はてなキーワード: 学位とは
目に留まったコラムがあったので急ぎ訳してみた。かなり意訳しているので英語を読まれる方は原文にあたられたい。
「一人一人が自律した社会を手にするための唯一の道(としての教育)」
(It is the only way to have an empowered society)
寄稿者―ヌズハト・フサイン(著者はナショナル・ブック・トラストのディレクター)
私の曾祖母はおそらく教育を受けていません。彼女には四人の娘がいましたが、息子はみな早くに世を去り、土地も一切ありませんでした。当時は、土地と息子を「社会的な安全の担保(social security)」とみなす固定観念が世間に広まっていましたから、曾祖母夫婦としては、それがないのを気にしていたに違いありません。彼女が確固とした先見の明を持っていた人なのか、それとも深い絶望から決意を固めたのか、私にはよくわかりません。でも彼女は娘を学校に通わせ、仕事に就かせました。それは今では極めて普通のことですが、彼女の時代には革命的で、周りから馬鹿にされるようなことだったのです(注1)。
曾祖母の信念の力は、彼女に自律する力を与えただけでなく、三人の娘を含む九人の子全員に教育を受けさせねばならない、という考えを祖母に植えつけました。祖母自身は、8年生まで進学しました。それが、アムローハ(Amroha)の町で、当時女性が到達できる最高学年だったのです。それでも、彼女の学びへの情熱を育むには十分なものでした。それは本当の意味で教育を受けたということです。祖母は本を読み、ラジオを聞き、テレビを見ました。おそらく、彼女がしたことは、曾祖母の手で蒔かれた真の自律の種を根づかせた、ということなのでしょう。
次の世代、彼女の娘(つまり私の母)が、私に教育を受けさせるのは、過去と比べて容易でした。今の私にしてもそうです。昔、私がインド警察職に就くにあたって、家族の反応はどうだったのかと聞かれたことがあります(注2)。この質問は固定観念にとらわれたものです。私はこう答えました。「家族は僕に教育を受けさせ、僕を支え、UPSC試験を受けさせ、合格させてくれたよ」と(注3)。事実祖母は、私がインド警察職に通ったと聞いて、その道に進むようにと背中を押してくれました。私は、この話をするにあたって、教育を大切にする家庭に生まれた自分が、とても幸運だったと認めざるをえません。あのような質問をされるまで、私は家の外の、また別の現実に向かいあわずにすんだのです。しかし、今日ここで書きたいのはそのことではありません。私が取り上げたいのは、とても基本的な問題です。教育とは何か、教育を受けたとは何を意味するのか、というものです。
教育とは何でしょう。
こう言っておいて何ですが、まずは、教育を受けたということが何を意味しないか、ということから考えてみましょう。教育を受けたということは、免許や学位を集めるかたわら、現状に疑問を差し挟まないようにする姿勢を学ぶのではありません。また、個々人の偏見から抜け出さないようにする姿勢を学ぶのでもありません。私にとって、本当の教育とは、人を研鑽と自律の道(the path of evolution and empowerment)へと送り出すものです。私たちはたくさんの科目を勉強しますが、時が経つにつれて大体は忘れてしまいます。しかし学んだ後に残るもの、残るべきものが重要なのです。それは、今までの到達点から更に先へと進もうとする態度(the need to stretch the boundaries)、新しいことを試みながら勘所をきちんと押さえようとする態度(the need to try and find equilibrium)です。例えば、良くバランスの取れた人(a well-rounded personality)と聞けば、XやYやZの専門を学んだ人というのではなく、ある種の心構えと教養を持った人を思いうかべるでしょう。
