はてなキーワード: フィルターとは
対処方法としてはproxomitronとかが使える環境だったらそのIDが表示されている行は表示しないってフィルター作れば
本人の目的が「成果を計ること」なら目的を逸しているので問題だが、本人の目的が「特定の知識や技術を習得していると認められること」なら、カンニングは目的に合致している。
で、「カンニングした」と自ら告白して、その目的を「自分で」ぶち壊したわけだ。
もうそいつがなに言おうが、どんな結果出してようが、そいつの出力は「カンニング」のフィルターをかけられてしまう。
だから東も言ってんじゃん。
というか、ぶっちゃけ言うと、カンニングより、「カンニングしています」と堂々とツイートするほうがよほどやばい。大学制度への意識も、ネットへの意識も、すべてなにもかもやばい。なに考えているのだろう
なぜキャシャーンは人を激怒させるのか?
しかし、例えば僕などは日記をみてもらえれば判るようにキリキリ監督に尋常ではないレベルの妬み・嫉み・恨みを抱いているが、それとこれとは別で、「CASSHERN」という映画じたいは素晴らしく面白い!と手放しで絶賛してるし、一発目でいきなりこんな凄い映画を作れてしまう紀里谷監督はリアルに天才なのでこれからも凄い映画を作り続けてほしいです!と応援してしまうのである。
つまり嫉妬の要素というのは、この際、さほど重要ではない。
CASSHERNは、人間の感情の、何かこうクリティカルな部分を直撃する映画なのだ。それゆえに、そのクリティカル・ヒットを受容できる人はハマるし、受容できない人は切れるのだろう。(受容はできるけど、もうこの手の話は飽きた、という人もいるだろう。しかしそのような人は、呆れ果てることはあっても、切れたりはしない)
CASSHERNのクリティカルさというのは、そう、ブライのセリフに集約されている。
「つまり、憎しみとは、人間也!」
さらに、キャシャーンはキャシャーンで、「人間が生きていることじたいが、人を傷つけることになる」という意味のモノローグを語っている。
・人間は、生きていることそれじたいが罪悪だ(原罪論)
これはキリスト教的な「罪」の論理であり、無神論が主流の日本では受け入れられる余地の少ないテーマといえる。性善説がベースとなっている日本でいきなり「お前の存在じたいが罪だ」といわれれば、切れる人が多いのも当然だろう。しかもこれ、漫画映画である。「敦煌」とか「砂の器」じゃないのである。アニメだよ、キャシャーンだよ。なんで漫画映画で、そんな説教されんといかんねん!という人もたくさんいるはずだ。
しかも、紀里谷は、これらの作品のテーマを、役者にセリフとして語らせてしまうのである。これがまた、この類のテーマを受容したくない人にとっては、許しがたい行為なのである。セリフで語りさえしなければ、スルーできたはずだからだ。人間は、自分の見たいものしか認識しない。従って、通常、映画を観ていても自我を脅かすようなテーマが提出されても、その部分を認識せずにフィルターをかけて消してしまうことができる。しかし、「言葉」で投げつけられてしまうと、そうはいかない。紀里谷は確信犯的にこの映画を観た全ての人間に
「憎しみとは、人間也!」
というテーマを強制的に植えつけることによって、この映画のテーマを曲解される可能性をふさいでいるわけだ。
このテーマを容認できない人にとっては、監督の独善、ということになるのだろう。
伊勢谷友介が演じる東鉄也は、一度死ぬが、LCLのようでもあり命のワインのようでもある赤いプールに肉体を沈められることにより、再び復活する。この赤いプールの中で行われる復活劇は、あたかもパプテスマのヨハネによる洗礼の儀式のようでもある。この復活により、鉄也は自らを救世主キャシャーンと名乗ることになる。もちろん、上月博士や三橋達也演じる老医師、鉄也の母みどりの幻影などが、復活した鉄也に「君の復活には、何か意味があるはずだ」「この街を守れるのか」「人々の争いを止めるのです」と、鉄也を救世主の道へと導こうとアシストするわけである。
しかし、鉄也は救世主キャシャーンとなっても、奇跡を起こすことはできず、人々はみな挫折して死ぬ。そして鉄也自身も傷つき、血まみれとなっていく。鋼鉄の扉の隙間からバラシンに刀で心臓あたりを抉られるシーンは、あたかも十字架にかけられたイエスのごとくだ。
しかもキャシャーンは抽象的に人類の業を贖罪するという存在ではない。鉄也自身が生前、殺人という罪悪を犯しているのだ。「反戦映画」ともうけとられがちなこの映画は、実は、戦争だけに反対している映画ではない。「人間存在そのものが罪だ」というテーマをもっとも端的に表現できる場こそが戦争という極限状態なので、戦場における戦闘の結果としての殺人という光景が何度も繰り返されるのだ。
が、この映画の恐ろしいというか念入りなところは、懺悔したはずの鉄也がさらにダメ押しともいうべき父殺しという罪を背負うことである。母親を寝取り、父を殺すというのは、いうまでもなくエディプス・コンプレックスなのだが、鉄也は最終的に父殺しを達成することによって、人類の原罪をことごとく背負って自殺することになる。
