はてなキーワード: 可視とは
田舎のじーちゃんばーちゃんを誘って寄席にお出かけ。いわゆる接待モードですね。一時には開演ってことで、ちょっと早めにお昼ご飯を食べて、繁盛亭へ。駐車場はなんだか知らんが無料(なのか?)。
ちょっと入るのが遅くて二階席に分散して座ることに。まあ分散してってのは、集中して聞けるから自分はありがたかったです。二階席ってもすげー近いし。座ってみると、座席はわりとキレイ。ただちょっと席は狭いかな。箱も、小さな映画館くらいの規模ですね。お客さんは40代以上がほとんどのような感じ。自分みたいな若いのはあんまりいませんね。まあ金曜の昼間ったらそうなりますか。ただ、会場は終始なごやかなムードで、心細いような気持ちにはならず安心して鑑賞できました。
最初の二乗さんは若い噺家さん、だけどなめらかで上手いじゃーん。一生懸命、という感じが伝わってくるし、面白かった。ネタはおべんちゃらで酒飲ましてもらおうとして失敗する話。主人公のアホさ加減に嫌味なくてよいですね。っていうかネタの名前は教えてくれないのね。まあ全然構わないんだけど、落語って演目に漏れなく名前ついてるイメージがあったのですがどうなんですかね。
仲入り前の三金さんはピッツァ。枕もデブネタ、ネタも創作でデブネタでした。いやー笑った笑った。キャラをきちんとまとめて細かく笑いを入れてくる。精度高いなー。これそこらの漫才師と比べても遜色ねーよな。
仲入り、って休憩のことだそうですが、トイレが狭くて混む混む。中のトイレはキレイなんですけどね、混んでて入れなかったので天満天神の中のきたねートイレを利用。ここもそこそこ混む。下痢気味の人には注意が必要かも知らん。
仲入り後、音曲漫才の姉様キングス。"オカマとシングルマザーの二人連れ"が白塗りの芸者姿で登場。二人は仲入り前にそれぞれ単独でも噺を披露してるんですが、こっちのほうが気合い入ってる気がするw 染雀さん(オカマのほう)のしなを作っての間の手「はぁ〜いぃ」が耳から離れない。これは流行る!w NHKでも見たことあったんですけど生のほうが面白かったな。歌も上手いんでしょうが、やっぱりおしゃべりがいいですね。
仁嬌さん。うってかわってしっとり落ち着いた正統派の芸風で、貧乏長屋の花見行き。うんめーなぁ。おもしれー。お茶飲むシーンで笑った笑った。うまー。また見たいなこれ。って言ったら一緒に来てた父親はこの噺だけ寝てしまってたそうで。なんだとー。まあそれだけ心地よいおしゃべりだったってことなんでしょう。ことなんです。
三蔵さん。強烈な風貌、三十年のキャリアを生かした、田舎のホールに呼ばれた時の自虐ネタ。憎めないなぁ。あはははは、は、笑い過ぎて下痢気味のお腹に衝撃が走った。トイレに抜けたのでオチ聞けず、無念。噺の途中で立ち上がらせてしまったお隣にお座りの妙齢の女性二人ごめんなしあ。
トリは福笑師匠。いや今日初めて知ったんですが、いや姉様キングス以外の人は全員初めて見たんですが、この人はこうなんてか師匠と呼びたくなるような何かオーラというかパワーというかを感じますね。ネタは日本かぶれのアメリカ人との商談。いやあすげー。笑いっぱなしでした。他の人にはこうなんてか笑う前に不可視の引っかかりというか、ここが笑いどころですよね、あははは、みたいなごくごく短いながらも笑うまでにインターバルがあるような気さえしてくる、この笑いまでの瞬時の到達っぷりったら。どっちかっていうと演じ方もイロモノっぽいし、ネタ運びも少々毒がある、でもそんなこともひっくるめて全部笑わしてしまうような。ああ、独演会行ってみようかな。すごいです。
終ったあと、門前でお出迎えしてくれはる噺家さんたち。ん? なんだハッピなのか。舞台上の衣装、かみしもっていうんですかね、あの衣装で出迎えてもらえるものだと想像してたのでちょっとみすぼらしいような気もしましたが、まあ外だし大事な仕事着だしってことなのかな。三金さんの大きなお腹に触ろうか悩む。けっこう照れくさいものです。
という人生初生落語の感想でした。前売りで一人2000円、四時過ぎに終了。ウム、たまには落語ってのはいいもんですね。生だし、なんつーても演者が近い。これからは映画館とどっちに行くか迷う、新しい趣味になりそうです。
追記。
んなこたーない。今日も映画見てきたしね。しかも今WALLE。売布の映画館の時間感覚はすごい。いやそれはいいんだけど。
同年代の友達と落語ってのはちょっとね。自分の好みを押し通すかたちになっちゃう。それにやっぱり予約が基本だ(当日券は500円高い)から、今日どこ行こっかってタイミングでは選びにくいかなぁ。映画館より遠いのもね。
まあそういうこと差っ引いても、落語は単純娯楽としていい選択肢だなぁ、という感想持ったのでエントリ起こしてみたんだけどね。
ペソってなによ。ペソ。
それこそどこを見ているの?状況は大して変わらないと思うよ。
一般からのオタクバッシングが激しかった頃、腐女子含む女オタは不可視だったのかな?