最後に強調します。教育がなすべきことは、私たちが持っている学びへの情熱に火をつけることです。ええ、貧乏の重みで足がぐらついているときに、教育のような問題について考えるのは難しいです。貧困に立ち向かうのにお金が必要なのは言うまでもありません。ですがその上で、金銭的な支援は常に仕事(work)と結びついていなければなりません。そうでなかったら、それは自尊心をむしばみ、ひいては単に大勢の依存者を生みだすだけになってしまうことでしょう。ただし、お金と仕事を結びつけることが重要なのと同じように、教育で心を豊かにすることもまた必要なのです。ですから、教育は実際に私たちの能力を伸ばし、自律した社会を作り出すのです。それは、正しいことと間違っていることとを区別できる人と社会です。教育は、私たちが持っている想像力を刺激します。私の場合、教育は先へつながる機会への扉を開いてくれました。教育は搾取に対するセーフティ・ネットです。教育をうけた男/女は、より良い生活を送るため、より良い市民であろうと努めるために、学んだ成果を生かすことができるでしょう。見聞を広めた人は、広めたぶん難しい問題に取り組んでいくことでしょう。そして彼らは、子どもたちがより良い機会を得られるよう取り計らうことでしょう。そう、かつて私の曾祖母がそうしたように。
出典:インドの新聞『ザ・ヒンドゥー(The Hindu)』2009年3月9日付
http://www.thehindu.com/mp/2009/03/09/stories/2009030950160100.htm
述べられている時代も教育史的背景も調べられていないので、過去の教育事情を推し量る参考までに識字率のデータを挙げる。
それぞれの調査に制約や統計の取り方の特徴があるようであるが、ここでは全て無視して数字を並べる。その上、元データにも当たっていない孫引きである。詳しくは以下のurlから参照した表1の注記を見よ。一例を挙げれば、1981年に、調査対象者の年齢の下限が5歳以上から7歳以上へ変更されたとのことである。つまり、以下に挙げる識字率はどれも15歳以上の総成人人口に対する割合ではないことにも注意せよ。
赤井 ひさ子、「独立後インドの初等教育及び初等教員養成」、『東海大学福岡短期大学紀要』、9号、2007年、p. 3. によれば、識字率自体は、1951年は18%、1971年は34%、1991年は52%、2001年は65%と報告されている。女性の識字率はそれぞれ9%、22%、39%、57%で、男女間格差も大きい(小数点以下は四捨五入した)。
http://www.pub.ftokai-u.ac.jp/bulletin/2007/2007akai.pdf (pdf注意)
簡単に言えば、インド警察職は、インド行政職などと並ぶいわゆるエリート公務員である。
いつの話かわからないので、その背景も不詳であるが、おそらく以下のような近年の事情からおぼろげに想像されるようなものなのではないだろうかと推測する。
http://www.hinduonnet.com/fline/fl2324/stories/20061215002503300.htm
http://www.hinduonnet.com/fline/fl2519/stories/20080926251908700.htm
http://www.hinduonnet.com/fline/fl1908/19080210.htm
いまどき国立が安いつったって文系じゃ年間10~20万程度しか変わらんからねぇ。
卒業生に金持ちの多い医学部はすでに私設の奨学金は多くあるけどやっぱ貧乏だと教科書代ひねりだすだけで大変みたいだし。そもそも医学部各学科を受けようと思ったら、産業化してる受験業界ではそれなりに金積まなきゃならんし。
一方で昔は中卒でもなれた弁護士が法科大学院を卒業しないと取れないようになっちゃったりして、貧乏人が這い上がるのは難しくなってるしなぁ。貧乏人が這い上がるために必要なのは学位でも奨学金でもなく国家試験受験資格だったりするんだが。
国立大学の学費をあげて奨学金を増やしたところでパイの奪い合いが過酷になるだけで、必要な人にはふってこないよ。親が自営業だと裕福でも貧乏人を装うことができてしまうからな。下手するとサラリーマンの子息が汲々して学費稼いでる間に医者の子息が奨学金と授業料免除をもらっていたりするのが国立大学。金持ちは抜け目がないから金持ちになるってことかね。
http://anond.hatelabo.jp/20090222224732
のブクコメを読んでいて長年疑問に思っていた思いがようやく氷解した。どうして自分が今までいわゆる「大学人」に対して反感のような思いを抱いてきたのかが。
彼らは「大学は学問の場である」っていうドグマに囚われすぎていて、「何か学問らしきこと」さえやっていればそれでおkと思っちゃている節があるんだ。まるっきり眼が社会に向いていないのよ。まるで日本の「なんとか道」の考えそのまま。