では、鉄也の懺悔は無駄だったのか? そう、無駄だったのだ。この映画のテーマは「憎しみとは、人間也!」なのだから。従って、鉄也は、キリストの如く原罪を背負って血に塗れ、死んでいくしかないのだ。キリストと違う点は、人類の原罪を肩代わりしたのではなく、自ら原罪を犯して死んでいくという点だけだろう。もちろん鉄也は単なる殺人犯というわけではなく、「戦争」や「愛する人を殺した殺人犯への復讐」といったどうしようもない事情がある。決して、悪意で殺人を犯したわけではない。人間存在そのものが悪なのだから、生きる限り、どうにもならない、どうしようもないのだ…したがって、救世主になるべくして復活させられた鉄也の地獄巡りは、ドアーズの「The End」の如く、母を寝取り、父を殺して完結する。「地獄の黙示録」を参照するまでもなく、フロイトの絶対的な影響下にある現代のキリストは、エディプス・コンプレックスの持ち主でなければならない。フロイトによれば、エディプス・コンプレックスこそが、人類の原罪意識の大本にあるのだから。
さらに、鉄也の父親・東博士が下層階級の出身であったことも最後に明らかになる。東博士は下層階級出身でありながら、政府側について少数民族を抑圧する側にまわり、最終的には鉄也の最大の敵となる。このあたりも、なにやらイエス・キリストの物語を髣髴とさせる。
だから、キリスト教圏では、この映画は日本からやってきた現代の救世主譚として評価されるかもしれない。
過去に、日本のアニメ映画では似たようなテーマが何度も描かれている。いうまでもなく「イデオン」と「エヴァ」がそれだが、エヴァでは、主人公のシンジが救世主となるべく人類の原罪を背負う……という流れの物語だったはずが、最後にシンジは人類の原罪を背負わずに話が途切れてしまった。「エヴァ」は、「人間の性は、悪だ」という自らのテーマに向き合うことができなかったのである。キャシャーンは、エヴァと非常に似た構造の映画であるが、主人公の手を父親の血に染めさせることによって、エヴァが途中で放棄したテーマを完結させた作品であるといえる。
もう一つ、近作で似たような映画がある。それは「マトリックス」だ。この作品は3部作だが、それぞれ救世主ネオの誕生・生・そして死を描いている。ネオもまたキリストの如く、一度死んで復活する。だが、最後には人類の原罪を背負って死ぬ道を選ぶのだ。終盤、ネオは目を焼かれて失明し、エディプス王の如く盲目となる。機械の触手に支えられて死んでゆくシーンは、やはり十字架にかけられたイエスを髣髴とさせる。
ただ、マトリックスは「何も語らない」「観客に考えさせる」というスタイルを貫いたのに対して、キャシャーンは「全てをセリフで語りつくす」「観客に議論の余地を与えない」というまったく逆のスタイルで作られている。このスタイルこそが、一種の押し付けがましさ・説教臭さ・青臭さ・傲慢さと受け取られ、反発される一因になっているのだろうと思う。だが、この説教臭さ、愚直なまでの必死さこそが、かつての邦画のひとつの魅力だったのではないだろうか。邦画の黄金時代には、説教映画が多数製作されていた。「新幹線大爆破」の宇津井健のウェットな説教や、「ノストラダムスの大予言」や「人間革命」で丹波哲郎が繰り出す強引極まりないオレ流説教。かつて、日本人はこれらの説教映画で感動して泣いていたはずである。みんな、かつては馬鹿だったのだ。
80年代以後、邦画から泥臭さが消えていくとともに、邦画の魅力は失われていった。特に、角川春樹の逮捕とホイチョイ・プロダクション的なテレビ局誘導の企画映画のブーム化以後は、有能な監督には集客力が無く、大作はどれも質を伴わない、という状況が長らく続いていた。例えば、世界レベルで評価されている黒澤清や三池崇史が、「デビルマン」を監督させてもらえないのである。宇多田ヒカルの夫であるということ以外、ほとんど映画界では実績が無く、世間にもあまり知られていなかったPV監督が従来の邦画のシステムとはまったく無関係なところで突然作り出した「CASSHERN」は、そういう硬直した邦画をとりまく閉塞構造をいきなり破壊した作品といえるのだ。
無論、システムの面だけではなく、愚直なまでに真剣かつ本気というその姿勢もまた、古くて新しいスタイルではないかと思われる。むしろこちら(熱さ)のほうが重要で、80年代から長らく続いていたシラケ世代は2001年あたりを境に終息しつつあり、70年代を最後に滅んでいたはずの愚直な熱さが求められる時代が復活しているのだ。アントニオ猪木が「馬鹿になれ」というフレーズでカリスマ化したのも単にジャイアント馬場がいなくなったからというだけではない(主にプロレスと関係ない人たちに猪木が評価されているのだから。むしろ保守的なプロレスファンは旧来のプロレスのシステムを破壊する存在である猪木を嫌っている。このあたり、CASSHERNの評価とも重なってみえる)。「馬鹿になれ」という熱くて愚かで泥臭い姿勢こそが、閉塞しつつあった日本の気分にマッチしていたのではないか。
従来なら「大人げのない幼稚な愚直さ」と嘲笑のネタにされるような熱いキャラクターがカリスマ化していく作品としては、「最強伝説・黒沢」というコミックもある。この漫画の主人公の黒沢は、中学生と本気で決闘するようなどうしようもない中年なのだが、その必死さ、熱さが、周囲の人間(主に、シラケきった若者世代)の心をわしづかみにしていく、というストーリーのようだ。