しかし男性向けの方が空気読んで…って、どうかなそれは…かなり思い込み入ってるような。
一般人含む環境でオタエロ話しないことと、オタク界内ですら腐は隔離しとけって言われてる状況とは全然違うレベルの話だし。
腐が叩かれるのは「腐を好まない人の前で腐トークをする腐女子がいるから」としか思ってないみたいだから話が通じないな。
実際は「腐話の欠片でも通りすがりに耳をかすれば、声が漏れるようなところで話をするな!ってわざわざ怒鳴り込んでくる人が、男女下ネタは大通りで普通に喋ってたりする」くらいの状況に思えるんだが。
http://anond.hatelabo.jp/20090313153918
自分が左寄りだと認識した上で自分の考えを言うのなら嫌いじゃない。そういう人は相手と摩擦が起こらないように話し方に工夫をするしな。でも、そういうことを認識しないまま、左寄りな意見が世論そのものみたいに考えちゃってる人がいるような気がしてならない。
これはもう、「俺はサヨクである」という強烈な自負をもって活動的ブクマをしている人たちに他ならない。
快不快のみで物事を決定して動物的にコメするネトウヨに対して、はてサは「今までの経験から鑑みて、『はてサ』ならこう言うだろう」というある程度計算に基づいたテンプレ回答を返してくる。なぜはてサにはそのような打算をせねばいけないのか。
それはつまるところ、2chウヨとはてサの誕生する過程の違いなのだ。
匿名はリアルより簡単にマジョリティを演出できる(もちろん一人や二人では無理だけど)システムだ。
「空気」さえ作ることができれば後は楽勝だ。
ゲームやお笑いを餌にして、イノセントなおガキ樣を釣れば教化は八割完了したようなもんだ。
しかしだからこその問題もある。名無しである以上、彼ら自身のグループの中から可視的オピニオンリーダーを選ぶことは難しいのだ。
彼ら自身が識別可能な唯一の仲間、それは自分自身に他ならない。
大多数の仲で、浮き彫りとなってエンファサイズされた己の存在を認識した瞬間、ネトウヨの中で記憶と認識の捏造が生じる。
「みんなが言ってるから正しい」という受身な姿勢から「俺の主張にみんな賛成してくれている。俺は正しい!」という世界の中心で俺を叫ぶ姿勢への転換だ。つまりは自意識の発露だ。なるほど、ネトウヨが十代にウケるのも道理かもしれない。
「己に対するトートロジカルな自信」と「圧倒的な(と自分では思ってる)賛同者数」。後者の権威は強固だ。非難しても揺らいだのかどうかすらわからない。だが、その存在の曖昧さが不安を覚える者だっている。奇妙な盲信に嫌悪感を抱き反発する若者を、ひいては血気盛んなマイノリティを生み出す。では、そんな怒れるはみ出し者たちはどこへ行くのか?
はてサは生まれついての少数派だ。
まず、母体となるはてなー自体の数も2ch比べて圧倒的に少ない。
宗教法人よろしく信者数の捏造なんてできない。数では自信が持てない。
ではどうするか。はてな特有の武器はあるか。idだ。ではidをどうやって使う?
馴れ合いに、だ。
匿名文化には生まれ得なかったオピニオンリーダーたちを輩出させ、
そいつらに"繋がらせる"。そいつらと繋がらせる。
それにぞれに対応した権威付け方法がある。
つながり乞食の相互確認手段でしかなかったはずのこれらの馴れ合い手段。
しかし外から見た人間たちは誤解する。「ああ、こんなに人気があるのか」と。
「言われてみれば、正しいような気がする。面白いような気がする」
数が生まれる。決して人数は多くない。だからこそ徹底して教育してやる必要がある。
その教育施設として最も悪名高いのが「はてな村」と呼ばれる場所だ。他人の揉め事ほど面白いものはない。
エンターテイメントを売り物にする点ではそうはてサとネトウヨの手管に違いはない。
対岸の揉め事やネタを通して、信徒は論者たちのキャラに対しての理解も深め、やがては親近感を覚えるまでに至る。
畏怖憧れ尊敬同調蔑視性的好意その他様々なものが交じり合って人と人の結びつきは強くなる。(そのほとんどは「自分が一方的に深くつながってるつもりなだけ」だけど。だからオフ会で「お前は俺のことご存知だけど、俺はお前を存知ねぇよ」的なエピソードがばんばん出てくる)。はてサにとっての正しさとはつきつめれば「俺が信頼している○○さんが正しいから正しい」だ。信頼に強調打ってもいい。信頼
そして、敵がいる。ウヨにとっての在日だとかアカだとか、そんなヒキコモリにとっては想像上の生物でしかないよーな敵ではない。もっと卑近である種の親近感を覚えやすいやつらだ。ワンクリックでアクセスできるご近所さん。2chねらーだ。
はてなーは大抵2chからの流民だったりする。自分が前に所属していたグループを見下すほどの快感はこの世に存在しない。
そこからつまはじきにされた元いじめられっこなら尚更だ。