「物理学道」や「数学道」、はたまた最も社会と繋がっていなければいけない筈の経済学ですら「経済学道」に昇華させてしまう。頭の中で勝手な世界を作り上げて、現実とかけ離れた美しい学問の世界があるものだと妄信している。「道」は辛い修行を経なくてはいけないから、人生を楽しむという発想はまったくない。
「我々の国では、Joy of Life (生きる喜び)を何よりも大切にし、それがすべての価値の基準になっている。それを僕らはJoie de vieと言うのだが、それがこの日本に来てからこの国には全くないのではないかと、僕はいぶかしく思ってきた。」「街を歩いている人も、電車の中の人も、生気がなく、何かを楽しんでいるようには到底見えない」「それはどうなんだ、ホントのことを教えてくれ」(http://d.hatena.ne.jp/kaz_ataka/20090222/1235270656)。
研究は「道」なので、当然生活のすべてをささげなくてはいけない。
「道」だから大学、大学院という教育サービスの受け手(要はお客さん)である学生に対して、「学問は自分で掴み取るものだ」なんて厚顔無恥な台詞が平気で出てくるし(http://d.hatena.ne.jp/mfurubayashi/20090227)、学生を自分の弟子か何かと勘違いしてしまう。「道」なので、学生が学位を取ったら当然師匠である自分には謝礼を支払うべきだと考えるし、それを恥ずかしいことだとすら思わない(http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp200902040233.html)。
自分の研究室に在籍していた人間のことを「弟子」なんて言葉で言うのは、日本人だけ。恥ずかしいからやめような、それ。講演などで、「私は海外のなんとか大学のなんとか学の権威のなんとか教授の弟子でありまして」なんていうのは、聞いているこちらが赤面してしまうよ......。
社会を見ていないから、研究は当然「役に立たない」。むしろ役に立たないことを何かの誇りのように考えている節すらある。企業がドクターの学生を嫌がるもの当たり前の話。「一生懸命お勉強しましたねー。んで、君何が出来るの?」って聞かれても、何も出来ないんだもん。それを指摘されると真っ赤な顔をしてファラデーを引用する。
「生まれたばかりの赤ん坊がなんの役に立つのでしょうか?」
そうだね。未来がどうなるのかはわからないよね。でも、多分君の研究はうちの和室にある畳の目の数と同じくらい、どうでもいいことなんだよ、社会にとって。君の口から出るファラデーの台詞は、今ある現実に少しでも影響を与えたくて、散々苦しんだ末に出てきたものじゃないんだよね。君は自分でもよく意味の分かっていない偉大なファラデーの台詞に甘えているだけなんだよ。
研究に莫大な国からのお金が出ているのは、それが社会に対して有用であるからなのに、成果を還元する気がない。というよりも、還元できる成果がない。先の見えない研究を延々と繰り返すだけ。何の戦略もないし、思想もない。なのに、武士と同じで、食わせてもらって当然と考えているんだ。
アメリカでは修士以上の学生に対しては、生活できるだけの収入が保障されるけれど、日本の学生にはそんなもの払う必要はない。弟子ですから。向こうでは大学がきちんと産業とコミットできていて、研究が真に意味のあるものになっているから、修士であろうがなんだろうが、きちんと収入を手にすることが出来る。博士号をとった人間が、きちんと成果を社会に還元しているので、いい流れが生まれている。就職もきちんとできるし、学歴が高ければ高いほど、よりよいポジションを得ることが出来る。
日本では弟子が就職活動をしようものなら、「師匠」が必死に邪魔をする。研究のほとんどをろくな審査能力のない国というパトロンに頼っているので、学生を企業に送り込むことが出来ない。一度教授になると、いつまでたっても大学という唯一の居場所にしがみ付く。そして、そういう人間しか大学に残れないから、負の連鎖が続きますます大学は陰湿でヒステリックな場所になっていく。騙されてドクターに進んでしまった学生は、すぐに自分の現状に気がついて愕然とする。必死に就職活動しても、ほぼ間違いなく修士の学生よりよい条件で職を得ることはない。
まともな人間はある程度割り切って、あっという間に就職するか、海外の大学院に行ってしまう。
何十年たっても、大学は常に変わらない。
DQN院生撲滅のエースで今まで輝かしい戦績を誇ってきた。理不尽さ、物わかりの悪さ、不登校にさせた学生の数とも文句なし。