すでに我々には、冷笑や嘲笑で生きていけるほどの余裕が無いのだろう。すべてから距離を置き、自我を脅かすものすべてを嘲笑して生きていくライフスタイルは、「勝ち組」「負け組」が明確化されてしまった現代日本ではもう限界なのだ。そうなれば、道は二つ。「感動など、無い」「自分には何の値打ちもない」という悲惨な現状に気づいて、馬鹿になり、泥にまみれて足掻く道。もう一つは、「自分がこうなったのは、すべて、外部に責任がある」と犯人探しの旅に出る道だ。
僕がCASSHERNを支持するのは、紀里谷監督の製作姿勢そのものが、前者の道を示しているからだ。紀里谷の才能を持ってすれば、もっとソツなく、映像美とアクションに徹した娯楽映画を作ることだって可能だったはずだ。だが、あえてこんな熱くて泥臭くて人に嫌がられる映画を作ってしまった。というより、作らざるを得なかったのだろう。その過剰ともいえる熱さが、CASSHERNが賛否両論喧々諤々と騒がれる原動力となっていることは疑いない。こんな熱い邦画は、しばらく見なかった。いったい、いつ以来なのだろうか。
そしてこの映画のテーマもまた、後者の道…「犯人探しの旅に出る道」を遮断するべくして設定されている。そして紀里谷は、それでも「犯人探しの旅に出る道」への抜け道を探そうとする人間に、抜け道すら与えない。テーマをそのままセリフとして喋らせることによって。つまり紀里谷にとっては、作品の映画としての完成度よりも、テーマを訴えることのほうが重要だったわけで、紀里谷はここでも熱い。
このCASSHERNがどうしようもなく発散させている愚直さ、熱さこそが、実は人々に求めらていたのではないか、と思われるのだ。この映画は、冷笑させることを観た人間に許さない出鱈目な熱さを持っている。いやまあ突っ込みどころはあまりにも満載なんですが…あちこち破綻しまくってるし。だが、それだけでは絶対に済まされない映画なのだ。だからこそ、嘲笑で片付けられる人間よりもマジ切れする人間のほうが圧倒的に多いわけなのだ。僕は紀里谷監督に、もっともっと熱い映画を作り倒してもらいたい。僕自身は、熱さは持っていても、作品を作る社会的な能力が皆無なので……。
(04/5/1 本田)
多分元増田が指摘してる元になった http://anond.hatelabo.jp/20100813055556 を書いた増田です。
俺の文章力のなさか、真意が伝わらなかったみたい。
自分も、「単純に作りたいと思わない」だった。今でも基本はそう。
作りたくて作れない人は当然、単純に作りたいと思わないだけの人でも若いうち(多分高校生位まで)の間に
女性を無意識に避けたり、壁を作ったりするような感覚を無くしたほうがいいと思うんだ。
女性からのアクションは恋愛という形にならなくてもいいし、恋愛がらみじゃないことのほうが圧倒的に多い。
「恋愛対象じゃないからこの女性からのアクションはスルー」とか「女性に興味ないのでスルー」とするのではなくて
女性ではなく一人の人間として付き合える感覚をその時期につける。
中高生の恋愛なんてサイクル早くておままごとのようだったりするけど、そのままごとが大事なんだよ。
もっと直接的にいえば若いうちに色んな女性と友達といわないまでも知り合い程度でもいいから関係もって
恋愛対象かどうかとは関係なく女性をごく自然に友達関係のスタートラインに置ける感覚をつけとけってことかなあ。
女性を異性としてしかみれなかったり、常にフィルターかけて女性を見てるから壁をつくっちゃってる。
逆に変にガツガツしたオーラ撒き散らすようになってしまったり。
18歳位を過ぎると0から経験を積むのが一気に難しくなってく気がする。
"自分のLvは全然上がってないのに、Lvの高い人向けの狩場にしか行けない"状態に陥ってく。
恋愛に興味が無いからそういう経験値は一生要らないって言うかもしれないけど、
http://anond.hatelabo.jp/20100805130025
今まで自分と関わってきた人がみんな順風満帆な人生を歩んでいるわけではない(場合によってはもう自殺した人もいるかもしれない。)にもかかわらず、理想ばかり追い求めるのはどうなのよ、という意味。
http://anond.hatelabo.jp/20100805125931
コネがあればそれでもいいのに、最近のネットはコネがない人からの憎み妬み嫉みがひどいね。
僕は語学、文学系の学部に入ったけども、大学ではグラフ理論ばかり勉強していた。微積や三角関数が大嫌いで、大学でもそういうことばっかやるんだろうな、と辟易して高二で文系選択した(実際はそうでもなかったけども)
当然無資格無免許。普免もとってない。そんな人でも内定が取れるのに、内定が取れないのはなぜ、と。
そういえばフィルターは掛けられる側だけど、あまり「かけられた」実感もなかったなあ。早稲田とか慶応とか、国立大の人も一緒にいたこと多かったし。
「親にこんなひどい育て方されたんだから、被告の反社会的人格も無理はない」とか、
「言い年した大人がいつまでも親のせいにするな」
とか、そういう極端な感想は持たなかったのだけれども、
30近くにもなってここまで親に執着している状態というのは、何やら恐ろしいというか、必然的に恐ろしい状態を招くのかもしれないと思った。
