はてなキーワード: おもしろいとは
自分と似た感覚をもった人を好きになった。
(もやもやとした気持ちの持っていきようがないので、言葉にして発散できたらいいなと思うんだけど。)
これまでも、自分と似た感覚をもった人に会ったことはあったけれど、
そんなときはむしろ、自分の感覚を超えない分、つまらないなとか新鮮味がないとかいう感情のほうが強かった。
でも、そんな風じゃなくて、この話もあの話もしてみたいなと思えるような、
なんとなく相談もしたいけど、相談にものりたいと思えるような、
あの人が困っていたり、風邪をひいていたりすると、妙に心配になってしまったりして、
さりげなくメールを送っていたりして、それでもそのメールは押し付けがましくなったら嫌だなと思って、
何か用件メールの最後に、体調をうかがうコメントをいれるくらいで。
楽しいことを一緒にしたい。
大変そうなことは分けてほしい。
好きなことを知りたい。
仲のいい友達がいるなら、その人とも友達になりたい。
おもしろいことがあったら伝えたいと思えるような存在でいたい。
それだけ。
それだけなんだけど、その人は同性で、既婚者w
私だけだろうか。
【要旨】
梅田望夫さんが水村美苗『日本語が亡びるとき』の紹介をしていた。ブックマーク数は多いのだが、梅田さんの紹介にやや舌足らずな点もあるからか、反応もいまひとつのような気がする。ただ、わたしも水村さんの論を読んで非常に感銘を受けたことはたしかなので、まずは、水村さんの議論の骨子を紹介してみることにした。ただし、わたしが読んだのは新潮9月号で発表されたものであり、ここで紹介することも本の第1章から3章までの議論にとどまる、という点をご海容頂きたい。
ここで紹介したのは水村さんの問題意識であり、この問題に対して水村さんがどのように思考を進めていくか、というメインの部分については実際に「新潮」9月号や本をごらんいただきたいと思います(この一文追記)。
(追記2)梅田さんがこの本をどう見ているかについては、すでに8月時点でこの本の前身の論稿に触れられたエセーがすでにあるのでこれもご覧になるとよいかと思います。以下の記事のブックマーク数があまり多くなかったので補足しておきます。
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080823/trd0808230354002-n1.htm
【本文】(本文途中からお名前を「望田」さんと誤っている箇所があったので修正いたします。大変失礼いたしました。また指摘してくださった方に感謝いたします。)
水村美苗の新刊『日本語が亡びるとき』が梅田望夫さんのブログで紹介されていた
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20081107/p1
コメント欄やブックマークでのコメント欄では芳しい反応は少ないようで、梅田さんの議論とかみ合っていないし、梅田さんの高揚の理由がわからずポカンしているように見える。
これはおそらく、水村美苗および梅田望夫の問題意識がちゃんと理解されていないからではないかと思う(その点で梅田さんの紹介が不十分ということはあるかと思う)。とはいっても、本書が梅田さんの心に響いた理由をわたしは想像できるし、わたし自身も「新潮」9月号を読んでおもしろいと感じた。なので、以下で水村さんの議論を紹介したい。
水村さんの議論、および望田梅田さんがインスパイアされた問題意識というのは、たとえば、英語公用語化論のようなレベルでの「日本語の危機」というようなものではない。すなわち、日本の「国語」としての日本語と、英米の「国語」としての英語とのパワーバランス等が問題とされているわけではないのだ。「国語 vs 国語」という問題、ではないのだ。
そうではなくて、水村の議論はこうである。
水村の分け方によれば、言語には「普遍語―国語―現地語」の3レベルがある。
中世では「普遍語」としてのラテン語および「現地語」(のちにフランス語やドイツ語になる言語)しか存在していなかった。
近代国民国家の時代になると、(学術的な成果等の)「普遍的なこと」を語る言語として、「普遍語」の他に、「国語」(もと現地語)が登場した。この意味で「普遍語」の役割を果たす「国語」が複数あるというのが20世紀半ばまでの状況であった。
しかし状況は変わった。世紀末から21世紀初めをみると、もともとは数ある「国語」の内の1つにすぎなかった英語が「普遍語」なろうとしている。それに伴い他の「国語」は「普遍語」の座を降ろされようとしている(例としてフランス語の衰退が挙げられる)、と言うのが水村の議論の骨子だ。
そういうことであるから、日本語が「現地語」として滅びるといっているのではなくて、普遍的なことを語る役割を担わされてきた近代国民国家の「国語」が、英語が新たな「普遍語」となることによって、変質をこうむる、という見通しを水村は述べているのである。
以上が水村さんの議論の紹介。
このことからわかるように、望田梅田さんがこの本を読んで感動したというのは非常によくわかる気がする(追記;小飼弾さんが興奮するのもよくわかる気がするhttp://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51136258.html)。望田梅田さん自身をどのように考えているかは知らないが、わたしがこの本を読んで思ったのは、
日本という「現地」に帰属しつつ他方で「普遍的なもの」とつながっているという点では「外国人」のような存在、すなわち、「在地の普遍人」というでもいうべきメンタリティーを有している人間にとっては、今回の水村さんの本を読んで刺激を受けるのだろうな、ということだ。