教授と比較し人当たりは軟らかいが、研究に向かう気力を減殺する雰囲気の醸成に一役買うマルチ兵器。
学振PDや筑波のポス毒が増えて職にあぶれた悲惨なODは減少してしまったが、
それにも採用されないテクや研究補佐員として研究人生の悲惨さを見せつける。
研究に逝き詰まり、精神バランスを崩し真面目な院生まで巻き込みドロップアウトを堅実にアシストする縁の下の力持ち。
持ち前の1stオーサシップへの執着力で気の弱い院生からデータやテーマを奪いちゃっかり自分の業績にしてD3の逃げ道を塞ぐ。
いつかはラボから居なくなるもののタイミング良く助手ポストが鮮やかに決まった際、生え抜き院生を失意のズンドコに叩き込む。
知識の貧弱さと研究室マナーに関する常識の無さで、真面目な院生の足でまといとなる無視出来ない存在。
ラボの士気に影響を与える力はないが、色恋によれたDQN院生をただれた生活に引き込むブービートラップ。
徹夜実験や論文読みを一切拒否するクールガイ。ひたすらPCに向かいエントリーシートを打ち込むか、問題集を解いているラボの異分子。
某所より転載。
生物系だとこういう研究室が多いような気がする。前時代的な徒弟制度というか。
毎日日付が変わるまで実験やってるし。しかも学費払って。
優秀な学生は学部と修士の学位をとるらしいがどうやって取るのか、第三者視点から説明してみる。
ちなみに卒業に必要なのは126から128単位が普通。建築は普通の学部と違う(通常は5年制)
通常アメリカの大学を卒業するには60単位程度の一般教養(工学部とかだとほとんどが物理と数学系で全然一般教養ではない。)と60単位前後の専門課程で構成されている。夏学期の間に一般教養の科目をとることによって、卒業年数を減らすことができる(減らさないで自分みたいに関係ないコースをとるまくる人もいる合計190単位取得予定)。
日本人でこれをやるのはほぼ自殺行為だけど事実上一学期間に取得できる単位に上限はない(けど成績が優良でなくてはならないのは当たり前)。たとえば自分みたいに一学期に21単位とれば一年に42単位、三年で卒業できる計算。夏学期をとればたぶん2年半で卒業できる(ものすごく辛いが)。
要因3:単位制である。
要因4:修士論文の研究を4年時の夏(すなわち3年が終了したあと)に始めることができる。
修士論文の研究を始める時に学部制であるにもかからわず有給で研究を始めることができる。でステータスが大学院生になったときそのままリサーチアシスタントとして学部か教授に雇われることになるからさらにお得。
一定に制限はあるものの学部生のステータスで大学院の授業を受けることができる。
アメリカ市民である程度優秀(たぶんこの優秀って意味は日本人感覚に優秀ではない。)であるならば簡単に奨学金が出る。バイトしなくてもいい。
けどそれ相応の努力と忍耐も必要だということは認識しといたほうがいい。日本の文系みたいに遊び呆けているアメリカ人はいっぱいいるけどね。(アメリカの大学生は勉強するってのははっきり言って神話)
の増田さんへ。
自分は学位を取った後に企業で開発の仕事をしています。専攻は工学部の機械とでも言っておきますかね。
多々意見のある方もいるとは思いますが、それらのうちの一つとして捉えて頂ければいいかと思います。
まず今の世の中で博士課程に進むことについてですが、これはお薦めできないです。
いくつか要因があって、それらは聞いたことがあるかもしれないですが、代表的なもので、
とかでしょうか。
この辺は散々一部の人達の中で論じられてきたことなので、その辺を参照頂ければと思います。博士課程に進むとして、全部現役でいったとして、修了が28歳ですよね。修士で就職したとすると、3年間のブランクがあって、その間の平均年収が低く見積もって300万だとして、-900万です。
しかもその後ポスドクという丁稚奉公を3年、あるいは、3年を二度繰り返して、6年する公算が高いです。産総研とか行ければそうとも限らないですが、あれもパーマネント審査とかありますしね。
で、その時点で31か、34です。三十路まで定職がないことが耐えられるかという問題があります。しかも、周りは結婚とかしてる訳で、その辺を気にしないことができる鈍感さがないと厳しいかもしれないです。
その後はというと、その3年、あるいは6年のうちにどこかに食い扶持を探さなければなりません。
