽をするためにも今のうちに多く単位を取る、それ以上に確実に進級するためにもテストに備えて勉強をするという目標があるのだ。だがそんな刹那的な生活の中に身を置いたままでいいのだろうかという逃げに似た思いが、こんなタイミングで邪魔をする。一見すると正しいように見えるから困るのだ。もしテストの重圧に囚われていないものが目を輝かせて言ったならああ若いなこいつとそこそこの評価をいただけるのだろうが今の自分が言えばテストがいやな学生のごまかしに過ぎないのだ。それだけ分かっていて勉強せずにこんなことしてるのはなぜだろう。わかってると言いつつ全然わかってないのだろうか。口先だけ、言葉の上では意味をなしているが頭の中ではどうにかして勉強せずにすませる方法があるのだと信じ切ってしまっているのだろうか。濁していうことでもない、確実にそう思っている。中学高校とそうしてギリギリで進学してきた。ほんとにギリギリだ。本気でやったら底知れない力でも眠ってるんじゃないかと思ってしまうほどだ。でもそれは視野がせまっくるしいだけだ。実のところはそこらにいる大多数の大学生とどっこいかそれ以下だろう。でも自分の中の玉座には俺はなかなかにすごいという傲慢さが座っている。どうしても降りようとしない。おそらく本気で取り組んで打ち負かされたことというのがないからだろう。その点ばかりは覆せまい。本気でやったことがある気がしてない。ないだろう。自分の評価が低すぎるだけで、もう充分本気で生きてるのかもしれない。まさかこの状態が、この適当にやり過ごして生きてると思ってる状態が俺の本気なのだろうか。まさか。そんなことは考えたくもない。だってそれなら適当に愚痴りつつそこそこに生きてまた愚痴りながら死ぬだけじゃないのか。それで人並みに幸せを感じていられればいいけれど今の俺はだいぶ抑圧されている気がしてならない。我慢ばっかだ。耐えるとかじゃなくてしなくていい我慢ばかりしている。心底楽しいと思ったことがこの4年近くない。一切ない。わけでもないかもしれないが、少なくとも生きててよかったと思えるほどの体験はない。最高だと思えた一日はない。とてつもなく広く思えた世界は思い出の中にしかなく、最近の視界は脳の反映でしかない。これ以上の成長を望める気がしない。世界は16歳で完結したのではないか。これ以上新しさを感じることもないのではないか。もしかするとそういうすばらしく思えた何かとか世界とか視界だとかいうのは思い出の中にしかないものなのだろうか。そんな気もしてくる。ではそんなものに囚われているこの日常もまた思い出してみたら適当に美化されていくのだろうか、どうなのだろうか。そんなことはわからない。事故は変化する。していなくてもそう思いこめばそうなる。きっと未来の自分はそう思い込む。そんなことはどうでもいいのだ。今の自分がすべきことは眼前のことだけだ。勉強。この言葉が重くのしかかってくる。して良かったという実感もないのにしろと言われてするものそれが勉強だ。あくまで自分の中でだが。楽しくて自主的にやってる人もいるんだろう。といいつつもそういう人間の存在を信じてはいない。というかいないだろう。いてたまるか。少しでいいから純粋にそうやって勉強できる心を分けてくれ。一瞬でいいから代わってくれ。どういう幻想なんだ。教えてくれよ。とにかく俺はしたくない。したいと思う理由も、そういう方向に導いてくれる趣味も考えも俺は持っていない。他人の考えにひたすら感化されて生きてきた俺にそんな自主的な思いなど湧いたことがあるのだろうか。自分で分からないのだから問いかけても無駄だろう。それでも問いかけてしまうのはなぜだろう。知らん。とにもかくにも単位を落とすだの赤点を取るだのというのは俺にとっては脅威だ。そんなことをしてみろ。また後々苦労が増える。そうだ。こうしていやいやながらにも勉強を向かおうとしてしまうのは未来の邪魔な要素だけは増やすまいという消極的な希望によるのだろう。願望だ。別に何か得たいわけではない。むしろ減らしたいのだ。余計な不安要素を排除しておき、せめて明日歩くであろう道を整備して歩きやすくしておこうという意思だ。願望でもないな。回避だ。余計なことをしないで済むようにという回避だ。いやどうだろう。もっと何か理由がある。することがないのだ。何をしていいか分からない。したいことなどない。楽しいと言えることは思いつかない。でも楽なことはしていたい。それがゆえに勉強という辛いものから目をそむけ、それよりは楽なことに逃げているのだ。楽しいことがあるならそのために頑張れるかもしれない。しかし俺は楽しいは知らず楽しか知らない。楽しいと楽では積極性が死ぬほど違う。楽しさとは何だったかももう分からない。めんどくさいこととの比較で楽なことを導きだす筋しか分からない。どうしようもないクズだ。楽しさを求める努力はわずかにしている。しているはずだ、だが見つからない。まだ探し足りないのだろうか。いや気づけていないだけか。どうなのか。存在していないのか。理解できていないのか。んなこと分からん。昔楽しかったゲームをやってみるが今はすぐ飽きる。すでに飽きている状態でちょっと気が向いたのでやったからだろうか。そもそも飽きていたという。そんなことは承知済みだ。大体のことに飽きている。つまらんのだ。楽しむ努力が足りないのか。そもそも楽しいってなんだ。わからん。迷走している気がする。いや迷走しているな。こうしてどんどん時間を消費していく。