(ここから自分語り入るけど、スンマセン・・・)
私も親に対しては結構複雑な感情を持っていて、未だに許せないと思うことも多々あるけれど、学生時代のうちにちゃんと和解したいなと思った。
多分わだかまり残したまま社会人になって自活始めても、部屋で一人そのわだかまりを反芻しているうちに、親の事を憎む思考回路がどんどん強化されて、何をするにしてもそのフィルター(「親が悪い」)を通してしか物事を考えられなくなってしまいそうだ。ここまで来ると、もう自分が勝手に作った逃げ道でしかない。何をやるにも逃げ腰で自信無さ気な態度だったら、ますます親は私の人生に口出ししたくなるだろう。そうやってずるずる行くのは絶対嫌だ。
とにかく、上手く親と距離をとって、上手い付き合い方を出来ればいいなと思っている。
これって、大学上京組の方々はとっくにやってることなんだろうけれど。
なかなか年相応の行動はとれないね。
人生で一度だけ、浮気をしたことがある。だけど、人によってはそんなのは浮気ではないと言うのかもしれない。私がしたことは、単に彼氏以外の男と一緒に寝たというだけだったから。セックスなんかせずに、文字通り一緒に寝ただけだった。
彼氏と付き合ってからは3か月が過ぎていた。最初は毎日のようにメールが届いたけれど、徐々にその頻度は減っていった。だけど、私の心の平衡を崩すのはその頻度の減少ではなかった。少しずつ、メールの文面に彼の体温が感じられなくなっていくということ。あるいは、別れる間際に特有の、あの他人行儀な距離感。焦燥ははやばやと諦めに変わる。ああ、もう終わったんだ。
さみしい、というのはこういうことなのか、と思った。さみしい、というのは、単にそこに何かが無いからさみしいのではない。そうではなく、自分の手元にあることが想像可能である事物を喪失しているからさみしいのだ。私はさみしかった。だけどそれは固有名詞で表わされる彼氏の不在によるものではなかった。私にとって耐え難かったのは、一般名詞で表わされる彼氏の不在だった。それはさまざまな事象の欠落、たとえば人から気にかけられるということ、人の体温を感じるということ。
そんなとき、男友達と酒を飲む機会があった。彼は人との距離をとるのがうまい、と私は思う。他人が抱える心のすき間に、欠けたピースをさりげなく差し込んでいくような人だ。彼は他人の論理的整合性の欠如には素早く反応するけれど、思想信条の違いについては他人を否定することがない。私は彼のそういうところが好きだった。
すこし過剰な意味を含むような言い方で、私は彼に告げる。たぶん、そろそろ別れると思うよ。そうか、とだけ彼は答える。どうせあんたたち、いずれくっつくんでしょ、と目の前にいる女の子が言った。その言葉を黙殺して、私たちは視線を交錯させる。それはないな、と私は思った。顔は好きだけど、もうちょっとわがままでいてくれないと、私はちょっと、ときめかない。
夜明け近く、ね、ちょっと膝かしてよ、と言って私は人目もはばからずに彼の膝の上で目を閉じた。泊まっていく、と彼が訊ねる。私は無言で同意を示す。これから起こるであろう出来事を考えても、罪悪感は感じられなかった。私と彼氏の関係は、既に私にとっては脳死状態にあったから。定義上は生きていても、実質的によみがえることのない。
彼と一緒のベッドに入る。彼は私を抱いた、けれどそれは社交辞令以上の意味を含んでいなかった。それ以外、彼は私に何もしなかった。ただひとこと、俺、彼氏いる人に手出さないことにしてるから、とだけ彼は言う。それが駆け引きを優位に進めるための言葉なのか、それとも本心から出た言葉なのか、そのとき私にはわからなかった。
結局、彼氏からは、そのあと1週間くらい後に「友達に戻ろう」というメールが届いた。果たして戻る地点などあるのだろうかと思ったものの、それは表に出さず、今まで楽しかっただとか、今まで言えなかったことを後悔の無いように伝えた。
すぐに返事が来た。その文面からは、この人はまだ自分のことが好きなのだということが伝わってきたけれど、それなのになぜ別れようとするのか私には理解ができなかった。そのメールには、返事を返さなかった。返せなかった。
1か月くらい経った後、別れた彼氏から唐突に、会いたい、というメール。後輩の女の子に、これどう思う、と聞くと、さびしくなったんですね、会うなんて言っちゃ駄目ですよ、と返された。いつだって適切なリアクションをする子だと思ったけれど、間抜けな私は既に会おうと返事をしてしまった後だった。結局、付き合っていた頃と何ら変わりのない時間の過ごし方をして、それから終電の無くなった彼を家に泊めた。
同じベッドの中で、私は彼に背を向けて眠る。彼が私に後ろから抱きつく。あのさ、もう別れたんだから、そういうの、やめようよ、と言いかけて、彼が泣いていることに気付く。泣きながら何度もごめんね、ごめんね、と謝っている。それは、聞いているこちらが苦しくなるような、泣き方だった。ごめんね、もう、さみしい思いはさせないから、だから、もう一度。
私を部屋に泊めた彼と、その後、また会う機会があった。そういえば、彼氏とやり直すことになったよ。私がそう切り出すと、そうなんだ、よかったね、と口を開いたのは彼ではなく、別の男友達だった。すこし時間をおいて彼は、俺、お前のこと、すこし好きだったのに、と言う。