因に、現在のところ、アカデミックポストのパーマネントポストへの求人倍率は120倍でして、その競争に3年か、6年のうちになんとか食い込む必要があります。よしんば、3度目のポスドクのポストを手に入れたとして、それが終わるのが37でして、その年齢になったらもっと若くて優秀な人材を育てたいからとかいわれたりなんかしてということも考えられます。
じゃあ民間企業への就職はというと、その辺は自分はあんまり苦労はしなかったのでなんとも言えませんが、一部の方々は学位を持ってる人間を毛嫌いしてくれる傾向にあるので、どうなんでしょうねえと思います。
確かに大学の研究は企業の求めてるものと乖離してる部分があることは否めないのですが、だからといって大学は共同研究の相手として、ソリューションだけ示してくれればいいという姿勢には賛成できかねるものもあります。ただ、その辺は会社というのは金だけで動くものなので仕方ない面もあります。
じゃあ大学はそれで良いのかというと、そうとも言い切れないもどかしさもあります。こと、博士の審査っていうのは今でもかなり閉じた感があるので、企業側としては本当にその学生の品質が保証されているのかという確信が持てない訳です。修士くらいなら自分のところで育てるけど、博士くらいになると、年齢的にも企業側で教育する時間はその人には残されてはいないと言わざるを得ません。
そういうことで、博士課程に進んでしまうと企業への就職はかなり厳しいものになると考えられます。
ただ、もしあなたに強力なコネがあるのなら、その辺りで引きがあって、どこかしらの大学なり、研究所なりで助手とかで引っ張ってくれるかもしれないですね。
そうしたらその後は順々に階段を上っていけばなんとかなるかもしれないです。あの世界は入るのは難しいけど、入ったらこっちのもんだ的なところが多少あるのです。
しかしそれでも予算の獲得とか、煩雑な事務とか、共同研究の圧力とか、バカな子供(学生)の面倒見だとかその他諸々の煩雑な仕事があるのでそれが良いとは言い切れません。大学の先生が優秀かというと、必ずしもそうとは言い切れなさそうな方が紛れ込んでいたりするのもこれまた事実な訳でなんとも良く分からない世界ではあります。
元増田さんもまだまだ若いのだから、色んな人の意見を聞いたり、企業へインターンへ行くとか色々とやってみて決めれば良いと思います。
ただ、気がついたらそれをしていたくらいの感じでないと厳しいのかもしれないです。それでもあぶれる可能性は多分にあるので、私個人としては今の時代には博士課程に進むのはお薦めできないです。費用対効果を考えれば、の話ですが。
その一方で、会社というのは常に悪巧み(良い意味の)をして、世間をあっと言わせようと従業人ン百人なり、何千人なりを総動員して動いてる組織な訳で、そこには当然色んな人が色んなことをしていて、自分の世界が広がるとか、世間の要求がどういう所にあるとか、そういうのを肌で感じられるという点では大変面白いです。客や経産省と直接付き合いがある分、産業界や、世間へのアクセスが近いんですよね。そしてそういう所でも研究的な要素は必要だったりする訳で、研究するならアカデミックでというのはどうなんだろうとも思います。
それは敷居高そうだなー。
やっぱどうにかして学位ゲットするしかないかな。
まぁ論文は何とか書こうと思う。
ただ本職の研究者並の量産は難しいなあ。
こういうのってどうしたらいいんだろうな。
読んでいるなら読んでいると言えばいい。しかし、その私の問いにこれまで一言も応えていないのだから、こちらとしては判断のしようがない。エスパーでもあるまいし。
著者のインタビューがアブストに当たるとして、ひとまずは読んだことにしておこう。
そして誰が書評をしたのかね?
さて誰が書評すると信用足りえるのか。片方の言語学の専門家とやらになると、学歴経歴がはっきりしないのだから、全く信用にたるとはいえないだろう。海難記の人はわりとはっきりしているし、梅田氏も同じ。となると、元増田が判断を何処に求めているのかさっぱり不明。専門家が常に信用できるなら、世の中こうはならないだろう。
また似非科学の伝道者とて、一応あやしげなところから博士号を取得しているわけなのだから、ひょっとすると学位においては程ほどの信用力を獲得していると見なされるのかもしれず、元増田はこれを信用してもおかしくないのだが。
あの本を引用して書評してるのはいくらでも見つかるし、その引用部分見ただけであの本がトンデモなのはすぐにわかるんだけどね。
そもそも数ある書評の中から、梅田氏の書評もどきのやつだけを否定することが可能なのか、その理由さえ示されていない。どうしてだろう。教祖様が梅田氏を否定しているから??