英語と日本語を日常的に使用していることを前提に書評が進められている感じがする。日常的に日本語のみしか使ってない人にとっては「心の叫び」は届かないのでは
という反応などが、もうひとつの、ある意味で正しい反応だといえるのではないだろうか。
これも参照。http://anond.hatelabo.jp/20081111185728
【★追記。以上の議論から、文学においてはどんな問題が生ずるか。水村さんの見方はこうだったと思う。
近代においては、国語=国民=国民文学という等式が存在し得た。国語は普遍的な内容を記述できる言語であり、国民文学は普遍的な内容を論ずることができるものであった。もっというと、
ローカル(現地)なことがらを普遍的なレベルでとりあげ記述することを可能にしたのが
であった。
しかし、「国語」が「普遍語」としての地位から陥落しつつある21世紀初の状況を見ると、今後そのようなことは可能であろうか。
これが水村さんの問題意識である。
このような問題は翻訳論において繰り返し語られていて、水村さんもこれに言及している。】
【★さらに追記:
「別に日本語が『現地語』になるとして何か問題でも?」という反応に対して、水村さんの議論からはどのような応答があり得るだろうか、考えてみる。
「現地語」のみを読み「現地語」のみで語る、他のものには触れないし読まない。そうなると、文学が、そして、それによって表現される知性が、衰退する、という反応が出てくるのではないか。
文学とは異なるが、このことの理解を助けるために、テレビ番組を例に挙げてみよう(わたしはテレビをじっくり見る習慣を持たなくなったので、これから書くテレビ番組の状況は、幸いなことに、誤っているかもしれませんが)。
テレビ番組が低俗化していく、という説が挙げる例の一つに次のものがあるだろう。お笑い芸人をテレビに出してそのトークで番組を構成する、そのトークの中身は(試聴者もそれを知っていることは前提とされているものの)芸人同士の内輪のからみや楽屋ネタのようなものであり、ネタとして完成された作品であることは少ない。
このような内輪のみに意識が向けられ、内輪のもののみに言及し、その範囲での閉じた連環が固定される。
テレビの現状が本当にこのようなものであるかは知らないが、仮に、このような番組しか放送されていない世界になれば、テレビというメディアは衰退するという主張が現れておかしくはない。
日本語が、「普遍語」の役割を果たしうる「国語」であることをやめ「現地語」になってしまう、という水村さんらが表明される危機意識というのは、このようなものとして理解することができるのではないだろうか。
水村さんのインタビュー記事を読むと、
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20081107bk01.htm
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20081107bk01.htm
「中途半端な国民総バイリンガル化を求めるより、少数精鋭の二重言語者を育て、翻訳出版の伝統を維持する。作文を書かせるより、古典をたっぷり読ませる教育を積む。それが日本語の生命を保つ現実的な方策。
ここで「少数精鋭」でもよいので「翻訳出版の伝統を維持する」ことが主張されているのは、上で述べたように、外に目を向けなくなることにより日本語および日本社会がローカルなレベルへと自壊していくのを防がなければという問題意識を背景とした主張だと、わたしは理解した。】
以前、NPOのバーベキューパーティに参加した時、そこに集まった女の子たちに気になる質問をしてみました。
「ナンパされたことある?」
「ナンパされてどう思った?」
ある女の子は、コンビニのアルバイトをしている時に、友達になって欲しいと言われて、連絡先を書いた紙を渡されたそうです。
「嫌な感じはしませんでしたね。むしろ、結構うれしかった(笑)」
おっ、そうなのか!
「ナンパされると、たいていポーカーフェースで素通りするけど、内心では、うれしいものです」
ナンパというと、女性にとっては迷惑な行為なのかな、と思っていましたが、必ずしもそうではないようです。
実際にナンパすると、断りながらも、ニヤっと、うれしそうな笑顔を浮かべる女の子が結構います。
これは、女性としての魅力を認められたと、彼女らが感じるからではないでしょうか?
逆に男性にナンパしていると語ると、怪訝な顔をする人が多いです。ナンパなんて良くないよ、相手の女性に迷惑でしょう? という訳です。
おもしろいことに経験上、男性より、女性にナンパ支持者が多いように感じます。
今のところですが、女友達にナンパを否定する人は、誰もいません。むしろ、ファッションセンスの無い僕のために服を一緒に選んでくれたり、ナンパの相談に乗ってくれた女の子もいます。
花や蝶は、美しいと愛でる人がいて、初めて美という価値を与えられます。もし、誰も女の子の美しさを賛美しなければ、彼女の美は無意味に堕するでしょう。女性も一切まったく、男性から誘われることがなければ寂しいし、存在価値を喪失してしまうのです。
ある時、僕のmixiに次のような女性からのコメントが寄せられました。
「女性側もちやほやされたい、デートの経験を積みたいと考えているのでは?」という疑問に対して、彼女は次のように答えてくれました。
『どもです、毎度空気が読めない一応♀です(汗) 横レスになりますが
>やっぱり女性側もちやほやされたい、デートの経験を積みたいと考えているのかな?
