はてなキーワード: 細かすぎて伝わらないモノマネ選手権とは
元増田の疑問に答えるには少々話が長くなる。と言うのもテレビの近代史に割と深く関わってるからだ。
実はコロッケ達の前に「先代の」ものまね四天王がいたんだ。所がそのうちの一人が愛人に刺されて命を落とした事で一気に黒歴史化した事で急遽コロッケ、清水アキラ、栗田貫一、そしてビジーフォーを新たな四天王に添えた。んでこいつらがそれぞれものまねに革命を起こす発明をしたんだ。例えば清水は鼻にセロテープ、クリカンはもしもシリーズ、ビジーフォーは人形を棒で操作するアレ(名前なんて言うの?)、そしてコロッケは背後から本人が登場、である。
美川憲一の「さそり座の女」を例によって大袈裟に歌っていると背後から本物が不機嫌な顔でやってきてコロッケが挙動不審になる姿が当時バズった訳だ。クスリで捕まって芸能界から消える前は男の娘、というか中性的な色気の美青年(かの三島由紀夫も惚れ込んだとか)だったが以降は「おネエのおっさん」と言うネタキャラとして再ブレイクを果たすことになる。
話をコロッケに戻そう。以降「デフォルメしまくり調子に乗る」姿と「怒られてキョドる」姿の落差が大きければ大きいほどウケる事に味をしめたコロッケのデフォルメがより大袈裟に、より不躾になるのは必然だった。これは俺の思い出話だが当時人気ドラマだった「教師びんびん物語」で田原俊彦の真似を披露した翌日の学校で女子全員が本気でキレてた程だ。
かくしてデフォルメものまねの第一人者となったコロッケだがここで誤算が生じる。「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」が放送開始されたのである。初回こそ手探り状態だったが第二回、次長課長の河本による「オメエに食わせるタンメンは無ェ!」で方向性が定まると以降「ディテールとリアリティーに拘る」コロッケとは真逆の芸風が主流になり若い人達もそれを観て育ってきたであろうからまあ要はコロッケが時代に取り残されたのである。
「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権の予選落ち」という例えを見て膝を打った
あれはお笑い芸人をアイドルとして扱うムーブメントの一つだったとみなしている。
・数分の鑑賞に耐えられること
という縛りが一応存在していて演芸番組としての体裁は保っていた。
駄洒落というお題目に沿ってその番組のためだけにネタが用意される。1組に割かれる時間は長くて一回30秒ほど。
であるボキャ天は、お笑い芸人が演劇を披露するというよりも、芸人をプレーヤーに見立てたゲームという色合いの方が濃い。
(この数秒で芸人が立ち代わり入れ替わり登場するシステムは、細かすぎて伝わらないモノマネ選手権で今も健在だ。)
僕からすると90年代は吉本印天然素材や電波少年での猿岩石など、未熟な若手をアイドルのフォーマットに当てはめて売り込もうとする風潮が存在したように見える。
そしてそのムーブメントはオンエアバトルの放送やM-1の開始で、観客が「本格嗜好」となったために下火になったのではないだろうか。
おお。すまん。
スルーしてたみたいだ。
おっさんは、
ところで、少年よ、
「使えない」という言葉を
現代人はよく使うけど、
なにも君のために生きているわけじゃないからな。
たとえ部下が「使えなかった」としても、
で、
アニメか。
甲乙つけがたいが、とりあえず、王理恵は無いと断言できる。
前口上はこれぐらいにして、本題だ。
あなたが何を期待してたのかわからないけど、
みたいなことを書いて、消しちゃった人かな?
あなたの文章は、省略部分が多すぎて、
おじさんにはついていけないよ。
監督の作風の話も、ようわからん。
アニメ版が「説明不足」で「独りよがり」と言われても、
わからん。お前の話は、ようわからん!
全体的な印象なら、
まあ、ここは感受性の問題だから、
若い君たちに任せる。
一応推測すると、
「アニメ版では登場人物たちの細かい心情描写がカットされていること」
について「説明不足」であり「独りよがり」と言っているのかな?
フィクションなんだし、リアリティを求める必要があるのかどうか。
「とらドラ!」の中で、どういう役割を果たしているかで、
いいんでないですか。
個人的には、
みのりんには爆笑レッドカーペットより、
細かすぎて伝わらないモノマネ選手権に出てもらったほうが、
うれしいな。
君が物語に何を求めているのかが、
おじさんにはわからない。
(1)「萌え」が対象の弱い部分をあげつらったり、弱者扱いして喜ぶ下衆な感情である事はもう常識かと思うが、
(2)そういう「萌え」を他者から浴びせられる人間(今回の場合作者)は、他者からのメタ視点にもかなり敏感になって不思議はないよ。
(1)については理解できる。
(2)は、
「萌えられるキャラクターを作成する作者は『このキャラは萌えキャラだからな』という読者のメタ視点に敏感になっている」
という意味でよいのか?
それを受けた(3)は
「作者は(1)の『萌え≒弱きもの』という構図を意識しているはずだ」
ということかな?
つまり、
「『このキャラは読者に萌えていただかないといけないので、弱きものとして描きますよー』と作者は考えているはずだ」
ということでよいのか。
登場人物たちの役割を考えるなら、
それを考慮しろよ、と
そういうことでよろしいかな。
そうであれば、君の指摘は、
おじさんにとって盲点だったといえる。
そこは考えていなかったよ。
ただ、それを考慮したところで、
登場人物たちが
「自分ひとりで解決して乗り越えちゃう」
という自分勝手さに変化はないだろう。
そもそもね、
おじさんはね、
「『自分ひとりで解決して乗り越える』ということを『成長』として表現している」
「自分ひとりで解決して乗り越える」
というのは、孤独の道を深めてしまう、と俺は思う。
もし、この「とらドラ!」の結末が、
大河と竜二の駆け落ちだったら、
おじさんは困っちゃうな。うーん。
しっかしさ、
現代社会だから、
「自分ひとりで解決して乗り越える」
って部分は、
それはそれと受け入れて
マッチョにいかないと、
サスペンダーのおじさんとか、
勝間勝代(注:このtypoはわざとDAZE☆ミ、勝ちすぎマッチョ!ってことな)とか、
相関45度の人とかに
馬鹿にされるっていう言い方もできるわな。
でもよー、
「自分一人で戦っていく君にはオラクル(カウンセリング機能)が必要だよ」
と俺は言いたいね。
それが、おじさんが、最初に書いたエントリーの主題だからね。
http://jp.youtube.com/watch?v=XzJRqQcn2tE&feature=related
細かすぎて伝わらないモノマネ選手権12で宇都宮まきという芸人は彼氏の家に遊びに来た彼女というシチュエーションでモノマネをしました。
関根勤は宇都宮まきに「ただみてみたい」として彼氏の家に遊びに来た彼女というシチュエーションを「ただみて」いました。
宇都宮まきの最後の台詞は「シャワー借りるね」でした。
私が何が気持ち悪く感じたかというと
立場が下の異性(宇都宮まき)に
自分の妄想を強要するところ。だと思います。
私はすごく気持ち悪いと思いましたが、芸能界などのショービジネスは多かれ少なかれ同じように、