「尻の青いがきどもめ。貴様らはまだそんなところに這いつくばっているのか」
人はそれを高二病と呼ぶ。
はてサにとっての教化はまさにこのステージへの移行をもって完了とする。
あとはその状態をいかに維持するか。単純だ。延々とネトウヨをクソがきと馬鹿にしておけばよい。
そのためにはまず強力に「俺ははてサである」という自己暗示をかける必要がある。
だから彼らには"そういうこと(はてサであること)を認識しないまま~"というのは当てはまらないし、有得ない。
そう、はてサは常にネトウヨの存在が前提にある。自然、態度は後出しじゃんけんにならざるをえない。
"嘲笑"は彼らにとって義務だ。"ねちねちしたコメにスターをつける"のも同様。
互いに即座に代わりが聞かない存在である以上、仲間内で権威付けをしあわなければいけない。敵を貶めなくてはいけない、"摩擦"を起こせ。
ブクマコメがテンプレ的になるのも、コメ対象となる「問題」に常に「正答」が存在するからだ。はてサとしての100点回答が。
一億と二千回繰り広げられてきた問答で先輩たちが血を吐くような思いでひねり出してきた知識のリサイクル。
的確だな。非モテは基本的に不可視だ。世間は非モテのことを何とも思っていない。存在にすら気付いていない。なので、特に非モテにモテる努力をしてほしいとも思っていない。既にモテているやつのほうに行ったほうが早い。
まあ、その非モテに恋愛以外で凄い能力があれば、そっちで注目してもらえるかもしれないが、しかし、恋愛対象ということに関しては、やはり不可視のままだ。
では、そのままでは不可視な非モテが世間に存在を認識してもらうにはどうすればいいか。
一つは、外見を整えるなり異性に好かれる振る舞いを身に付けるなりして、周囲から「あの人いいな」と思われること。もう一つは、「女死ね」「非モテを迫害する世間が悪い」などと世間を攻撃して、周囲から「ウザイ・キモイ」と思われることだ。
非モテが攻撃的になってキモさを撒き散らすのは、世間に認知してもらいたいけど、「モテ」というプラスの方向にはなれないので、マイナスの方向でもいいから認知してもらいたがっているのではないかと思った。
PhotoshopCS4とIllustaratorCS4アプリの体験版をちょっと弄ってみた。以下はその感想メモ
アプリ全体のウィンドウはVistaっぽくなった。表示操作に関する機能が取り出されてメニューより上の段に並べられ扱いやすくされている。
書類のウィンドウは2種類の状態があり複雑になった。一つはFlashのように書類エリアにハメ殺しになっている状態と書類ごとにウィンドウに分かれた状態。そしてそれぞれで単独の書類を表示している状態と複数の書類をタブでまとめている状態を持っている。少し分かりにくい。実際は自分が作業しやすい一定の状態に落ち着くので問題はないと思われるが「並べて表示」での挙動が違ったりして消化し切れていない印象が残る。
パネル(旧パレットウィンドウ)とドックはCS3から少し洗練され、操作時に思わずクリックしてしまうクローズボタンはドック内では表示されなくなった。
また、スクリーンを共有するというどこかで見たような機能が追加された(β版らしい)。こういうのは諸々のコンセンサスの得やすい社内チーム間とかで使うのだろうか。VersionCueもそうだけど不可視の概念とか設定とかで面倒そうだと使う気にならないなあ。
今回の変更点は分かりやすい。CS3でもGPUに演算させていたそうだが、さらにGPU利用のスムーズなズームとカンバスの見た目だけの回転(回転ビュー)が追加された。特に回転はPhotoshopで絵を描く人にはありがたいだろう。一部でペンツールに補正機能が付いたといってるようだがこれは元からあったブラシオプションの「滑らかさ」がデフォルトで付くようになっただけのようだ。
もう一つ大きな変更は3Dペイントらしいのだがちょっと分からない。何しろすごく重くて弄る気がなくなってしまった。グラボを奢ってる人はいいかもしれない。
写真の自動編集機能も機能強化されている。複数の画像を用いたピント操作(レイヤーを自動合成)はCS3より精度が良くなっている。被写体を除いた背景の自動拡大縮小(コンテンツにあわせて拡大縮小)も追加された。しかし触った所では「自動」ゆえにコントロールできず画像を上手く加工できなかった。既存の機能で手作業したほうが思い通りに扱えるのではないか。
ほかにもスタンプツールの複数コピー元対応とかマスクの編集パレットなど地味ながら使い勝手を向上する変更もある。
残念なことにメニューリストや書類ウィンドウにリフレッシュされない目障りなバグがあるがこれはグラフィックボードに依存して再現されるのかもしれない
総合するとPhotoshopで絵を描く人には要アップデートだがそれ以外の人には別にどっちでもよさそう。