これは楽しいかもしれない。どうだろう。だが意味はない。目の前には見ることすら嫌気がする英文が書かれた教科書があるがどうするわけでもない。ただキーをたたくだけだ。もう嫌だぜ。治療法を知っている人がいるなら教えてほしい。もうわけが分からない。単純に考えてみようと思ったが長続きしない。自分で心に決め込もうとしたことは一日たてば一気に冷える。そんでどっかに消え失せる。どこに行くやら。思考の端に姿が見えるがもう触る気がしないのだ。自分の手あかがついてる考えなど使う気になれない。そもそも内にこもりすぎなんだろうか。もっと交流をすればいいのか?んなこたずっと前にも思ったさ。しばらく触れてはいなかったが。しかし会話だとかなんてのはそもそも体力をすこぶる消費する行為だ。好き好んでする奴が信じられない。もしかしてそっち側にはそれだけする価値のある楽しさがあるのだろうか。どうなのだろう。概観を教えてほしい。体感させていただきたい。できないだろうが。長いことしゃべくるだけで何が楽しい?自分が理解されていく感じ?寂しさが少なからず緩和されてく感じ?楽しい感じ?わかんねーって。そんなに思考の探り合いが楽しいか。俺はつかれたよそんなもん。いっそのこと会話するときなんて頭がパーになってくれりゃいいんだ。めんどくさい考慮なんぞしないでいられればいいんだ。人を傷つけたところでいに関さない心でいいんだ。そもそも傷つけてるかな、とかわざわざ思考する必要がないんだ。んなこた誰にも分からない。それでも考えてしまうのはなぜか?そうするのが快感なのか?だとしたら俺は相当のマゾだ。自分を傷つけて喜ぶ自傷馬鹿とおんなじじゃないか。失言か。どうでもいい。そんな理解できないもんを考える必要などないだろう。といいつつもやっぱりなあ。こうしためんどくさい行為を経てでも会話せざるを得ないんだろう俺は。みんながそうして苦しんでるってんなら喜んで同調しつつ繰り返すだろうが、そうしてるかなんてのもわかりゃしない。どんなにあがいても俺一人でやってんだろって気持ちは抜けない。他人の存在を信じきれない。いないんじゃね。ばかばかしい。なら好き勝手に生きればいいんだ。そうできない時点で何かを信じている。でも惰性かもしれないぞ。仕方なく生きちゃってるのかもしれないぞ。だとしてもそんな流れを断ち切るこたできない。どうでもいいんだもの。こうしているうちにもどっかでセックスしてるやつがいるのだろうか。しねよ。失言か。謝らないよ。聞いてないし。あーテストとかどうでもよくなってこない。思い出すと焦燥感は現われる。解消したいのかどうにかして取り組みたいのか自分でも分からない。ただそうだなやりたくないな。手をつけたくないな。たるいな。めんどいな。どうにもならんな。勉強することで俺の心が疲弊して擦り切れていく気がする。やりたくないことをすると自分が擦り切れて死にたくなりそうな気がする。言い訳なんだろうか。でもそうなんだ。やりたくないことはしなくていいとか誰かいってたな。でも自分が強情だとそういう言葉でも脳みそはほぐれないんだよ。なんだかなあ。わからん。五感と意識を自分でオンオフできたらよかろうに。そしたらどうやってオンするんだっての。しんでるじゃん。せいぜい寝ることしかできないか。あーだったらずっと眠っていたいよ。つくづくそういうときはこの世界は自分の妄想説を支持したくなるよ。他人がいないなら俺が何かする必要ないじゃん。俺の妄想なんだから。あーひとりでいるときはそういう説が頭を占めるけれど他人をいるとどうしてもそんな考えに基づいて生きてなどいられない。そりゃそうだ。他人といるときそれなら狂人だ。どうあっても他者を意識してしまうんだろう。ほんと困るぜ。常に正攻法で生きていきたいらしい俺は。いやなのに。自分が嫌だ。何ともうまくいかんもんだ。ここまででどれくらい書いたか見てみたがいい感じに気持ち悪い。いいゴミを書けた。やはり文量を出せると気持ちがいい。優越感がわき出てくる。こんな長文書けるやつはいないだろうなっていう優越感。すてき。ばかばかしいけどそう感じてしまうんだから仕方がない。取り繕っても満足はないし、んなこと書いたところで満足するでもない。でもできれば正直に書きたくもあったりでめんどくさい。葛藤こそ人間の本質というがあんまりややこしいのはどうかと思うぜ。3手ぐらいでクリアできる葛藤であってもらいたいものだ。なんでもかんでも。しかしどこでこれやめたもんか。参った。もっと書いて画面を埋め尽くしたいけど何か目的が変わっちゃう。そもそもそうしたかったのだろうか。何でもいいからアウトプットしたかったのだろうか。しかし時間は過ぎるのでますます月曜日のテストが不安になる。でも不安をそのままにするスキルを持っちゃってるのだ。当たって砕けてなお反省しないでいやいや生きるというスタイルが定着している。そんなのやめたいという葛藤もやらないとまずいという不安も手を着けずにいられる怠惰を知ってしまった。どうすればいいのだ。といいつつ何もしない姿勢をだ。これは仕方がない。このままでいこう。とあきらめられればいいのだがこの性格の特性上見かけ上の抗いはふつふつ出てきてしまう。実にややこしい。意志の力でも高めて頑張ってみる?(笑)知らんがな。もういいよ。諦めようぜ。でも惰性の慣性力は消えないんだよなあ。めっちゃだるいぜ。ああ、人間もメモリ拡張外付けHDD接続できればいいのに。うわーどうにもなんねー飯食って寝るなこのままだと・・・