さらに、引用部分が、著書はいうまでもなく過去の学問においてどのように敷衍されているのかを理解しないといけないのだが、元増田はそれが可能であろうと推定するに十分な学歴や相応のトレーニングを積んできたとも思えない。つまり理解する能力がないにもかかわらず、トンデモと非トンデモを分類していることになるのであるが、これはあまり奇妙で且つ不可解すぎて。
なにより教祖っていうのがすばらしくいいひびきです。元増田の教祖様を教えていただければ幸いですが、その前にこのような発言をしている人は、あまり頭が良くないと見られるんじゃないかと思うのですがいかが?書評の良し悪しにも、たぶん主のオーラが直結しているように推測されるのだけど、そうするとこの元増田も自身でマイナスイメージだけを積み上げているようにしか見えないです。
最後に、総表現社会になれば、本当に権威があるのか不明な権威にすがりつくトンデモクンがイナゴのように大発生する。何しろ自分には権威もなければ、判断する能力も何にもないんだから。このようなプチ教祖様にすがりつく信者様がイナゴ。ネット社会は大変だあ。殺虫剤を作れば一儲けできるね。
中学の勉強のほうが難しいんだから、小学生の問題くらいで勉強してどうするよ。と頑張らない
高校の勉強のほうが難しいんだから、中学生の問題くらいで勉強してどうするよ。と頑張らない
大学の勉強のほうが難しいんだから、この程度で勉強してどうするよ。と頑張らない。
明らかな学力不足で浪人したにもかかわらず、大学こそが学問の場。受験テクニックなんて本質ではない。と頑張らない。
教科書に書いてあることなんて、もう誰かが調べちまったこと。研究こそが俺の力を発揮する場。と頑張らない。
博士になるなら、本気だすけど。。。と頑張らない
学位とってからが本当の勝負。と頑張らない
いろいろつっこまれているが、元ねたのコンサルが言っている事はおおむね正しいと思うよ。
> ・日本は技術のある国と言われているが、世界から見ればそうでもない
技術はあるんだが、革新的な技術は生まれてこないってのが正しい。
従来技術の改良は得意。
個々にみると光るものはあるんだけど、全体でみるとやはり見劣りする。
> ・日本は自動車は作れるが、ジャンボジェットやスペースシャトルは作れない
作れないよね。スペースシャトルは特殊だから置いとく。
GHQに航空事業を制限されたからってのはもちろん大きな影響を与えてるけど、そもそも企業規模が違う。
日本の重工業にはジャンボジェットを作るだけの人的リソースが無い。
> ・車の総部品数は数万、ジャンボジェットやスペースシャトルは数百万
> ・大量の部品を、破綻なく組上げることができるシステムを構築できるかが問題
> ・欧米企業がそれをできるのは、やはり論理的思考の歴史と素地があるからかもしれない
このあたりは怪しい。特に最後の項目は、論点ずれてるだろう。
個人的には、学歴についての違いが影響していると思う。といっても、どこの大学を出てるっていう話ではなくて、学位の話。
欧米企業のマネージメント層や研究職は、博士号所有者が多く複数の学位を取得している人もいて、アカデミックなキャリアが厚い。
日本企業は、博士号所有者は少なく、どちらかというと叩上げを重んじる。
欧米が大規模開発が得意なのは、その辺に要因があるのではないか。
やらないといけない事は沢山ある。
募集要項
仕事内容 独立した研究スペースをもち世界最先端の研究をしてもらいます
※国際学会の主催、英語による大学院生向けの授業なども行います。必要スキル ・学位取得後10年以内 求める経験 ・3年以上のポスドク経験者(研究計画実行から査読論文投稿までの経験をお持ちの方)
<あれば尚可>
・海外留学および英語による授業の経験
・研究ゴールを正しく認識し、そのゴールに向かって大学教員として他の教員と協調しながら研究できる人求める人物像 ・国際競争力を持つ研究テーマをを正しく把握し、実験計画、遂行、学生の教育、インパクトのある論文投稿、関係する国際学会を主催できる人
・大型研究費を継続的に獲得できる方であれば尚可
・英語による学会発表、授業、交渉のできる方