↑そう考えてる子、多いと思いますよ??。
私も皆さんがおっしゃっている「地味で恋愛経験が少ない」タイプなので、気持ちは良く分かります。いつか**さんに「女性ってナンパされたいものなんですか?」と問いかけられて、その際私はレスしなかったと思います。
・・・で、今お答えしますが、「イエス」ですね。異性の誰にも振り向かれない日々は辛いです。ナンパされたり、デートに誘われるということは、自信のない女にとっては、自尊心を満足させられる嬉しい出来事だと思います。それは、自分に「市場価値がある」、ちゃんとした「値札」をつけてもらえた、ことを意味するからです。ナンバーワンよりオンリーワンなんていいますけど、それは理想論であって、やっぱり女も「商品」として認められたいものですから』
要は、勇気を出すことだけなんです。頑張りましょう!
これはただの思考実験だからきもいのを我慢してついてきてほしい。ある日突然、男の自分が美少女に生まれ変わったらどうする?
まず、鏡で自分の姿をじっくりと見るよな。こういうこと書くのは恥ずかしいけど、絶対そうする。家にある一番大きな鏡を自分の部屋に持ってきて、部屋にこもってじっくりと全身を眺め回す。適度なふくらみ、そこそこのくびれ、そういうでこぼこを右に左に体を揺らしながら何度もチェックする。キャスター付きの姿見にむかって「すごいな、こう見るといけるな、俺の体は」なんて小一時間みとれている。
タンスの引き出しを開けると女ものの服と下着。でも、それでは満足しきれない。
学校で見るあの子のかわいさは際立ってるし、女優の誰々なんて絵に描いたような美しさだ。ああいう奴らには負けられない、負けるわけにはいかない。あいつらは中身がない、ただかわいいだけだ。俺はあいつらとは違う。中身でも外側でも負けていられない。いきりたって服や小物を買いにいく。
この柄は流行にのってるし、この下着は甘すぎるほど甘い。「こんなん、ねーよw」と最初は思ってたけど、実際に着てみると別人になったようで案外おもしろい。コスプレみたいなもんだ。服を揃えて学校や会社に行く。
今の自分は女の子、昨日買った服をチラチラ見られているのに気づく。くすぐったくもある。家に帰ってから何度も試着した、見られて悪い気はしない。そうして周囲の視線を心地よく受ける。いけてるだろ、俺。
クラスや職場の男がガン見しているのに気づく。キモイ。俺の体を汚らわしい目で見るな。これはおまえのためじゃない、はっきり言うなら自分のためだ。
しばらくしたら顔見知りの男が告白してくる。
しかたないよな、俺はこんなにかわいんだから。この男は一緒にいて不快感ないし、いいか。恋人いないと変に思われるしな。
週末は映画やドライブ、俺でも思いつきそうなデートコースを一緒にまわる。手をつなぐのは許す、気持ち悪いけど仕方ないから、なんとなく。
こいつとはもう二ヶ月か、結構おもしろいな、こいつ。俺の好きな映画のツボ、おさえてるし。このDVD、確かにいいな。こんな古い作品知らなかった。
ちょ、ちょっとまて!?なんで俺にもたれかかってくる?
え?こいつ、やる気?勘弁してよ。男とかきもいって。
俺の膝頭をぽんぽん触ってたのが合図だったのか?そんなのしらねえよ。
ちょ、まじできもい。なんで俺がこんな発情したオスの相手しなきゃいけないの?
妹や周囲の女をあらためて見直すとこんな感じ。
つまり、女になった男のつもりで女のことを考えると、女特有の不思議な言動の理由がわかる。
男も女も脳みそはさほど変わらないんだから当然なんだが、今までこういうことに無自覚だったわ。
きもいのに書きつづけた訳を書いておこう。これをきちんと考えた男だけがもてるのかもしれないから。
本好きなら人に聞く前に、自分でいろいろ読んでみればいいのにと思う女ラノベ読み。
女性向けラノベなら、コバルトとCノベルスが豊富なのでチェックしてみたらどうだろう。
増田に多分ヒットするのが
・多崎礼の全冊
・デルフィニア戦記(→スカーレットウィザード→クラッシュ・ブレイズ)
他、非萌なら
・マルタ・サギーは探偵ですか? (野梨原花南)←すごく女性向けラノベ。自分は好き
・図書館戦争(有村浩) 「海の底」→「くじらの彼」からでもいいかも
・BACCANO! -バッカーノ(成田良悟)
・文学少女シリーズ(野村美月) ←主人公がちょっとうじうじしてるので微妙?