すこし、って何だろう、と思った。それがすこしではなくて我慢できないほど好きだったら、彼氏と別れている間に君とくっついていたかもしれないけれど、と思ったけれど、やっぱり言えなかった。
それから半年くらい経った頃、学校から家に向かう途中、彼氏から電話の着信。初めてだった。いつもなら、いま電話していい、とメールで確認をしてから電話をする彼が、何の前触れもなく電話するなんてことは今までになかった。
自転車を降りて、電話に出る。どうしよう、俺、Oの浮気相手と勘違いされてる。そんな内容の言葉を彼は私に伝えた。Oは私と彼の共通の知り合いで、彼氏がいるにもかかわらず手当たり次第に手を出す女として知られていた。どうせあんたたち、いずれくっつくんでしょ、と私に向かって言った女。彼は私の言葉をさえぎるように喋り続ける。でも、俺、本当にやってないから、お願いだから、信じてよ。
ああ、そうだったのか、と私は自分の鈍さをいまいましく思った。今まで理由のわからなかった彼やOの言動の意味が、その瞬間にはっきりとする。たとえばOが私に向かって、何であんたきれいでもないしかわいくもないのに、と吐き捨てたこと。それは単に、彼が体を許しても心まではついにOのものにならなかったことからくる嫉妬だったのだろう。そう思い当たるまでに時間はかからなかった。
私は彼に言う。状況がぜんぜん飲み込めないよ、なんで浮気を疑われる状況になってるかよくわからないし、とりあえず後でOの彼氏に聞いてみるから。彼は、それだけはやめて、と言った。お願いだからそれだけはやめて、もしそうしたら、俺、別れるから。
家に帰り、Oの彼氏にMixiでメッセージを送る。メールアドレスは知らなかった。返ってきたメッセージには、よかったら電話して、と家の電話番号が記されていた。
その電話で、なぜ浮気を疑ったかその根拠を告げられた。彼とセックスしたことを得意気に吹聴していたということ、ご丁寧に手帳にもその記録があったこと。私は訊ねた。いつくらいの出来事だったのかと。彼の回答によれば、それは私が別れを告げられるちょうど1か月前のことだった。
どうするの、Oと別れるの、と私は訊ねる。涙声を装いつつも、それはほとんど尋問に近いやり方だった。どうしようかなって迷ってる。そんな答えが返ってきたことに苛立ち、私は彼らを別れさせようと、たったひとこと言葉を加える。別れた方がいいよ、なんていうものではなく、Oの彼氏が最も強く罪悪感を持つような言葉を、最も彼が傷つくようなタイミングで、私は彼にささやく。
その後、彼氏に会い、隠してること、あるでしょ、と問い詰めた。長い沈黙の後、彼はOとの間にあったことを話す。それにしても、と彼は続ける。君は俺のこと何でも知ってるね、でも俺には君のこと、何にもわからないよ。
私は思う。私は君のことなんて、何も知らない、ただ、知っている振りを装うことができるだけ、だって昔の私のメンタリティーとよく似たものを君は持っているから。けれど、その言葉は口にするには少し重すぎる、と思って口を閉ざす。
私の横で彼が眠る。夜中、目を覚ますと、また彼が泣いていた。だけどそれは、私には聞こえないように声を押し殺し、心の底に沈殿した澱を洗い流すような、そんな泣き方だった。私は彼を許したのに、なぜ泣いているのかわからなかったけれど、それでも彼がいとおしくて後ろからそっと抱きしめる。彼はひとこと、そういうことするから泣けるんだよ、と言って私の手を払いのけようとする。私は、離さないようにと、彼を抱く手に力を込める。
2週間くらいした後、Oの彼氏からメールが届いた。その内容は、Oと別れることにした、私には背中を押してもらって感謝している、という簡潔なものだった。思わず、舌打ちした。確かに私は彼らが別れることを望んだけれど、だけどあまりにもタイミングが悪すぎる、と思った。
次に彼と会ったとき、家に寄っていい、と彼が訊いた。私の部屋で彼は何か言いかけて、それを口に出せずにいる。私は、別れたいんでしょ、と訊ねた。だけど、それは既に疑問文ではなかった。彼は、やっぱり君には何でもお見通しなんだな、と言って唇の端に歪んだ笑みを浮かべる。だけど目は笑っていなかった。
私は彼に理由を訊ねる。だって、俺といると、君の価値が落ちる、なんて意味のわからないことを彼は言う。きっとOに何か言われたのだろう、と思った。だって、そんな語彙は彼の中には無いはずだったから。だけど、何を言われたのかは見当がつかなかった。
何言ってるか、よくわからないんだけど、と私は言う。
もう、罪悪感に耐えられない、と彼は言った。
そっか、じゃあ別れたらいいよ。
引き留めてくれないんだ。
引き留めても戻ってこないことくらい知ってる。
ね、最後にひとつだけ、わがままきいてもらっていいかな。そう言って、彼は私に体を預けた。初めて会ったときに付けていたのと同じ香水の、少し甘い匂いがした。ここで体を離せば、もう、こうやって肌を合わせることもないのだろう。だけど、自分で幕を引かなければいけないのだと思い、もういいよね、と言って私は彼を自分の体から引き離す。
彼は、今までありがとう、と言って部屋のドアを閉める。私は、返事をしなかった。