のっけから言わせてもらうとIllustrator CS3は欠陥商品であった。オブジェクト操作に数字にでない誤差(?)が出るバグがあり、カラーパレットには指した値が指定できないというとても不細工なバグがあった。その不具合が直っただけでもアップデートする価値がある。というかさっさとパッチで対応して欲しかった。
大きな変更点は複数アートボードの取扱いが可能になったこととブラシの復活だろう。従来から数ページものの印刷物ならIllustratorで作られたりしていたわけで、そのへんの機能強化ともいえる。でもマスターページも自動ノンブルも無くてどうするのかなと思う。PDF変換が楽とかそういうものかもしれない。
ブラシは既存ブラシのようなパスにシンボルを貼り付けて変形させている機能と違って、10年前、Illustrator 5.5まではあった描画した線の輪郭にパスが付くブラシ機能である。前回との違いはFlashとの統合を意識してか重ねて描いた部分が1つのオブジェクトに結合される所だ。使い勝手が直感的でいいと思う。
あとパネルの改良がされている。カーソルをあっちこっち動かさずにすむよう、その場で設定値パネルを開けるようになっている。いいねえ。
ほかにもDreamWeaverやFireWorksも弄ってみて、CS3の時も思ったが正直メジャーアップデートするほどの更新があっただろうか疑問だ。旧Macromedia製品だからだろうか。
AdobeはCS Suiteというパッケージを売り出してからSuiteのためだけにバージョンの数字を上げているだけに見える。新製品で特定のもの以外、あまり魅力的でなくとも現状のままではSuiteで丸ごとアップグレードせざるをえない。抱き合わせ商法である。個別製品以外に更新意欲がわかないようなバージョンアップをするならSuiteから個別製品へのアップグレードを認めてほしい所だ。
馬鹿には分からない事というのは必ずある。
能力を超えた事というのは、どうあがいたって分からない。
赤外線や紫外線が見えない我々には、可視領域の異なる生物が世界をどんな風に「視て」いるか、分からない。「こんな風に見えています」と仮想化して(つまり『馬鹿でも分かる』状態にして)見せる写真とかあるけど、それは彼等が「視て」いる風景ではない。
複眼のある生物が世界をどんな風に「視て」いるか、我々には分からない。複眼に見える世界を表現しようと数百個くらいの小さい映像をぐるっと並べたような想像の写真とかあるけど、複眼なめんな。我々に「二つの映像」が見えているのではないように、彼らだって「数百個の映像」を視ているわけではないだろう。数百個の映像によって構成される「一つの世界」を認識しているだろう。でもその現実感覚を理解することは多分できない。
西尾維新風に云えば「ムカデにどうやって歩いているのか聞いても、アンタにそれは理解できないだろう?」。
だから「馬鹿でも分かる」という謳い文句は、大抵の場合馬鹿をひっかけるための宣伝文句で、嘘だ。百歩譲って嘘でなかった場合、それは本来馬鹿でも分かることであって、馬鹿でも分かるように言われなくても分かっておくべきだったことに過ぎない。つまり、馬鹿が分からないことを「馬鹿でも分かるようにする説明」など無い。
唯一例外に見えるものがあるとすれば、『ある種の聖典とか、偉大な哲学者による哲学書の類。天才が生み出した科学の新しいパラダイム』みたいなもの。確かにそれは、壮絶な天才たちが自分の思考を一般人に理解させるために書いた物だ。だがそれは厳密に言えば「読むことによって賢くなるようになる何か」であって、「馬鹿にも分かる説明」ではない。それらは「馬鹿に分からせている」のではなく「馬鹿でなくすることによって分からせている」に過ぎない。
つまり「馬鹿にも分かる説明」など、この世に無い。
おっちゃんが指摘するよ。
2ページ目まったくやりなおし。
いきなりジオシティーズの説明とかすんなや。
一覧性、可視性にすぐれた1ページホームページですでいいじゃんか。
そこ掘り下げろ。
レンタルボックスとでもしたほうがわかりやすいんじゃないの?
あと、ジャスコの明日はXXX日セールの日あたりの絵でも拝借してこい。
あと、「巣バコ」っていう単語大杉w
他の増田が既に指摘してたが言わずにはいられなかった。大事なことなので2度いいましt
アバターとかならニコッとタウンやプーペガールとどう違うのか、
1ページってプロフと何か違うの??
それを新しくやる意義ってどんなところにあるの?
それが望まれているの?
大手があとから参入してきた場合君にはそれにあらがう方法はあるの?
どんなチーム、どんなメンバーでやるの?
これだけ読んで、みんなのホームページの更新状況を一覧視認できるような仕組みをつくったら、
楽しいよねー。っていう一行分しか書いてない。
確かに楽しいけど、育成ゲームでやったほうが楽しいんじゃねぇの?