・されど罪人は竜と踊る(浅井ラボ) ←グロ注意報だがおもしろい。女性読者率高い
・プリンセス・ダイアリー(メグ・キャボット) ←児童文学寄り
微妙かもしれないあたり
・ROOM NO.1301(新井輝)←エロと見せかけた青春もの
・とある魔術の禁書目録(鎌池和馬)←超能力バトルもの 一方通行か主人公かに燃えられる
・伝説の勇者の伝説(鏡貴也) ←読んだことないがロードスっぽい
例に挙がってた川上稔は全部読んでるが、増田には合わないと思う。あれは結局キャラ萌、世界萌だから。
あと、意外に合いそうかもしれないのがドラゴンブック。
フォーチュンクエスト読んでれば問題ないと思われる。
・新ソード・ワールドRPGリプレイ集(秋田みやび)
これ以外は無理そうだけど。お好きなのドーゾ
元々ダメダメなったのならいいけれど、受かっていた可能性があると悔しいものですね。
卒論→修士、と研究室を移った。うちはB4の10月から卒論を書き始める。おもしろい卒論がかけたと思った。
M1の半年は、卒論の続きをやっていた。卒論の内容をM1の夏に国際学会に提出、秋にaccept。
後は、その内容を論文誌に出せば、間に合うはずだった。それなのに、11月まで論文誌を書かず、のらりくらりとしていた。
11月に今の指導教員に「早く出せ」といわれて、国際学会に出したものを編集しなおして、11月の下旬には、ほぼ完成していた。
「僕も一応学生会員なんですけど、論文誌を単著で書いたらどうなるんでしょうか?」
というメールを送ってしまった。
M1で、論文誌というものがどういうものかよくわかっていなかった。文系の方ではみんな単著で出しているので、それと混同した。
当然、卒論の先生からは「何を言っているんだ君は」という内容のメールが届く。申し訳なかった。とにかく、申し訳なかった。
卒論の先生に逆らった。違う研究室に行ってしまったのに、その後も丁寧に論文に赤を入れて時間を取ってくださった先生に逆らった。恩を仇で返した。申し訳ない。
今から思うと、どうかしていたと思うが、実際に夜中の教室を首を吊る場所を探して彷徨った。この業界で単著などありえない、という基本的なこともわかっていなかったのか、と恥ずかしくて、今でも周りの人に積極的に話す気にはならない。その後、卒論の先生は、「あの論文はどうなったの?」とメールを送ってくださったのに、それでも自分は書けなかった。
今考えると、どう考えても過剰反応なんだけど・・・なんだったのかなぁ。
それから一年、最低限のことはやったと思うけど、本当に最低限だった。
M2の春に、いい加減諦めて、その出せなかった論文を論文誌を出した。夏には通った。せめて去年の12月に出しておけば、採録まで十分間に合ったのに。論文誌一本と国際学会論文一本をM2の5月までに作れたはずなのに。国際学会論文一本になってしまった。
一年間、すねて仕事から逃げて遊んでしまった。今でも、業績は、卒論の内容の2本だけ。DC2は絶望的。
この一年取り戻したい。一年って、こんなに重かったのか。修論は何とかなりそうだが、M3やりたい。でも、今の研究室で博士に受かってしまっているので、M3やりたいなんてとてもじゃないけど言い出せない。でも、やっぱり、どう考えても、諦めて気持ち切り替えて、素直に修論書いて博士進学するのが正しい選択肢なのだろうな。
アメリカに住んで3年になるんだけど、イェスプリーズしか言えなかった状態から、そこそこ会話できるようになった。
そこそこといっても、オバマの演説は50%くらいしか聞き取れないし、キング牧師の演説はオバマより聞き取れるけども単語の意味がわからないし、その程度。
職場の人との会話は100%わかる。あぁ、わかるようになったなぁ、俺も英語力上達したなぁと思ってたわけ。もっとも、うちの職場にはネイティブスピーカーがいなくて、みんな英語が第二外国語。だから、ブロークンで通じ合っていたというのもある。
9月に新人がやってきて、カナダ人ね。早口なんだ。きつい。聞き取れない。こいつとうまくやるのはきついなと思った。やっぱネイティブだなって。
でも、一緒に仕事して、大統領選挙の後のパーティに招待されて、ダウンタウンを見下ろす壁が一面すべてでっかい窓だけのような、明らかなアッパークラスのアパートメントにいって、アパートの部屋の中に螺旋階段があるよ!って上っていったらドラムセットがあるよ!とか一人で興奮して、その興奮を伝えられるくらい打ち解けた。というか、そいつの言ってることが100%わかるようになった。あれれ、あんなに苦労してたのに、ぽんぽんわかるよって。
そんでもって、おもしろいことに、そのアッパークラスなパーティにきてた数学の博士号をもった学者さんの英語がわからない。。。別に早口なんじゃないけど、聞き取れない。
そこで、ようやくわかった。
英語が聞き取れるというのは、”慣れ”なんだ。英語力という基礎体力が上昇するんじゃなくて、相手の口癖やらテンポやら内容の偏りやらに慣れてきて、何を言うか ”無意識に先回り” できるようになることなんだ。
当然、それが最終的にいきつく英語力ではなくて、初対面でもすぐわかるようになるのが行き着く英語力なんだろうけど、そういう慣れがかなり聞き取りに影響してることに気づいてびっくりした。
同様に、話すことも慣れに依存していた。慣れというか、口癖。それも、普段よく話してる人の口癖がうつる。どもるとこまでうつった(苦笑)。ヒアリングマラソンなんて詐欺じゃねぇのと思っていたけど,慣れを作るという意味があるのかもしれない。
あるグループ内で、ある程度時間をかけてコミュニケーションをとっていく分にはこの方法でいいけど、unfamiliarなグループ内で迅速にコミュニケーションをとれるようになるのが、今後の課題だ。さて、その課題を克服するにはどうしたらいいんでしょうかね。って、これは語学の問題じゃないかも。
タイトルにリンクを張った増田さんのコメントは、「君」という言葉がコメントに出てくることから、書き手が元増田の私一人を相手に書いているように推測されるので、返答してみます。
http://anond.hatelabo.jp/20081031114504
http://anond.hatelabo.jp/20081031121513
http://anond.hatelabo.jp/20081031160755