その後になって知ったところによれば、Oの彼氏にOの浮気を知らせていたのは、私を部屋に泊めたあの男だった。彼は言う。だって、Oの彼氏があまりにもかわいそうだったから。この嘘つき、と私は思った。かわいそうな人間に、より残酷な事実を告げることは、さらにかわいそうなことではないのか。
私はそれ以来、いかなる男の知り合いに対しても「友達」という呼称を与えるのをやめた。だけどごくたまに、「知り合い」と呼ぶにはいささか親密すぎる人間関係に、何という名前を与えようか、すこし悩んで、そして結局口を閉ざす。
(追記 7/30)
そろそろこの文章を新しく目にする人もいないかな、と思って追記してみます。
世間でベストセラーになる小説が自分にはちっとも面白いと思えなくて、そして自分が面白いと思う小説は世間では全く受けなくて、だからきっとこんな文章を書いても目にとめる人なんてほとんどいないだろう、と最初は思っていました。それなのに、被ブックマーク数がいつの間にか自分のブログでも見たことない数字になっていて驚いています。こんな真性かまってちゃんの文章に付き合っていただいて、褒めてくれた方にもdisってくれた方にも、どうも、ありがとうございました。
特に、読みづらい、と思われた方には申し訳なく思っています。普段、読みやすい文章が良い文章だと思っていないため、リーダビリティに気を配らない書き方をしてしまいました。こんなに多くの人の目に触れるのだったら、もう少し気を遣った書き方をすべきだったと反省しています。
なお、トラックバックにも書いたのですが、僕は男で、僕以外の人間も全員、ほんとうは男です。tweeterやブックマークコメントを見る限り、トラックバックはあまり読まれていないようなので、今一度書いておきます。ですが、ブックマークコメントに書かれているような、「おっさん」と呼ばれるほどの年ではありません。おそらく、コメントを残してくださったほとんどの人よりも年下です(僕には理解しがたかったのですが、「女でないのに女の振りをして文章を書く」というのは、社会通念として「おっさん」とみなされるのでしょうか。それとも、僕の文体が学生くさくなかった、ということなのでしょうか)。
僕にとって一番の驚きだったのが、「誰の考えも全く理解できない」というコメントがあったことでした。あるいは、「(僕の)フィルターから見た人間はみんな裏工作をしているんだね」というコメントがあったこと。ある人にこの文章を見せたときにも僕はこう言われました。
「感動したけど、他人の態度に対する過剰な意味付けとか、その反射的態度は僕にはよくわからない」
たとえば数学で方程式を解くのと同じくらいのレベルにあると思っていた行動が、他の人にとっては必ずしもそうでないということが、僕には大きなカルチャーショックでした。もし、そういう人が誰かを好きになったとしたら、どうやってアプローチするのか僕には想像もつきません。
おそらく、ですが、そういう人は、日常で不意に放たれる「自分に好意を持っている(いない)」というサインを必然的に見失うことになると思うのです。そして、自分に好意があるかどうかを些細な行動によって見極められないのだとしたら、いったいどうやって"go or no-go"の判断を下しているのか、僕には理解ができません。もし、「そんなのわからないけれど、好きだから告白するし、それでうまくいく」というのだとしたら、それは人としてものすごくハイスペックだと思うし、不確実性に立ち向かうその精神の強靱さに、僕は賞賛と羨望の眼差しを送らずにはいられないのです。
そういう方には役たたないけど、会社勤めしてたら
最近悪化しそうになり、いろいろしたことをまとめて書いてみる。
今はもうほとんど引いてきたけど、忘れないようにメモっておく。
<経緯>
・一年くらい前から顔がところどころ赤くはれるようになって、
↓
・回数使っていると最初直ったのにそのうち赤みが引かなくなってくる
↓
・指にも湿疹ができる、そのうち全身にかみゆ、しっしんが広がる
↓
これアトピーじゃね、と別の医者に行くと、笑ってアトピーといわれる。
生活改善指示を受けたり、ネットで調べたりして以下のことをした。
<お肌関係>
・風呂上りもなるべく何もつけない
・つらいときはザーネ軟膏(ビタミンA油)とサトウザルベ(亜鉛華軟膏)
・腹筋したりよく歩くようにした
<買ったもの>
・カビた食器棚を捨てて新しいものを買う
<風呂>
・シャワーヘッドをビタミンC入りのに変える
・風呂上りに冷水を浴びて副腎を鍛える
<食事を変える>
悪化のはっきりした原因はわからないけど、
「ちゃんと」生活してなかった、ていうのがでかいのかも・・
動画の再生にMedia Player Classic(MPC)とffdshowを使っています。
ffdshowで動画の明るさ調整をどうすればいいのか知りたかったので検索してみて分かったことを書きます。
1.ffdshowで動画を再生するとタスクトレイに出てくるFFvと書いてある赤いアイコンを右クリック
3.「レベル」を選択
4.「レベル」の前のチェックボックスにチェック(チェックしないと設定が反映されない)
5.出力とガンマ補正を適当に設定する(出力は全体の明るさ。ガンマ補正は明るさのメリハリみたいな感じです)
(「適用」を押すことで画面に設定が反映されます。)
6.満足できたらOKを押す