そんな感じ。
それはね、『投影』ってやつですよ。
セックスのことばっかり気にしたり言ったりしているのは、あなた自身ですから。
セックスできない自分自身のことを他人と比べてものすごく格好悪いと思っているのは、他ならぬ自分自身なんだけど、その事実を直視することに耐えられないから、「俺のこと『格好悪い』って言ってるのは俺じゃない。他人(モテ)が言ってるんだ」ってことにして、自己嫌悪を他者嫌悪に摩り替えて、自己嫌悪に陥る苦しみから逃れているだけですから。
非モテなんて、モテからしたら不可視ですから。空気と一緒。存在していることさえ意識されていないので、黙っていれば特に罵倒もされませんよ。
「非モテを貶すとなると、セックスのことしか言わない」んじゃなくて、「セックスのことしか言わない非モテを貶している」が正解。
一例として、カフェなどで読書をしている時に私の心に生じていた、尊大さの投影によるストレス・対人恐怖症の発症プロセスを示します。
1. 他のお客さんの会話が気になってイライラする。
2. しかし相手の否定的な反応への恐怖から「静香にして欲しい」とは言えない。
2. そのうち「私が読書をしているのになぜ静かにしないのか」と腹が立ってくる(そうするのが当然だ、との尊大な態度)。
3. しかしこれも相手の否定的な反応への恐怖から表に出せない。
5. 相手が尊大な態度で「うるさくして何が悪い」と思っているように感じる。
6. 自分が読書をしているのを知っていてそのような態度に出るのは「嫌がらせ」に違いないと思え、激しい怒りとストレスを感じる。
気の置けない人と話すときか好き嫌いを問われた場合を除いて
どうも
http://anond.hatelabo.jp/20081001102844
の増田です。
追記のし過ぎで自爆しました。
まあ、これも一つの経験ですよね。
では何故無難なのか、自分なりに整理がついたので書き綴ってみる。
まだ不完全ではあると思うが、何か矛盾点等あったら指摘してほしい。
理由は2つある。
1つは嫌いと主張した本人にとってデメリットがあるから、
もう1つは不快に感じる原因はどちらも嫌いと感じている人にあるからだ。
どういうデメリットがあるか、
それは「ああ、この人は嫌いだから文句つけてるんだな」というように見られ、
まともに聞いてくれないかもしれないからだ。
勿論理由があって嫌いになったのか、嫌いだから文句をつけているのかわからない。
しかし、好き嫌いというのは元々感情であり、根本的には理由なんか無いのだ。
好きだから好き、嫌いだから嫌い
故に「嫌いだから文句をつけている」と思われ
例えそれが正当な主張であろうとも、聞いてる人は本気に受け取らないかもしれない。
感情をさらけ出したいなら理由を付けずに嫌いと言えば良い。(ただし、何でも嫌う人間は嫌われるリスクを負う)
何か改善してほしい、やめてほしいことがあるなら嫌いなどと言わずに最初から理由を述べればいい。
感情に訴えずに、合理性や利便性を説いたほうが受け入れられ易いのではないだろうか。
これが1つ目の理由。
もう1つはid:z0racさんの指摘を受け、改めて考え直したところ達した結論だ。
「不可視の基礎付け」という言葉がいまいちわからないし、ググっても出てこなかったので
「勝手にお前の考えを公理にするな」という意味で捉えた。違ってたら指摘よろしく。
確かに私は元増田の文章で、
嫌いという主張 → 不快になる人がいる
好きという主張 → 不快になる人が少ない
と勝手に決め付けている。
この理由は自分の中では自明なのだが、言語化できなくて今も困ってる。
確かに好きという主張を続けられると不快になることもある。
だが、その不快になる理由は自分のせいであると考えている。
以下は上記決め付けの元となっていると思われる自分の考えである。
「嫌い」は「拒絶」である。
嫌いと主張されて不快になるのは、この拒絶感が原因だと考えている。
好きでも無い物を嫌いと主張されてもカチンとくるのも、
主張から拒絶を感じてしまうからではないだろうか。
逆に好きと主張されて不快になるのは、
自分の嫌いという主張を拒絶されてるように感じるからではないか。
しかし、好きという主張自体に拒絶の意思は無い。(拒絶のためにわざと好きと主張する場合を除く)
つまり、好きと言われて不快に思うのも、嫌いと言われて不快に思うのも、
嫌いと感じている人が拒絶を生み出しているからとなる。
わざわざ拒絶を生み出してまで、何故人は何かを嫌わなければならないのだろうか。
もちろんそこに理由など無い。
好きだから好きであるように、
嫌いだから嫌いなだけである。
好き嫌いは個人の自由だ。好きだろうが嫌いだろうが何も問題は無い。
しかし、わざわざ拒絶を表に出す必要があるだろうか。
わざわざ拒絶を表に出し、人から拒絶される必要があるのだろうか。
拒絶から生まれるものも確かにある。
だが、拒絶しか生まない拒絶の表明があるのも確かだ。
以上により、「嫌い」と主張しないほうが無難であると主張しました。
嫌われ者の増田からの提案・提言・戯言とでも思って、覚えててくれたら幸いです。
では
<追記>
指摘ありがとう。ホントすみません
「気の置ける人」→「気の置けない人」
一行目だけ賛同。
現在、趣味がひとつも無い。過去を遡っていくと雑誌投稿が趣味だった気もするけど、うろ覚え。
やりたいこと、やってること、やってて楽しいことはたくさんある。もの作りやパフォーマンスに偏っちゃうけど。PC でもの作ると手を怪我するリスクがほとんど無いから、ノーコスト気分でどんどんいろいろやりたがる。やっていく。毎日作業フォルダにいろんな拡張子のファイルができていく。