以上を書いた元増田です。とりあえず、今の学年を言っておくと修士2年です。
他の専攻の内容知らないし、勉強しなかったの反省しているから、他分野の専攻の人の感情を害さないように気をつけて発言しているつもりなのですが・・・
結論から言うと、俺は物理をはじめ、他専攻を舐めていないし、むしろ、知らないから怖がってすらいます。
これだけだと思います。
これは、理系全般に話を持っていこうとした人がいたので、「数学をどれぐらい使うかは専攻や研究室によって違うから、勝手に理系全般に話を広げないでくれ」っていう背景で書きました。
別に、「情報は数学使うけど、物理や化学は実験で成果が出るから数学使わなくていいなぁ」って言っているわけじゃなかったのですが、もう一回読み直してみましたが、どう見ても、そう読めますね。
ただ、物理・化学をはじめ、どの分野でも、科学である以上、「数学をそこまで使わなくても実験結果がおもしろければ評価される研究がある」ことは事実だと思います。
これは、何がいいたかったのかというと、「数学が全てってわけじゃないよね。実験やっている人は実験やっている人で、毎日深夜まで残って大変だよね」というように、実験やっている人に配慮したつもりだったのですが、今見ると、どう見てもそうは読めませんね。すみません。
数値解析も確率過程も物理で使いまくる(というか物理がルーツとさえ言える)し、情報幾何で出てくる幾何学の知識なんてたとえば一般相対論を学ぶのに必要な知識に比べたらたかが知れてるんだけど。
数値解析や確率過程を物理で使わない、と発言した覚えはありません。
「情報幾何で出てくる幾何学の知識が、一般相対論を学ぶのに必要な知識に比べたらたかが知れている」
というのは、情報幾何も一般相対論もやったことがないので知りませんでした。
たとえば君、ホモロジー論わかる?ガロア理論わかる?関数解析わかる?この辺は数学科の3年後期レベルだけど、たぶん勉強したことないんじゃないの?
端的に言えば、あなたから見れば、「何もやっていないに等しい」ということだと思います。
一応、群の定義ぐらいはわかります。ホモロジーはやったことありません。
関数解析は、授業は一応聞いていましたが、理解してないし切ってしまったので、問題が解ける気がしません。
プラスで物理や生物や化学やなどが必要になってくるけど,基本的に数学科並みに数学が必要。情報科学って一応応用数学だからね。
これを発言したのは私ではありません。
あんまり「俺は偉い」みたいなこと言わない方がいい。第一線の研究者は学問の垣根なんて平気で踏み越えていくらでも勉強してる。はっきり言って君は並の量しか勉強してないし、それで「俺は数学科並に数学ができる」なんて言ったら馬鹿にされるだけだよ。
「俺は偉い」とか、「数学科並に数学ができる」なんて思ったことも言ったこともありません。
むしろ、「僕は数学ができない」と回りに言いまくってます。最初の書き込みを見ていただければ、「数学ができる人はいいなぁ、自分は数学ができなくて損をしているなぁ」というニュアンスで発言しているのが分かっていただけると思います。「君は並の量しか勉強してないし」は、そうだと思います。
どの本にも、大抵、理解したかどうかをチェックするために、演習問題がついていますよね。あれが、解けないんです。
言っていることはわかるし、解答を見れば理解した気にはなれるのですが、演習問題が解けないんです。
「解けないってことは、本当に理解していないのだ」といわれてしまったら、それは、その通りだと思います。
結局、最終的に自分の専門にどう生かせるのかが、問題に出会った時に思い浮かばないと、学ぶ意味がないですよね。
学部のうちは、「この知識は、本当に将来使うのか?」ということに拘って知識を取捨選別してしまいました。
授業もそうやって選んでいたわけですし。当時は、なんとなく、「将来、時間があって必要なときに覚えればいい」みたいに思っていたのです。
実際に修士になってみて、激しく後悔しました。本当に専門以外のことを勉強する余裕がない。数学は、演習問題ぐらい解けるようにならないと、理解したことにはならないし、自分の専門にも応用できなくて勉強した甲斐がなくなってしまうのに、演習問題を解く時間がない。
学部のうちは、専門以外の勉強をちゃんとやっておくべきだったのだなぁ、と思っています。
http://anond.hatelabo.jp/20081031121513
を書いた、元増田。ちょっと愚痴っただけで、こんなに反響があるとは思わなかった。
大学入ってから2年間、自分は数学の才能がないから、と、一切勉強しなかったら、後ですごい苦労した。
学部時代にもっとマジメにやっておけばよかったと思うもの:
・数値計算
・確率過程論
・物理数学もっと勉強しておきゃよかった。物理もおもしろいよねー。
代数幾何使わないっていう意見あったけど、EMアルゴリズムを多様体の観点から理解する話とか、あの辺は、情報幾何の端くれではなかろうか・・・
陛下「目指さない?ほかの方向へ行かれるわけね?」
石井「はい、そうです」
石井「はい」
石井「はい」
石井「はい」
陛下「ヒョードルと闘うにはどこに行けばいいんでしょうね。アフリクションは経営が危なくて、UFCと接触してるとか」
石井「はい」
陛下「あくまでも噂ですけどね」
石井「はい」
陛下「打撃もしっかり練習して、よりよい道を歩まれるように願っています」
(参考)
http://www.sponichi.co.jp/battle/news/2008/10/24/01.html
「次の五輪は目指しません」 柔道・石井選手、天皇陛下に園遊会で断言
http://sankei.jp.msn.com/sports/martialarts/081023/mrt0810231818001-n1.htm
外務省の役人がホテル代金を未払いにしてた問題のときとか、最高だった。
今回の首相とホテルのバーの件は、「確かに首相は庶民ではないのですから」のひと言につきると思う。彼女が使っていた「ディスクリート」って言葉の意味はわからんが(笑)。
残念ながら社会には階層というのがあって、がんばれば上にあがれるかもしれないけど、ヘタをすれば下に落ちていく。今回の批判は、その現実を無視した的外れなものだったと思う。つーか、安いとこでも高いとこでもいいから、みんなもっとお酒飲みに行こうよ!