こちらも参照してください。
「悩みなんて無さそうだよね」という言葉をふと耳にして、あ、私もそんなことを言われていた頃があったな、と思った。
小学生の頃、私は尋常じゃなく無神経だった。「それダサいね!」「キモいね!」「私いらない!」思ったことをいちいちズケズケと言う女だった。
それが中学に入って内省的になり、それまでの無神経発言を思い出しては思い悩み、私は口を開けば人を傷つけるからと言葉少なくなり、寡黙な人になった。
気付けば寡黙で暗い人のキャラクターは私にすっかり定着していて、もう元の無神経な人間には戻れない。
思いついたことをフィルター無しに即口にする子供のようにはなれない。
でも暗い今より、「悩みが無さそう」と言われていたバカ明るかった頃の方が、友達がいっぱいいたし、周りに常に人がいた。
確実に、人を傷つけていたはずなのに…
履歴書に使うんで目線とか鼻筋とか、姿勢を正してアゴをちょっと引くとか、がんばった。オレ、がんばった。
鏡に映ってるオレはばっちりだった。
誰やこの悪人でもなく賢そうでもなく、イケメンとはほどとおい無気力そうなダメ人間は!
鏡に映ってたオレはもうちょっと覇気があるぞ!
そうか目をつぶっちゃったんだよな!
うわあ目が2倍になってるよ目に力はいってるよ無理やりあけてるよ!
チッガウヨ、ソウジャナイヨ、メガネビッグアーイ!メガネツカッテナイノニドシテビックアーイ?
いやたしかにこれはオレに間違いない。
オレを写した写像に間違いない。
だがちょっと、ちょっとまってほしい。
鏡に映るおれはもうちょっといいぞ。
いい表情してるぞ。イケメンじゃあないが、エネルギー100%充填満タンって感じだぞ!
仕事とかまじめにやってくれそうだぞ!
数秒考えて、思いました。
オレが信じるべきは、写真か、それとも鏡か。
映画の感想を書くから、これから鑑賞する人は読まないでね。「宇宙ショーへようこそ」と言う作品を観てきた。田舎で暮らす小学生が宇宙人と一緒に宇宙へ行ってトラブルで地球に帰れなくなるけど紆余曲折へて無事帰還するといったストーリーだった。なんとなく、某WEBラジオで話題に出ていたから見に行ったので、特別まえから注目していたというわけではない。事前情報として、監督のやりたいことは全部詰め込んだようなことを聞いていたからそのフィルターがかかって観ていたかもしれないけど、それ以外は予備知識無しでいってきた。
感想。よかった。わるくなかった。絵が綺麗。でもテーマがいくつもあって、絞りきれなかった感がある。どこが焦点になっているのか見ていてつかみづらかったというか。監督は理屈抜きに見れるものを作ったといっていたけど、かといってボケーっと観ていると分からないしつまらないんじゃないかと思う。もうちょっと各テーマを掘り下げてほしかったし、絞ってほしかった。感動がこま切れになってしまった。
今思い出す限りで、テーマとして
があったけど、例えば友情とも淡い恋心ともつかぬ感情が地球側の男の子(康二)と宇宙側の女の子(インク)に芽生えるテーマなんか、私はもっと見たかったな。掘り下げても良かった思う。たまたま宇宙人のポチに連れて行ってもらえたからその二人は出会えたわけで、でもポチは自由に地球に出入りできないので、要するに二人は分かれたら最後二度と会えない。切ないじゃないか。インクかわいいし。
こうしろというのか?
http://anond.hatelabo.jp/20100624224146
トラバツリーに埋もれてしまうのは忍びないので、ここに全文引用する。
■いい加減、「ただしイケメンに限る」とかいうのやめてほしい
ブサイクな彼氏がいる自分にとっては、自分も彼氏も否定されてるような気分になってとってもやるせない。
これ言ってる人、ちゃんと周り見てよー。ブサイクでも恋人いる人たくさんいるよ…
私はブサ専じゃないし、金目当てでもないし、彼氏の顔がブサイクなことは認識してる(恋愛フィルターでイケメンに見えてるとかじゃない)
単に、ブサイクであることがマイナスポイントにならないだけなのです。
これを理解してくれない男の人多いんだけど、なんでだろう?同性ならわかってくれる子多いんだけどなぁ。
ブサイクな彼氏がいる自分にとっては、自分も彼氏も否定されてるような気分になってとってもやるせない。
これ言ってる人、ちゃんと周り見てよー。ブサイクでも恋人いる人たくさんいるよ…
私はブサ専じゃないし、金目当てでもないし、彼氏の顔がブサイクなことは認識してる(恋愛フィルターでイケメンに見えてるとかじゃない)
単に、ブサイクであることがマイナスポイントにならないだけなのです。
これを理解してくれない男の人多いんだけど、なんでだろう?同性ならわかってくれる子多いんだけどなぁ。
>「ブサイクな彼氏がいる」とか「彼氏の顔がブサイク」と言える貴女に差別や人権を語る資格はない。その彼氏の前で同じセリフ吐けるのか? いわゆる「非モテ」問題とも違うし釣りかと思った。ていうかトラバも酷い。 2010/06/26
今更ブコメ見たらちょっと気になったので…
ブサイクなのは彼氏自身が一番自覚していることで(自分で自虐ネタ言ってるし)
その上で私は「顔はマイナスポイントにならない」とリアルで公言してるので、実質彼氏の前で言ってることになるのかな?