でも、「趣味」の壁は越えられない。壁がある。趣味の世界に行くには壁がある。才能の壁とかじゃない(それも含有はしてるけど)。消費とコミュニケーションの壁。
自分が経験したものつくり系には、誰も言及しない不可視の段階がほぼ必ずついていた。一定のところまでは本当に純粋に、好き勝手作って遊べる。でもある程度たしなんでいくと、同士のコミュニティに否応がなしに辿り着く。避けててもあっちからやってくる。そしてそこで、他人の作ったものをにこにこしながら消費・消化・評価して、ねっちりコミュニケーションを取らないと、やんわり迫害される。作っているものそのものはほったらかしで、それとは別ベクトルの能力を要求される。
書いたの読んで自分でもぴんと来なかったので、例示。例出すと月を指せば指にかじりつく人に出くわして手を怪我するリスクがあるから、こわごわ例示。
あと、これとは別の現象も数種類あって、それもまた壁となってるんだけど、うまく文章で表現できない。
「本筋(もの作りとか)とは関係の無いところでやる気が薄れる」ということ自体も情けなくて、余計にフェードアウトに拍車がかかる。ああ、その程度の情熱だったのかって言う反芻。
多趣味の人は自分と同じような性格で、そして他人の作品の消費がうまいという一点が違うんだろうなあと思ってる。
元増田の一行目にまつわる話ここまで。ぱてしょん。
それでも趣味を持ちたいというか、好きなことを純粋に続けて生きたいって思いはずっとある。それとは真逆にすっぱり趣味を持つことをあきらめた方が楽だと思う時もある。揺れまくりな昨今なんだけど、「楽になりたい」という思いは同じなので、それに向けて、自分なりにいろいろ対応策を考えて、実践してきたり、今も実践してたりする。
最初は良かったけど、何かふつふつと「何で自分が悪いわけでもないのにこんなコソコソやってかなきゃならないんだ」っていう気持ちがわいて、うまく処理できなくなったので、そこそこで中止。元々他人の干渉で興味が薄れること自体も、本来人に言えないような恥ずかしいことだとは思うけど、この逆恨み思考には自分でも唖然とした。唖然としたけどわいてくるものはわいてくる。器が小さいなら盛らなきゃいいんだけど、そういう気持ちと創作意欲って別腹でわいてくるから兼ね合いが難しい。
「プライベートな空間」そのものが攻撃材料になるということが分かった。あと、当のコミュりたがりさんはシステム面や心情面でアクセス制限かけても言葉巧みに戸を開けさせてずっかずか入ってくるから、単体ではほぼ全く意味が無い。
要は壁に辿り着くほど段階を踏まないでずっと下手の横好きしてりゃ楽しいという予測。そのままぱったりやめちゃうのもラッキーハッピーだと思う。
感覚としてはきっと禁酒とか禁オナみたいな感じ。酒も性器いじりもしないから例えとして妥当か自信ないけど。
今まで書き連ねた通り相当の性悪・根性なしなので、なかなか成功しない。でも三年くらい前よりは落ちてると思う。
もの作りは高尚な行為ではないと思う、少なくとも自分がやってるものは。やらないに越したことは無いんだけど中毒性があってやっちゃう。もんきっきー。
ここいら辺に重点置いた気持ちのエントリが増田に残ってたのでリンク。別現象のうちの一つも少し説明してるね。
これが一番健全だと思うんだけど、ほんっと難しい。他人から押し付けられた作品すべてを心から楽しんで消費できるようになれば最強だと思う。けど、ほんっと難しい。
コミュりたがりさんとその作品の中には本気でストライクされる人・作品もいたりあったりするんだけど、そうじゃない人との差別化をしてしまうと角が立つし、そういう気持ちを隠してまんべんなく褒め回っても角が磨り減って新角が立つ。そもそも自分がお義理で褒められて嬉しくなるタイプじゃないから、自分のやってることが根源的に悪いことのような気がして変な罪悪感に苛まれる。でもしないと確実にみんなの仮想敵に抜擢される。そんな葛藤のしんどさがよそさまの作品への愛をはるかに上回る自分が情けなくなる。情けない自分を連想するよそさま作品ごと遠ざけたくなる。
自我の出し具合に制限をかけて、普通のリサーチを心がける。最近はてなハイクでやってみてる。あそこコミュニケーション(返信に返信したり星つけ返したりする行為)取らなくても、目立ちさえしなければそこでコミュニケーションが途絶えるだけで、スケープゴートとかにならないのがいい。自分に番が回ってくるほど仮想敵に飢えてない。敵役に抜擢される人は何かもっと頻度的にアグレッシブな人達みたい。
もしかしたら趣味と言えるくらいまで入れ込めるかもしれない。人の層や行動様式がずっと同じならって話だけど。
でも正直これが自分のしたいもの作りの一種なのかどうかは分からない。今まで自分の感じてた楽しさとは別物に感じる。目立たないことに成功している自分への陶酔というか。もの作ってねーよというか。でもマインドの方では同種だと思ってる。あと別にもの作り自体にこだわる必要も無いと別脳で思ってたりもする。もやもや。
前述した「プライベートな空間」のひとつで、じわじわとこういうことを何らかの形で出し続けてみてる。イニシャチブ取ればこっちのもん。先手必勝とかがっつくと相手も過剰反応して攻撃態勢になったりするので、穏便に、じわじわ程度にやってる。
人格と作品を切り離して提示したいような作品を出すには不向きだけど、身の切り売りなんかも混じってるようなものだったら結果的に相乗効果もおまけされたり。でも何かはしたない感じがする。