博士課程に進む理由は人によって千差万別だが、中には、あまりブログなどで公言したくない類の理由もある。
自分が進学する理由は、もちろん、研究がおもしろいというのが大前提だが、最大の理由は親が教授で自分が一人っ子だからだ。
兄弟姉妹のことを考える必要もなく、家は持ち家で、親の定年まで後10年以上ある。ぶっちゃけて言えば、自分は一生働かなくても、親の金だけで食っていけるはずだ。
大学に入った当初は、自分が恵まれていることに申し訳なく思ったりもした。だけど、大学で学年を重ねていくと、いろいろな人間を見る。
自分と同じぐらい、経済的・家庭的に恵まれている知り合いがいたが、悩んで留年を重ねてしまって、まだ学部を卒業できていない。おそらく、「自分は恵まれているのに、こんなことじゃだめだ」ということで自分を責め続けているのだろう。そういう気配は微塵にも漏らさないが、よくわかる気がする。逆に、自分よりずっと才能面で恵まれていて、「こいつは博士を出て大物になるだろう」と学部のころから思っていた奴は、途中でうつ病になって大学院をやめてしまったりした。バイトしながら研究をして、M1のころからガンガン成果を挙げている人も知っているが、その人は、一つの分野で5年??10年に一人出ればいいほどの才能の持ち主だ。最初から才能に恵まれていたとしか思えない。
そういうのを見ていると、学部の終わりごろには、「才能も運のうち、親や家庭環境も運のうち」と、思えるようになってきて、気にならなくなった。
それでも、自分が恵まれていることについては、あまりおおっぴらには語りたくない。
「経済的に恵まれている人間は、滅多にそのことを口外しないものだ」というのは、知っておいた方がいいと思う。
口外しても、ねたまれるか、そこまで行かなくても「君は恵まれているんだから、もっと成果出せるでしょ」みたいに思われるのがオチだ。
ただ、さすがに隠しているのも変に思われるので、研究室では隠してないが・・・話すのは飲み会の席で尋ねられたときぐらいにしている。
「博士課程っていうのは、才能に恵まれている人間か、経済的に恵まれている人間が行くところだと思う。」←これ、重要。それ以外の人間が行っても、苦しむだけだ。
自分は、たまたま、理解のある親とよい家庭環境を持っていた。「経済的なことは関係ない」、「真面目にやっていれば成果が出せる」という意見もちらほら見かけるが、そういう人は、結果的に才能があったのだろう。
博士課程は「楽しさ」を求めていくところではない。博士課程と企業と、どちらが「楽しいか」と言われれば、圧倒的に企業だと思う。楽しい仕事が好きな人は、企業に行ったほうが良い。その理由は、分野にもよるが、基本的に大学の研究室ではチームワークが期待できないからだ。人は、社会的な生き物なので、ほとんどの人間はチームワークで仕事する方が一人で仕事するよりも「楽しい」と感じるはずだ。
企業は人を選べるし、チームワークを乱す人は排除できる上に、賞与を使ってモチベーションを上げてくれ、失敗しても責任の一部は法人が被ってくれる。
研究室は人を選べないから、チームワークを乱す人は排除されず、業績を上げても金銭的に特になるものは何もなく、失敗したら(研究に深刻なミスが見つかったら)個人の責任になる。
自分は、「一生の間に博士号というものを取っておかないと、死ぬときにきっと後悔する」と思ったから、企業と比べても楽しくないことが分かっていて、博士課程に進学した。こういう考えの背景には、「親が教授」という家庭環境が多分に影響していることは否めない。
これから、博士進学か就職かを選ぶ時期になるが・・・大学教員は、よっぽどのことがない限り、博士課程を薦めるものだと思っていい。
大学教員が企業の上司と決定的に違って、別に、あなたの将来について何の責任も負わないということは、覚えておいたほうがいい。
部下がどんなに使えなくても、会社は人件費を払っているので、上司はその部下をうまく活用する責任を問われる。
一方、学生がどんなに無能でも、大学教員は基本的に何の責任も負わない。無能な学生を何年も留年させておけば、研究室の評判は悪くなるだろうが、それを気にしない教員は本当に気にしない。
金融危機で、また、就職氷河期がやってくるだろう。企業も人を見るようになる。
博士3年間でそれ相応の業績をあげられなかった人には、容赦なく不要な人材の烙印を押される。
自分は、端的に言って、一生働かなくても困らない家庭環境を持っているから進学した。
それでも、才能面で全く見込みがなかったら、進学はしなかっただろう。自分の才能は、自己評価では中の上ぐらいだと思っている。
今年、就職か進学かで迷っている人は、よく考えたほうがいい。おそらく、9割の人間は、就職の方が幸せな人生を送れる、と自分は考えている。
自分は、元が恵まれていて申し訳なく思っているところがあるので、そこまで幸せじゃなくてもいいや、と思えたから就職を手放した。