ああ、俺ってこれにぴったりかもしれない。でもキツいよなー。英語の授業なんてしたことないしなー。正月は休めるかなあ。
で、読み進めた。
年収・給与 年俸650万円(5年任期。任期中昇給はありません。退職金はありません。交通費支給、住宅手当等その他手当はありません)
アホか。
冗談にも程がある。
上の条件が本当に満たせる人間なら年収1500万くらい出さないと割に合わん。
例えば「国際競争力を持つ研究テーマをを正しく把握し」が本当に出来る人間だったらそれだけで600万の価値がある。大型研究費を継続的に獲得できることも望んでるし、英語によるコミュニケーション力も必須要件。
そもそも大型研究予算て、日本国内でも一握りのラボがあたるもんだろ? すでに名の知れた教授とか相当すごいやつじゃないとあたらないはずだろ。なのに年収650万昇給なしって。
「いくらがんばって働いても年収650万」のやつに独立した研究スペースとお手伝い一人あたえて、それで国際競争力ある研究なんてできるわけない。
こんなふざけた求人を出すところにまともな人が行くわけがない。今すぐその求人票の650万の前に1を足せ。そうしないと失敗する。でもそんな勇気はないんだろ。
だって、みんなとびつくからな。
ポスドクよかマシだってな。子供抱えて任期切れポスドクよりマシだってな。年俸500万以上なんて雲の上だってな。そりゃアメリカで5年も6年も年3万ドルでポスドクやってりゃ英語ぺらぺらだし、こんな貧乏でも生きられるんだ!ってネガティブからネガティブいって、むちゃくちゃポジティブだしな。
でもさ、科学者大事にしない国は滅びると思うんだ。
大学院拡充?博士増大?だってアメリカさんがウルサイですしー。
それに教授にとっても奴隷がいっぱいいた方が仕事が進むでしょ?しかも給料払わなくても学費を持ってきてくれるカモネギ君ですよ?
あと定員多い方が予算も優先配分しますし、定員満たさなかったら予算カットしますから。がんばって人集めてくださいね。
え?学生はその後どうするんだって?知りませんよーwww修士やら博士やら、学位をくれてやってんだから、あとはなんとかするでしょw
あとはテキトーに民間に押しつけてくださいよ?教授だって同期の友達とか共同研究先とかで民間にコネがあるでしょ?
あ、教授殿には友達や仲間がいないんでしたっけ?それは残念ですねー。じゃぁ次は海外留学とかをはやらせて学生を国外に追い出しましょうかー
似非科学とかでも、結論とか取り出すと正しかったりとかすることもあるわけじゃない。
そういうところでオカルトやゲーム脳も一笑にふせないってのはわかる。
でも、なんかああいうのは科学ではないとは言えるんだよな。
じゃあ、その科学の定義ってなんだろうって考えるのが、また科学者なんだろうけど。
どっちかというと、態度の問題かなあとは思う。
「査読」にしたって、似非なりになにか「お墨付き」って(いや、似非だからより一層)もらうわけだし。
たとえば、なにか自分の持っている理論と違う結果を言われたときに、
面白いとか「おー、じゃあ新しい論文書けるぜ。ひゃっほー」ってなるとかさあ。
あれかな、科学者ならそのメソッドとかロジックには拘るとしても、
まあ態度なんてわかりにくいから、じゃあ何が指標になるかというと、結局は
3)論文を書き続けてるか
ってことだろうけど。
2)は学位とった分野ではものにならなかったのに、「博士」とか「教授」って肩書きで関係ない分野で評論家になるやついるから必要、
って思った。3)はなんとなく締りのいい述語が思いつかなかっただけで、必要とは言い切れないけど。
アイデンティティねぇ……。
特にお墓を継がなくても、地元に対する愛着なんかはあって不思議はないと思うけど。
私は仕事とかで周りに必要とされたりすることとか、友達に声をかけてもらうときとかに、自分の基盤がここらへんにあるんだなぁ、と確認しますが。
親と一緒にいるときとかにも感じますけど。
それと、学問ですが、学問することが目的になってたり、学位とかが目的になるとアレだけど、
自分が迷った時とかに、周りの状況や自分の状況を把握したり解決方法を編み出すためのツールにはなると思います。