理論的には誰でもアクセス可能であるけど、実質誰もアクセスしない空間をうまいこと作り出して、そこにものを出す。「プライベートな空間」のひとつで微妙に成功しつつある。「ネットに出さない」のと何が違うかというと、他人が「アクセスできない」んじゃなく、「アクセスしない」って部分。「アクセスできない」状態だと、それが発覚した時被害者ぶりっこさんが結構な確率で出てくる。相手が自分の意思でアクセスしていないって状況を作ったら、ぶりっこさんが黙ってくれた。
全体に公開されてるところでもそういう空間の形成をなるたけ試みてる。アクセスはボディにクるアクセスじゃなければ OK。動画サイトとかなら再生数増えててもコメント無ければ自分としては成功の範疇。リアクションを取り難い条件を探しては頭に叩き込んでる。増田でなら読み辛い長文にするとか。今書いてるこの文は心の赴くままに書いた結果そうなってて、一石二鳥でお得だと思ってる。
今のところ一番おいしい汁をすすれる方法だけど、運の要素が高くてギャンブルだなあと思う。
ぱてしょん。
他、言語化して書き出せるほどうまく落とし込めないものも多数あるけど、まいっか。
もの作りたさとその風当たりに耐えられない根性の無さの狭間で、日々小狡く居振る舞いを考えてる。これちんここすりたい人がエロ画像捜索するのよりいやらしいエネルギーの使い方なんだろうなあと思う。不健全だ。たとえ同じことを思ったり実践してたりする人がいても、素直に喋ってくれない類のものじゃないかと思う。
書いてるそばから気持ちが揺らいだり蠢いたりしてる。統一性がない。受け止めてもらう気は一切無いけど即変われる自信も器量も無いのでそのまんま。気持ち悪さを感じた方、気持ち悪いけど最後まで読んでしまった方には申し訳ないなあとは思う。グローバった場合、自分がネットにもの出さないのが一番幸せなんだろうけど、欲望に負けてもの出しちゃって、後でごめんなさいって気持ちになる。出してるってことは今この瞬間は頭の中が欲望まみれってことです。察する余裕のある方は察して下さい。
ぱてしょん。
こういう人を見ると、非モテってのは不可視なんだなあって思うよ。
元々男女同数の共学なのに、その中で男女比が極端に偏っている小集団なんて滅多に無いよ。
囲碁部は?将棋部は?鉄道研究部は?逆の例としては、ブラスバンド部は?
自分がたまたまその異常な世界に居るからその異常さに気付かないんだろうけど、
そんな集団に一度も所属した事が無い人の方が世の中多いんだよ。
特殊なだけの集団を異常とは大きなお世話だが、上に挙げたような趣味は、一生のものとしてのめり込む人間が多いだろう。そういう人間は少数だからどうでもいいというのかね。そういう少数の人間になってしまった人間が「男子校の方が住み心地がいい」と感じることすらも君はミソジニーという名のもとに弾圧するのか。
オタクが叩かれ、サバイバルナイフが規制され、レンタカーを借りる手順を複雑にしたところでいったい何が解決できるのか、何も言及していないし解決してないのは目に見えてる
銃刀法は犯罪減らす効果がないとでも?したり顔で解決につながらない空論振りかざしてるのはあなたじゃないかな?
マスコミが隠している真実をネット見てるわれわれが知ってるというのは+民みたいだな。ネットイナゴになるのが関の山なきもする。
一応突っ込んどくけど国会とか審議会の議事録も通常は公開されてるから可視だよ。
会議室や密室で、特定少数が自分たちの利権のために行う意思決定ではなく、本当に多くの人たちが意見を表明し、否定意見、少数意見も吟味したうえで、統一的な意見をきちっと実社会に表明するシステムにする
ネットでやったって一億人も議論に参加できるわけもないし、結局特定少数の意見では?国会審議の視聴率低いこと見てもわかるようにネットで公開しても見る人は一部じゃないかな。
法案の是非を議論するときには、検閲という語を無造作に使うのは止めておいたほうがいいです。むしろ表現の自由の制約についての問題としたほうがいいです。
検閲というのは、憲法に書いてあるように、してはならないものです。
だから自民党の高市私案においても、この憲法に書いてあるような「検閲」にはならないような規定ぶりになっていたと聞いております(池田信夫氏のブログより)。
それなのに法案を「検閲」だから反対と言ってしまうのは、法律的な意味合いでの「検閲」の語を知らない者だと読み手に思わせる不利があります。そう思われてしまうと、主張の信頼性が低下します。法律を知らない者が法律の問題点を指摘しているようだけど、その指摘は正しいの?と。
反対者の足並みを乱してしまうんですね。
その点で、MiAUの発起人の崎山氏が、自ブログでbewaad氏に噛み付いていたのは、MiAUの足を引っ張ったと個人的には思いました。その崎山氏のエントリーでは、プレスリリースごときの粒度で「検閲」の語を使っても問題はなかった、そもそも国語辞典で「検閲」の語は云々であり、ユーザー団体のMiAUが憲法上の「検閲」に従って解釈する必要はない、みたいなことが書いてあったんです(崎山氏のブログは独自ドメインでアクセスログ取られているので、職場で見るのは遠慮しましょう。)。
けれど、MiAUは、プレスリリースを主要な活動の一つとしているのであり、しかも、法案の問題を指摘するのに、法律上ではない解釈で「検閲」の語を解釈して「検閲」になると思われると言われても、私には説得力がありませんでした。かえって、「検閲」の語を振り回して他人を不必要に煽っているのではないのかと疑問を持ちました。