元が恵まれていないと感じている人は、ほぼ間違いなく就職した方がいいと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20081025002806
別に「異邦人」読んだって言ってないのに見抜かれた!と思ったんですけど、多分当然な話なんでしょうね。一作で判断してしまって恥ずかしい…。
は同意です。合う合わないはありますけど、完成度は流石です。
http://anond.hatelabo.jp/20081025012053
おぅ、聞いたことない名前です。ちょっと気になる。でもハードカバーで分冊なんですね。学生としては手が出しにくいかも…
http://anond.hatelabo.jp/20081025010420
うわぁ、こんなに沢山。目移りしそう。とりあえず φ(..)メモメモ
ざっと調べた感じだと「眺めの良い部屋」と「サイダー・ハウス・ルール」が気になります。あとは、以前少し読んで面白そうだと思ったけど、そのままになってる「百年の孤独」とか。
お三方本当にどうもありがとうございました。とりあえず、メモを持って近所の本屋に行ってみます。ではでは。
追記
お勧めがまだありましたら、どんどん教えてください。これからの参考にします。
http://anond.hatelabo.jp/20081020231740
>シェイクスピア、ヘッセ、トルストイ、ヘミングウェイ、ホメロス ドストエフスキー
この中だとヘッセ以外ならだいたい読んだよ。
神様につく枕詞がいちいちかっこいい。物語自体の意味なんてわからなかったけど、ホメロス読んでると現代文学がおもしろくなる。ジョイスだったり。
たしかに自分のまわりにもほとんどいないな。文系だけど。
でも、もし語れたとしても語る内容が重くなるから気軽にはなせないんだよね。
それだけじゃなくて、少々わかりにくいし意味だってどうとでも取れるから、適当なことを言ったらバカにされそうだし、背伸びしてこむずかしいこと言ったら相手が「うーん」とか言って黙り込むし。たまに原典厨がいて(帰国子女や外国語が得意な人に多い)、日本語訳しか読んでないくせに偉そうに語るなと陰で言われることもある。ある意味間違いではないけど、そういうこと言い始めたらなにも始まらない。
本当はドストエフスキーは笑えるほどおもしろいらしいね、大学の先生が言ってた。それなのに、私小説あがりの陰気な日本文学史の態度で読むのが(インテリの)マナーみたいになってるからみんな難しい顔して読まないといけないようになってしまってると僕は思う。たとえばアメリカのビートあたりはもっと楽しく読めるけど、そういう明るいのは正当に評価されないし。実験的作品でも笑えない言葉遊びだけが文学的に評価されて笑える言葉遊びは評価されてないと思う。
それから、読んだことの見栄や既得権意識が邪魔してる。今でも憶えてるけど、僕が高校生の頃ライ麦畑でつかまえてを学校図書館で借りたら「おっ、ライ麦か、ふーん」と読書家の友達からちょっと上から目線でコメントされたことがある。
似たような感じだとドストエフスキーだったら3作読むだけでも大仕事なのに、「地下室読んでないの?あれは基本だろ!」とか「死の家の記録は彼の転換点なんだから、読んでないなら彼を語るな」とか「ニーチェも読んだ?バフチンは?読まないとダメだよ」なんていくらでも言われる。読んでることが既得利益になってる、情報ならなんでもそうだけど。そうやって見栄を張るための道具になってて、さらにはプロの批評家同士が勉強不足をなじることで議論に打ち勝って原稿料をせしめるというシステムすらあるから、なかなか声に出しずらいんじゃないかと思っている。別にアホな感想でもいいから気軽に楽しく読んで話せたらいいのにと思うけれど、そういうつっこみが怖くて誰も語らないからどこに行っても話題にならない。
結局読書は自己完結なんだから良いのかもしれないけど、読書は上からありがたく拝見させていただくだけ、という図式になってるのが問題なのかなと思う。この形式は読書感想文なんて最たるものかもしれない。一人で静かに書いて先生にみてもらう。そして先生が採点する。そういうのより、みんなで3冊ほど読んで、昼ご飯食べながら2時間くらいしゃべったりしたほうが、活字離れはなくなるはず。逆にマンガみたいなのは下からの支持があって成立するからみんながわんさか話し合って業界全体が盛り上がれる。ただし、みんなにみてもらわないと成立しないというのは弊害もあって、萌えなんかの要素に頼ったり、似通った感動パターンの作品を量産してしまう欠点はある。そういうのがあって深みがないだとか他の分野から言われることもあると思う。ライトノベルと携帯小説の強みは楽に読めて楽に人に勧められる点にあるのかもしれない。
殴り書きしてみたけど、こんな感じかな。
もしかしたら、こういう風にきまじめな分析をしてみたがること自体が気楽に話せなくなる理由の一つかもしれないけれど。
とりあえず、ここで気楽に話してみたらどうよ?