恋愛において顔が評価対象になる人にとっては、「恋人がブサイク」=「ブサイクだけど仕方なく付き合ってやってる」と見下してることになるんだろうけど
私にとって恋愛感情を持った相手とその相手がブサイクなことは全く関連性がないので
その基準で考えて差別だの見下してるだの言われても困る。
はてなの情報は全て、ヤバイ機関からのフィルターが掛かっている
とある知人から聞いたのですが
(あまり詳しく書き込むと、命の危険があるので書くなと言われました。その方は、株で生計を立てている方です。個人投資家としては成功している方だと思います。)
「はてなの雰囲気は、全て現実とは違って、完全におかしいでしょ?
アレは、週刊誌とか新聞、テレビみたいに 新しいマスコミ として最初から利用してる機関があるんだよ。
でも、こういう事は絶対にネットに書き込むなよ。
書き込みをしているのは、社会に影響をもたらすジャンルについては99%近くが
手によるものだよ
当然、はてなで犯罪が起こっているのは、その勢力の意思によるものだよ
気をつけろよ
はてなはできれば使わないほうがいい
全部監視されてるぞ」
と、少し前に言われました。
確かに、はてなには
素人では書き込めない様な極めて専門的な情報が多く、何らかの政治的陰謀を感じざるを得ないな、とは前から感じていました。
「市民らしく見える様に工夫しているだけ」(プロの手に掛かればカンタンでしょう。)
の、ヤバイ人達なんですか?
話によると、
ネットでこういう事を書き込んでも、
「絶対に本当の事は知れない仕組みになっている」らしいです。
確かに、関係者が生きている理由は、「公営のヤクザから。」だと言われれば納得します。
教えて下さい。
周囲の人間には誰にも明かさず 嫁にすら言ってないが、
俺は、けっこう長いこと2ちゃんねらーだ。
というか2ちゃんねる以前も考えると、「匿名掲示板のヘビーユーザー」と言った方がいいかもしれない。
現在、30代前半。一応、あめぞうも知ってる。あの頃はYahoo Japanもまだ無かった。
しかし実社会における俺のキャラでは、全くそれを匂わせないようにしている。
人前でそれを出すのは なぜか恥ずかしいという感覚がいつの間にか根付いてしまっているのでそれは完全に封殺している。
なので、実社会ではごく普通の人間で、普通に知り合いもいっぱいいる。
だから、その都度 人に勧められたり誘われたりして、
本名でmixiもやってるし、本名でブログもやってるし、本名でツイッターもやってるし、
どれもそこそこ人に認知されている。
それでも、けっきょく今頃 こんなところに辿り着いてしまった。
匿名の是非みたいな話はたまにあるけど、
俺はやっぱり、いまだに 「匿名にしか」価値を見出せていない。
何かを気にして、何かに配慮して、書かれたもの 書かれなかった言葉。
それは逆に見ると結局、「誰にでも書けるもの」であって、
名乗って自分を晒しているようで、実は何も言っていない。
名乗って責任を負っているようで、実際 負っているから、何も言えてない。
時には乱暴に、無神経に、それがたとえ人を傷つけるものであっても、
何も気にせず、何にも配慮せず、思うが侭に書いたものの方が、
その人、その状況 その心境でしか出で来ないものの方が、
名乗っていなくても、よっぽど「自身」を晒してる ような気がしてしまう。
名乗らずに無責任なようで、しかしそれは、本音であり、思想であり、本物の良心であり、心の闇であり、「自身」だ。
書かれなかった言葉は、書かれないままだが、
書かれてしまった言葉は、不快だったら読み手が自分の目で、頭で、フィルターをかけて排除すれば済む。
読み手が心の中で「あらあら。」とつぶやけば、ほとんど全て解決できる。
それができるようになるまで、慣れが必要だったり、それがスキルだったりするのかもしれないが、
「コミュニケーション」と言うんだったら、俺はやっぱり 「知りたい」んだ。きみのことが。
きみの本当のことを教えてくれる勇気が出ないんだったら、
だったら名前なんか出さなくてもいい。責任なんか負わなくていい。きみが誰であってもいい。
うわべだけじゃない、本当のきみと俺とのコミュニケーションをとろうよ。
それこそ、ネット上でしかできないんだから。