話がずれました。
じゃあ、18歳未満が見ちゃいけないコンテンツを絶対に18歳未満の目に触れさせないにはどうするか。
それは高市氏が言ったことではない、あなたの想像でしょう。
※ここで書く18歳未満が見ちゃいけないコンテンツとは、アダルトや出会い系だけではない。政治・宗教はもちろん、SNSやコミュニティサイト(mixiやGREE)も含まれる可能性もある。
可能性とは、どれくらいの可能性なのか、「ある」とおっしゃるからには50%以上でしょうか。
私は、仮に法案が立法化されても、SNSやコミュニティサイトが法律上禁止される可能性は、ほとんどないと思います。数値的には、1パーセントもないぐらい。
自分がモテたかったら自分に圧力をかければいいし、自分がモテたくないか圧力が嫌だったら努力しなければいいだけの話。
圧力をかけるかかけないかは自分自身に対してであって、他人はそんなこといちいち気にしないんだな実は。騒がない、ただモテないだけ・モテる努力をしないだけの非モテは、基本的に不可視なんだよ。
世間っていうのは、モテてる人間については、ライバルや手本や恋愛対象として気にするが、モテない人間には興味を示さない。よって、モテる努力をしない人間は別に気にしない。世間の人間にとっては、どこぞの非モテのことより、自分がモテるにはどうしたらいいのかのほうが問題だ。
他人が何か言及するとしたら、非モテが、「俺はモテる努力はしたくないが、女は俺と付き合うべき。」とか言ってる場合だな。その場合は、「モテる努力はしなくてもいいが、それなら女に求めんなよ。女欲しかったら、努力するしかないだろ。」って言われるだけで。
あとさ、「世間はこう思ってる」っていうことって、実は「自分がこう思ってる」ことだったりするんだね。一番非モテに「モテるように努力すべき」って圧力をかけてるのは、本当は非モテ自身なんじゃないのか?って思うんだけど。
ものすごくモテを求めていて、ものすごく女の存在を渇望していて、それを手に入れるためには努力が必要ってことは本当はよくわかってるんだけど、でも努力はしたくなくて、でも女は欲しくて、こんな自分は嫌で、でも自分嫌って思うのが嫌で、自分嫌って思わないために女や世間のせいにしてみて、それでジタバタしている・・・というように見えるんだが。
話を戻すよ。
えーとね。何で彼ら非モテが「社会が悪い! お前らが悪い!」って言ってるか、わかってないみたいなので解説します。
あのね。君に似た人たちがずっと「モテないのはお前の顔が悪いからだ」「ふつうの人がふつうに出来ることを出来ないのは、自分に能力がないからだ」と言い続けてて、実際にモテない人たちもそう思いこまされて自縄自縛の陥穽にどんどんはまりつづけている。っていう状況があった。
そこで「これっておれらあまりに苦しみすぎじゃね?」っていう自己認識がなされ、現状に対するカウンター、バランスとしての政治的言明が「違うよ! 社会が悪いんだよ!」なの。
実際のところ、モテない人が持つモテない要素には、自己に起因するものもあるし、社会が生み出したものもあるだろう。それは割合問題だし個別具体に違うし。そんな現状認識は正しいけど、だから?
未来への意思を含ませることも出来る。
非モテのプロパガンダは、あなたみたいな「だから非モテはウザいんだよ」「自己責任だろjk」って人も生み出したけど、おれみたいな「確かに。恋愛資本主義ってのはあるよね」「己の努力不足以外の要因もあるよね」と考える人間も生み出した。(cf. http://b.hatena.ne.jp/entry/http%3A//anond.hatelabo.jp/20080409152441
これまでがほぼ不可視だった問題、「議論の余地もない」と思われていた問題に、目鼻を付けて明確な論点・争点を見つけ出した、というのは評価されるべきじゃないかな。
非モテ/非リア充がモテ/リア充のことを、「あいつらは俺たちをバカにして蔑んで貶めて憎んでいる」と思っても、実は向こうは全くそう思ってなかった、というか存在自体認識されてなかったという残酷さ。
ああ、だから非モテ/非リア充や韓国人は、声を大にして主張するのかもしれないな。
相手に自分の存在を認識させるために。そして、今度こそ本当に蔑んでもらえるように。
そうすれば相手は本当に加害者ということになり、こっちは心置きなく被害者ぶれるから。
ブクマ先のページのIDと同じIDでつけられた☆を不可視にするGreasemonkey用JavaScript書くとかの方が建設的。たぶん3分hackingくらいでできるんでないの。
はてなダイアリーなら簡単だけどさ、はてなブックマークとはてなスター使ってるからといってブログははてなダイアリーとは限らないんだぜ。
基本同意するんだけども、
―「弱者」というものが、常に「エリート」によって「発見」されるという、
これまた古典的な構図による。
ただ、これをやめたらもはやそれはエリートとは呼べない、ということを、
エリート達は骨身にしみて分かっているんじゃないか。
可視となった「弱者」の陰には無数の弱者がいることを、もしいっとき忘れることがあったとしても、
たとえ大量のウンコをまき散らす結果になったとしてもエリートはそれをやめないと思うし、
個人的にはそういうエリートのあり方を一つ信じておいてもいいかなとは思う。
高年収を担保に、幻想の「公共性」を追い求める現在のエリートのあり方が制度疲労をおこしているとして、
では、そうじゃないエリートのあり方というのはどういったものがあるんだろう(反語じゃないよ)。