別にアイマス動画を作ってるわけじゃないけど、ものづくりはしてる1個人の感想。
普段はJ-POPメインで聞いている人なので、アニソンとか、アイマスの曲なんかの元ネタはほとんど分かりませぬ。
前回に比べればパワーが落ちてる印象。
1つ1つが小粒。
といっても、やっぱり力作もあって大変おもしろうございました。
個人的には
02星間飛行(慈風P)
04.Bad Apple!! feat.nimico
06.カプチーノ …これは単に曲が好みなのかも知れんがPVとしてイントロが良作
07 Here we go!! -ultRemix- …これはないわー。才能の無駄遣いすぎるwまさにプロの作品
11.RODEO MACHINE …なんでロボが戦ってるんだよw
14.とかち天国系??階?? …個人でここまでできるんだーすごい!
19.リルラリルハ …王道PV、キャラがちゃんとダンスしてる
21.もってけ!セーラー服(EX.Motte[K]mix) …動画演出、影、映りこみ、センスもすごいが、リミックスは独自なんだろうか。すごい。
23.やらないか
29.最強パレパレード …画像処理などまったくないのに、ダンスシンクロがすごい
31.エージェント夜を往く …ちびきゃらかわいい
32.GO MY WAY!! …自作3DCG? 演出コミでおもしろい
#01 Catch my breath(ぷげらっちょP)は単品がヤバスゴ過ぎる http://www.nicovideo.jp/watch/sm4974161
逆に、力不足と感じたのがいくつかあって
15.LOVEマシーン …序盤の背景演出が引いたときヘボイ(特にLOVE“団結”MACHINEと同じ曲だけに、背景処理の甘さが目立ってしまう)
20.創聖のアクエリオン …曲の強さにヒキ背景負けてる(静止は寂寥感出てよいが、動くと寂しくなる)
25.Inferno …画像処理エフェクトが他のバリバリかかってるの比べると物足りなく見える
ただ、今他のPに比べてちょっと惜しい!っていう点があるだけで
これから伸びる才能なんだろうな!と思って
またえらく楽しくなりましたよ。
無料でこんな動画が見られる今の時代、よろしゅうございますなあ。
まあPV好きな人は1回見てみてもよろしいかと。
このあたりについて軽い誤解をしている奴がいるのがおもしろい。
検索エンジンが普及して、単なる大量記憶の意味がうすらいだのは事実。だが、それは記憶しなくてよくなった訳じゃない。個々の記憶の希少価値が落ちただけ。記憶を組み合わせて物を考える能力が重要視されるようになったというのは事実だが、それは価値観が変わったのではなく、バーがあがったことに気づかないやつが多い。
不思議だ。
以前から、広い知識と深い洞察力を組み合わせて運用できる奴には高い価値があった。そして、広い知識だけの奴にもそれなりに価値があった。ところが、後者の価値がだいぶ落ちてきたように見える。それは錯覚で、バーがあがっただけ。以前なら人並みに仕事が出来れば幸せな人生が送れた。今は違う。それがワーキングプア時代のリアル。
物を知らない奴には今も昔も価値はないよ。結局運用速度は持っている知識の量と能力の積だもん。その限界を広げるには知識と能力の双方を強化し続けるしかない。その場限りの知識を電子カタログで済ませるなんて、誰にでも出来るんだよ。早く気づけ。誰にでも出来る人生は、安い賃金の奴に奪われるぞ。
へー、おもしろいね。そんな方法があるのか・・・
自分は、高校時代までかなり人見知りする方だったが、大学で英語サークルに入ったら「英語でディスカッションしましょー」みたいな会を何回かやって、くる人くる人初対面だったので、それで慣れた。
雑談なんだけど。
ファッション系は荒れるね。なんでだろ。
オタク系エントリで「おもしろい本教えて」とか、正直誰が答えるんだろ?と思ってみていると、
半日くらいで4,5個のオススメ本エントリが付いてることあった。
クラスタも知らないし、オフ会も言ったことないTwitterユーザーです。
作業の合間のときに息抜きで「みんな何してるんだろー」って感じで眺めてます。
Followしている人のほとんどが知らない人。一部がアルファはてなーだったり、有名な人だったり。
実際に顔を知っていて話したことがあるリアル友人は一人しか登録してない。
全然知らない人でもはてブに出たり、偶然タイムラインに出てきてるおもしろい人をFollowして、その人のreply先もFollowという流れで微妙に増えて行ってる。
Followingが170人くらいで少ないですが何となく楽しい。Followしてもただ眺めるだけだった人に話しかけるのが緊張したけど話しかけると意外に普通にレスが帰ってくる。