あと、ご家族のことですが、いろいろありつつも、あなたを学校へ行かせてくれる程度には働かれていたんですね。
(途中から奨学金とかあったかもですけど。)
自分が就職して思ったのは、子供を2人も大学以上に出すことはとても大変だということです。
それだけでも親には感謝するし、長年頑張ってくれたんだな、と思ってます。
しかし、休学前と同じようなことはできないし、体調によっては学校に行くことも難しい日もある。
このままでは卒業も難しく、退学も考えているが、やはり学位は獲りたい。実験はだいたい終わってて、あとは論文と学位論文書くだけなんだ。
でも、学校に行こうとすると吐き気がしたり泣いてしまったり、ダメな日がどうしてもある。
そういう日、自傷をすると気分が楽になることに気づいた。
気付かれたら困るから、内腿とかを軽く切る。血が少し出るくらいでいい。それだけでなぜか気分が楽になる。学校に行って、ある程度しっかり仕事ができる。休学前や休学中は死にたい気分でズバっと切ったことがあったけど、そういうのとは違う。
卒業まで、このままのペースでやっていってもいいんじゃないかって気がし始めている。
足は傷だらけになっているけど、このまま宙ぶらりんで止めるよりは将来の自分にとっていいんじゃないだろうか。
いつも思うんだけど、男の学問の世界で女が頑張っても成果挙げられる例なんて稀有だよ。
女っていう立場を卑怯に利用してのし上がってきた人ばかり。
彼女たちは
理系女子は一般女子を見下していて、大したことないのにちやほやされてて、都合のいいときだけ女を武器にして、エトセトラエトセトラ。
まったくこの通りの人種で、なおかつ無能。
査読どころか学会発表の経験もない大学教員が、何を指導できるんだ?
こうした人の多くは有力な教授のコネクションを持ってる。つまり愛人関係だ。
母校の旧帝大では、多くの女性ドクターが教授とこうした関係を持っていた。
アカポスには女性枠がどこも作られていて、国立大学は女学生優遇制度を設置しようとしてる。
ウソじゃない。俺が務めてる国立大学で実際に進められてる話だ。
研究員の採用枠が10名あったとして、そのうち1-2名が女性枠だ。
残りの枠9名に対して1000人の有能な男ドクターが応募する。
そして、落ちた9名の無能な女ドクターからは自分が落ちたことが女性蔑視に由来するという内容証明を送りつけられる。
10名の枠をすべて女性で埋めろって言うのか?
マタ開いて学位取ったくせに、なお権利を主張するのか?
脳の構造が男と女で違うんだから、理系なら張り合っても無理なことくらいわかるよね?
でも、好きだから趣味で続けたい?
女の理系は居るだけ迷惑なんだよ。
君たちのわがままで、君たちの好きなこの国の理工系分野はドンドン衰退していくんだ。
それでも理系にこだわるの?
学位とったころの風潮は、猫もしゃくしもポスドク。日本でもようやくポスドクが増えてきたころだった。まだまだビッグラボにしかポスドクがいないころだった。それより小さいラボもポスドクを持てるお金を手に入れ、がんがん新卒博士をポスドクとして囲っていった。自分達もまずはポスドクとして経験を。。。という意識だった。アメリカはそうだよ、とにこやかに微笑む帰国したての若い助教授の顔を今でも覚えている。
5年がたった。
そろそろアカデミックポジションに、、、と思って、恩師のラボを伺うと、そこには若々しい助教が座っていた。
「あ、こんにちは!お噂は聞いてますよ。僕は去年卒業したばかりですが、先生に拾ってもらいました。よろしくおねがいします!」
あれ、えっと、先生、自分も助教の職を探してると言ってましたよね。とは言えず、でも先生のどこかよそよそしい姿で、自分がどこかで置き去りにされたことを気づいた。
そうなんだ。
ポスドクとしてこきつかわれて、いよいよと思ったら、今回は若い者の可能性にかけたよ。と言われるんだ。
僕らが若いとき、あなたたちは経験が必要だと言いましたよね。
笑顔でまた遊びにきてくださいと言った彼に罪はない。
君ならいいとこ見つかるからと言った先生に罪はない。
誰も責めるつもりはない。
でも、帰り道にため息つかせてください。
置き去りにされた者のため息をつかせてください。